9.バカップルに起因する捻挫
港町の行政によって運営されている乗合馬車だが、ここ数日間は一部の便が運行を停止されていたり、終点前の駅で打ち止めにされているのだそうだ。
こういった対応が行われている便の共通点は、いずれも港町郊外の町営教会に立ち寄る便か、町営教会を終点と定めている便かだということである。すなわち、町営教会駅で何か問題が起こっているために乗合馬車を近付けさせたくない状況にあるということだ。
町の行政のトップ、“城主”と呼ばれている人物から提供された馬車に揺られて30分。カズヤは預かった資料に目を落としたまま、疑問点をアルブヒトレ支部長に問いつつ依頼に関する理解を深めながら問題の町営教会への移動時間を潰した。
そんな彼が周囲の景色の変化に気付いたのは、何やら馬車の外で騒ぐ耳障りな声が耳に届いたがゆえだった。
「よし、鑑定結果が出た! この木は樹齢1021年と3カ月、正真正銘の植物界被子植物門双子葉植物綱リアラ目リアラ科ムカシリアラ属のリアラ種、即ちRialea Riale で間違いがないぞ! なんせ、このオレのレアスキル、“博物博士”がそう告げているのだ!」
「えっと、はい…。それはこの場にいる全員が存じ上げております。ですが、我々が知りたいのはそこではなく…。」
鬼の首を取ったかのように叫ぶ中に焦りを滲ませている若い男と、それに対して困惑の声を上げる老年の男性。
馬車の外に聳える尖塔を横目にちらりと収めたカズヤは、メモに使っていた紙束をアイテムストレージに放り込んでアルブヒトレ支部長に視線を向けた。
「もう到着してたんですね。あの元気が良さそうな彼が、僕の先に依頼を受注していた花級冒険者ですか。」
「はい、彼が。ちなみに20分前には既に教会に到着していましたよ。お気づきの上で資料を読み込んでくださっているのかと思っていましたが…。ネイ君、これ、ちょっと持ってて。」
アルブヒトレ支部長はカズヤに返答して眼鏡の位置を直すと、秘書に自分の資料を預けて席を立った。
「皆さん、お疲れ様です。」
そのまま馬車を降りていった支部長は、何やらトラブルが起きている様子の現場に軽く右手を挙げながら挨拶を送った。
「あっ、支部長! 丁度いい所に…。」
「こちらで請け負っていた試薬反応試験、データが出ましたの。ざっと纏めておいたのでお渡ししてもよろしくて? まあ、とは言っても…。」
「いやあ、俺らの方は埒が明かんですわ。書庫の本を片っ端から調べてみやしたが、今回みてえな事例はひとっつも見当たらなかったですよ。」
先に調査や作業を行っていた技術者、冒険者、学者たちは、支部長の参上に気が付くや否や我先にという勢いで群がってきた。雰囲気から察するに進行状況は芳しくないようだが、やるべき仕事はきちんと進めているらしい。
混線した報告と入り乱れる書類を右から左へと流していったアルブヒトレ支部長は、滞留していた人々を一掃して周囲を見渡した。
「なるほど、他に報告のある方は? いらっしゃらないようでしたら一度集合していただけませんか。……さあマシーナリーさん、降りてきてください。」
騒いでいた花級冒険者と、そんな彼にいたく密着している傭兵の女を除いた、全員がぞろぞろと支部長の周囲に集合してくる。
人の塊が落ち着いたのを確認し、控えていたネイ秘書が馬車の扉をパカリと開く。集っていた人々の視線が、座席から外を伺っていたカズヤに集中する。
「ご存じの方も多いとは思いますが、ご紹介します。こちらは、花級資格者のカズヤ・マシーナリーさんです。本当であれば本件に参加していただくつもりだったのですが…。今日は偶然いらっしゃっていたところを、偶然捕まえられただけですので。調査チームへ参加していただけるわけではありませんから、アドバイザーとして協力を仰ぐ程度にしてください。」
「えっと、どうも。よろしくお願いします。」
適当なタイミングでしれっと人込みに紛れ込もうと思っていたカズヤは、まるで主役登場とでも言わんばかりの舞台を作り出した支部長を心の中で恨んだ。とはいえ、仕事を中断している他の者達に無駄な時間を使わせるわけにもいかないので、何食わぬ顔で流れに身を任せることにした。
「あ、聞いたことある。『最年少の人』でしょ。一緒に仕事が出来て光栄だよ。」
「私の事、覚えてらっしゃる? 以前、一緒にお仕事させていただいたことがある者なのですけど。」
「よかった、これでちったあ進歩するぞ!」
やはり元本拠地の付近であるからか、十余人ほど集っている調査の人々はそのほとんどがカズヤの名前を知っていた。温めていた自己紹介の使いどころが無くなったので、カズヤはちょっと歩幅を狂わせてしまった。
