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第四章 割れた鏡、ライクスコール


 (12月21日 午後9時50分~午後11時23分 大阪市)


 路上に溜まった雨水と泥が飛び散り、服を汚すのも構わず、東雲晴雨と鋼岬彩美は繁華街の中を駆け抜ける。すでに日付が変わっているにも関わらず、街中は大勢の人間でごった返していた。

 このまま人混みの中に紛れ込めば逃げ切れるだろうか。

 ――いや、駄目だな。

 ――むしろ、こっちの視界の悪さを利用して襲ってくるかもしれない。

 本来であれば一般人を巻き込む事は避けないといけないはずだが、今の笹井肇にそんな事を気にするつもりがあるとは思えなかった。

 ――逃げてるだけじゃ、いずれジリ貧になる……!

 対決しないといけない。

 彩美を守り切るためには、猛追してくる笹井を撃破しなければならない。

 真人間、能力者問わず規格外がひしめく地獄のさなかを七年間も生き残り続けた猛者。

 対して、東雲はつい数日前に引きずり込まれただけの一般人。

 そのうえ、傍らには無理矢理大量の大麻を摂取させられたせいで、今にも倒れそうな少女を連れている。彼女が能力を行使する事はできない。それどころか満足に動き回る事さえできない。東雲は彩美を守りながら戦わねばならないのだ。

 普通に考えれば、勝てる道理はない。

 だから。

 ――勝てる状況を作り上げなきゃいけない……!

 ――極力、彩美を安全なところに遠ざけたうえで……笹井さんを奇襲できる場所に誘き出す……! そうでもしないと、あの人には勝てない……。

 だが、どこにそんな都合の良い場所がある? 一般人にも悟られず、準備ができる場所。

 そんなところがすぐに見つかれば苦労は――

「ある……!」

「え!?」

 東雲の考えている事が分かったのだろう。

 顔中に不自然な汗をかいた彩美が真っすぐとこちらを見つめていた。

「一般人もいなくて邪魔も入らない……足手まといの私も隠せる……はず……」

「どこだ!? 教えてくれ! 時間がない!」

 東雲が食いつくように反応すると、彩美は震える指で、とある一点を指し示した。

「あそこなら……!」


        ***


「ここに入っていったのかい?」

『ええ。間違いないです。というか訊くまでもないでしょう? 笹井君達の体に仕込まれた発信機からの信号は、今、私が受け取っているんですから』

 廃れたビルの前で、笹井は携帯電話片手に雀森と話し込んでいた。

「念のため訊いておくけど、信号は誤魔化せているよね? 上に筒抜けになっていたのなら、僕の計画は無意味なものになってしまう」

『誰に言ってるんですか。私がしくじるとでも? 無能な黒幕連中は、あと二時間は騙されたままですよ。笹井君達が真面目に仕事してると勘違いしてね』

「助かるよ」

『でも、いざ勝負が始まれば満足にサポートはできませんよ? 壊滅した支部に電気は通ってませんから、監視カメラのハッキングはできませんし……』

「おおまかな位置さえ分かれば構わない。彼女はほぼ無力化したし、寝返った部下も単なる新入りだ。もちろん油断なんかしないけど、だからこそ僕の勝ちは揺るがない」

『そうですか』電話の向こうの声は少しだけ憐れむように言った。『……本当に良いんですね? 仕事仲間……いえ、友人として忠告しておきますが、ここが最後のチャンスですよ。引き返すための――』

「心配してくれて嬉しいよ。……でも、もう決めてしまった事なんだ。僕に残った理性の全てが、そんな事を許しはしない」

『……分かりました。成功を祈ってますよ。また連絡します』

「ああ、待ってるよ」

 通話を終えると、すぐに雀森から送られてきたメールを開く。画面には東雲と彩美の位置情報が記されていた。しかし、その情報が一〇〇パーセント確実なものでない事も分かっている。発信機から分かる情報は、平面的な位置情報だけ。立体的な情報は得られない。つまり、今現在、東雲達が何階にいるのかまでは把握できないのだ。

「どちらが言い出したのかは分からないけど、良い選択をするね。……とはいえ、残念ながら、それは無駄に終わるよ。いずれにしても勝つのは僕だ」

 不敵に笑う笹井の相貌は、もはや人間のものではないかのように歪んでいた。


        ***


 死んだように動かない彩美を見下ろす。

 東雲達がいたのは仮眠室だったと思しき場所だ。先日の戦いのせいで、そこら中に凝固した血液がべったりと張り付いていたが、他の場所に比べれば、荒れ具合は若干マシだ。それに布団もある。彩美を休ませておくには最適な場所だ。

「笹井さんとケリをつけてくる」東雲は可能な限り平静を装いながら口にした。内心は溢れんばかりの緊張と恐怖でいっぱいになっている。

「……もし」ほとんど口を動かす事なく、彩美が言う。「負けそうになったら……逃げて構わないから……。これはきっと……私への罰だから。本来なら……あなたが戦う必要なんて……なかったはずだから……」

「もう遅いさ」東雲は自嘲気味に言った。「俺は……一度でも笹井さんの計画に加担してしまった身だ。逃げたとしても、あの人が見逃すとは思えない。だから……たぶん死ぬ時は一緒だ。そんで……助かる時も一緒だ」

