第二話
しゃらぁん、と澄んだ音が里に響き渡る。
里に一つしかない神社の境内に招かれた僕らは、この集落独特であるという里神楽を鑑賞していた。
神楽というのは、神様に奉納するために奏される歌舞の事だ。古事記の、太陽神アマテラスが岩戸に隠れしてしまった際、アメノウズメという神様がアマテラスを誘い出すために舞いを見せた、という神話が起源であるとされているらしい。
神様に捧げる唄と踊り。それが神楽。
五箇山の合掌集落にずっと伝わるという『こきりこ節』は、言われてみれば、音楽の教科書に載っていた気がしなくもない。ゆったりとした独特の旋律には微かに覚えがあった。
その程度の知識しかない僕らは、荘厳な雰囲気に一瞬にして心を奪われた。
「…… コキリコの竹は七寸五分じゃ 長いは袖のカナカイじゃ ……」
静かな神社に、朗々とした唄が響く。
座り込んだ社の木床から踊りの足を打ちつける振動が伝わってきた。
竹の切れ端を糸でつなげたような『簓』という楽器をしゃらんと鳴らし、手に持った短い竹の棒――これのことをコキリコというらしい――をかぁんと打ち鳴らす二人が、床を踏みならしている。
「…… 想いと恋と 笹舟に乗せりゃ 想いは沈む 恋は浮く ……」
まるで古典の教科書に出てくる挿絵の人物が着るような直垂姿で、烏帽子と呼ばれる細長く黒い帽子をかぶり、腰を大きく折り、ゆっくりとした動きでゆるやかな踊りを見せる。
踊る二人を囲むようにして、奥で笛や太鼓を持つ人々が華やかな音楽を奏でていた。
しゃぁん。
とん、とん。
かぁん。
「…… 向いの山に 光るもんにゃ何じゃ 星か蛍か 黄金の虫か ……」
独特の足運び。
酔いそうなリズム。
ここだけ、別の世界に入り込むような錯覚。
普段なら落ち着いて鑑賞なんて出来ない筈のセイトでさえ、声を失って真剣に見入っていた。
しゃぁん。
とん、とん。
かぁん。
里の人々の生活をそのまま唄ったかのような柔らかな歌詞なのに、なぜだかとても悲しく聞こえた。
何処かへ呼びかけるかのように、何処かへ吸い込まれていくかのように。
低く、高く、緩やかに、そして速く。
ずっと、ずっと続いていた。
幻想的な神楽の世界を堪能した僕らは、終わった後も呆けたようにその場に座り込んでいた。
脳裏にくっきりと焼きついた『こきりこ節』の旋律を喉の奥で反芻しながら。
ぽつり、とセイトが隣で呟いた。
「……オレさ、実際、バカにしてた」
「知ってる。『落ち武者』って言ってたもんね」
「そこは忘れろよな、ハル」
ばつ悪そうに頭をかいたセイトは、珍しく神妙な面持ちで体育座りなんかして、僕と同じように見ていた踊りをもう一度頭の中で反芻しているようだった。
と、僕はふと気づいた。
「あれ、レンは?」
「え?」
さっきまで一緒に座って神楽を見ていた筈のレンがいない。
神楽の鑑賞に夢中で、いなくなった事に全く気付かなかった。
「トイレかな?」
「知らねえよ、アイツの事なんか。途中でいなくなるとか、ありえなくね? 単独行動もいい加減にしろっつーの、あのワガママ!」
普段からレンの事をあまり良く思っていないセイトは、ふん、と鼻を鳴らした。
確かにレンは無愛想だけれど、セイトがいうようなワガママを言うことはないし、仕事はきちんとこなす方だ。ファンに向かってもちゃんと笑うし――愛想笑いだけど。
だから、今回のこれは不自然だった。
この神楽の干渉は仕事の一部ともいえる。それなのに、途中で姿を消すなんて、まるでレンらしくない。
「どこに行っちゃったのかな……?」
きょろきょろと見渡していると、唐突に後ろから声がした。
「待たせたな、二人とも」
振り返れば、僕らの専属マネージャーが、神社の境内に似合わぬアロハシャツ姿で立っていた。
ぎしぎしと鳴る床板を踏みならしながら、僕らの方へと歩いてきて、向かいあうよう膝を折った。
僕らの親と同じくらいであろう年頃男女を連れている。
「ん? レンはどうした?」
「さっきからいねーんだよ」
「そうなのか? 何処へ行ったんだろうな……まあ、あいつの事だからすぐ戻ってくるだろう」
明瀬さんも、レンに対して僕と同じ印象を持っているらしい。
特に何かを言う事もなく、一緒に来た男女を僕らに紹介した。
「先ほど笛と太鼓の演奏を担当されていた山中夫妻だ」
