道先3-4
花之屋 結城の微笑み③ ―いざ、―
いつもは目覚ましが無いと、起きられない休日。専ら布団が親友だ。だが、今日は違う。
予定があるのだ。喫茶店へ行くという一大イベント。
週末まで乗り切ったご褒美がこれとは、本当に嬉しい。金曜など、残業すら何のそので周囲にも驚かれた。同僚から彼女か?とニヤニヤしながら突っ込みが入ったが、全然違うしとあしらって業務に集中するのでお前の春は一体いつ来るんだか、とため息を吐かれた。
余計なお世話である。お前の彼女はキャバクラのお姉さんだろうが、と突っ込み返したくなったが俺は無粋と違うので。ええ、大人ですし?
そんな事より、明日に備えたい訳で。山盛りの仕事を片づけ終えて、意気揚々と帰路へついた昨晩。
帰宅してからはお局様からの小言「なんでそんな事も出来ないの」を思い出してちょっと沈んだりしたが、簡単炒飯からあげ定食を作って気力を持ち上げたのだった。
さて、そんなこんなで楽しみにしていた当日。
朝ご飯は本当に軽くサンドイッチ一つで済ませ、散歩も兼ねて少し早めに自宅を出発した。
斜め掛けのバックにはしっかりと招待状と財布を入れて、ぽんぽんと触りながらスキップでもしそうな足取りで歩き始める。
少し遠回りしつつ、約束の時間に扉を開けると「花之屋様、いらっしゃいませ」マスターが柔らかな笑顔で迎え入れてくれた。
カウンターに案内されて着席すると、マスターが目の前に来て挨拶をする。
「花之屋様、ようこそ、喫茶店【】へ。私は失礼ながら名を明かさずに店主をさせていただいております。皆さま、マスターとお呼びになるので花之屋様も宜しければそう呼んで頂けますと良いです」
「はい、わかりました。あの、お招きいただいてありがとうございます。……まだ、夢を見ているような心地で現実味が無いんですけど」
「その事でしたか、花之屋様ならばきっと手紙に気が付いてくださるでしょうと思ったのでご招待させていただきました。差出人の無い手紙は普通警戒されますからねぇ」
「そう、なんですか」
「料金もメニューも表記が無くて申し訳ないです、全てお任せにて承っておりましてアレルギーなどには十分注意しておりますのでどうぞご安心ください。料金は、ご招待初回の本日分は頂かないルールとしております。今回で気に入って頂けましたら、次回以降また私の方からご案内差し上げますのでお時間が合うようでしたらお越しください。また、店内と料理の撮影はご遠慮いただいておりますのでご了承くださいませ」
色々と情報が過多である。なかなか頭が追い付かないが、さっそく構えようとしたスマホのカメラを閉じて肩を小さくしながらはい、と返答を返すのであった。
「では、準備を始めます。私一人でして、少々お時間をいただきます」
「よろしくお願いします」
マスターは一礼してカウンター奥の厨房らしき部屋へと入っていった。
店内をきょろきょろと見回してみると、全体的に木目の優しい木造りになっていた。ソファ席が2つとカウンターが4席とかなりこじんまりとしている。
室内灯は穏やかな色で目が痛くならないし、緑が店内にちょこんちょこんと配置してあるのも何だか落ち着く。
今日は、自分以外誰もおらずマスターと二人きりである。聞きなれない音楽が流れており、違和感はないものの不思議な雰囲気のBGMがゆるりとした空間を演出して長居すれば何だか眠ってしまいそうだ。
しばらく待っていると、野菜のポタージュと2種類のパンが運ばれてきた。
「色々な季節のお野菜が入っております、体の疲れをひとまず浄化しましょう。どうぞ、召し上がってください」
「わ、良い香り。いただきます」
白くとろみのあるポタージュはとてもいい香りがした。スプーンにすくって一口。
「……! 美味しい」
熱くは無く、適温で飲みやすい。じんわりと沁み、体中を行き渡り癒すような優しい味だ。凄くほっとする。シチューでは無いが、蕪などに似た甘味もあるなと思う。
続いて運ばれてきたのは、野菜のバターソテー。
白菜を縦にザックリとカットしたような感じだが、白菜とは味も香りも違う。バターのコクと野菜本来の持つ甘さと焦げ目の香ばしさが食欲を促進させていく。
ナイフとフォークで食べやすくカットしながらどんどん食べ進めてしまう。
どうしよう、うますぎて止まらないぞ。
メインにはお肉が運ばれてきた。
いや、この艶はなんだ。殆ど生よりのレアにしか見えないがソースのような物がかけられたかのように艶艶としている。
「では、カットさせていただきます」
大きなナイフとフォークを持ち、平皿の上で手際よく美しくカットしていく。
花をまとったフリルのように裾を広げた肉が躍るように皿に並べられていく。
カットし終え、マスターが「少し失礼します」と声を掛け、大きなナイフとフォークは脇へ避ける。徐に右手で何か包んでいるような形で肉の上に手をかざすと、ぽうっと青白い炎のような物が立ち、その後にパラパラと良い香りのする葉のような物と何かの粒が肉の上へと舞い降りた。
ごくり、と喉が鳴る。
サイズを変えて、備えられていたナイフとフォークを持ち肉を切る。
恐る恐る、口へ運ぶと肉の脂が甘く流れて、香草のような爽やかなスパイスの香りがぶわっと口と鼻を抜けていく。
こんなに美味しい肉を食べた事ないっ。驚きで目を剥いた。
蕩けるかと思いきや、柔らかいのに赤身のようなしっかりとした肉感も楽しい。粒胡椒にも似た刺激が後も追いかけてくる。
味わわないと勿体ない、そう思うのに手も口も止まらずあっという間に食べ終えてしまった。
このタイミングで、マスターがパンを一つずつ追加してくれる。
皿のソースも余すこと無く堪能して、柚子のような香りのシャーベットが食後のデザートとして運ばれて、最後に珈琲。
信じられないくらいに満たされた。こんなに充実した食が今まであっただろうか。
お腹を休めた後に長居もいけない、と立ち上がる。
「マスター、今日食べた物の事を生涯忘れません。本当にありがとうございました」
「また、お会いできるのを楽しみにしております。花之屋様、お気をつけて」
一礼して喫茶店を出る。本当に夢のようなひと時だった、
あれ、喫茶店て何だっけ?
一流のコース料理のような物達が出てきた気がするのだが。
それに、何だったんだろう。全て美味しかったのにも関わらず、食べ馴染みのない食材ばかりだった気がする。首を傾げつつ、お腹も心も満たされて細かい事は良いかと開き直った。
そんなに長い事生きている訳ではないけれど、間違い無く今まで食べた中で一番美味しい料理だった。最後の珈琲はこの間と味が違ったが抜群の香りでやっぱり美味しかった。
マスターが言った最後の一言は本当かどうか分からない。社交辞令的な物なのかもしれないし……でも、もしも本当に【次】があるのならそれはまた生きる理由にも匹敵する程嬉しい事だなぁ。
また、行けたらいいな。
そう思いながら幸せに膨れた腹をさすりつつ、帰路へとついたのだった。