 ――さて。

 ――そろそろ来るか。

 東雲は自身のスマートフォンの画面を覗き込む。ビデオ通話となっている画面には、人の姿ではなく薄暗い廃墟が映っていた。もっと具体的に言えば、東雲達がいる建物――『自然回帰』第一三支部の正面玄関の様子が。

 ここに入ってくる際、彩美のスマートフォンを入口のところに設置してきたのだ。笹井が必ず正面玄関から入ってくるとは言い切れないが、それでも何もないよりかはマシだろうと踏んでの事だ。

「……来た」

 どうやら役に立ったらしい。

 一階に設置した彩美の端末のカメラが、紺色ダッフルコートの青年の姿を補足した。

 笹井はゆっくりとした足取りで、廃墟の中を進んでいく。

 彼の姿はすぐに画面の外へ出て行ってしまった。

「行ってくる。必ず……戻ってくる」

「……ありがとう」

 仮眠室から出ていく東雲の背中を見送りながら、彩美は静かに声をかけた。

「……どういたしまして」

 応える東雲の手にはびっしりと汗が浮かび、アルコール中毒者のように震えていた。


        ***


 ――二人の反応が分かれた……動いてる方が東雲君か。僕が来たタイミングで行動したって事は……何かしらの方法で、こっちの位置を掴んでいるな。

 雀森から送られてくる情報は、横軸の座標は分かっても、縦軸の座標までは分からない。

 東雲達が何階にいるかという情報までは掴めない。

 この時点で互いが持っている情報には天と地ほどの差があった。

 向こうは、笹井が現在一階の正面玄関にいるという情報を掴んでいる。

 対して、こちらは大雑把な位置しか把握していない。

「まあでも」しかし笹井の余裕は崩れなかった。「そういうのを覆すのが……僕達、真人間の戦い方さ。そうだろう? 東雲君」


        ***


 息を潜める。

 歯ぎしりや衣擦れの音さえシャットアウトするかのように、微動だにせず全神経を耳に注ぐ。長さ一メートルほどの鉄パイプを握りしめ、階段へ繋がるドアの付近で笹井を待つ。

 電気は通っていないので、エレベーターは使えない。したがって上階に行くには階段を使うしかない。必然、この静寂の中で足音を隠す事は不可能だ。

 そこを突く。

 笹井がこの階に到達した瞬間、ドアを開けて鉄パイプを振り下ろす。

 短期決戦かつ奇襲以外に勝ち目はない。

 正面からの殺し合いになれば東雲の勝算は一パーセントすらもなくなってしまう。

 ――来やがれ……!

 東雲が待機していた時間は、実際には一分にも満たなかっただろう。しかし、今の彼にはたかだか一秒でさえ無限のように長く感じられた。一二月下旬の気温の中にいるとは思えないほど、服の下は汗でぐっしょりと濡れていた。

 やがて階下から甲高い音が響く。そして、それは徐々にこちらへと近づいてくる。

 笹井が来たのだ。鉄パイプを握る手に力が入る。

 カツン、カツン、カツン、カツン、カツン! と。

 一定のリズムを刻んでいた音が最大音量になった時、唐突に止んだ。

「――――ッ!」東雲が一気に動いた。

 鉄パイプを右手に携えた状態で、左手でドアのノブを回す。すぐそこにいるであろう笹井めがけて凶器を振り下ろそうとした時、ある事に気がついた。

 ――いない!?

 そう。

 覚悟を決めて飛び出した東雲の視界に、攻撃を加えるべき相手の姿は映っていなかった。

 直後、東雲は自身の浅はかな行動を後悔する。

 階段の踊り場の陰から、長身のシルエットが飛び出した。拳銃を構えた笹井だ。

 ――まさか……! 俺の意図を分かったうえで……!?

 笹井は東雲の奇襲に気づいていた。だから、東雲が勘違いするように動いた。おそらくは、この階付近まで来たあとに、そのまま進む事はせず、その場で音が徐々に大きくなるように足踏みをして。フロアに続くドアの前まで来て立ち止まったと東雲に思い込ませるように――。

 しかし、気づけたところでもう遅い。東雲はまんまと笹井の思惑に嵌められたのだ。

「ぐっ――……!」とっさに体を捻ったが、直後に狭い屋内で鼓膜を突き破るほどの発砲音が炸裂した。左の脛にはんだごてを押し付けられたような感覚が襲う。笹井の放った九ミリパラベラム弾が薄い肉を食い破ったのだ。「ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 無様に転び、絶叫と共にのたうち回る。

 だが、そうしている間にも殺意に支配された真人間が近づいてくる。

「くそッ! 来るんじゃねえ!」口から泡を飛ばしながら、東雲は拳銃のトリガーをがむしゃらに引く。もはや子供の駄々のような行為でしかなかったが、その手に持っている凶器は本物だった。弾幕を張った事で侵攻の勢いが弱まる。笹井がドアの陰に退避したおかげで、瞬殺される事だけは避けられた。

「はあ……はあッ……!」

「情けないね。そして腹立たしい」暗闇の向こうから軽蔑するような声が届いた。「僕の邪魔をしたのが君のような有象無象だった事が。そして彼女がそんな奴に頼らざるをえなかった事が」

「うるせえ……! 一人で勝手な事言いやがって……!」

「勝手? それを君が言うのかい?」笹井は鼻で笑った。「一度は僕らに賛同したくせに、勝手に裏切ったのは君の方だろう? 僕は単に最初の計画を果たすために動いているだけだ。彩美を殺し、消耗品部隊の皆を救うために」

 足音が再開した。

「くッ……」痛む足を引きずりながら逃げる。

 ――次の……次の一手を……!