明瀬さんが連れてきたのは、先ほどまで演奏に参加していた人たちだ。しかし、衣装ではなく、男性の方はくったりとしたポロシャツ、女性の方はロングスカートという普段着姿だった。
先ほどとは全く雰囲気の違う二人に、少々戸惑う。
「こんにちは、はじめまして。先ほどは、素晴らしい演奏を、本当にありがとうございました」
僕が深々と礼をすると、山中夫妻は優しそうな表情で笑い返してくれた。
「はじめまして。私は山中涼子、こちらが夫の和彦です」
「中島晴日、『ハル』です。こっちは、メンバーの横嶋星斗、『セイト』です。よろしくお願いします」
セイトはぺこりと頭を下げただけ。
こう言う時、話す役目は僕かレンがやる。何しろセイトは敬語が壊滅的に下手くそなのだから。レンが無愛想なのは僕やセイト、それに明瀬さんに対してだけで、こういった場では愛想笑いを駆使して『よい子』を演じるのは得意だった。
「もう一人の綺麗な子、レンくんだったかしら。もしかすると彼は、相倉蓮くんというのでは?」
「あ、いいえ、立志麻蓮と言います」
「立志麻……ほら、あなた、やっぱり違うわよ」
奥さんの涼子さんが、ほら見たか、と夫の和彦さんを見た。
「そうか? 相倉の子かと思ったが、似ていただけのようだな」
「……相倉?」
明瀬さんが聞き返した。心なしか、不機嫌そうな表情で。
「知り合いに似ている子がいたもので……ああ、でももう10年近く前の話になりますから私の記憶違いでしょう」
「そうよ、そうでなくとも10年前の事は皆、口に出したがらないのに……」
と、涼子さんははっとして口を噤んだ。
「ごめんなさいね、こんな話。でもこの人、テレビでレンくんを見てからずっと言っていたんですよ。絶対に彼はそうだって」
奥さんの涼子さんは一瞬流れそうになった不穏な空気を跳ね飛ばすように、ころころと笑う。
「いや、名前も同じレンだったものだからてっきりそうだと思ったんだがなあ。あんな綺麗な子はそうそういるもんじゃない」
「もうやめましょうよ、この子たち、本当に有名人なのよ。それが知り合いだなんて……恥ずかしいわ」
「ああ、すまない」
「あ、でも、後でサインお願いできるかしら? うちの娘たちが『ストライプ』の大ファンなのよ。今日ここへ来るってきかなくて、置いてくるのに苦労したわ」
「何だ、お前も同じじゃないか」
「いいじゃない」
なんだか微笑ましい夫婦の会話を生暖かい目で見つめてしまった。山中夫妻は、僕の父さんと母さんより少し若いだろうか。和彦さんも涼子さんも、とても暖かな雰囲気の持ち主である事がほんの少しの間に伝わってきた。
明瀬さんも僕と似たような感覚でいたのだろう。
苦笑いした後に、それはさておき、と話を切り出した。
「実は、明日からプロモを撮影する今回の新曲は、この里の神楽をモチーフにして創ったものだ」
「やっぱり」
僕は思わずそう口から漏らしていた。
今回プロモの撮影をする新曲は、これまでのアップテンポなダンスナンバーと違って、不思議な和音を重ねて連ねた、どこかノスタルジックなバラードだ。人が生まれ大地と生き、死を悟りながら想いを語る歌詞は、僕らが唄うには年齢的に早すぎるんじゃないかと思うくらいに深く、悲しい。
「曲自体はずいぶん前にできていたのだが、なかなか誰かに歌わせる機会がなくてな……しかし、お前たちなら歌えるのではないかと思ったのだ」
よくプロデューサーがこんなイメージじゃない曲を許可したものだと思ったものだが、きっとクリエイターの明瀬さんが、どうしてもと押し切ったのだろう――その光景が目に見えるようだ。
「いつだったか忘れたが、少なくとも数年以上前の夏だ。ふっと旅行でこの場所へ来た時に、私は初めてこの『神楽』なるものの舞台を見たんだ。鮮やかな着物とゆったりとした舞、それに朗々とした穏やかな節に、私は虜になった」
「ええ、すごく分かります。なんだか懐かしいような、とっても安心する不思議な唄でした」
実は、これまで今回の新曲をうまく歌えなかった。歌の意味が理解できず、旋律と和音と歌詞がうまく噛み合わずに、曲自体がとても難しく思えたのだ。
「新しい曲のダンス、すげー難しかったんだ。どうしても体にしっくり来ないっつーか……でも、分かった。あの動きとリズムだ。初めて見た」
セイトも実は同じように思っていたようだ。
