1話目 木曜日の昼休み
他サイトで連載していた作品になりますが、こちらに投稿するのは初なので緊張しています。
初めて完結できた作品で思い入れがあるので、こちらでも受け入れられたら嬉しいです。
クラスに蝶がいた。
いつかクラスメイトが、「季節外れながらも卵がキャベツの葉に付いていたから」と虫籠に入れて持ってきた。それが幸運にも温暖な教室にて孵化し、蛹を経て誕生することになった存在だ。
卵から孵ったとき、芋虫が蛹となったとき、それぞれ後ろ黒板にデカデカと祝の字が記されるくらいの可愛がられようで、きっと今日この後も、祝の字と共に羽化達成の四文字が後ろ黒板に記されるだろう。
奴が蝶となったのは一年で一番寒い日だった。単純に、この寒い日に可哀想に。と思った。また、人目も集まる昼休みに羽化とは随分と都合の良いタイミングだな。とも思った。籠の周りには押し合うように詰め掛けた人溜まりが生まれていた。それらを眺めた途端、何故だか己でも分からぬ、姿知れぬ心を逆立てて行くような感情に襲われた。
季節外れのそれを中心にわさわさと群がる空間から背を向けた。とにかく、この場に居続けたくなかった。
駆ける中、人の群れの隙間から見えた蝶は、ひどく鮮やかな黄色い羽を携えていた。
ピュウと耳元で冷えた風が音を鳴らしては、ざばらんに髪を拐って通り抜けて行った。軽く腕を擦っては震える。
静寂が広がる中庭。己の荒い息と風に揺れる葉の音だけが響いていた。一つ深く呼吸をすれば、凍てつくような温度が肺をパリパリと突いては溶けていった。
セーターに潜ませていた1つきりのカイロを取り出しては悴む指先に当てながら揉みこむが、それでも無いよりはマシという程度だった。今季で一番の寒さだろうとアナウンサーが言っていたのを思い起こす。顔をしかめつつ一人、肯を示した。
いつもはちらほらと見える人影も、今日ばかりは誰一人として見えない。幾らか歩いてフェンス近付けば、先に広がる畑も冬に染まりきっているのがよく見える。いつもは既に溶けている霜もまだ降りたままで、一面が薄く白がかっていた。
ただ、冷たい冬だけが静閑に広がっていた。冬が世界を作っていた。
カイロに触れ、温まってきた思考の回路を少しづつ回し始める。寒さで一瞬忘れ去っていた、肌を走り身を縛るような感情は体の温まりと共に蘇り、未だ形を保っていた。このままで教室に戻りたくは無かった。
首の後ろを掻くように毟る。ざわざわとしたざわめきが身の内でふつふつと沸き起こって泡のように生まれては潰えて消えてゆく。堪らず目の前の金網にしがみつくようにズルズルとしゃがしゃがみこんだ。指を引っ掛けるようにしながら縋り付いたそれは、大袈裟にガシャンと音を鳴らしては振れていた。
ふと、視線を落として足の先の方をだらりと眺めた。靴の側、金網の下に生えた雑草が目に入った。何故だか、何故だかそれが、どうにも堪らなかった。やけに青々と見える。そう思った途端、何故だか右手が伸びていた。
先程まで握っていたカイロから移った温かさが外気に晒されて直ぐ様に奪われていくのを感じた。しかし、先程まで恐れていた寒さへの感情も、様々な苛立ちも、全てがその青々しさに塗り替えられ、かき消されていた。
土に触れぬよう細心の気を遣って引っ張り抜いた。躊躇いもなく行われた一連に、右手が伸びては、抵抗もできぬそれは間も無く手の中に収まっていた。捉えたそれを、ジッと見つめた。そして、それからひどくガッカリした。青緑は冷たかったが、なによりも、先程までの鮮やかさも失われてくすんだように見えた。まるで外れクジを引いた心地であった。
手持ち無沙汰に、手の内で何度か鮮やかさを蘇ればとも思いながら打ち転がして、それからなんとなく葉の先からなぞるように指先を滑らせた。霜が残っていたからか、土が根っこにしぶとく付いている。軽く揺すればパラパラと粉を吹くように零れた。
けれどもいくら振れど落ちきらぬそれに段々と興味が削がれ、最後にはもう気持ちの一片の欠片も残りはしなかった。邪魔になったそれをつまみ上げ、考える。少し迷って、畑に行かなければ良いかと、少し体の向きを変えては適当に放り投げる。風に乗ったのか思いの外遠くへ落ちたようだった。頬を撫でる風は未だ寒いままだった。
雑草の行く末を眺めた後、気まぐれにぐるりと130度右に回っては、木製のベンチに近付いた。先程に溢して無くしてしまったはずの興味がまた、ふつふつと湧いてて戻ってくるのを感じる。いつもより冷たそうなそれに、触れてみたいと気が惹かれた。
興味のままに、木座をコンコンと叩けば、木材に染み込んだ水分が凍っているのかいつもよりも音と感触が硬い。低い打音が心を擽る。
今度は、そっとなぞってみた。いつもより心なしかつるりとして、少し湿っぽい。常とは違うそれらに、気分が上向いていくのを感じた。
気の昂りのまま、勢いに身を委ねて気まぐれに表面を引っ掻いた。すると、いとも簡単にシャーベット状の薄い黄土色が爪先に入り込んだ。それを感触に知り、先程までの良い気分が一度に全てがバラバラに霧みたいになって離散するのを感じた。
指先の汚されたそれから、嫌な心地たちが去っていった良い気分の収まっていた所にするすると染み込むように入り込み、まるで浸蝕していくようだった。ひどくそれがおぞましく感じられて急いで左のポケットからハンカチを取り出し拭った。洗うのが良いのだろうが、一刻も早く除きたくて堪らなかった。音の無い浸蝕を止まらせたかった。
白を基調としたハンカチに黄土色はよく目立ってまるで汚濁の主張そのもののようだった。強く扱われたそれは、先程までのアイロンがけの影も一欠片とて残していない。
先程よりも際立って可視化された汚れに不快さを覚えながら、ぐしゃりと握って乱雑にポケットに突っ込む。誤って右側に入れた指先に、ハンカチ越しに温かさが伝った。安心するはずの温かさが今はひどく邪魔だった。
首の裏がピリッと痛んで、なんとなく狭まってくすみがかっていた視界が一気に晴れていくのを感じた。
風が強く吹いて髪が翻り頬に打つ。首を振るようにしながら、もう一度、今度はゆっくりハンカチを取り出した。先程をやり直すように皺を伸ばしながら、汚れた面をきちんと内側に折り畳んでから左ポケットに戻す。
軽く息を吐いてから乱れた髪を軽く左手で整えた。
大時計を見上げる。もう予鈴が鳴るまで幾ばくもなかった。先程までの執心の一切は消え失せ、ただ穢れたこと、それだけが頭を支配していた。振り返ることなく校舎へ駆ける。きっと、あとは手さえ洗えばいつも通りに違いないだろう。しかし、石鹸と流水で流し、落としきるまではずっと終わらない。早く、早く、忘れたかった。
作品の時間に沿って完結まで投稿を続けたいと思います。皆様お付き合いのほど、どうぞしばらくよろしくお願いいたします。