タイカンとミカノの騒動
雨雲はより濃く黒ずんでいる。落ちる雨粒は大きく、葉を叩く音も激しくなっていた。
ヴリトラの心にあるのは、後悔や屈辱、羞恥や畏怖では無かった。銀髪の頭に落ちる雨粒に流されるように、そういった感情は大地に吸い込まれていった。
ヴリトラの心にあるのは、愛慕と礼賛が充満していた。
『ーー!ちょっと!聞こえてる!ぶりなんとか!』
ヴリトラは、雨粒が葉を打つ音と、ミカノに対する敬愛の気持ちで、昇天しそうになっていた。
『はっ!、、、』
『なんか笑ってて、すごく気持ち悪いよ。』
『申し訳ございません。我が新しきマスター。』
『え?なに??なに??怖い、、、』
『マスター、私は目覚めたのです。マスターのお力の前では、私は平伏す以外にこの感情を表す事ができません。』
『えっ?なんなの?また、悪い事考えてるんでしょ?』
『滅相もございません。私の心はマスターと共にあります。マスターのご意思に逆らう気持ちなど一切ございません。』
『ほんとに?嘘ついてない?』
『そう思われるのも致し方無いこと。私の命を捧げる事で、マスターへの愛と服従の印とさせて頂きます。』
ヴリトラはそう言うと、掌を黒く禍々しい力で覆い、自分の心臓へ突刺そうとした。
『ま、待って!!』
『?!』
ヴリトラは、ミカノの言葉に反応し手を止めた。
『死のうとしたの??だめだよ!』
『マ、マスター、、、』
『いや、悪いやつは、生きてちゃだめなんだけど、、』
『はい、マスター。私はマスターを殺めようとした愚者。死して尚、その罪は償えない。しかし、この愛と服従の印をお示しするには、これ以外に、、、』
『馬鹿なの?聞いてる?自分で死ぬなんて、だめなの!』
『しかし、、、』
『しかしも無い!だめなものはだめなんだ!』
ミカノは、ぐちゃぐちゃな頭の中を整理出来ていない。
『それでは、私を赦して下さると。ああ、我が新しきマスターは、太陽のような強大なお力だけに非ず、大海のような寛大な慈悲の御心をお持ちだ。』
『うんうん。ちょっと本当に、何を言ってるか分からないけど、今後一切悪い事をしないなら、もう許すよ。』
訳の分からない言葉が並び、諦めた。
『マスター、、、イエス・ユア・マジェスティ』
『もう本当、何なの?何を言ってるの?』
恍惚の表情を浮かべ、跪くヴリトラ。
くしゃくしゃの髪も汚れた身体も腫れた顔も気にもせず、只々ミカノに服従しその場に留まっていた。
大きな雨粒が激しく打ち付ける。雨足が弱まる気配は無く、強くなる一方だった。
『ぶりなんとか、寒いしぼく帰るから、もうお家に帰りなよ。風邪ひくのか知らないけど、寒いでしょ』
『ヴリ、、トラでございます。かしこまりました。では、お供します。』
雨に濡れる銀髪をかき上げ整えると、ミカノにそっと寄り添った。
『えっ?どうしたの?』
『マスター。お供致します。』
『もしかして、お家ないの?』
『私が戻る場所は、我が新しき王であるマスターのお側のみでございます。マスターが行かれる場所が、私の定住地でございます。』
『ヴリトラは、話しが難しいよぉ。』
『お褒め頂き、恐悦至極に存じます。』
『褒めてないよぉ!もう、とりあえず寒いから中に入るよ!どうやって、みんなに話せばいいんだよぉ〜!』
子供のミカノにも、この状況が好ましく無い事は理解している。魔族という存在は、人族の敵であり【ケーハン】にとっても驚異である。誰かに相談したいが、斜め後ろに銀髪で黒い瞳の蒼い魔族がいては、相談にもならない。
しかし、ミカノは子供である。そのように悩んだ所で仕方無いと、開き直るのも早いのである。
ヴリトラは、ミカノに雨が当たらぬよう自分の衣を傘の代わりに掲げていた。
『マスター、濡れておりませんか?』
『びしょびしょだよ。だから、帰ってるの。』
『マスター、寒くないですか?』
『寒いよ!だから帰ってるのっ!もう!それもやめていいよ!どうせ、びしょびしょなんだから!』
『イエス・ユア・マジェスティ』
『それも、やめて!マスターも嫌なんだ!ぼくは、ミカノなの!ミ・カ・ノっ!』
『あははは。マスターは愉快なお人だ。あはははは。』
『はぁ、、、馬鹿だ、、、しんどいよ。』
『はっ!お風邪ですか!?』
『もう!黙ってて!!』
私達が、魔族と相対する為に稽古に励んでいた事は、周知の事実だろう。砦で受けた悔しさを晴らすべき、自身の課題と向き合い、挫折と成功を繰り返し特訓を重ねてきた。
想像してほしい。
城門で、侍女や文官や兵士が助けを求め喚き散らした。それに気付き何事かと、駆け付けた私とムーデの前に魔族が立っているのだ。只、前回と違うのは、跪きミカノに付いた雨粒をせっせと払っているのである。
ミカノが何やら怒ると、頭を下げ腕を胸に当てて『イエス・ユア・マジェスティ』と訳の分からぬ言葉を返している。それを何度も繰り返しているのだった。
そんな事ありますか?
このような状況が城中に知れ渡るのに、時間は必要ない。けたたましい鐘が鳴り響き、危険な状況が起きていると知らせる。何事かと、各部署の兵士が情報を把握し、一報を上官へ報告する。部下への指示と、更なる上官への報告を繰り返し、親方様迄あっという間に知らされる。
親方様は、ダイコクを引き連れ城門へと駆け降りる。フクジュを砦に残した事を、その時は後悔していた。
雨でびしょびしょのミカノと魔族が、城門にいる。
『マスター、煩い場所ですねぇ。黙らせますか?』
『ぜったいやめて!きっと、ぼくらのせいだから。』
『なんと、もしや歓迎の宴ですか?』
『はいはい。そうかもね。』
ミカノは、全てを諦めた。どれ程怒られるのか、想像を越えた先に見つけたのが、諦めであった。
ヴリトラは、歓迎の宴が開かれると思い笑っている。
城内の主要な者に加えて、屈指の強者達が城門に駆け付けた。ミカノが人質に?と思った瞬間もあったが、魔族の様子に違和感を感じ、何も言えずにいた。
緊張感の無い沈黙が続いていた。