14.香り立つ時期
塵取りの上で、ステンドグラスの光を分散した鋭角がキラリと煌めいた。
「えーと、それで」
砕け散ったフラスコのせいで緩んでしまった空気を戻すべく、カズヤはガラス片が床上から片付き切ったのを確認して口を開いた。
「何を仰ろうとしてたんですか?」
「あっそうでしたぁ! ニオイ、ニオイなんです!!」
書記係のエルフはそそっかしい性格をしているらしい。声が掛かるや否や、慌てて体を動かし、バインダーでフラスコの列を乱した。再び、教会の床にガラス片が飛び散るか。
「ふ、っ……!」
否、今回はちょうど台の傍にいたネイ秘書の迅速な働きによって破壊されずに済んだ。
「設備は、町の経費から、下りております。」
極めて平静げにそう言った彼女のこめかみには、青筋が浮かんでいたが。
再び空気が散漫になる。目に見えて脂汗を垂らすエルフに、カズヤは白けた視線を送った後、話の続きを促した。
「す、すみませんでした……。えっと、私は普段、リアラの栽培品種の1つであるブルーム・ド・リアレオの研究をしているんです。」
「はい、存じています。」
意外かもしれないが、彼女がこの場にいるという時点で想像がつくことかもしれない。
そそっかしいこのエルフは、これでいて界隈では名の知られた研究者なのである。普段は、リアラの結実過程における植物ホルモンの推移を、育成が容易な栽培品種をモデルとして研究しているらしい。
「きょ、恐縮です……。えっと、ご存じいただいている通り、私の場合は研究テーマが研究テーマなわけですから、研究の過程で日常的に、リアラが花を咲かせる→受粉する→果実が発生する→過熟する、という移り変わりを五感で感じているんです。」
「なるほど、エルフは只人に比べて感覚器官に優れていると聞きますけど、そういうことですかね。」
カズヤの打った相槌に対し、エルフはこくこくと頷いた。彼女の頭頂に挿されたリンドウの花がフラフラと揺れる。
事実、エルフ及びダークエルフと只人を比較した際、視覚・嗅覚・聴覚の3つの感覚において、只人よりもエルフの方が優れているということが広く知られている。さすがに、各種感覚に優れた亜人に及ぶほどではないが、両人種内それぞれの個人差を考慮しても1.5~2.0倍近い差が存在している。
「所詮は、数値化できない『感覚』でしかありませんし、その、私も同胞たちと比べて、そんなに鼻の方に自信があるわけではないんですけど、その、えっと……。話半分に聞いていただけますと。」
ようやく本題に入ろうとしたエルフは、しかし自信なさげに周りの者の顔を見回した。そして、カズヤを筆頭に研究者たちが自身の言葉に真摯に耳を傾けていることを確認すると、意を決したように口を開いた。
「まず、栽培種・野生種問わずに一般的なリアラの果実における発生過程の芳香族化合物生成過程の経過というのは特異的であり、他の一般的な植物の結実時とは全く異なっており、『水晶細胞』と呼ばれる種子付近の巨大細胞の分裂・縮小化に伴って進行していくことが知られていますが」
「結論を先に述べてくれたまえ。すまんが、全くわからん。」
「アッスミマセッ」
鉄砲水の如き言葉を遮ったのは、先ほどからしきりに懐中時計の文字盤と顔合わせしていた城主であった。最適化されていない呪文魔法じみた専門用語は、その欠片も拾えない素人からしてみれば退屈千万でしかないものだ。
慌ててバサバサと鞄をひっくり返したエルフは、埃や糸屑に塗れた何枚もの紙片の中から1綴りのメモ帳を取り出した。
「え、ええと……。つまり、“神木”の結実過程において、香気の発生時期における一般個体群との差異が顕著だったということです。こちらの書留は、私個人の嗅覚を可能な限りで数値要素化したものを纏めたものです。可能な範囲で客観的・科学的に要素を抽出してはいますが、あくまでも研究のファクターとして使えるものではありませんから、論文等から除外していたのですが、傾向の把握には使えるかと。まず、このページから10ページ分ほどはブルーム・ド・リアレオ種数個体のもの、そしてこちら側が今回の神木の果実」
「……。」
「ふぇ?!」
また長くなり始めた話を、今度はその豪奢な杖で止めた城主。具体的には、杖の石突で教会の床板を叩いた音で制したということである。
彼女の話をきちんと理解することが出来ていた研究者たちからは軽くブーイングが起こり、そもそも会話に参加していない技師たちは各々の仕事に集中していた。
顕微鏡のピントを合わせるのに四苦八苦していたルーガードは、近くにいた女研究員にちょっかいを掛け始め、その傍に突っ立っていた女傭兵ナーリアは立ったままウトウトし始めた。