「ふふ、振り付けも頼んで合わせてもらったからな。この里の御神楽をイメージしたものになっているから、普段練習しているものとは全く違っていてやり難かったのだろう」
明瀬さんは微笑んだ。
「がんばれよ、セイト。お前からダンスをとったら何も残らないぞ?」
「分かってるよ!」
僕にもようやく分かった。
あの曲に明瀬さんが込めた想いだとか、フレーズに込めた想いだとか、伝えたかった感情がすべて、あの里神楽の演奏から僕の中へと流れ込んできた。
今ならあの曲をうまく唄えるかもしれない。
早く唄いたい、早く踊りたいと思う僕とセイトは、そわそわしながらも里神楽の歴史について話を聞かせてもらい、そして最後には山中夫妻たっての要望で色紙にサインまでして。
――ところが、レンは戻ってこなかった。
「あいつはいったい何処へいったんだ?」
「知らねえよ。その辺にいるんじゃねえのか?」
「もう外は暗くなる。それにレンが仕事関係の事で他人に迷惑をかけるような事はないはずだ」
明瀬さんはきっぱりと言い切った。
僕もそう思う。仕事に関してレンが手を抜く事はありえない。
「山間のこの場所は、日が暮れるのも早い。本当に、どうしたというんだ……?」
神社の鳥居の向こう、黒々とした山を見上げた明瀬さんは不安げに呟く。
神の住む場所。
なぜだろう、この山に閉ざされた集落で、あの神楽を見て……もしかすると、ここが神様の里って言うのが本当なんじゃないかって思ってしまった。
「お前達は先に宿へ帰っていろ。私は少しレンを探してから戻る」
そう言って、明瀬さんはくるりと踵を返した。
山間の小さな集落に、夜の帳が下りる。
りぃんと鳴くのは秋の虫。
ここでは、東京なんかよりずっと早く夏が過ぎ去っていってしまうようだ。
狭い風呂で汗を流してしまった僕らは浴衣に着替え、セイトがうつ伏せになって肘をつき、僕は外に足を投げ出して景色を眺めていた。
この住居を『マンガ日本昔話』と称したセイトの言葉は大正解だ。
土間に接した縁側のような板の間で、僕らは扉を全開に開け放ち、暮れていく西の空を見送っていた。山の輪郭が夕陽の朱から闇夜の漆黒へと滑らかに変化していくのは案外と速く、気づけば辺りが黄昏色に染まっていた。
昼と夜が混在し、混ざり合う曖昧な時間。
「綺麗だなー。しかも涼しいし、遠くまで来たかいがあったってもんだぜ。ここに来るまでは何でこんな遠い場所にしたんだよって思ってたけどな!」
「本当だね。今回ばかりは、この場所を選んでくれた明瀬さんに感謝しないと」
煤けた板の間が、この家で何百年も生活してきた人々の歴史を感じさせる。ヒヤリとした手触りも、見た目と裏腹につるりと滑らかな表面も。沢山の人がこの板を踏み、そしてこんなにも滑らかになったのだろう。
なぜだろう、このノスタルジックな雰囲気に惹かれて、僕は思わず先ほどの神楽を口ずさんでいた。
「…… コキリコの竹は七寸五分じゃ 長いは袖のカナカイじゃ ……」
静かな唄は、夕方の静かな空気に紛れ、虫の聲と響き合いながら遠くへ吸い込まれていった。
セイトが唄に合わせて、とんとん、と床でリズムをとった。
紡ぎ出された一つの音楽が、夕闇と黄昏の狭間に、不思議な和音として響き渡る。
「…… 向いの山に 光るもんにゃ何じゃ 星か蛍か 黄金の虫か ……」
自分が唄っているのに、まるで自分の声じゃなくなったみたいだった。
山に囲まれた集落のあちらこちらで木霊して、何重にも折り重なった透明な音。
風が、聲が、燈が、昏が、すべてが混在した、うるさいくらいに静かな空間が完結して、意識が吸いこまれる。
僕に霊感なんてものは一切ないと思うんだけれども、それでも感じ取れるほどに不思議な空間がその場を包み込んでいた。
唄は神への供物。
ムコウとコチラ繋ぐ力の具現。
それでも唄う事をやめられず、どこか現実離れしたその空気に酔いしれた。
と、歌い終わった余韻を打ち払うように、唐突にぱんぱん、と大きな拍手の音がした。
はっとして振り返れば、そこに立っていたのは派手なアロハシャツの女性。
「すまない、レンがどこにも見当たらないのだ」
その瞬間に僕らを包んでいた不思議な空気は消え失せ、またもとの虫の音と夕闇が支配する現実に立ち返っていた。
りりりり、と虫の声が響き渡った。
なんだったんだろう、今の感覚は?