そうして一同と挨拶を交わし終えたカズヤは、面倒臭いなぁと考えつつも、拗ねた顔でそっぽを向いているもう1人の花級冒険者の下へと足を運んだ。
この花級冒険者の青年は、やはり例によってフタエガミである。ブドウとは文字通りに毛色が違い、明るい緑の地の内側に青緑色がさしている。彼が紺色の髪ではなくてカズヤは安心していた。
そして、先ほど本人が叫んでいたように、フタエガミのレアスキルとして『博物博士』を持っているらしい。このスキルは『既に他の者によって名前が付けられている動植物に関する知識が湧いてくる』という非常に優れたものであり、おそらくはそれがあるからこそ、彼は花級冒険者をやっていけているのだろう。
「どうも、マシーナリーです。では。」
「…は? おい、お前! あ、違…、ま、待て!」
明らかに歓迎されてはいなさそうなので、カズヤは青年に対して軽く挨拶するに留めた。だが、踵を返してさっそく依頼に取り掛かろうとしたところで肩を掴まれてしまった。
「……なんですか?」
やはりフタエガミの例に違わず、プライドが高いのか。
うんざりした気持ちになりながら、カズヤは肩肉に食い込む鉤爪のような指を払うのを兼ねて振り向いた。
すると、振り向いた彼の眼前にあったのは、フタエガミの青年の顔ではなく。
「えぇ…?」
額に青筋を立てつつ、固く握られた拳を低く引いている、真っ赤な髪の女傭兵だった。
左下から顎先に向けて振り抜かれる高速の拳の直撃をカズヤが避けられたのは、きっと日ごろの鍛錬の賜物だろう。
だが、戦闘特化の職種の人間に中途半端なカズヤの身体能力が敵うわけもなく。
軽く肩口を掠っただけの拳の圧が、どういうわけかカズヤの身体を地上4~5メートルの高さまで巻き上げた。宙を舞うことになったカズヤは、肩口の鈍痛と突如訪れた浮遊感に混乱しつつもなんとか空中で体勢を整えた。
ちなみに、相応しいスキルが無ければ、只人は高度5メートルから落下しても打ちどころ次第では死ぬ場合があると言われている。よっぽどうまくやらなければ、足から降りたとてどこかしらを骨折してしまうものだ。
今回は誰かがとっさに風魔法で補助してくれたために、カズヤは左足を捻挫するだけに抑えることができたのであった。
「馬鹿、何してるんだよ!?」
花級冒険者の青年が慌てて女傭兵の両肩を掴んだ。それに対する女は、こんな状況であるのに、真正面から見つめられたゆえに頬を染めて照れているように見える。
彼女は赤面したまま青年からカズヤの方へと目を逸らすと、ふてくされたように呟いた。
「だって、あいつにあなたが馬鹿にされたから。」
「ナーリア…。だからって見ず知らずの奴を殴るな! 確かに腹が立つ奴だけど、何も悪いことはしてないぞ!?」
「…でも。」
慌ててカズヤの下へと駆け寄ってくる救護員を後目に、青年と女傭兵は問答を繰り広げている。救護員以外の者は、カズヤに心配そうな目を向けている者が半数、茶番に冷ややかな目をを向けている者が半数といった内訳である。
「いいか、ナーリア。俺が馬鹿にされたからって、先に手を出したらこっちが悪者にされるんだ。」
「悪者にされてもいいわ。それであなたの名誉が守られるんだったら。」
「ナーリア…。気持ちは嬉しいけど、それじゃあオレも後々困るんだよ。オレの為だと思って、そこは堪えてくれ。」
「うん…。」
「でも、オレのために怒ってくれたのは嬉しかったよ。ありがとな。」
「うん…!」
どうやら茶番は終わったらしい。場違いな接吻は仲直りのキスだろうか。
ベタベタと傭兵女ナーリアに纏わりつかれている花級冒険者はそのまま、手当てを受けているカズヤの方におずおずと歩み寄ってきた。
「あー、その、なんだ。アンタ、大丈夫か?」
「んー、大丈夫とは言い難いですね。純人間なのに2足歩行を断念しないといけないかもしれない。」
あまり心の籠っていない心配に対し、カズヤは皮肉たっぷりに答えた。捻ってしまった左足首は、茶番が繰り広げられていたものの数分でパンパンに腫れあがり、明らかに体重を掛けてはまずそうな状態になってしまっていた。
痛々しい患部をちらりと見た青年は、意外にも素直に頭を下げた。
「ウチのナーリアが悪かったな。でも、挨拶は大事だぜ。ナーリアが優しい娘だからよかったけど、世の中はそんないい奴ばっかりじゃないんだからさ。これ、治療費として使ってくれ。」
そう言って青年はカズヤに向かって重たい革袋を無造作に投げ渡した。
ところでなのだが、あたかも彼はカズヤにも落ち度があったかのように語ったわけだ。しかしながら、果たして本件においては怪我をしなければならないような落ち度がカズヤにあったのだろうか?