 必死に思考を巡らせようとするが、上手く頭が回らない。流れ出る血液が冷静さを容赦なく削り取っていく。

 今のナメクジのような動きではすぐに追いつかれる。弾倉が空になれば笹井を遠ざける方法は完全になくなってしまう。何かないかと周囲を見回すと前方に赤いシルエットが見えた。消火器だ。

 東雲は藁にも縋るような思いで、赤い円筒形の物体に駆け寄る。無用の長物と化した鉄パイプを放り捨て、消火器を手に取る。次いで、笹井がいる方へと投げつける。

「……!」笹井が僅かに硬直する。

 その隙を見逃さない。拳銃で鉄の容器を撃ち抜く。一際甲高い音が鳴り、穿たれた穴から勢い良く粉塵が噴出する。一瞬にしてフロアの一帯が白い煙幕に包まれた。

 今の内に体勢を立て直さなければいけない。

 おそらく、次の奇跡は起こらない。


        ***


 朝丘大司が粗い息を吐きながら言う。「どうなってんだよ、ちくしょう……ここ本当に日本かよ……!?」

 砂木真人も息を整えながら、「どうにかして……車を回収しないと……」と言う。「身一つじゃあ絶対に逃げられませんよ……!」

「またあそこに戻れってか? それこそ自殺行為だ」

 砂木、梢、朝丘の三人は大型書店のビルの非常階段付近に身を隠していた。先ほど襲撃された場所からはそこまで離れていなかったが、むやみやたらに逃げ回るよりは賢明だと判断したためだ。

「さすがに店ん中に入る訳にはいかねえよな……」朝丘がビルの外壁を見ながら呟く。「あいつら、他の人がいても躊躇なく撃ってきやがったし……」

 こうしている間にも自動小銃を構えた連中が忙しなく動き回っている。道の端で怯える一般人を撃つような真似はしなかったが、あの場に砂木達がいれば、その限りではないだろう。彼らは一般人ごと銃撃してくるはずだ。

「せんぱい……ごめんなさい。朝丘さんも……巻き込んでしまって……」

 隅でうずくまっていた土倉梢が不意に口を開いた。今にも泣き出しそうな声で、砂木と朝丘に謝罪する。

「あの時……私がせんぱいに助けを求めていなければ……」

「言うな」砂木は遮るように告げた。「自分を責めるな。土倉、お前は悪くない」

「そうだぜ。悪いのはあの連中だ。全部、あのクソ野郎共に擦り付けちまえば良いんだよ」

 そうだ。狙われている梢に責任は一切ない。彼女が、これだけの人間から敵意を向けられなければならない事をしたとは思えないからだ。梢がそんな人間でない事は分かっている。砂木は言わずもがな、ネット上とはいえ彼女と長い付き合いのある朝丘には。

「必ず、ここから生きて帰ろう」

「せんぱい……」

 気配を殺し、逃げ出す機会を窺い続ける三人。その視線と意識は自動小銃持ちの兵隊達へと一心に向けられていた。

 だから――気がつかなかった。いや、気づけなかった。

 書店から出てきた人影が背後から近づいてきていた事に。

「朝丘じゃないか。奇遇だね、こんなところで会うなんて」

 だが運が良い事に、それは敵意を持った人間ではなかった。思わず振り返った三人の前にいたのは、銀髪パンクファッションの青年と、彼と同じく髪色をしたセーラー服の少女。

 ――朝丘さんの知り合い……?

 ――ていうか、女の子の方はウチの制服……!

「麓洞さん……!?」朝丘が目を丸くしている。「そっちこそ何でここに……」

「ちょっと用事があって来てたんだ。で、それが終わったから、こうして買い物してただけだよ」麓洞と呼ばれた青年は柔和に笑って説明すると、傍らの少女の方を見て、「桔奈、こいつは大学の後輩」と言った。「朝丘っていうんだ。ほら、挨拶して」

