⑩
「きれい」
九十九の頭の上にも雪が積もっていく。まだ少し柔らかい九十九の頭は緑色の布でグルグルと巻かれ守られている。布の上にのった雪は綺麗な六角形の花で、九十九の頭を細かく飾った。手のひらでこすると体温で雪は水になってしまう。水は冷えて九十九の手はツン、とかじかんだ。
「ししょう」
「うあっ」
九十九は濡れた手で六十八の顔をべち、と触り、その冷たさに六十八は飛び上がってプレパラートをいくつか落とした。
「ししょう、そうてん! そうてん!」
六十八はため息をつきながら膝を折って落ちたプレパラートを拾った。九十九はプレパラートを振り回しながらなおもそうてん、そうてん、と喚く。
「装天したいのか」
チラ、と六十八は九十九を見ると九十九はぶんぶんと何度もうなずいた。
「手を出してみろ」
九十九は言われるがまま右手を差し出した。六十八はその小さな手にプレパラートをのせて斜めに角を立てると、ギッと薄く皮膚を切った。
「いっ……」
おもわず九十九は右手をひっこめる。
「いたあ、痛いーっ!」
うああと火がつくように泣き出した。手のひらはわずかに血で滲んでいる。
ぎゃああと大声で泣く九十九を見て六十八は平然と言った。
「ふむ……装天するほどの血が出なかったな。わかるか。装天するとはこういうことだ」
「いたいいい! し、ししょうのばか! おたんこなす! くりすたりす!」
「装天にはプレパラートに閉ざされた六花に届くほどの血がいる。何回も切ればどれほどの量をだせるか加減もわかってくる。次はもっと深く切らねばな」
「やだああああ! いたいよう、いたいよう」
ぼろぼろと九十九は右手をさすりながら泣いた。
「そうしなければクリスタリスと戦えない。できなければ死ぬだけだ。死にたいか」
六十八はやだああ、としぼるように涙をこぼしながら手のひらをさする。六十八は九十九を肩からはずしおろすと、
「七十七! 軟膏をくれ」
はーい、と七十七が何かを投げてよこす。
「しっししょう、ひどい、ひどいいいーっ、いたいよう、痛い」
肩を震わせて泣く九十九に泣くなと言いながら六十八は七十七から受け取った小さい金属の缶をあける。本当に小さな――おそらく昔はタブレットケースだったのだろう――蓋を開けると、乳白色のクリーム状のものが中に入っていた。
「これは手入れのための軟膏だ。みんな装天のたびに手を切るから、これを傷にすりこむ。良い薫りがするだろう。砂漠でも負けず育つ香木を使っている。これを使うと治りが早い」
それは乳香の樹脂と明かりのために使うブッシュマン・キャンドルという植物からとれる蝋を混ぜて作った軟膏だった。クリスタリスとの戦いのたびに血を流すレッセイ・ギルド達の必需品である。砂漠の乾燥から身を護る大事なバームでもあった。
「手を出せ」
「……切らない?」
「今はな。手を開いて」
ぐす、と鼻をすすった九十九の右手に六十八はやさしく軟膏を揉み込んでやった。柔らかい薫りがして、九十九は次第に泣くのをやめた。
「ししょうはいじわる」
「ならもうやめるか。やめるというならここに置いていくだけだ」
九十九は黙った後、ぶんぶんと首を横に振った。
「でも……でもいたいのやだ」
「仕方ない。我々はそういう星の元に生まれてついてしまったのだからな。なに、痛くなくてすむコツがあるからそれがわかればじき慣れる」
それに――いつかそんなことは忘れる。
痛いなどと思っている暇さえなくなる。この世にクリスタリスが在る限り。
「よし、これで終わりだ。あとで作り方を七十七に聞くといい。七十七は軟膏作りの達人だからな」
「うん」
九十九は軟膏を塗ってもらった手をふんふんと嗅いでいる。今まで六十八たちがこの軟膏を使っていることに気が付かなかった。
装天するたびに血と共に流れてしまうからだ。
「さて、夕食だ。九十九、前を向いて歩け」
「ふぁい!」
恵みの雪はなおも降り続き、次第に辺りは白く色づき始めた。七十四は積もった雪を鍋に入れて溶かす。雪花は回路となるだけでなく飲み水にもなる。わいわいと皆が飲む用の水筒をとりだしてこぼれるほどに鍋から水を水筒に注ぐ。さらに残った水に薬草と塩と干した肉を入れて火にかけて煮込み、じわじわと肉スープができるのを待った。