それはともかくとして、投げられた革袋をそのままアイテムストレージに収めたカズヤは、痛みに耐えつつ脂汗を垂らしながらニコリと微笑んだ。
「ご忠告、痛み入ります。名前を伺っても?」
「ほら、挨拶、挨拶。人に名前を聞くときは、自分から名乗るもんさ。」
青年の言い草に頭が沸騰しそうになったカズヤだったが、後ろに控えている獣のような傭兵が拳をチラつかせてくるのだ。
その上、この青年はどうやら本気の親切心でカズヤに挨拶をやり直させてやろうとしているようなのである。有難迷惑などというレベルではないが、これ以上のトラブルを避けるためにも下手に出るしかない。
「失礼。カズヤ・マシーナリー、銅級冒険者で花級資格所持者です。専門はいちおう植物学ということになっています。どうぞ、よろしくお願いします。」
「オレは“ジャンク”ルーガード。オレも花級冒険者、専門は戦闘以外の“全て”だ。普段はこっちにいるナーリアや他の仲間たちと一緒にクランとして活動してる。…アンタの名前は聞いたことがあるよ。よろしくな、カズヤ。」
なぜ彼はこんなにも上から目線なのか、なぜ彼はこんなにも馴れ馴れしいのか、なぜカズヤの名を知っているのにわざわざ名乗らせたのか、というような突っ込みたい点は一旦置いておく。今はルーガードの話だ。
ルーガードはこの島の人間ではなく、東の海を越えた先にある大陸の冒険者だということだ。花級資格を取得した年齢が大陸では最年少だったらしく、それよりも若い年齢で資格を得たカズヤのことをライバル視していたのだという。何とも身勝手だ。
「アルブレヒトさんの依頼を受けてこの国にやって来たんだけど、ちょっと手詰まりになっちまってさ。そんなところに、協会の職員たちがアンタの名前ばっかり出して比べてくるもんで、ちょっとイライラしてたんだよ。さっきはそんなタイミングでアンタ本人が見えたもんだから、年甲斐もなく拗ねちまったんだ。本当に悪かったな。」
「いえいえ。こちらこそ、タイミングを察せられれば良かったんですけど。」
友達のように肩を組んで来るルーガードをすり抜けたカズヤは、アイテムストレージから松葉杖を取り出すとそれに寄り掛かった。そして、険しい顔をしているアルブヒトレ支部長の下へと歩み寄った。
「時間を使いすぎちゃってすみません。例のリアラの所へ案内してもらえませんか?」
「こちらはそれほど急いでいないのですが…。そうですね、マシーナリーさんのご事情もありますし、さっそく向かいましょうか。ルーガードさんはお疲れでしょう、休憩なさっていただいても結構です。あと、私はアルブヒトレです。」
これ以上の邪魔をされては生産的ではないと考えたのか、アルブヒトレ支部長はルーガードを遠ざけようとしているようだ。しかし、何を考えているのかは分からないが、ルーガードは場を去ろうとする2人に続こうとした。
「遠慮しないでくださいよ、アルブヒトレさん。オレの“博物博士”の解説があった方が、カズヤには分かり易いんじゃないか?」
「いえいえ、本当に大丈夫ですので…ッ、ネイ君!」
明らかにルーガードが邪魔者扱いされていたのに気づいたのか、女傭兵ナーリアが支部長目掛けて拳を振ろうとしていた。それにいち早く気づいたアルブヒトレ支部長が叫ぶのと同時に、先ほどまで書類をバインダーに挟む作業を行っていたはずのネイ秘書がナーリアの腕を捕えていた。
聞くところによると、ネイ秘書はかつて金級資格を持っていたこともあるほどの凄腕冒険者だったらしい。
▽ ▽ ▽
問題になっているリアラの巨木は、全方向を白い布のカバーによって覆い隠されていた。
覆いの周囲にはワンガンポート騎士団の人員が甲冑姿で待機しており、関係者以外の立ち入りがあればすぐに対応できるようにと警護を固めている。
「本当に申し訳ありません、マシーナリーさん。お忙しい所を来ていただいたのに…。ナーリアさんの行為で生じた損害に対しては、うちの支部からも補填をお出しします。」
そんな警備騎士たちに片手を上げたアルブヒトレ支部長は、懐を探りつつカズヤに謝罪した。彼は取り出した冒険者証を警備員に確認させると、カズヤに手招きして続くように促した。