ナンセンスな漫才じみたやり取りに一応耳を傾けつつ、カズヤはエルフの研究者が取り出してきた綴り紙に目を向けた。
そもそも第3者に見せるためのものではなかったのであろうし、仕方がないことではある。そうは言っても、お世辞にも褒められない西ドーラント文字は非常に読みにくかった。
運よく学者たちの独特な文字に慣れていたカズヤは、簡略化された文字の元形を想像しつつ、数字の示す傾向を辿っていった。
要は、『果実形成のとあるタイミングで香気が突然発生してくる』というリアラの特徴を数値的な方面から捉える過程の覚書であった。研究用のデータを取るためにはどの方面からのアプローチが必要か、ということを考えるために取られた、厳密にはデータとも呼べないような代物である。
ここでまず、リアラの果実の生理学的特徴について触れておく必要があるだろう。
リアラの果実というものは、発生時点ではほぼ無臭である。その発達のとある段階で独特の甘酸っぱい芳香を放ち始めるのである。その段階とは、種子内の胚乳が果実全体の体積の5パーセントを超えたタイミングであると言われているが、実際にはまだ定かではない。
このエルフの研究テーマは、未だ確定されていない果実の芳香発生のキーを解明することなのである。彼女はその研究を行うために傾向を掴む、いわば前準備として、毎日のように果実の匂いを嗅いではそれを個人的に数値化して分類しているのだ。そして、その数値を記録したものがこのメモ集であるようだ。
メモにはいくつかの品種における数値が取られているようだ。成程、言われてみれば、どの品種も果実の発生からおよそ2週間で芳香の強さが知覚できる程度にまで強まっているようである。
さて、肝心の神木についてはどうか。
十数個体分のアベレージを纏めたページを神木のページに並べてみると、その違いは一目瞭然であった。
「……これ、本当ですか?」
「は、はい?」
城主に対する簡潔な説明を今尚試みていたエルフは、話の流れをぶった切ってきたカズヤの顔を見た。城主もうんざりした顔で彼の方を向いた。
カズヤが軽く暗算した限りでも、果実の芳香が一定閾値に到達するまでにかかる期間において、神木とアベレージの間には有意差が存在する傾向にあることがわかった。
具体的には、神木の果実の方が、アベレージよりも3日ほど早く芳香を強まらせているようなのである。
単純に考えれば、神木の果実は通常の個体と比べて過熟速度が速いということになるわけである。
この場において、過熟速度の変化と果実の異様さそのものにおいては関連性を見出すことは難しい。だが、過熟速度を変化させた要因そのものについては心当たりがあった。
カズヤは既にエルフの方を向いてはいなかった。その代わり、蒼白になった顔を他のスタッフ達に向けていた。
「これ以上、果実を分解したところで、特に得られるものはないでしょう。一旦、解剖の方は終わりにします。」
「え、えぇっ?」「どうして急にそんな……?」「まだ、処理が終わっていませんが……。」
そうして彼が急にそんなことを言い出すものだから、助手や計器技師たちは困惑するしかなかった。
「おいおい、それを決めるのは、アンタじゃあねえだろうがよ。なんか情報がわかるまで頑張る、とかさあ……。」
不満顔で保存液漬けの種子殻が入ったバケツを隣の棚に置き、ルーガードがそう言った。ちなみに、偉そうな口ぶりでこんなことを言っている割には、さっきからずっと話に付いて行けていない。暇つぶしとばかりに傍にいた防御布の技師を口説き続けていたようだ。
「ふむ、君でもないな。宜しい、事情は分からんが、直ちに終了してくれたまえ。この匂いはもう勘弁だ。」
そして、口調だけは偉そうなルーガードをぴしゃりと黙らせたのは城主だった。彼はそう言って、鼻を覆っていたハンカチをばさりと広げた。
▽ ▽ ▽
庇か縁側かのように張り出した、黒いコルク質の子実体。何千と並ぶその中に、ただ一つ、黄土色の埃のような木屑を積もらせたものがあった。
「な、なんなんだよ。オレに何をさせる気なんだ。」
指の先ほどしかないアシグロレンガワラの前に訳も分からずに引っ張ってこられたルーガードが、情けない声を発した。彼は先ほど城主に叱られたせいでびびっているのだ。
「手術、ではなくて解剖と言った方がマシです。まだ何も治ってませんからね。」
そんな彼を教会から引きずり出してきた張本人、カズヤは、そう言ってペン先ほどもない神木の穴を覗き込んだ。
解剖の後片付けもせずに飛び出したカズヤの向かった先は、ついぞ先刻見つけたばかりの食痕であった。果実に空いた食痕ではなく、神木に空いていた方の穿孔痕である。