雪は周囲の音を吸収してしまうので、辺りはとても静かだ。そして匂いすら凍り付かせてしまうので、肉を料理するには最も適している環境と言える。クリスタリスが肉の臭みを追ってこられないからだ。
熱いスープができあがって、白く息を吐きながらレッセイたちは金物の椀に口をつけた。コップや鉢はみな砂漠や荒野で手に入れたもの。錆びついた人間の道具、どこかにいるかもしれない他の人間たちが手放していったものや古代遺跡の跡で見つけたものを手入れして使う。スープは五臓六腑にしみわたる美味さだった。皆、ふうーっと満足なため息とともに笑顔がこぼれる。
やはり天は我々の味方だ。我々は天の加護なしに生きてはいけない。
焚き火のまわりをぐるりと囲み、レッセイたちはしばし談笑に花を咲かせる。九十九はあぐらをかいた六十八の上にちょこんと座り、むしゃむしゃと干し肉を食べた。
ずっとこのまま修業を積んで一人前になり、いつか自分も弟子を取る。
九十九はぼんやりとそんな未来を思った。
「寒くないか」
六十八は九十九に刺繍の入った掛布を頭からかぶせた。
「おまえも自分の頭布を織らねばな。やり方を教えてやる」
そういってすっぽりと布に収まった九十九の前に簡易な織機をみせた。
「織ることはレッセイの歴史を織ること。大切なことだ。糸を縦に張って……」
六十八は一通り布の織り方を教える。横糸を入れたら次の横糸をすくって揃えてまた糸を入れる……手慣れた六十八の動きに九十九は眉をへの字にして、
「ぼくにもできる?」
「できるじゃない、やるんだ」
むう、と頬を膨らませた九十九は背を六十八にあずけた。やる気がないらしい。その姿に六十八は苦笑して、やがて戦いに使う鉱石の吟味を始めた。
ふと九十九は六十八の持つ鉱石に目を奪われる。すぐに使えるようにポケットに忍ばせているほかに、いざという時のための強力な威力を発揮する鉱石や珍しいものは、小さな試験管やシャーレに収められている。六十八はそれをとりだしていた。
六十八が手にしている灰青の澄んだ美しい鉱石――九十九はそれに見惚れた。
「ししょう、それなあに」
「これか? これは天青石。空の色を映した石だ。クリスタリスに対抗できる、清浄の石」
そういって六十八は九十九の手にのせてやった。九十九はふあーっとその輝きに見入る。
「キラキラしてる。あおぞらだ」
「なんだ気に入ったのか。ならやろう」
「ほんと!?」
意外にも六十八の返答はすんなりとしたものだった。九十九が首をかしげると、
「結晶世界には己の守護石というものがどこかに存在する。我々が回路で鉱石を強制的に味方につけているのとは違い、生まれつきの味方なのだ。奴らは敵だというのに不思議なものだろう。気まぐれなのかもしれないな。その石が気に入ったというならそれがお前の守護石だ。お前の意志を、望みを叶えてくれる。大事にしろ」
「僕の……」
「そいつは硬度が低く脆い。注意しろよ」
そういって六十八は天青石を小さな試験管に戻すと細長い皮の紐を巻き、しっかりと結ぶと九十九の首に下げてやった。九十九は嬉しそうに試験管をのぞく。
天青石の欠片がきらきらと光って九十九はうっとりした。
飽きもせず眺めつづけ、そしてそのうち寝入ってしまう。九十九のあどけない寝顔をみて、兄・姉弟子たちは破顔する。六十八はしょうがない奴だ、と自分がくるまっていた布をかけてやった。
九十九の夢の中で兄妹弟子たちはやさしく、師は厳しいまま手を差し伸べてくる。
ラクダに揺られながら砂漠の風紋を背に、共に生きていく。
そんな夢の続きを――夢見ている。
だがそれは夢だ。
優しい世界はもうすでに世界から失われている。
世界は否応なくこの幼子を大人へと追いやるだろう――無垢な幼年期から、嵐の中へ。
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