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短編と呼ぶにはあまりに短くて  作者: 松茸


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13/22

しがない信楽焼

 私の部屋にはずいぶん前から信楽焼のたぬきが飾られているのだが、ある日、そのたぬきが突然しゃべりだした。それも、いままでずっと黙っていたけど、とうとう我慢できなくなって意を決して口を開いた、という感じではなく、さも以前からそうであったかのような自然な口調で話し出したのだ。


「……なあ、思うんだがなあ」


 とたぬきは言った。私は一瞬、それを空耳かと思ったのだが、たぬきはさらに言葉を続けたので、私としても気づかないわけにはいかなかった。


「おれさあ、ここを出て行こうと思うんだよ」


 私はそのとき、本棚の前に立って、長年読まれずに積まれていた本のどれを手に取ろうか、と考えていた。信楽焼のたぬきは本棚のすぐ脇に置かれていた。私は声のしたほうに視線を移し、そしてそのたぬきと目が合った。たぬきの瞳にはいままで見たこともない生命感のようなものが宿っており、それは無機質な私の部屋にあって異様な存在感を放っていた。


「なあ、どう思う?」


 たぬきは私に訊ねた。彼は――きっと彼なのだろう、生物学の一般常識に照らし合わせてみてもそう考えるのが妥当と思われる――私が、彼が話し出したことに心底驚いているなどということは考えもしないのか、ごくごく自然な感じでそう訊ねてきた。


「なあ、おれが出ていったら困るかい?」


「出ていく?」


 私は意味も分からずにそう言った。


「だからさ、ここじゃなくて、どこか他のところに行こうかなと思ってるんだ」


 たぬきは言った。ちゃんと口も動いていた。目玉もギョロギョロと忙しなく動き回っていた。鼻息すら、かすかに聞こえる。


「ここに――」


 私は動揺を隠しながら言った。


「何か、不満でもあるのか? あるいは……僕に」


 私がそう言うと、たぬきは眉を寄せて、心底すまなそうな顔をした。


「そういうわけじゃないんだ。誤解させたなら申し訳ないんだが、全然そういうわけじゃない。ここにもあんたにも、何一つ不満なんてものはない。それは本当だ。ここは実に暮らしやすい、いいところだ」


「じゃあなぜ」


「おれは前から考えていたんだ。確かにここは暮らしやすい。何も不満はない。でもそれだけの理由でおれがずっとここにいるというのは、果たして正しいことなんだろうかってね。おれにはもしかしたら他にいかなきゃいけないところがあるかもしれない。やらなくちゃならないことがあるかもしれない。それは『かもしれない』というだけのものだ。でもその『かもしれない』は動かない理由にはならないし、動く理由としては十分なんだ。おれが言いたいのは、つまりはそういうことさ」


「そうか……」


 私は信楽焼のたぬきのらんらんと光る目玉をまっすぐに見据えた。


「おまえはそんなことを考えていたんだな。ひとりで、ずっと思い悩んでいたんだな」


 たぬきは頷いた。


「なあ、背信だなんて考えないでくれよ。そういうのじゃないんだ。おれは見ての通り、しがない信楽焼のたぬきにすぎないが、そのあたりの見極めはついているつもりだ。あんたを裏切るわけじゃない。おれはただ、自分に正直でありたいだけなんだ。ただそれだけなんだよ。自分に嘘をついて一生後悔したくはない。そのためには、いかにも信楽焼のたぬき然とした生き方をどこかで捨て去る必要があると思うんだよ」


 彼の言葉には、長い歳月を自らの錬磨のためだけに費やしてきたものに特有の、深い精神性と悲痛なまでの決心をうかがわせる何かがあった。私は頷いた。


「わかった。行くといい。止めはしない」


 たぬきは控えめに微笑んだ。目を細めて。


「すまないな」


 いいんだ、と私は言った。そして彼を玄関先まで送ってやった。


「じゃあ気をつけて」


 私は言った。彼は頷いた。


 彼はひょこひょこと歩き出した。それは遅々とした歩みだった。だが彼は確かに進んでいた。自らの未来に向かって。それは偉大な一歩と言えた。しがない信楽焼のたぬきが、生温い現状をよしとせず、厳しくも心躍る未来に向かって歩いているのだ。その様は私の心に感動をもたらした。だが彼が道路のなかほどに差しかかったときだった。一台の車が猛烈なスピードで突っ込んできて、彼をしたたかに撥ねた。あっと叫ぶ暇もなく、彼は粉々になってその破片は道路に散らばった。私はバラバラになった彼に駆け寄った。彼はすでに死んでいた。即死だった。彼を撥ね飛ばした車が停まり、運転席から美しい女性が血相を変えて降りてきた。


「ごめんなさい……あたし、免許取り立てで……」


 まさか信楽焼のたぬきが道路を横断してくるとは思わなかっただろう。教習所でもそんなことは教えられていないに違いなかった。


 いいんですよ、と私は言った。


「これもきっと……運命なんでしょう。やはり初めから無理があったんです。信楽焼のたぬきが家を出て暮らすなんて……そんなことが上手くいくはずはなかった。それは最初からわかっていたんです」


 私は彼女に微笑んで見せた。


「これでよかったんです。彼は安寧とした生活をよしとせず、危険だが新鮮な驚きに充ちた外の世界に飛び出した――しがない信楽焼の身で。大切なのはそこです。結果はさして重要じゃないんです。重要なのは、彼が決断したということ、そのこと自体であり、そこに至るまでの過程なんです。だから、あなたも自分を責めないでください。彼がこうなってしまったのは、すべて彼が決断したことが原因であり、彼は決断したことによって、そうしなかった際に彼が一生抱えていかなくてはならなかったであろう苦悩から永遠に解放されたんです」


 私のそうした説明がどれだけ彼女の心に響いたかはわからなかった。だが、彼女は顔の表に出ていた動揺と悲しみをいくぶんやわらげたように見えた。美しいふたつの瞳にも落ち着いた光を取り戻したようであった。


「拾い……集めましょう。粉々になってしまったものを全部」


 私たちはたぬきの破片を拾い集めた。しがない信楽焼のたぬき。突然しゃべりだしたと思ったら、もう、永遠に口を閉ざしてしまった。バラバラになって四散してしまった。そんな哀しいたぬき。だが不思議なことに、私の心のうちは、哀しみよりも清々しさのほうがいくぶん勝っていた。


 私たちは拾い集めたたぬきの破片を持って、彼女の車に乗り込んだ。彼女は車を走らせ、やがて私たちは海へとたどり着いた。時刻はすでに夕刻だった。太陽が水平線の彼方に沈もうとしていた。私たちはたぬきの破片を海に撒いた。破片は夕日の光を受けてキラキラと輝いた。その輝きは命のように美しかった。


 彼女はため息をつき、私は彼女の肩を抱いた。


 たぬき……聞き取れないほど小さな声で彼女は呟いた。


 いま、私は彼女と一緒に暮らしている。とても満ち足りた生活だ。ときどき、信楽焼のたぬきの話をする。新しいたぬきを買おうかという話も出ている。できれば、そのうちしゃべりだすやつがいい。自らの現状に満足できず、常に新しい生き方を模索している、向上心の強いたぬき――そんなたぬきがどこかに売られてはいないだろうか。


 きっとどこかにあるはずだ。

 いずれ私たちは、それを見つけるだろう。



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