「こちらも油断してましたからねぇ…、しょうがないですよ。それにしてもあのナーリアとかいう人、冒険者じゃないですよね。学者や技術者にも見えないし。なんでこの現場にいるんですか?」
慣れぬ松葉杖を突きながらひょこひょこと歩くカズヤは、どうやらこのままでは暫くブドウとお揃いになってしまうなぁ、なんぞと考えながらアイテムストレージに手を突っ込んだ。
何気ないカズヤの質問に、アルブヒトレ支部長は皺を刻みっぱなしの額にさらなる皺を増やした。
「ふむ、ナーリアさんの事ですか…。マシーナリーさんは被害者ですし、お話しても問題ないでしょう。ここだけの話、実は、ルーガードさんをお呼びする際にいくつかの条件を付けられまして。」
彼は声を潜めると、ルーガードを雇用した際の事情について話し始めた。
“ジャンク”ルーガード、本名ジャン・クルー・ガードは、クラン“ジャンキーソード”のリーダーを務めている花級冒険者だ。ジャンキーソードは優秀な冒険者や傭兵、技師など、幅広い人材を囲っているクランとして有名なその一方で、リーダーのルーガード以外のメンバーが彼の恋人の女性ばかりであるハーレムクランという妙な体制を取っていることでも知られている。
今回、冒険者協会ワンガンポート支部がルーガードを招聘するに至ってジャンキーソードから出された要求は、ルーガードの他にも何人かのクランメンバーを本件に噛ませてほしいというものだった。
ルーガードがワンガンポートへと連れてきたメンバーは、ナーリアを含めて4人。その全てが各分野に優れた人物だったのだが、その誰もが花級資格や銀級資格はおろか、冒険者資格すら持ち合わせていないようだった。
いくら優秀な人材ばかりであったとはいえ、アルブヒトレ支部長達からすれば、素性のしれない他所者たちを町の重大事件に関わらせるわけにはいかなかった。とはいえ、当初に指名依頼を出す予定だった花級冒険者(すなわちカズヤ)と連絡がつかない以上、ルーガードの協力を逃すわけにはいかなかった。
そこで行われた両者による対話の結果、ルーガードが強く推していた人材である傭兵のナーリアのみがこの調査に参加することで手打ちとなったのであった。
「なるほど、あらましはわかりました。でも、なんで傭兵なんですか? そんなに優秀な人が集まってるクランなら、もっと依頼に相応しい人材が居たでしょう。」
カズヤはここまでの説明を受けたうえで首を傾げた。
およそ、傭兵という仕事は植物の管理とはかけ離れた仕事である。無論、植物を調べることを趣味とする傭兵や学者上がりの傭兵なんかも居るのかもしれないが、それはきっとかなりの少数派であろう。ナーリアも調査の現場で役立っている様子はなかったわけであるし。
アルブヒトレ支部長はひと際大きなため息を吐くと、彼の質問に答えた。
「それがですね…。ほら、彼はフタエガミでしょう。」
「あっ…。」
この言葉のみで、カズヤには全てが察せられた。
ここ最近、フタエガミの者がこの島近辺、特にグランドーラント王国を訪れる頻度が少なくなっているという話がある。それは、グランドーラント王国でフタエガミの者が命の危険に直面する可能性が高くなっているからである。
命の危険。そう、フタエガミばかりを狙って殺す殺人鬼がうろついており、それがまだ捕まっていないのである。
自身がフタエガミであるためにそのことを危惧していたルーガードは、クランメンバーの中でも特に対人戦闘能力の高いナーリアを傍に置きたがったのであった。これが、傭兵が調査の現場に紛れ込んだことの裏話であった。
ちなみに、彼が恐れていた殺人鬼の正体というのは。
語るまでもなく我らがブドウのことである。
「マシーナリーさん。これ以上のトラブルを起こさないためにも、あなたのご友人の正体をルーガードさん陣営に察せられないようになさってください。」
「ええ、それは勿論。」
アルブヒトレ支部長の切実な願いに、カズヤは固い握手を以て返したのだった。
といったところで警備騎士たちによる身分確認が終わったらしく、カズヤとアルブヒトレ支部長は巨大な蚊帳のような覆いの中へと入ることを許されたのであった。
“神木”は何かの病気にかかっているのか、カズヤは全身の消毒を受けたうえで簡易的な防護服の着用を求められた。