 しかし桔奈という少女の方は、麓洞という青年の声が聞こえていないようだった。

「土倉さん……?」と梢の方を呆然と見ていた。

「おや、こっちも知り合いだったか。偶然は重なるものだね」

 桔奈は梢の方に駆け寄ると、肩に手を置いて、「しばらく学校来てなかったから心配してたんだよ? 連絡も通じなかったし……」と心配するように声をかけた。

「それは……」梢は気まずそうに視線を逸らす。口がごにょごにょと小さく動いたが、具体的な言葉を紡ぐには至らなかった。

「ふむ……何か事情アリって感じだね」銀髪の青年が何かを察したように頷いた。「さっきから忙しそうに動き回っている連中と関係あったりするのかい?」

「……ッ!?」

 砂木、朝丘の表情がこわばった。いきなり確信を突いてきたのだ。無理もない。

「逃げてるのか? あの連中から」

「…………」

 砂木、朝丘、梢の三人の誰からともなく首を縦に振った。

 それを見た青年は桔奈の方を見やり、「どうする? 桔奈」と尋ねた。

「……土倉さん、一つだけ訊いても良い?」

「……何、桔奈ちゃん……」

 梢が力なく言うと、桔奈は彼女を真っすぐと見据え――

「追われてるのは、土倉さんなの……?」

「……」梢は返事を返さなかったが、その首が少しだけ縦に動いた。

 それだけで満足したと言わんばかりに、桔奈は表情を和らげた。

 麓洞という青年を見返して、「土倉さんを助けたい。梗弥、お願い」とはっきりと告げた。

「桔奈の頼みなら、断る訳がないね」

 完全に部外者と化した砂木を置いて、話は進んでいく。

 麓洞梗弥は全体を見回して――

「すぐそこに僕らのバイクが停まってる。『運び屋』として、君達を安全なところまで送り届けよう」


        ***


 麓洞梗弥の駆る大型バイクが走る。

 バイクの後ろには砂木が座り、サイドカーには梢が収まっている。

 朝丘と桔奈の二人はここにいない。車両に乗れる人数には限りがあったため、朝丘は桔奈という少女に連れられて徒歩で逃げる事となったのだ。

「あの子と分かれて良かったんですか……?」

 砂木は運転手へと尋ねる。

 すると梗弥は自信を湛えた声で答えた。

「問題ないよ。そんな簡単にヘマをするような彼女じゃないし、何より、バイクに乗っているよりも安全だからね、今は」

 確かにその通りだと砂木は納得する。

 自分達を車で猛追する武装集団を見やりながら、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

「偉そうな事言ったけど……たぶん、三人で逃げ切るのは無理かもね。人数が多過ぎる」梗弥が舌打ち混じりに言う。「途中で降ろす事になると思う。知り合いに協力を要請しておいたから、彼らと落ち合って逃げてほしい。二人共、情報戦は得意な方だ。一度でも追っ手を撒けば、確実に逃げ切れるだろう」

「……分かりました。ありがとうございます」

「ははっ、気にしなくて良いよ。これは君達のためにやっているんじゃない。桔奈のため……敷いては僕のためなんだ。桔奈に悲しんでほしくない。桔奈の悲しむ顔を見たくない。だから君達に死んでもらう訳にはいかないのさ」

「ずいぶんと、あの子を大切にしているみたいですね」

「僕の人生の全てだからね。桔奈は」梗弥は迷いなく言い放つと、「さて、そろそろ動くよ」とバイクに備え付けられていたポーチから何かを取り出した。「周りに一般人の車両はない。良いタイミングだ」

「それは……?」

 金属の塊を持って、片手でバイクを運転する梗弥に対し、砂木は訝し気に尋ねる。

「僕らは直接人を殺傷できる武器は持っていない。でも、あまり度が過ぎる連中に容赦はしない主義なんだ」

音響閃光弾(スタングレネード)……ですか?」

 金属の正体を看過した梢に対し、梗弥は、「知っているなら話は早い」と安全ピンを引き抜いた。「――最低でも目は塞いでおくんだ。振り落とされないようにね」

 一瞬の間。

 梗弥の警告通り、目だけは固く瞑っていたが、さすがに両手を彼の腰から離して耳を塞ぐ訳にはいかなかった。鼓膜が破れんばかりの轟音が突き刺さる。

「ぐッ、う……!」

 脳みそをぐちゃぐちゃに掻き回されている感覚がした。呻きながらも、何とか耐える。

 やがて聴力が回復した時、周囲に追ってくる車両は一台もなかった。代わりに後方で爆発音がいくつも轟いた。

「……」砂木は息を飲む。「死ん……だ……?」

「何人かは死んだだろうね」梗弥は微塵も気にした様子はない。「君が怖がってるのは分かる。でも、君が今足を踏み入れているのはこういう世界なんだ。生きて抜け出したければ良く肝に銘じておくんだ。……さ、合流地点付近まで急ごう」


        ***


 梢を追跡するバイク群から距離を取っていたおかげで、音響閃光弾による被害は免れた。

 しかし脅威はそれだけではなかった。コントロールを失った鉄クズと聴覚・視覚を潰された肉塊がまとめて殺到する。

「うおあああああああああッ!?」

 盗難車を運転する文谷良助は情けなく叫びながらも、必死でハンドルを切る。ハリウッド映画の中にしか存在しないようなカーチェイスの一幕を強制的に体験させられた良助は、今にも泣き出しそうになっていた。

「くそ……! 麓洞、何て事を……!」

「良いから! もっとスピードを上げて!」助手席で戸賀望実が促した。「邪魔者は消えたわ! このまま追いつくわよ!」


        ***


「良いか、この道をしばらく真っすぐ行くと、突き当たりに小さい廃ビルがある。そこに協力者が二人いるはずだ。モッズコートを着た茶髪の女性と、ジップパーカーを着た細身の男だ。名前は坂島綾華と西條勉。彼らと合流したら、指示に従って逃げるんだ」

 繁華街から少し離れたところで降ろされた砂木と梢は、梗弥から逃げ道を指示されていた。周囲の民家の電気はまばらについていたが、追跡者達がそんな事を気にする気がないのは嫌というほど思い知らされている。

