ある日のこと
それはなんということもない、一年のうちのただの一日にすぎなかった。
誰にとっても長い人生のうちのたったの24時間にすぎなかったし、それ以上の意味をそこに見出すことは困難だった。
ひどく凡庸な一日――しかしそれは、結局のところ、誰しもが似たような毎日を惰性で繰り返していることに起因していた。時間の有限性を理解せず、漫然と日々を潰すように生きること、あらゆる物事に特殊性を認めず、個々人の独立性すら忘却の彼方に押しやりながら、ただ繰り返すことを繰り返し、無為を積み重ねながら、流されるように生を消費していく。
そこに成長などはありはしない。時の流れによって笹船のように運ばれた私たちは、去年の自分と来年の自分を見分けることすらできはしない――それはなんと悲しく、虚しいことだろう。
私がここで語るのは、ある凡庸な一日の記録である。なんら特別ではない、想像力の欠如した人間が『普通』と断じてはばからない、ただの一日。記録されなければ、おそらく誰にも記憶されることもなく見過ごされていたであろう無個性な時間の総体が、物語性を付与されることによって、本来兼ね備えていたはずの特殊性を、私たちの目に見える形で、手に触れる形で、まるで新たな生命の発現のように、ある種の感動をともなって表出させてくるのではないか――そのような希望とともに、私はこの記録を開示するのである。
……ある大学生の住むアパートの一室……
目覚めたのは昼も回った頃のことだった。無粋な電話の振動によって叩き起こされたのだ。やれやれ、僕は手探りで携帯をつかみ取り、通話ボタンを押す。
「起きた?」
声が聞こえる。誰の声だろう。わからない。
「……起きた」
とりあえず僕は答える。僕は起きている。おそらくは。起きているからこそ、電話も取れるし、話もできる。そうじゃないか?
「もうすぐテストが始まるわよ」と声は言う。
「テスト?」聞きなれない単語だったせいか、あるいはあまりにも興味のない響きだったからか、その意味するところがどうにも頭の中で上手く像を結ばなかった。単に寝ぼけていたせいかもしれない。「テストって?」
「テストはテストよ、まさか受けないの?」
「よくわからないんだけど」と僕は言った。「テストというのは、別に受けても受けなくてもいいんじゃないのかな。少なくとも、強制ではないはずだ」
「それはそうかもね。でも、それで困るのはあなたよ」
「僕が困る?」
僕は考えてみた。だが眠かった。睡眠が足りないのだ。昨日は朝方まで飲んでいたし、まだ酔いが抜けていないような気もする。なんとなく頭も重い。
「とにかく伝えたからね。あとで文句言わないでよ」
そう言って電話は切れた。電話というのはいつだって唐突に切れるのだ。電話によってどこかに繋がっていたはずの僕は、突然の断絶によってよすがを失ったみたいにふらついた。そしてまだぼんやりとする頭を枕に押しつけ、再びの眠りに就いた。
夢の中で僕は鳥だった。翼を広げ、灰色の空を飛んでいた。この空の名前は『不自由』というのだと誰かが教えてくれた。鳥が自由だなどと誰が決めたのだろう? 彼らはいつだって不自由という空を飛んでいるのだ。やがて落雷が遠くに見える鳥の群れを撃ち、激しい雨が降り出した。雨はいつまでも降り続き、あっという間に地上を水で覆ってしまった。山は崩れ、家屋は水没し、人々は濁流に呑まれた。僕はそれらの光景を見るともなく見ていた。空はどこまでも黒く、死に絶えていた。稲光と雷鳴だけが生きているようだった。
再び目を覚ましたのは、夕刻すぎだった。夕日が薄汚れたビルの谷間に沈もうとしていた。西日が僕のまぶたを叩き、その感覚は僕に失われたもののことを思い出させた。これまでに失ったもののことを思い、これから失っていくだろうもののことを思った。それは莫大な量のようにも思えたし、ほんのわずかなようにも思えた。
やがてまた電話が鳴った。
「もしもし」僕は答えた。
「……テスト、終わったよ」と声は言った。
「そうか」と僕は言った。
しばらく沈黙があった。僕たちはその沈黙の間、お互いに失われたものについて考えていた。様々なものが様々な形で失われた。仕方のないこととはいえ、それはやはり悲しむべきことだった。悼むべきことだった。
「留年、決まったね」と声は言った。
「そうだね」と僕は言った。
「ねえ……どうしてテストを受けなかったの?」
「眠かったんだ」
「そう……眠かったのね」
「ああ」
電話はまたも唐突に切れた。僕の耳元に残された携帯は、ひとつの関係性の終わりを提示するかのように冷たく死に絶えていた。僕は携帯を床の上に置いた。ひとつの世界が終わったのだ、と思った。かつて確かに存在し、僕を内包していたひとつの世界は、いまこの瞬間に悼むべき終わりを迎えたのだ。
僕は失ったもののために涙を流した。後悔はなかったが、やりきれない悲しみがあった。人はなぜ、こんなにも悲しいのだろう――滂沱と溢れる涙を拭いながら、僕は考え続けていた。