「まだ脱出していなければいいけど……。」
今度は聴診器を取り出してダイアフラムを幹に当て始めたカズヤ。穴と離れた場所からは、幹の中を樹液がゴウゴウと流れる音ぐらいしか聞こえない。これが異常のない状態だ。
では、穴の直上部を探ってみればどうか。
カズヤはイヤーピースを耳にしっかりと押し込み、音を聞き逃さないように努めた。当然ながら、穴の開いた箇所にも樹液は巡っているので、同じようにその流れる音は聞こえてくる。ただ、それに交じって時折、何か乾いたものがカサコソと擦れるような音も混じるのだ。
「よし、まだ中にいる。摩擦音からしてスライムじゃなさそうだし、穴の直径からしてもキクイムシ系かな。あとは、何とかして追い出せたらいいんだけど……。」
最初に睨んだ通り、この穿孔痕はキクイムシなどの昆虫が開けた穴であったようだ。
果実と幹では、物理的にも、生理学的にも、随分と離れた所に位置しているように感じられる。だが、カズヤはこの幹に潜むものにこそ、神木に起こった異常事態の原因の一端が隠されているのではないかと考えたのである。
「よくわかりませんが、私の魔法が使えるのではなくって? 周囲を保護しながら切り出していけば、御神木を切除する体積が最低限になるかと思うのですけれど。」
「おっ、リンデちゃん! さすが、良い事言うなぁ!」
ルーガードが嬉しそうな声をあげる。それに釣られて顔を挙げたカズヤは、手が空いて堂内から出てきたばかりの防御布技師と目を合わせた。
「いや……、うん、そう、ですね。そうですけど、できれば傷を付けたくはないというか……。内部の構造が分かっていませんし、あんまり穴が曲がりくねっているようなら必要以上に切り出さないといけないかもしれません。切除は最終手段にしたいんです。」
できる限り神木本体には傷を付けぬように、とアルブヒトレ支部長から釘を刺されていることもあったので、カズヤはそうしてしまいたい気持ちを強いて抑えながら返した。
気付けば、解剖に参加していた人々が堂内から出てきていた。
解剖の片づけを終えた者達の動向は主に4つに分けられた。一部の者は流れ作業的に分解された果実の保存作業へと取り組んでいる。また、他の一部は、果実研究者のエルフにデータの解説を求めて集っていた。城主を筆頭に、休憩時間へと入った者も一部。そして、残りの一部はカズヤとルーガードを追って神木の下へと集っていた。
神木へと集まった者達は、別にカズヤのシンパというわけではない。彼らはむしろ、困惑の表情を浮かべながら、カズヤの突拍子もない行動への説明を求めていた。
「いや、あのさぁ、カズヤ。キクイムシなんてそんなに珍しいものでもないぞ。花級冒険者として仕事してるなら、立ち枯れ対策を頼まれることだって多いだろうに。」
その中の1人、ルーガードが、まるで補習常連の生徒に諭すような口調で語りかけてきた。珍しくも、今回ばかりは彼の発言に同意の意を示す者が何人かいた。
ちなみに、立ち枯れというのは、樹木が病原菌や環境変化などの要因によって、地面へと倒れ伏す事なく急激に枯死してしまう現象のことである。森林帯などがまとめて立ち枯れしてしまうケースもあり、非常に厄介であるため、樹木医や花級冒険者はしばしば対策に駆り出される。
キクイムシの仲間には、そんな立ち枯れを引き起こす菌類と共生している種が存在しており、それもまた界隈では広く知られていることである。それこそ、ルーガードでも知っているほどに。
「……は?」
しかし、そうであるからこそ、カズヤは信じられないものを見る目でルーガードの事を見た。
「本当に、試験をパスしてから花級冒険者になったんですよね、あなた。」
「な、なんだと?」
もはや、暴言である。
花級冒険者資格とは、金で買えるようなものではない。であるからこそ、資格への不正を疑うということは、花級冒険者に対する最大限の侮辱となりうるのである。
拳が、固く握りしめられた拳が眼前に迫る。
これは、ひ弱なルーガードの拳なんぞではない。
怒りに身を任せた彼自身が拳を握るよりも早く、速く、拳を振るった者がいたのである。
「おやめなさい。何を揉めているのですか。」
そして、カズヤの顔が弾けるよりも前に、赤髪の傭兵の拳を止めた者もいた。
間一髪、しかしこれ以上に余裕はないというタイミングでカズヤの命を救ったのは、いつの間にか星見の観測所から帰ってきていたアルブヒトレ支部長の言葉……ではなく。
彼の言葉よりも素早く動いたネイ秘書であった。
生理学がどうのこうの言ってますが、だいたい適当な事を書いているだけなので、理解しようとしなくても大丈夫です。