「何から何まで……ありがとうございます……」

 砂木は先ほどから俯いて黙ったままの梢に代わって礼を言う。

「礼には及ばないよ」と梗弥は小さく笑った。「さっきも言っただろう。これは徹頭徹尾、僕のためにやってる事だ。だから君達が気にする事じゃない。……君達が生きて逃げ遂せてくれれば、それで良い」

 それだけ言うと、梗弥は返事を待たずにバイクのエンジンをかけた。

「さて、僕に霧崎みたいな力はないけど……できる限りの事はしてみようか」

「麓洞さん……? 何を……」

 梗弥は荷物入れの中から取り出したゴーグルをかけながら、「露払いさ」と言う。「まだ追ってきてる奴らはいるはずだ。僕が可能な限り連中を引きつける。……大丈夫、死ぬ気はないさ。西條達から君らを逃がしたって連絡が来れば、すぐに僕も逃げるよ」

「分かりました……! ご無事で……!」

「ああ。君も必ずその子を逃がしてやってくれ」

 アクセルを踏み込み、来た道を引き返していく梗弥。砂木は彼を見送りながら、傍らの梢の手を引いた。「土倉、行こう――……?」

 だが、動かない。鉛のようにずっしりとした感触が伝わってくるだけ。小柄な土倉と言えど、彼女が動こうとすらしていなければ引っ張っていく事もできない。

 砂木は訝しみつつ、「……土倉?」と梢の顔を覗き込む。そして次の瞬間、絶句した。

「……ッ! お前……!」

 梢の顔は知らぬ間に汗だくになっていた。その発汗量に見合わないほどに顔面を蒼白にし、呼吸一つするのも辛そうに肩を震わせている。小さな唇からは一筋の血が滴っていた。

「せん……ぱい、ごめんなさい……」梢は絞り出すような声で謝罪の言葉を述べた。そこから一気に気が抜けたかのようにくず折れる。砂木に掴まれているのとは逆の手で、自らの脇腹を押さえながら、「……我慢しようとしてたんですけど……駄目……だったみたいです……」と言って咳き込んだ。アスファルトの地面に吐き出された血液が撒き散らされる。

「いつだ……?」

「間抜けなもの、ですよ……」梢は血に塗れた口を笑みの形に変えた。「遠藤さん達がアパートを……襲撃してきた時……私、逃げるために部屋の窓を撃ちましたよね……? あの時に……飛び散った破片が……かなり深く……」

 ハンマーで頭を殴られたかのような衝撃が走り抜けた。「ちくしょう……!」と濁った感情を排出するように毒づく。「神様って奴は……とんだクソ野郎だ……」

「それは……きっと……」

 梢が何か言おうとしたが、砂木は「良い」と制した。彼女の前で背を向けて腰をかがめると、「乗れ」と促す。「麓洞さんの言ってた協力者との合流地点まではもう少しだ。俺が土倉を連れていく」

「……私、結構食べる方なので……それなりに重いと思い、ますよ……?」

「別に気にしやしない。男子の力舐めんなよ」

「そう……ですか……」梢は力なく笑った。「それじゃあ……お願い、します……」

 しなだれかかるようにして、梢の体が砂木の背に預けられる。布越しに伝わってくる彼女の体温と共に、明らかにそれ以外の不気味な感触もあった。ぬるりとした不自然に生暖かいもの。それが彼女の皮膚から流れ出た血液である事は確認するまでもない。

 梢を背負った砂木は、疲労に支配された四肢を無理矢理動かして歩き始める。先刻までの喧騒はどこにもなく、静かで冷たい風と雨が頬を乱暴に叩く。

「……ねえ、せんぱい。少し……良いですか……?」

「駄目だ。何か言いたい事があるなら、あとでいくらでも聞いてやる。だから……今はおとなしく……」

「なら」

 砂木の言に被せるように、か細い声が響いた。

「今から言うのは……ただの独り言です。誰にも届く事のない……ただの一人芝居です」

「…………」

「……その女の子は、ある組織を取りまとめる代表……その夫婦の間に生まれた子供でした。役目は当然、その跡を継ぐ事です。だから……物心ついた時には、色んな事を教え込まれていました。およそ……世の中の『普通の女の子』が知り得るはずがないような事を……たくさん、たくさん……」

 今にも消え入りそうな声。しかし、なぜかそれはしっかりと鼓膜に染み渡っていく。

「女の子は一二歳になるまで、一度も『外』に出た事がありませんでした。両親と得体の知れない大人だらけの世界が、女の子の全てだったんです。でも、一二歳を迎えてから初めての四月に、彼女は『外』の世界を知る事になりました。そこで生きるための、もう一つの名前を与えられて……周りの同年代の子達と同じ服を着て……平日は毎日そこに通うようになりました」

「…………」

「新しい生活に不自由する事はありませんでした。未知の環境で上手くやっていくための術は、すでに教えられていましたから。女の子の周りはいつも親しい友人達がいて、家に帰れば必ず両親がいる。普通の子達と比べれば、多少歪な関係である事は自覚していました。でも……紛れもなく、そのころの人生は満ち足りたものでした」

 雨足が強まる。それはさながら彼女の語る物語の先を予見したかのようだった。

「女の子の人生が壊れたのは、彼女が一四歳になったばかりの時です。平日、いつも通りに家を出て、けど忘れ物をしてしまった事に気づいて、すぐに引き返したんです。自分の部屋に行こうとして階段に足をかけた時、両親の声が聞こえてきました。彼らは、こんな事を言っていました」