「それと、これを。匂いが凄いので、これを着けておけば多少はマシになるぞ。」
最後に、フルフェイスヘルムを被った騎士から手渡されたのはガスマスクだった。
植物が悪臭を放つようになる病気というものはいくつかあるが、ガスマスクが必要になるほどの例はカズヤも数件しか知らなかった。
「着用したな? よし、では、ベールを開くぞ。」
受け取ったマスクをカズヤが着用したのを確認したヘルム騎士は、相方の騎士に目配せをすると、神木の覆いの端を扉のように開いた。よほど中身の臭気が強いのか、空気の選択的透過性がある魔術帆布の内側には、また別の覆いが用意されていた。すなわち、二重構造である。
「マシーナリーさん、介添えはいるかい?」
「あ、結構です。」
もう一人の騎士の申し出を断ったカズヤは、いかに臭いものがあるのだろうかとちょっと肝を据えなおした後、内側の覆いのジッパーを開いた。
「うーわ、なんだこれ。」
咽るほど甘い臭気が漂う外気の異常さに気を向けるよりも前に、カズヤは眼前に広がる神木の光景に驚嘆した。
神木と呼ばれているこのリアラの木は非常に巨大で、幹の太さが地底竜ワームの胴体ほどある。数字にして幹の外周が15メートルに及んでいるのだということだ。剪定されているために高さは抑えられているのだが、その分だけ横に大きく成長しており、木陰の広さは一軒家の敷地に及ぶほどだ。
そんな巨大な幹の北側部分、陽の当らない側の表皮には、まるで屋根瓦が連なったかのような黒いキノコが重なって生えている。これはアシグロレンガワラという白色腐朽菌の一種で、腐朽菌なのに生木にも菌糸を張るという珍種だ。アシグロレンガワラが幹を覆い隠しているこの光景も一見すれば異様だが、この菌は一般的なリアラの成木にも発生するので今回の依頼とは関係がない。
幹の上に目を向けて、人間の胴体ほどもある太い枝元である。これらは自重で折れないように木製の支柱やロープなどで補助されており、その先に行くほど青々とした丸っこい葉っぱを茂らせている。神木が一般開放されていた頃は、この幹から子どもがブランコを吊り下げて遊んだり、追い詰められた大人が夜のうちにブランコをしていたりしたそうだ。今となっては調査の邪魔になるため、それらのロープは完全に撤去されている。
さて、この神木と呼ばれている巨木には不思議な特徴があるのだという。
一般的なリアラという植物は雌雄同体であり、木が一本あれば簡単に花をつけて果実を収穫することが出来る植物だ。果実は食用利用されるほど味が良く、栽培している農家もあるほど普遍的な果樹として知られている。
神木もリアラの一個体なので、時期が来れば当然ながら花をつける。しかし、この神木に限っては、開花した後で実が生ることが全くないのである。
この港町が発足するよりも以前から、この木に果実をつけようと様々な試みがなされてきたという文献が遺されている。神木として崇められている大樹の実とくれば、霊験あらたかなようで金の匂いがプンプンしてくるからだろう。だが、試みられてきた古今東西いずれの手法も成功を収めたとは書かれていないのだ。
長くなったが本題である。
そんなふうに果実の生らない神木であったのだが、今年に限ってはどういうわけなのか、観測史上初めて果実をつけていることが確認されたのである。
確認された果実はたった1個。こう聞くと、何かの間違いで神木が実を生らせただけであるようにも感じられる。
だが、たった1つのその果実が問題となっていたのだ。
「あの赤いのは一体…。なんだか血液みたいに見えるんですが…。」
カズヤは、争点となっている果実から零れ落ちている、潰れた脳漿のように真っ赤な液体、おそらくは果汁を指して首を傾げた。
「やはり気になりますよね。成分を分析したところ、果汁には違いないのだそうです。しかし、血液という言葉もあながち外れてはいなくてですね…。というのも、一般的なリアラ果汁の成分に加え、特殊なヘモグロビンが含まれているとのことで。」
「ヘモグロビンが…?」