きっとセイトも同じように感じていたに違いない。二人で顔を見合せて、首を傾げた。
その様子を見た明瀬さんは、もしかすると何かを感じ取ったんだろうか、唇の端で笑いながらこう言った。
「拍手には、ヒトならざるモノを打ち払う効果がある。そして、儀式の終わりを意味する事も」
明瀬さんは、何の伏線もなく、何の躊躇いもなく、ただ、唐突に物語の扉を開いた。
「唄や、踊りもそうだが、それらは本来、神様へ捧げる供物だ。特に、こんな神域の真中に造られた場所では、ふとした拍子で繋がってしまうかもしれんぞ」
「……神様? シンイキ? 明瀬さん、いったい何言ってんだ?」
セイトは眉を寄せたが、明瀬さんは臆することなく自然に続けた。
「『黄昏』は『誰そ彼』――彼は、誰? と、尋ねるその言葉が語源だと言われている。道の向こうからやってくる人が誰なのか判別しづらくなる。太陽が沈み、自分と他人の境界が、この世とあの世の境界が、ヒトとヒトならざるモノの境界が、曖昧になる時間、それが『黄昏時』」
そう言われてふと見れば、隣に寝転んでいるセイトの顔が判別しにくくなっている。単純に、まだ目が暗闇に慣れていないせいだろうが、明瀬さんの言葉を聞いた後だと、それも現世離れした現象のように思えてくるから不思議だ。
「気を付けろよ。ここは、不思議な土地だ。山の奥の隠れ里――それだけじゃない、ここは神様の土地なんだ。その真ん中に住処をいただいて、この集落の人々は何百年もここで暮らしてきた」
明瀬さんは、虫が入るからと言ってぎしぎしと啼く戸を閉めながら、僕らに向かってそう言った。
暗い部屋を照らすのは、裸電球一つだけ。
「僕もそう思います。さっきの唄と踊りもそうだけれど、この里全体に古くからの慣習だとか文化だとかが息づいていて、きっと、神様と一緒に暮らしていたっていうのはウソじゃないと思いました」
満足げに笑った明瀬さんは、妖艶な仕草でつい、と僕の顎に指をあてた。
裸電球が、明瀬さんの頬に長い睫の影を落とす。
「しかし、ハル。お前は大丈夫か?」
「あ、明瀬さん……?」
「お前も神様に気に入られそうな顔をしているからな。向こうに、囚われるなよ?」
明瀬さんの仕草に、言葉に、意味もなくぞくりとした。
「――レンのように」
最後の言葉の意味は分からなかったけれど。
「くつろいでいるところすまないが、先ほど言ったようにレンが見つからん。お前達も探してくれないか?」
「いいけど、こんな小さい村なのに隠れるところなんて限られてんじゃねーの?」
「山中夫妻に、見た者がいればすぐに知らせてくれるよう言ってある。その前に戻ってくれば良いのだが」
明瀬さんは不安げに呟いた。
レンは帰ってこなかった。
夜が更けて、夜が明けても帰ってこなかった。