 ――□□□は思った通りに成長してくれている。

 ――これなら、跡継ぎの問題は気にしなくて良さそうだ。

 ――高い金を払った甲斐があったというものだ。

 ――自分達の間に子供ができなかった時は、どうしたものかと思ったが。

 ――『試験管代理人』に投資したおかげで質の良いクローンが手に入った。

 ――□□□は本物の人間ではないが、目的を果たすだけなら十分だ。

 ――とはいえ、他の構成員に知られたら不味い事に変わりはない。

 ――何せ、表向きは『自然保護団体』でやってきたのだからな。

 ――もはや『自然回帰』は自分達にとって巨万の富を生み出す装置に過ぎない。

 ――□□□に跡を継がせたら、必要な金を持って遠いところに逃げてしまおう。

 ――そのあとであれば組織が潰れようが知った事ではない。

 ――全ての怒りの矛先は、自然保護団体の長でありながら、単なる『人工物』の塊でしかなかった□□□に向くはずだからな。

 ――将来が楽しみだ。


        ***


「何だよ、それ……」

 梢の語った物語の内、半分ほどは理解できなかった。しかし、理解できたところを繋ぎ合わせただけでも十分に分かる。彼女がどれだけ神様って奴に愛されていなかったのかを。

 梢の言葉はいったん途切れている。一息に語ったせいで、気力が空になってしまったのだろう。砂木の耳許で苦しそうな呼吸を繰り返している。

 砂木の方も、それ以上言葉を紡ぐ事はできなかった。今、何を言っても彼女を傷つけるだけだと理解してしまっているから――。

 ――それだけの事があって……何で、お前は笑ってられたんだ……?

 ――周りの環境全てから裏切られて……それでも楽しそうに……!

 梢が自らの真実を知ってからの二年間、彼女がどんな思いで今日まで過ごしてきたのか。

 彼女が何も知らないと思い込んで過ごしている両親と、一体どんな気持ちで接してきたのか。

 それは、きっと砂木には分からない。突如として突きつけられた『指が不自由になる』という過酷な運命に対し、子供のように泣き喚いて周知させる事ができた自分には――。

「……でも」とそこで再び梢が口を開いた。正確には『土倉梢』という、もう一つの名前を持つ少女が。「その女の子は、いつしか、その事に感謝するようになりました。あの時、残酷な真実を突きつけられて心を壊されたからこそ……出会えたんです」

「出会えた……? 誰に……」

「正確には『人』ではありませんでした……出会った時点では……」

 彼女の紡ぐ言葉は流暢とは程遠い。しかし、その口調は『歌っている』ようだと砂木は思えた。自らの吐き出す言葉に、目では見えない力を乗せて、彼女は綴る。

「何で入ったのかは……もう思い出せません。でも……生きる意味をなくした女の子は、夏の日に足を踏み入れた美術展で人生を変える『作品』に出会ったんです。それはプロの人が描いたものでも何でもなくて……女の子より一つ年上の男の子の作品でした」

「……なあ、もしかして……」思わず砂木は、彼女の先の言葉を待たずに問いかけていた。彼女の語る物語の主人公が出会ったものが何だったのかを理解したのだ。「……その作品って絵画だったか? もっと正しく言うのなら……風景画……」

「……正解です」耳許でいたずらっぽい笑い声が聞こえた。「キャンバスの上に広がっていたのは『偽物』でした。……本物よりも何倍も何十倍も何百倍も本物らしい『偽物』の風景でした。吸い込まれそうになるほどの空と……全てを包み込んでくれそうな緑……乾いた絵具が張り付いていただけのそれの前で……女の子は何時間も立ち尽くしました」

「…………」

「その時気づいたんです。『それで良いんだ』って。たとえ自分が本物でなかったとしても……胸を張って生きて良いんだって……。その……たった一枚の絵が気が付かせてくれたんです……! そして思ったんです。これを描いた人に会いたいって……! 会って直接お礼を言いたいって……!」

 しかし、その望みは叶わなかった。その絵を描いた男の子は――砂木真人は、あのあとすぐに交通事故に遭い、利き腕の指の自由を失ったのだ。抱いていた夢の全てを諦め、つまらないだけの人生を歩もうとする砂木を見て、彼女は何を思っただろうか。

「……俺は裏切り続けていたのか、土倉を」ぽつりと砂木は低い声を洩らした。「不幸なのは自分だけだって思い込んで……自分が救った誰かの存在すら知らないで……わがままばかり言って……」

