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短編と呼ぶにはあまりに短くて  作者: 松茸


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15/22

戦争が始まる

 西の空があかく燃えている。


 私はその光景に茫然と立ち尽くす。なんという生々しい朱なのだろう――あれは炎の色だろうか、それとも血の色だろうか――私は怯えとともにそのことを考える。


 おそらくは、その両方なのだろう、と思う。


 すべてを呑み込むかのような炎と、乾いた大地に染み込んでいく夥しい量の血、人々の怨嗟えんさの声と、絶望の呻き、無惨にも砕け散った祈りが、あの朱い空の下で、蜷局とぐろを巻いている。いまこの瞬間にも失われていく生命のことを思って、私は肌を突き刺されるような恐怖を感じ、声にならない叫びを上げた。


「とうとう始まったみたいだね」と、いつの間にか私の横に立っていた母が言った。「サラ、すぐに荷物をまとめるんだ。ここはもう出て行かなくちゃならない――さあ、急いで!」


 私は混乱とともに頷き、自宅へと駆け戻った。大慌てで、身の回りのものの整理をする。このような事態に備え、おおまかなものは、すでに親戚の家に送ってある。私の持ちだすものはほんのわずかだ。


 私が旅行カバンを抱えて家の外に出ると、となり近所でも、人々が手に手に大きな荷物を抱えて、家の内外を行ったり来たりしていた。


 おとなりさんのジャックおじさんと目が合った。おじさんは私の顔を見て、まずいことになったな、とでもいうような苦い笑みを浮かべると、ふと何かに気づいたように、「そういや、サラちゃん」と声をかけてきた。


「なんでしょう」

「ほら、サラちゃんの叔母さんのことだよ」

「あっ」

「叔母さんが住んでるのは村の外れだろ? まだこの状況がわかってないかもしれない。早く行ってあげたほうがよくないかい?」


 ジャックおじさんの言う通りであった。私はすっかり叔母さんの存在を失念していたことを恥じ、おじさんにお礼を言うと、その足で村の外れへと向かった。


 叔母さんの家は一軒だけ村の中心部から外れて、森のすぐ近くに建っている。叔母さんは前の戦争で夫を亡くしていた。気難しくて、付き合いにくいという人も多いが、私は昔からよく遊んでもらっていた。叔母さんは読書が趣味で、いろんなことを知っている。私は叔母さんの家に行くたびに新たな知識が得られることを楽しんでいたのだ。


 私は家の前で、叔母さん、と呼びかけた。返事はなかった。

 私は木の扉を開けて家の中に入った。


 叔母さんはロッキングチェアに座って目を閉じていた。眠っているようにも見えたが、チェアは静かに揺れていた。私が近付くと叔母さんはゆっくりとまぶたを開けた。


「どうしたんだい、サラ」


 叔母さんは優しい声でそう言った。


「戦争が始まったの」と私は言った。「だから、これからみんなで逃げるの。叔母さんも早く用意をして」


 叔母さんは私の言葉が聞こえなかったかのように、まったく表情も変えず私をじっと見た。そしてぽつりと呟いた。


「逃げるのかい。そうかい。それは寂しくなるね」


「え……?」

 

 私は一瞬、叔母さんの言葉の意味がわからず、立ち尽くした。叔母さんはまたゆっくりと目を閉じた。まるでそこで会話は終わりだとでも言わんばかりに。


「逃げないの?」


 私が問うと叔母さんは面倒くさそうに目を開けた。


「なぜ逃げるんだい?」


「なぜって……戦争が始まったからよ。ここまで来るかもしれないって、母さんが――」


「サラ」早口に説明する私をさえぎって、叔母さんは静かに言った。「戦争が始まったのは、もう、ずっと前のことさ。いまさら何を騒いでいるんだい?」


「え……だ、だって、空が朱く燃えているのよ!」


「戦争はずっと前から始まってたんだ。それがようやく目に見える形になって現れただけ。あたしは戦争が始まったときからここにいる。逃げるんだったらそのときにとうに逃げてるさ」


 叔母さんはそう言って遠い目をした。その目に浮かんでいたのは、諦観でも覚悟でも憂慮でもなかった。何かもっと違う、私にはよくわからない種類の感情だった。私がまだ経験したことのない感情だった。


「い……いいの?」

「いいのさ」

「でも、死んじゃうかもしれないんだよ」


「人はいずれ死ぬ。戦争があろうとなかろうとね。それにね、実際のところ、どこにいたって一緒なのさ。戦争はすべてを呑み込んでしまうよ。逃れる場所なんてどこにもありはしない。だったら、あたしは生まれ育ったこの家で死にたいね」


 叔母さんは静かにそう言った。


「さあ、あんたはもう行きな」


「でも……叔母さんを置いてはいけないわ」


 私は涙声でそう告げた。


 叔母さんは困ったような顔をして、やれやれ、と言った。


「あたしを持ち物みたいに言うんじゃないよ。あたしを持ち運びできるのは、あたしだけさ」

「でも……」

「もう行くんだよ」


 叔母さんは、穏やかに、諭すようにそう言った。私は頷いた。


「死んじゃやだからね」

「誰でもいつかは死ぬんだ」

「手紙書くから、ちゃんと返事を返してよ」

「手が動いて、インクが切れてなければね」


 叔母さんは再び目を閉じた。その様が、何とも言えず悲しかった。もう二度と会えないような気がして、私は叔母さんの手を取った。叔母さんの温もりを感じていたかった。


「どうして戦争なんかあるんだろ……戦争がなければ、誰も死ななくて済むのに……」


「そうだね」


 叔母さんは目を閉じたまま言った。

 その声は、ほとんど聞き取れないほどかすかなものだった。


「戦争がなければ、あの人も、きっと死ななかっただろうにねえ……」


「どうして戦争が起こるの?」


「誰もが、自分たちだけが正しいと思ってるからさ。正義がひとつだと信じたときから戦争が始まるんだ」


「正義が……人を殺すの?」


「そうさ。人は間違ったことのためには命を賭けられない。でも、正しいもののためには命を賭けられる。あたしに言わせれば、それこそがもっとも大きな間違いだと思うんだがねえ……男というやつは、いつまで経ってもそれがわからないのさ」


 やがて、叔母さんは安らかな息を吐きながら眠りに就いた。生まれたての赤ん坊のように、とても穏やかな眠りだった。その静かな寝顔を見ていると、まるでこの世界には戦争などないかのように思われた。すべてが穏やかな安らぎのなかで息をしているのだと思われた。


 しかし現実には戦争は起こっている。戦火は確実にこの村にも迫っている。始まってしまった戦争は、まるでそれ自体が意志を持つ生き物でもあるかのように、数えきれないほど大勢の人間の命を喰らうだろう。正しいとか正しくないとか、必要だとか不必要だとか、そんなこととは関係なく、すべてを呑み込んでしまうだろう。


 そのあとに残るものを考えると、私はぞっとした。


 いや――果たして、残るものがあるのだろうか。



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