不眠
「おじちゃんに呪いをかけました! 眠れなくなる呪いです! 不眠になってふみーんと泣くがいいですわ! きゃはははは! ざまあ見るがいいですわ!」
今月で6歳になるという親戚の子供に呪いをかけられてしまった。どうも幼稚園で呪いをかけるのが流行っているらしい。僕がかけられたのは『不眠の呪い』——なんと一生眠れなくなる呪いであるという。ふむ、これは困った。僕のような人間は、起きていても大していいことはない。そういう人間にとって睡眠というのは最上級の幸福なのである。それを奪われてしまったというのだ。
「どうしたです! 泣いてるですか! でももう遅いですよ! 全部おじちゃんが悪いですからね! 泣いたって許してあげないですよ!」
初音ちゃんはそう言って勝ち誇ったように笑った。実際に勝ち誇ってもいるのだろう。トランプで勝ったのは僕なのだが、それを不服とした初音ちゃんは僕に呪いをかけることで最終的な勝利をもぎ取っていった。実に賢いやり方である。ゲームなどでいくら勝とうとそんなものは人生において何の意味もない。本当に相手に勝とうと思ったら現実世界で徹底的に打ちのめすことだ。初音ちゃんはこの歳でもうそのことを知っているらしい。末恐ろしい子供である。
ところでひとつ断っておくが、僕はまだ27である。世間的におじちゃんと言われる年齢ではない。お兄さんというのが正しい。でも初音ちゃんはお兄ちゃんとは呼んでくれない。昔は呼んでくれていたような気もするが、いつの間にかおじちゃんになってしまった。仕方のないことだ。彼女が成長すれば僕も歳を取る。お兄ちゃんはいつしかおじちゃんになってしまうものなのだ。
僕がしょんぼりしているように見えたのだろうか。
初音ちゃんは満足そうに言った。
「いまさら後悔しても遅いのです! コウカイサキニタタズです!」
どこで覚えたのだろう。いまだ5歳にしてことわざも操るとは。立派なものだ。僕の5歳のころは多分そんな言葉は知らなかったし、知ろうともしなかった。きっと鼻水を垂らしながらちょうちょでも追いかけていたことだろう。昔はみんなそうだったような気もするが、最近の子供はずいぶんと利発そうに見える。人間というのは徐々に進化していっているのかもしれない。
初音ちゃんはふふん、と笑うと、でも、と言った。
「土下座してあやまるなら許してあげないこともないです」
「ほう、土下座か」
「そうです……いま幼稚園で流行ってるです。一大ブームです」
どんな幼稚園だ。
「それで許してくれるのか」
「そうです」
「なるほど。そういうことであれば、僕も土下座するにやぶさかではないが、ひとつ問題がある」
「なんです?」
「実は昔、土下座をしすぎて腰を痛めてしまってね。医者から今度土下座したら命にかかわるって言われてるんだ。ドクターストップってやつだよ。聞いたことあるだろう?」
「知ってるです! アラレちゃんですね!」
それはドクタースランプ。
なんでそんな昔の漫画を知っているのだろう。不思議だ。
「まあ、そういうことでね。だからできたら違うことにしてもらえないかな? たとえば——」
「アイスをおごるです!」
僕が何かを提案するよりも先に初音ちゃんはその言葉を発した。
すごく前のめりであった。
「アイス?」
「そうです! 別に食べたくないですけど……おじちゃんがどうしてもって言うなら食べてあげないこともないです!」
つまりどうしても食べたいと。
「よしわかった。じゃあどうしても食べてもらおう。コンビニに行こう」
僕は初音ちゃんをともなってコンビニを訪れた。はたから見たら誘拐犯みたいに見えるかもしれない。通報されないように気をつけなくてはならない。独身男性というのは幼女の取り扱いに注意が必要なのだ。
「さあ、どれが食べたい?」
アイス売り場のショーケースの前で、僕は初音ちゃんを抱きかかえながら訊ねた。こうしないと初音ちゃんは背が低いからケースのなかがよく見えないのだ。
「うんと……うんと……」
初音ちゃんはアイスをあれこれ指さしながら、すごく難しい顔をして必死に悩んでいた。
「ひとつに決められないなら、何個か選んでもいいんだよ」
「そういうわけにはいかないです! そんなことをしたらおじちゃんはテイショトクシャだから負担が大きすぎるです!」
なんて優しい子だろうか。僕のようなものの懐具合まで心配してくれるとは。
「……じゃあ、これにするです!」
そう言って初音ちゃんが指さしたのは、上にフルーツがたくさん載ったしろくまアイスだった。僕はそれを二つ取り出して、レジに向かい会計を済ませた。
コンビニの駐車場の縁石に腰かけて、二人でアイスを頬張る。
「どう? 美味しい?」
「美味いです」
「それはよかった」
「どうもです」
「最近、幼稚園はどう?」
「どうって……フツウです」
「普通か。まあ、普通が一番だよね」
「一番じゃないです。フツウじゃダメです」
「ダメ?」
「フツウだったらマケグミになっちゃうです。タカくんがそう言ってたです。マケグミになったらテイショトクになってロトウに迷うです」
「最近の幼稚園児はしっかりしてるんだね」
「ショウライセッケイが大事だって言ってたです。おじちゃんはショウライセッケイはしてるですか?」
「まったくしてない」
「だからマケグミになるです。テイショトクになるです」
「でも、低所得でもアイスくらい食べれるからね」
「むぅ」
「考えてもごらん、アイスを食べるよりも素敵なことがこの世界にいくつあると思う?」
「それは……そうですが……」
「大切なのは、勝ち組とか負け組とかいった区分けじゃないよ。大事なのは、自分がどういう風に生きたいかってことだよ。幸せっていうのは自分の心が決めるものだからね」
初音ちゃんはうつむいて何か熱心に考え込んでいた。それを見て、僕はなんとなく彼女がうらやましくなった。子供であるということはなんと素晴らしいことなのだろうと思った。まっさらであり、素直であり、熱心である。それらはすべて、僕がいつの間にか失ってしまったものだった。
「どこに置き忘れてきたんだろう」
僕は呟いた。初音ちゃんは不思議そうな顔で、「何がです?」と言った。僕は何も答えずに首を振った。
「さて、そろそろ行こう。お母さんが心配しているといけない」
彼女の家に帰ると、彼女のお母さんが出迎えてくれた。
「おじちゃんにアイスをおごってもらったです」
「あらまあ、それはどうもありがとうございます」
いいんですよ、と僕は言った。
「それじゃ失礼します」
僕が背を向けようとすると、初音ちゃんが「ちょっと待つです!」と声をかけた。僕が彼女を見ると、彼女は「まだ呪いは解かないですよ! 解いてほしかったらまたアイスをおごるです!」と言った。僕は笑った。
「そういうことならしょうがないな。また今度来るよ」
「きっとですよ! 約束です!」
初音ちゃんは小指を差し出した。僕は「約束だ」と言って指切りした。彼女の顔がパッと輝いた。「絶対ですよ!」
そして僕はアパートの部屋に帰ってきて、眠れないのでこの小説を書いている。文章を書くという行為は、自分のなかの新たな何かを発見するということでもある。新たな気づきは自身の成長へと繋がるかもしれない。そう考えるとしばらくは眠れない生活も悪くないのかもしれなかった。