「それは違いますよ。女の子は――私は、救いたかったんです。かつて自分を救ってくれた人が苦しんでる……だから、もう一度前を向けるように……」

 でも、とそこで梢は自身を蔑むように小さく笑った。

「分からなかったんです。どうやったら絶望の底で泣いている人を引っ張り上げられるのか……たった一人の助け方すら……普通でなかった私には分からなかった……」

「……はは。お前は難しく考えすぎなんだよ、土倉」

「え……?」

「簡単な事だったんだよ。『自分を助けるために、もう一度筆を握ってほしい』。たった一言、そう言えば良かったんだ……!」

 溢れ出る涙は雨に混ざって消えていく。だが、それが止まる事はない。

 お互いに分かっている。

 梢は、その時点で自分の身の上を話す訳にはいかなかったし、たとえ正直に話していたとしても砂木は信じなかっただろう。鼻で笑い飛ばしていただけのはずだ。

 要するに、こんな出来事がなければ、互いに通じ合う事は永遠になかったのだ。

 嗚咽交じりの笑い声が虚空に重なっていく。

 ようやく始まる事ができた二人の物語は、しかし続く事はない。

 砂木の四肢から段々と力が抜けていく。梢ほどではないにしても、ガラスの破片によって傷つけられた足の裏は限界だった。すでに自分の体重を支えるだけの気力さえ失われつつある。

「……あと少し……あと少しで助かる……!」

「せんぱい、もう大丈夫です。もう……私は十分です。最期に伝えたい事は伝えられましたから……」

 力なく告げた梢に対し、砂木は残り少ない精神力を振り絞って抗議する。

「うるせえ! 諦めんな! ここからだ……ここからなんだよ! 俺は土倉を必ず助ける……! そんで……日常に戻れたら、いくらでも描いてやる! 土倉が望む絵を……! たとえ右手がポンコツだろうが……お前に言われた通り、左手で……!」

 もはや、ほとんど感覚のない脚を根性だけで動かす。ナメクジのような速度で、一歩一歩地面を踏みしめる。靴の中で血が噴き出す感覚がした。

「それを聞けただけで、もう……十分以上に私は幸せです。だから……これで終わりにしましょう」

「黙れよ……! 俺は……――!?」

 激高しかけた砂木の言葉が途中で詰まる。何か意識を乱されるものを見たから――などではない。単純に、どこまでも単純に――物理的に声を中断されたのだ。

 砂木の首。そこに血だらけの指が絡みついていた。砂木以上に満身創痍で、今にも意識を失ってしまいそうなほどの少女の非力な指が、声一つ出せないほどに強く巻き付いていた。

「かッ……!? あ、え……!?」

 陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクとさせる砂木に、梢は甘い声色で囁く。

「……言いましたよね? 『色んな事を教え込まれた』って……?」

「こッ、はっ……!?」

「私は……絶望の底で泣く誰かを救う方法は教わりませんでしたが、目の前の危機から誰かを逃れさせる事くらいならできます」

 待て。そう言いたくても、圧迫された喉から出てくるのは掠れた息だけ。

「心配しなくても大丈夫です。目が覚めたころには……全部、終わってるはずですから」

 脳に行き渡る血液が徐々に少なくなっていくのを感じる。負傷した足だけでなく、体全体から動力が失われていく。五感がシャットアウトされていく。「…………――っっ!!!」

 意識を手放す直前、暗闇の中で穏やかな声が届いた。

「――大好きでした、せんぱい」


        ***


「……本当に良いのか。このまま見送ってしまって……」

 良助と望実は、やはり一部始終を見届けていた。

 全ての告白を終えた土倉梢は、意識を失った少年の背から降りると、無言で来た道を引き返し始めた。追っ手はすぐに追いついてきた。麓洞梗弥が大部分を引き付けていたおかげで、土倉梢の前に現れたのは少数ではあったが、手負いの少女を捕らえるには十分過ぎる人数だった。

『自然回帰』の兵に連行されていく土倉梢を、望実は無言で物陰から撮影し続けていた。

「……君の友達なんじゃないのか? 君にとってはスクープの方が大切なのか……!?」

「……どっちなんだろうね」やがて、ぽつりと望実が溢した。「正直……今、自分の事が良く分からない。しょせんは一般人だからさ、私も。突拍子もない事を全部簡単に受け入れるなんて……できない」

「…………」

「ねえ文谷さん。私はどうするべきだと思う?」そこで初めて望実がこちらを振り向いた。

 顔だけはいつもの小悪魔的な笑みを浮かべていたが、その目だけは笑っていなかった。

「私は――どっちを選ぶべきだと思う?」

「自分の中で答えは出ているんじゃないか?」良助は明確に答えを返さなかった。代わりに望実を見据え、「『しょせんは一般人』なんだろう?」と彼女の言葉を使って告げた。「普通の人なら、こんな時、普通どうするのか……君なら分かるだろう? だって――同じような状況で、すでに君は自分なりの答えを出して行動できていたんだから」

「…………」望実はしばし言葉を失ったままだったが、やがて、「そうだったね」と意思を持った声で言い放った。「言われるまでも、なかったわね」

 望実は気合を入れ直すように自分の頬を叩くと、鞄の中からノートPCを取り出した。

「何をするんだ?」

「今の私達じゃ土倉を助けられない」

 望実は抗えない現実は認めたうえで――

「だから、助けられる連中に任せちゃおうって事」


        ***


 両手に莫大な閃光を携えて、それを無造作に振り回す。                                           

 それだけで周囲のコンクリートやアスファルトが飴細工のように溶けて蒸発していく。

 ――やはり会話の余地はなし……か……。仕方がない。無力化する!

 銀髪の女――絹花の猛攻を紙一重で躱し続けながら、久郷は反撃する隙を探す。

 ――そこか!

