どうも。婚約破棄した王子殿下に靴を投げつけた悪女は私です。自由に過ごしているだけなのに、弟王子の溺愛が止まりません。
「クリスティナ・チェスター伯爵令嬢との婚約をここに破棄する」
フィリップ王子殿下の声が、浪々と響き渡った。
豪華な王宮のホールが静まりかえった。
宮廷楽士も演奏を止め、王子殿下の婚約式のために集まった貴族たちは、困惑して顔を見合わせている。
婚約式のために、パールピンクのドレスを着たクリスティナ嬢は泣きそうな顔をして下を向いている。編み込みをした金髪がはかなげに揺れていた。横顔が真っ青だ。
私は扇を握りしめた。
クリスティナ嬢は、清楚でかわいらしい令嬢だ。王妃になるため、一生懸命に努力されていた。みんなの前で辱められていいものではない。
「おそれながらフィリップ殿下、理由をお聞かせください」
宰相がおずおずと言った。
「クリスティナは執事と密会していた。先日の夜会でだ」
「違い、ます……。私は……そんな……。誤解、です……」
私はムカッとした。先日の夜会って、お母様が開いたパーティじゃないの!? 私の屋敷で開かれた夜会で、クリスティナ嬢が我が家の使用人と密会したっていうの? いいがかりにもほどがあるわ!
ボキッ。
私の手の中で扇が真っ二つに折れた。
扇を投げ捨てた私は、靴を脱ぎ、玉座の上の王子殿下に向けて投げつけた。
靴はぐるんぐるんと回転しながら宙を舞い、殿下の顔に靴底が当たって落ちた。
ばふっ。
間抜けな音がした。
みんなが絶句した。殿下もぽかんとしている。クリスティナ嬢も目を丸くしている。私は叫んだ。
「女性に恥を掻かせるなんて、最低でいらっしゃいますこと。あまり女を舐めないことね。私の靴でもお舐めなさいな」
「無礼者っ」
フィリップ王子殿下が怒りだした。
――バイオレット様らしいわね。
――ああ、紫のドレスの悪役令嬢。あの方、悪女で有名ですわね。
――でも、殿下に向かってあんな風に言えるなんていいなぁ。あの殿下、ぼんくらだしな。
――クリスティナ嬢が密会なんて考えられない。バイオレット様ならありえるけど。
――まぁ。ふふっ。
私はバイオレット・フォン・デュボア公爵令嬢。悪役令嬢と言われている。
王家の血を引くデュボア家は、上位貴族の中でも最高位に位置する。私は長女だが、兄がいるため、気楽な立場だ。
社交界での評判は悪いものの、私の美貌と頭脳を妬んだ人たちが悪口を言っているだけ。私は自由に過ごしているだけよ。
「無礼者はどちらかしら。愛人と密会していたのは殿下のほうでしょう? 私は知ってますのよ! 結婚したくないからって、クリスティナ嬢に恥を掻かせるのはおやめになったほうがよろしいわ。デュボア家の使用人が誘惑したなんてバカにしないでくださらない? デュボア公爵家の名にかけて、発言の撤回を求めます!」
皆のあいだに感心の気配が渡った。
心で拍手しているのがわかる。
みんな、フィリップ殿下の横暴にうんざりしているんだわ。
「バイオレットさん……庇って頂いてありがとうございます」
クリスティナ嬢が私に抱きついて泣きじゃくった。
「あなたのためじゃないわ。デュボア公爵家の名誉のためよ」
「衛兵! あの女、バイオレットを捕らえろっ。不敬罪だっ!!」
殿下が叫んだ。衛兵が私とクリスティナ嬢を取り囲む。
「バイオレット様……」
私は怯える彼女を背中で守りながら、衛兵をにらみつけた。私に触れることはできないらしく、取り囲んだままで戸惑っている。
「兄上、お怒りはごもっともですが、デュボア公爵家を怒らせることは得策ではありません。ここは為政者の鷹揚さを見せるべきかと存じます」
ミシェル第二王子殿下が言った。ぼんくらの兄王子に比べて利発だが、クールだとか冷酷だとか、腹黒だとか言われている。
「わかった。発言は撤回する」
皆が拍手をしたが、殿下が睨むと拍手はひゅるひゅると消えた。
私は衛兵に一喝した。
「お退きなさい!」
衛兵が気圧されたようにして包囲を解いた。
――バイオレットさんって、実はいい人だったの?
