4話目 土曜日の夕方
土曜日、授業も部活も無いなか一人、忘れ物のために制服に袖を通して学校を訪れていた。どうしても今日、回収したかったのだ。
部活動の声が校庭から聞こえてくるのを背に、なんの後ろめたさも無いけれど場違いを感じて、そろそろと校舎に忍び込むようにして教室を目指す。平日より冷えた空気が鼻をつんと刺すようで、無意識にポケットのカイロを握り込んだ。陽が暮れ始めた学校は人気の少なさも相まって居心地が悪かった。
廊下を走って三段飛ばしで階段を登る。踊り場で手すりを軸に遠心力を感じながら一気に四階まで駆け上がった。頬を切る風が冷たいけれど左手で握りしめたカイロを感じたらいくらかマシな気がした。
階段から躍り出て二クラス先の教室へ勢いのままに向かう。ドアに手を掛け、直前。小窓から見えた人影に動きを止めた。カーテンはタッセルで纏められたままで、夕暮れの陽射しが遠慮を持たずに差し込んでいる。
学級委員か、それか一体、誰だろうか。暗さと陽射しが体全体の輪郭を隠していて分からない。
ドア越しでも伝わる物々しい空気にドアへ手をかけたまま引くになずんでいれば、人の気配を感じたのか逆光を背負ったままにそれは振り返った。なんとなく見覚えのある姿に、一応手早くきょろきょろとして逃走通路を確認してから思い切り開け放った。
思った以上の音を出したドアに顔をしかめつつ目を向ければ、先の通り、学級委員が一人立っていた。
「あー、やぁ、委員長。お疲れ。」
「お、疲れ様。なんだ、君か。」
当ったり~、と飴玉を乗せた舌で転がすようにしながら口ずさんだ。
ドアをそうっと気遣いながら閉めて、目の前の学級委員と籃に一歩ずつゆっくりと近付けば、学級委員は手を乗せたそれからパッと離れて、擦り合わせる指先同士を見つめながら、びっくりしたよ……。と、へらりと笑っていた。隠し事をするとき、人はよく笑うものであった。
「今日も世話、してんの。」
「まぁ、うん。まあね、ついでだよ。ついで。」
「あー、いつもの自習の、ついで?」
うん。と一つそう頷いてから、漸く世話好きはこちらをちらりと見た。昨日ぶりの両眼はいつもと変わらず理知的な眼差しを携えていた。
教室に人がいるとすれば学級委員くらいだと、そう思っていたのは毎週末に律儀に自習室へと通う姿を知っているからだった。
合っては外れ、少し忙しなく動く眼差しを眺めながら言葉を続ける。
「土日に学校、それも教室側の東棟に来るのは、自習室に用があるやつか、教室に忘れ物をしたやつくらい。」
パチリと合った眼に、外れてしまわぬようにジッと見ながら続ける。
「自習室の稼働率の低さは、委員長もご存じの通りだと思うけど、結構低い。うちの学年は、特に。」
レンズの先で瞬く睫毛が長くて場違いながらに羨ましかった。
「教室の鍵って、基本的には先生に言わないと開けられないんだ。」
小さく開けられた角の窓に近寄る。
「これ、閉じるよ。」
「うん。」
少し固い、短い返事が答えだった。
陽が暮れていく瞬間はひどくあっという間で、伸びる影はまさに呑み込まれるんじゃないかという錯覚すらある。
鮮やかな黄色がふわりふわりと頭上を一週はためいて、ゆったりと籃の縁に降り立った。
視界の端で拳が握られるのを傍目に籃の方へ体ごと向ける。何も知らぬ顔で蝶は優雅に羽を打っていた。
くるりと顔だけで振り向いて窺う。レンズの向こうの両眼は、変わらず霞もくすみもない、澄んだ理知的な光だった。
「ねぇ、俺が触ると絶対潰しちゃう。委員長なら戻し方、分かるでしょ。」
「それは、もちろん。」
捕らえようとした途端に羽ばたいてしまった蝶を追い掛け、学級委員が右往左往としている間に、そっと籃を取り上げて矯めつ眇めつ眺める。光の反射に違和感を感じたからだった。
そうしてちゃんと見て、ようやく気がついた。クラスメイトがたまたま卵を見つけたからと家にあった要らない虫籃に入れて持ってきて一ヶ月。何だかんだと一ヶ月近く居座り続けたこの籃は、所々と修復の後が見られるものの、やはりボロボロであった。定期的に洗われていたが、洗うにも神経を使いそうなボロであった。年季の入った傷は分かりやすい。下唇を食んだ。寒いからだ。そう。冬の夕暮れはひどく寒いから。寒さに耐えかね唇を噛んだ。
かぱりと籃の蓋を慎重に開けてから、今度は体ごと振り返る。見れば、ちょうど捕らえたばかりなのか表情に喜色が滲んでいた。
あとは慣れているやつに任せるのが適切とみて、一声掛けてから机に向かう。用があるのはこの机の横に掛けられた手提げに入ったハンカチであった。
少し漁って暫く。指先に触れたジップロックの感触を掴んで引っ張り出す。しげしげと眺めれば、内側に畳まれたもののジップロック越しでも緑色が透けて見える。素早く肩へ提げたバッグを開けては突っ込む。早く洗わなければならないのに、一日も放置してしまった。とんだ大失態だ。愚か具合に涙が出る。果たして白色は戻ってくるだろうか。なんて様々を考えながら籃の元へまた戻る。
どうやら無事に戻せたらしい蝶は、狭い籃の中でふわふわと羽ばたこうと試みている。外を知ってしまった生き物の姿はひどく哀れ具合を増していた。
ちらりと隣を見てから、窓際に寄せられた籃をなるべく揺らさないようにしながら、いつもの定位置に戻した。
「馬鹿らしくて」
溢れ落ちたみたいな声を逃さないように拾う。
「まぁ、そらそうでしょ。」
上手く、できているだろうか。
「馬鹿みたいだし、馬鹿みたいだった。本当に」
「君もそう思うのかと、むしろ安心してるよ。」
いつもは、人らしさが無いくらいだから。
「なにより、なによりひどく哀れで惨めげで、可哀想だった。」
ただ頷いた。
奴の姿はやはり憐憫を誘うようであった。自分一人の孤独な感情たちでは無いことに、ひどく安堵した。そしてなにより、委員長という存在のお墨付きが心を寛大な、大義を得た軍官のようにさせた。
口角は隠せただろうか。いつも通り、自然に口許へ寄せた手の下で、抑えられぬ喜色が滲みかかっていた。悟られぬよう、そっと深呼吸をし、一度落ち着かせてから緩く口角の上がった自然な微笑を作る。
少し大きく一歩近付いて微笑んだ。
「休日は、該当者が少なすぎてバレちまう。なぁ、賢い君なら分かるだろう。期を見るのは肝心って、君が言ったんじゃないか。」
「やるなら平日!!明日の分の食事は、無理にいいよ。今日多めに置いていこう。それで平気だし、たった一日、それで死んだらそれまでの命だったってことさ!」
外に広がる空はとっくに夕陽を地平に引きずり込んで、紺碧が広がり始めていた。
委員長の自習セットを引ったくるように引っ提げて、だらりとしていた右手首を掴んで走る。カイロで温まった左手の温度が移り行くのを感じた。もはや体を覆い行く靄は晴れずにいたが、あの鮮やかさと温度が分かればそれで良いとすら感じていた。
誰もいない校舎で二人分の足音はひどく響いて聞こえた。