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蝶の葬式  作者: 志水川 結木
蝶の葬式
3/8

3話目 金曜日の昼休み

 余らせたジャージの袖を遊ばせながら膝を抱き込む。グラウンドは冬の空気が底の部分まで染み込んでいるみたいに冷えていた。


 靴の踵でガリガリと地面を削る。いつもより固い土が少し跳ねてジャージに当たっては、ほろほろと砕けて落ちた。それを最後まで見届けた後、ついと視線をずらせば白いシューズに泥汚れが付いているのに気がついた。踵部分ならば洗えば落ちるだろうか。と、何度洗おうともメッシュから落ちずにいる汚れを見ながら考えた。



 授業の終わりを告げる号令と皆の一礼に数拍遅れて頭を下げてから、のろのろとした動作で立ち上がり、ぐっぐと膝を伸ばす。

 冷えきった屋外で1時間を過ごした体は強張ってギシギシと軋んでいる。関節が粗悪な木製由来になったみたいだった。


 パンパンと土汚れを叩き落としながら前庭を歩く。視界の彩度は未だ低いままで、鼻の先から頭の天辺までずっとどこまでも付いて回るくどい靄に覆われているようだった。


 ふらりとトラックの外側へ出てコンクリートで舗装された通路に足を乗せる。粒子で滑るグラウンドよりもずっと歩きやすかった。これから進む道が全てこれみたいに舗装された道であればどれだけ楽だろうか、なんて馬鹿げたことを考えながら昇降口までの前庭を歩く。早く手を洗いたかった。



 グラウンドから喧騒が聞こえるなか、人ひとりといない裏庭の通路には静寂が広がっていた。少し上向きに傾斜のついた道を進みながら、ふと隣を見れば常緑の低木樹がお利口に一列で並んでいる。葉々は昨日よりもずっと艶やかな青さを携えて揺れていた。

 惹かれる気持ちを押さえきれずフラフラと近寄る。気分はさながら誘蛾灯に誘われる蛾であった。


 こちらに正面を向いた葉を一枚見定めて、慎重に触れる。先ずは指先でつんと突いた。しなるように揺れた。揺れが枝を経由しては、ざわめきが広がるように波状に伝播するのが何故だかとても愉快だった。

 今度は揺れごと包むようにそっと握り込む。通年緑のその葉も寒さのためか、心なし硬い。強く握れば手の内で凍えた繊維と共にぼろぼろと崩れる、そんな甘美な夢想に耽っていれば、目蓋の裏で蝶が羽を打った。


 蝶が、蝶になってから数日が経った。羽を得たやつはお人好しな人間により設置された砂糖水を呑気に吸っては気まぐれに羽ばたくのを繰り返していた。


 与えられるそれらを疑いも何も出来ずにただ享受するしかない籃のそれに対して苛立ちを抱えていることにはもうとっくに気がついていた。

 そして蝶の生育をエンタメにしていた人間たちが、昨日は名を付けると騒げども段々と興味を失いつつあるのは肌でなんとなくだが感じていた。一過性のコンテンツのように扱われる奴に、ひどく哀らしい気持ちが芽生え始めていることにも。



 視界の端で黄色い羽が二度瞬いた。鮮やかなそれを追い掛けようとして、先ほどまで艶々とした色味と触り心地に愛おしさすら感じていた葉が急に邪魔ったらしく感じた。


 手の内に収まるそれを見下げる。表面を指先で擦るようにして撫でた。それから一度手離して、爪の先で持ち上げるようにつつく。さっきよりも跳ねるようにしなり、周りに振動を伝わせながらざわざわと音を出して揺れている。何度つついても先ほどの歓喜と愉快はやって来なかった。

 手の平に葉を乗せた。厚い代わりに小ぶりなそれは可愛らしさがあった。風が吹いた。他の葉に釣られるように微動した。強く握り込んだ。強く強く、ぎゅぅと手の内で擦れ合った葉と爪が鳴るくらいに握り締めた。


 冬の寒さに冷たく凍えたそれは、想像よりも簡単に砕けた。ゆっくりと開けば多少の輪郭を残した緑色が滲むように一面に広がっていた。



 立ち上がって体を少し伸ばす。空を仰いでみれば、随分長いこと耽っていたのか首と腰が痛んだ。


 指の間から足元へ滴る緑色を眺め、右のポケットからハンカチを取り出す。洗われたそれは昨日の黄土色を跡形すらも残していない。


 清潔な白色が緑色になるのを見つめながら躊躇いなく拭えば、破片と繊維が布に擦れてざらつくのを感じた。ひどく不快なそれが早く終わるように折り畳まれた面を変えつつ拭き進める。


 最後の面を使いきった後、多少緑の残る手の平をグッパーと握ったり開いたりを繰り返し、水道に行くのは教室で新しいハンカチに変えてからだな。と、段取りを考えて息を吐いた。


 白いハンカチは見る影もなく緑色に染まっていた。元より滴り落ちてばかりでそこまでの水分が残っていたわけではなかったのもあり、晴天のもと風に晒されたそれは早くも乾き始めていた。


 汚れ、柔らかさを失った布繊維が少し反発するのを無視して面が内側になるように折り畳み、ポケットに突っ込む。果たして、今日洗えばギリギリ落ちるだろうか。


 気がつけば黄色い影も、立ち込めていた甘美な夢想も蝶への感情もクラスメイトへの嫌悪も苛立ちすらももう残ってはいなかった。晴れることなく広がるばかりの靄は、首を伝って指先まで降りてきては浸食するように全てをかき消していた。



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