ヘモグロビンとは、多くの魔物の血液中細胞に含まれる、酸素運搬の要となるタンパク質である。名前の由来は構成成分の1つ、ヘム=鉄である。高等植物の多くも動物と同様にヘモグロビンを持っているのだが、動物と比べて含量が少なく、加えてその利用方法も異なっているということが知られている。
だが、今回の果実において観測されたヘモグロビンに関しては、あまりにも通常植物のものと異なった性質を持ち合わせていたのだという。
というのも、どうやらこのヘモグロビンに限っては、植物的な構造と動物的な構造の両方を持ち合わせていると分析されているのだ。すなわち、植物性ヘモグロビンの窒素代謝での利用という役割に加え、動物ヘモグロビンの酸素運搬という役割の両方を兼ねているようなのである。
異様な果実から流れ落ちているこの異様な液体は、植物の果汁でありつつも動物の血液のような立ち振る舞いを行っているという謎の液体なのである。
ミクロの部分に目を向けすぎたが、そもそもこの果実はマクロの部分、すなわち外見からしておかしい。
まず、サイズが異様である。
通常のリアラの実というのは先が尖った球形で、最大サイズの栽培品種でも直径15㎝ほどにしかならない。自生している原種であれば大きくとも5㎝程度が関の山である。そして、それが数十個程度実るのが一般的だ。
この神木に生った果実はたった1個。形もほぼ普通種の果実と同様なのだが、しかしその大きさはそれらとは比べ物にならぬほど巨大だ。調査チームのメンバーが計測したところ、直径は1.35メートル、その重さは概算で1.3トンを超えるのだという。
現に、果実の生っている枝は幹に近い部分なのでかなりの太さがあるのだが、それが果実の重さに引っ張られて大きくしなっているほどだ。
実ってからかなりの時間が経っているのか、果実は既に完熟の状態を通り越して過熟とでも言うべき熟れ具合になっている。芳しい香りは濃密になりすぎており、この覆いが無ければここいら一体は甘ったるくて鉄臭い匂いに包まれていたことだろう。芳香のとおり、もはや腐敗直前なのだろうか。果実はその自重ゆえに一部が割れ欠けており、そこから先述した真っ赤な血潮の如き果汁が零れ落ちているのである。
欠け落ちた断片を保存してあるというので、カズヤが頼んで持って来てもらったところ、一般的に桃色を呈するリアラの果実とは明らかに異なる、どす黒い赤色をした血の滴る生肉のようなものが運ばれてきた。それでいて、外皮の色は一般種が過熟されすぎた時と同程度な薄いオレンジ色なのがまたかえって気味悪い。人の生々しい肉片のようではないか。
総評して、この果実は異常であり、不吉なほどに不気味だった。
「うーん…。リアラの液果がこんな状態になっているのは見たことがありませんね。」
知っている植物病や生物寄生病を脳内で片っ端から上げていったカズヤだったが、そんな彼の知識量をもってしてもこの神木に起こっている異常の正体を見いだせなかった。強いて何か分かったことを挙げなければならないとすれば、ただただこれが異常であるということぐらいだろう。
サンプルとして保存されていた断片を返却したカズヤは、ガスマスク越しにも漂ってくる甘い香りに顔を顰めているアルブヒトレ支部長に向かって肩を竦めた。
「そもそも、“博物博士”を持っているルーガードさんでもこれが一体どういう状態になってるのかわかんなかったんですよね。つまりこれって、今回初めて発見されたリアラ種の病気ってことになるんじゃないでしょうか。」
「ええ、そうなりますね。それが分かっているからこそ、マシーナリーさんに何か真相解明への糸口になるようなアイディアを出してほしかったんです。いつまでも教会を封鎖しているわけにもいきませんから。」
アルブヒトレ支部長は縋るようにそう言うと、ガスマスク越しにズレた眼鏡を直そうとしたのか、マスクのレンズに指を押し当てていた。
この物語はフィクションなので、実際にはまだ詳しく判明していない植物ヘモグロビンの役割を『窒素代謝における介在者』というふうに断定して表現しています。あくまでも地球上の植物に存在している植物ヘモグロビンの詳細な役割は判明していないということを忘れないでください。間違えて生物学のテストなどで今話の記載を書かないように!