2話目 金曜日の朝
金曜日の朝、教室の後ろ黒板にデカデカと書かれた蝶の名前を見て舌打ちをした。背負ったリュックとマフラーを机に適当に置いて近寄る。よくよく見るとどうやら、あくまで名前の候補が書かれているだけのようで、下には正の字が並んでいた。
「おはようございます」
横を見れば砂糖水を片手に学級委員が立っていた。手に持ったそれを器用に籠の中の綿に染み込ませていくのを見て、そういえば、卵から蝶になった今日まで世話を行っていたのは殆どコイツだったな。と思い当たった。
作業が終わったのか、学級委員はくるりとこちらへ振り向いて言った。
「昨日の放課後、私たちが帰った後で名前を付けてみてはどうかと盛り上がっていたようで。候補は現在七つ。一人一票だそうです。」
レンズ越しの眼差しは今日も理知的だった。面倒だからなんだと人に世話の丸投げしておいて、愛でてるだけの外野は随分と自由だなと思った。
籃を見れば昨日はまじまじと見れなかった蝶がよく見えた。生きていた。鮮やかな黄色い羽を動かして蠢いていた。
「世話だけ丸投げしといて良いご身分だよなぁ。身勝手さに苛ついたりしないワケ?」
こちらを真っ直ぐに見つめる眼差しから反らすことなく合わせてそのまま、少し潜ませた声で呟けば、レンズの向こう側で涼しげな眼がぱちりぱちりと瞬いた。
少し見つめ合っていれば、眦を少し下げた後、これくらい造作もないことなので。と笑った。いつもは動かない鉄面皮の、珍しいその笑顔に今度はこちらが目を瞬く番だった。
一つ息を吐いてからチョークを手に取る。まだあまり投票は進んでいないようだった。
「委員長は、どれにするの。どうせまだ投票してないんでしょ。」
「なんとその通り。よくお分かりですね。」
「別に。どれにするかは決まっているの。」
「それはもう既に。そうですね、右から三番目にしようと思っていたところです。」
「決まってんなら、自分でちゃっちゃとやっとけば良かったのに。」
「こういったものには、期があるものですよ。」
「…今でその期ってやつは良いの。」
「ええ。」
未だ外れぬ視線に居心地の悪さを感じながら、あっそ。と呟いては視線を黒板に移し、右から一、二、三……と数えて一つ、線を引いた。
「あなたは、どれに?」
「え?あー、あぁ…これで。」
一つ左に進んだところ、右から四番目の候補に適当に線を引く。適当に放ったチョークからカロンと軽快な音をしてから転がって、コツンと縁にぶつかる。それをなんとなく追いかけてから、もう一度学級委員に目を向けた。
その両腕には未だ砂糖水用の容器が抱えられている。指差し、まだ使うのかと問いかけてる。首が横を振るのを見届けては奪うようにして廊下へ出た。
特に意味は無かった。ただ奴が、芋虫の世話を学級委員だからと押し付けられ、蝶が蝶に姿を変えてからも、ずっと、必要になったその食事を毎朝用意するのはアイツであった。そしてなんと砂糖水だからと容器を毎回洗わなければならないその仕事も学級委員の仕事であった。
冬の水は冷たい。朝はより一等。教室も寒い。哀れに思った人間のただの気まぐれだった。
廊下に出ればやはり冷えた空気が頬を撫でて温度を奪っていく。水道水の冷たさを想像して顔をしかめながら、ワックスで磨かれた廊下を進んだ。
歩を進めるに連れて昨日にとっくに晴れたはずの霞みが再び視界を覆い隠していく。くすみ行く視界と押さえようとして漏れ出た気分の悪さを掻き消したかった。視界の端でちらついた、誰かが落とした消ゴムを蹴飛ばした。
捻った蛇口から出た水はまるで爪の間を刺し込むような痛さを持っていた。蝶の色を思い起こす。昨日考えた通り、やはり黄色だった。鮮やかな黄色だった。冷水に指を晒しながら、ただあの色を反芻していた。