――悪女だと思ってた。
――あの人プライドが高いし、すらっとして背が高いし、美人すぎるからなぁ。
――家柄もすごいしな。
「だが婚約は破棄するからな」
フィリップ王子殿下の言葉を聞くやいなや私は踵を返し、大広間を出て行った。片方だけ靴を履いていると歩きにくいから、右足の靴も脱ぎすてる。
クリスティナ嬢はカーテシーをしてから私のあとを追ってきた。
私の背後で宮廷楽士が音楽を奏で、何事もなかったかのように舞踏会が始まった。
「クリスティナさん。馬車はある? お疲れでいらっしゃるでしょう? 今日はもう、お帰りになったほうがよろしいわ」
「いえ、迎えに来てくれることになっていたので、まだ馬車は」
「そう。私もなの」
小規模な舞踏会や夜会なら馬車を待たせることもあるのだが、今日は王族の婚約式だから、主要貴族のほとんどが出席している。馬車停留所がいっぱいになるので、こういった場合は送り迎えをするのが常だった。
詰め所のメイドを呼び出して、迎えの馬車をよこしてくれるように頼むしかなさそうだ。
兄がいてくれたらいいのだが、兄は今、国境の辺境城に出張中だ。
「バイオレットさん。靴を持ってきたよ」
ミシェル第二王子殿下が追いかけてきた。
「王宮の馬車を出して、クリスティナさんを送ろう。チェスター伯爵夫妻がショックを受けないよう、宮廷侍女をつけて、事情を説明させる。兄上がああ言ったからには、婚約破棄は変わらないけど、私と宰相がなんとかする」
ミシェル第二王子殿下が手を叩くと、すぐに宮廷侍女が走り寄ってきた。ミシェルが何事かささやくと、侍女は大きく頷いた。クリスティナ嬢が、侍女に連れられて歩いて行く。
「バイオレットさんはこっちへ。今後の対応を協議したいんだ」
「そうね。私もあなたに言いたいことがあるの」
ミシェル第二王子殿下の案内で、小部屋に通された。
私は椅子にゆったりと腰を掛けると膝を組んだ。
そして、ミシェルに言った。
「ミシェル、あなた、クリスティナさんと結婚する気はなくて?」
「なぜ?」
「あなたって顔立ちも綺麗だし、ほっそりして見えるけど、実は剣が得意でしょう? 鍛えられた身体をしているのは服の上からでもわかるわよ。クリスティナさんの名誉を守ってあげたいの」
ミシェルは笑ったが、目は笑ってない。
「光栄だけど遠慮しておく。兄上がやらかした悪行の尻拭いは、私と宰相の役割だからね。彼女の名誉を守るのも私たちの仕事だ。兄の個人資産から違約金を払うように取り計らうし、私以上に素晴らしい騎士をクリスティナさんに紹介するよ」
「そうなの? ミシェル以上に素晴らしい騎士はいないと思うのだけど」
私と兄と、フィリップとミシェルは幼馴染みで、子供の頃は一緒に遊んだこともある。
だから、彼の良さはわかっている。
腹黒だとか冷酷だとか噂されているけど、至って真っ当な正義感を持った騎士だ。
フィリップがバカ王子だから、よけいにミシェルが素敵に見えるのかもしれないけど。
「まるで愛の囁きだね。ゾクゾクするよ。期待してもいいのかな?」
「何のことよ?」
「君が好きだって言ったら、笑うかい?」
「笑うわよ。だって私、あなたよりも年上で、悪役令嬢なのよ」
私はいま20歳。17歳前後で結婚する貴族社会で、私は嫁き遅れだ。ミシェルは二つ下の18歳。私は第二王子のお相手としてはふさわしくない。
「君は気後れするほど美しいし、性格が男前だからそう言われるだけだ。それに君は、悪口ぐらいで落ち込むようなタイプじゃないだろ?」
「その通りだけど……。並の男には興味がないの」
並の男では、私を娶ることができない。
悪女として評判の、嫁き遅れの私など。
「並の男でなければいいんだね?」
ミシェルはにやっと笑った。
「オレが王位継承権第一位なら結婚してくれる?」
「考えておくわ。我が国のためにも、未来の国王はあなたのほうがいいから」
婚約式で婚約破棄なんて、おろかにもほどがある。バカ王子だと思っていたけれど、ここまで阿呆だとは思わなかった。ミシェルのほうが、いい国王陛下になりそうだ。
「国のためではないよ。君と結婚したいからだ」
「王妃になる気はないけど、あのぼんくら王子を追い落とすことは賛成よ。協力するわ」
握手をするつもりで手を差し出すと、ミシェルが膝をついて騎士の礼をし、手の甲にキスをした。
「愛している」
「冗談はやめてよ」
「本気だよ。バイオレットさんの、毅然としたところが好きだ。悪評にも負けないところ、自分の正義を貫くところ、君の優しさ、いいなぁって思っていた。好きだって気がついたのはさっきだけどね。オレも、自分の正義を通すことにするよ」
私を優しいと言う人がいるなんて。
動揺と興奮で、胸の奥がきゅんとして、頬が熱い。
私は陶然として、彼の手の熱さを感じていた。
END