文章を創造する四十八手 第8~12手
8視覚的文章の硬さ
哲学の本を目にし3行で眠くなることがあるだろう。その理由は簡単だ。
哲学・思想は専門の用語が増えすぎているからだ。自分のいままでにない情報なため考えることをやめてしまう、
例えば、「共産主義と資本主義のように弁証法は、支配的・管理的な便利な道具になっている」と漢字が多くなればなるほど、真っ黒な文章になり余白がなくなる。 人は、印象で物事を判断するクセがある。4秒で異性と付き合えるか、付き合えないか判断するのだ。 このように、文章に重みを置きたい場合は硬い表現をする。反対に、軽いノリでいい場合は、ひらがなとカタカナで空白をもたらす。
音楽と文章は、非常に似ているのだ。 リズムを常にフルスロットで刻んむ、そのうち足しすぎるとやかましいだけの音になる。フルスロットのなかでもスペースがあるのだ。そして、ビートに刻まれる。音楽は、ビートからリズムが必ず生まれるのだ。 文章も、一緒の理屈で一定のビートからリズムを生み出す。
その一つのリズムが漢字の余白である。 理屈をこねたいときに、余白だらけの「あい」をつかうよりも「愛」としたほうが、重みがでる。哲学なれてしまうとそのうち主義が一つの造形にみえてくる。
「愛」を形而上学のロゴスがあり、対なるものとして唯物論、物質主義などがある。 「」カッコも、リズムとしての空白をもたらす。 英語と違い、日本語は文字から文章へ流れを生み出せる言語に鳴っている。 その反面、喋り言葉やシンプルな要約は得意としない。 芸術性に卓越した文章とも言えるだろう。
共通語はシンプルな英語。芸術性に特化させたいのであれば「生」まれ、そのものであるひらがな「あえうえお」や「カタカムナ」「古代文字」に習って言葉を失う必要がでてくる。 余白から外れるのでひらがなの成り立ちは省略する。
9表現の紋切りがた「やばい」の追求
「あのケーキ屋やばくない?日本やばくない?」と、やばいの紋切り型には、数多くある。 一体なにがやばいのであろう。 この「やばい」の正体を追求するだけで、あなたのなかのやばいの幅が拡がる。
あのケーキ屋のショートケーキは、口の中で甘くとろけるシフォンケーキとクリーム、苺の甘さとバランスが絶妙で「やばい」ほど美味しいのである。
こうやって、自分で言葉にできない限界まで突き詰めていく。
すると、「やばい」が見えてくる。 砂糖の塊を溶かして空気をいれ、依存させるショートケーキは体にとってやばいのである。
このように、言葉にできないやばいをやばくすることで、紋切り型の追求ができる。
楽しい文章の冒険が始まるのだ。
10空想から生まれる創造性
小さい頃は誰もが空想家だった。 私も例外ではなく、小さい頃にずっと空を飛んでいた。 まるで、寝てみる夢のようにだ。
現実と空想の差はない。起きて思考が勝ってようやく、夢だった。あれは現実でない。
と、判断する。
しかし、空想が思考より勝つと、日本の経度が曖昧になってしまう。 そこで、思考が重要になってくる。思考が勝てば東経122から154度に位置し、北緯20度から46度で、東経135度が日本の標準時子午線とわかるのだ。 空想の世界に一つの目印をつけわたしたちはクリエイティブを思考しているのだ。 現実世界に、水面の「0」の高さを決めそこから私の家の標高は20mで、富士山は3776.12mと名前を付けています。 0mという空想から現実が生まれたわけです。 しかし、この空想が暴走をすると水面の「0」の高さを自分で「ー21m」とも思い込めます。 その結果、私の家は海に沈んでしまった。 しかし、実際は海に沈んでいないだろう。 空想から創造されているが、空間と時間の干渉があり、クリエイティブには時間の誤差が生まれます。 例えば、売れない画家の空想のクリエイティブが、時間を超越したとき死んでから人気の画家になるわけだ。 意識の向こうで日常生活を超越すると問題が発生する場合がある。身体的感覚と調和させ忍耐力を持ち投影していくとスムーズに創造性が生まれます。 文章も同じである。 そこで、ヨガやスポーツなどは自分の体と心の結びつける効果があります。 もちろん、他の方法も無限にある。 そして、空想して現実に投影しようとしても完璧で完全に成ることは我々人類に置いては無理でしょう。
それこそ、神のみぞ知る世界になってくる。
他人との許容問題も発生しているあ。 よくよく見ると、人類は誰もが空想家である面をもっているのです。
それを飲み込んでしまえば、空想癖などとるにたらない心配だと思うだろう。むしろ、インスピレーションするための原動力であることが明確になってくるだろう。
11人に寄り添う文章を書く
無意識的に文章をインスピレーションすると、自分の中の頭のゴミにより文章が偏る。
つまり、専門用語で片付けてしまうわけだ。
ご存知のように「利己的な人間」だ。利己的な人間しかそもそもいないのだ。
いくら他人になろうとしてもなれないからだ。
と、表現しても「利己的な」を知らない人は一定数いる。 「利己的な」とは、自分の利益だけを求めるという意味だ。
人に寄り添うときに、噛み砕いていくとすべてがひらがなだけになってします。
噛み砕けば噛み砕くほど、文章の行き場をなくす。
まるで、米のようにかみ続ければ甘さが永続的に続き飲み込むタイミングを失うようにだ。
人に寄り添う文章にするために専門用語を解説する必要もある。
どうすれば、この専門用語と文章の校正のバランスがとれるのか。
私は知らない。完璧な文章がないのと同じである。
ただ、利己的な自分のなかに人に寄り添って文章を書こうとすることはできるだけだ。
12奥深いところでは文章から伝えたい答えを知っている
文章を読んでいると、言いたいことを「表現」するプロに出会う。
自分の感情を示す表現をしてくれるのだ。
文章一つとっても、潜在意識の奥深いところではずっと繋がっている。
超越した物語なのだ。
ときには比喩を使って面白く伝え、またあるときは物語として表現する。
歴史を超えて文章は鳴り響く。
その証拠に私たちは、2500年前のプラトンや1200年前の古事記など時間を超越させている。
もうすでに、プログラムは組み込まれおり答えを知っているのだ。
その鍵となる役目として文章もあるのだ。