 絹花の大振りの一撃。振り抜いた腕が虚空を薙いだ瞬間、久郷は彼女の懐へと潜り込んだ。「……ッ!」と絹花が面食らうが、久郷はためらわなかった。右拳を握り込み、光のカーテンによるガードの薄い腹部を渾身の力で殴りつける。

「ごほあッ!?」喉の奥から血の塊を吐き出され、耐え難い苦痛に負けて、たたらを踏む。

 しかし、そこで攻撃の手を緩める久郷ではない。

 左手に持ったコルト・ガバメントの銃口を〇コンマ一秒で照準しドロウ。目にも留まらぬ速さで吐き出された鉛の牙が女性の柔肌を食い破る。ジーンズの左太もものあたりから赤色の飛沫が上がった。

「舐めやがって……! このクソ野郎があああッッ!」

 全身から閃光の鞭を表出させ、人間の限界を超えたスピードで踏み込んでくる。

 一発一発が即死級の威力を持ち、生身の力さえも普通の人間を軽く凌駕するだろう。

 つまり能力の対処に集中すれば生身に殺され、生身の対処に集中すれば能力に殺される。

 八方塞がり。

 それが絹花から久郷へ突き付けられた結末だった。

「…………」久郷は向かってくる脅威を見据えたまま動かない。サングラス越しの鋭い眼光で、一瞬たりとも見逃すまいと、その姿を捉え続ける。

 死までの時間は僅か一秒にも満たなかった。

 だが、久郷にとっては十分すぎるほどの猶予だった。

 極限まで圧縮された時間の中で、ガバメント拳銃を持った左手が動く。

 銃口が、ある一点に向く。

 しかし、その行き先は突撃してくる絹花を捉えてはいなかった。

 久郷から見て左下。

 全く見当違いの方向に発射口は照準を合わせていた。

「血迷ったか!? おっさん! ずいぶんと情けない最期だね!」

「違う。これが経験の差だ」

 撃発。乾いた銃声が轟き、鉛玉があらぬ方向へと射出される。

 だが、ここは開けた広場ではなく、幅の狭い路地裏だ。

 ゆえに放たれた銃弾が推進力を失うまで飛び続ける事は絶対にない。

 そう――跳弾だ。

 久郷の放った弾は、その延長線上にあった平らなコンクリートの壁面に当たり、角度を変える。一瞬前まで見当違いの獲物を狙っていたはずの大口径弾は、明確に能力者の女の方へと突き進んでいた。

「……うそ」

 肉が弾けた。

 絹花の右肩から、ちぎれた肉と服の繊維が飛び散る。

 激痛により、能力を維持する集中が途切れたのだろう。彼女の体を覆っていた光のベールが霧散する。自身を守る鎧をなくした女へと、久郷はさらに肉薄。捻りと遠心力を乗せたハイキックを側頭部へと叩き込んだ。

 細身な体躯が空中で一八〇度回転し、そのまま顔面から地面に叩き伏せられる。

 切れた頭の皮膚からドロリと血が流れ出てくるのを見計らい、久郷は肺に溜め込んでいた古い空気を吐き出した。「悪く思わないでほしい。『君達』を無力化しようとすれば、本気にならざるをえなかったのでな」

「くそッ……あた、まが……! あんたは一体……!?」

「ただの殺し屋だ。動かない方が良い。無駄な血を流し過ぎれば、取り返しのつかない事になるぞ」

「嘘つけ……! あんたみたいな……規格外が……真人間にいる訳……!」

 もはや虫の息であったが、彼女の瞳から闘争心が消える様子はない。

 ――今のうちに止血だけでもした方が良いな。

 そう考え、絹花へと手を伸ばした時だった。

「――……絹花、か……?」

 路地裏の奥から掠れた声が聞こえてきたのは。

 久郷と同等以上に鍛え上げられた肉体と、熊のように大柄な体躯。

 軍人然とした精悍な顔立ちは、西條に殺害を依頼された人物の特徴と完璧に一致した。

 四十沢だった。


        ***


『気をつけた方が良いです。あいつ、霧崎鷹ですよ……』

「知ってる」耳許から警告を促してくる雀森の声に、遠藤は短く答えた。「まだ俺が『あっちの業界』にいたころ、良く出てきた名前だからな」

 遠藤の眼前。

 大型CDショップのあるビル窓から発せられる光を背景に佇む男。

 黒いステンカラーコートの袖から、大振りの鉤爪を覗かせている殺し屋。

 ――あの世界でやっていくだけの実力も得られず、逃げ出した俺や井筒屋とは違う。

 ――たった一人で……たった一人の力だけで、この世界を渡り歩いてきた実力者……。

「腹……決めねえとな……」日本刀を構える。緊張を紛らわせるために口許に浮かべた笑みは僅かに引きつっていた。「さあ、来やがれ……!」

『井筒屋の「準備」はまだ少しかかりそうなので、何とか耐えてください』

「……分かった」全神経を集中させて相手の出方を窺う。

 霧崎鷹。

 その佇まいに一切の隙は見当たらず、彼の眼光にも油断の色は欠片ほども見られない。

 そこにあるのは絶対の自信。これまでの経験に裏打ちされた絶対的な確信がある。

「そっちが『待ち』を選ぶんやったら」霧崎が薄い笑みを見せながら口を開いた。「遠慮なく……こっちから攻めさせてもらうで!」

 濡れたアスファルトを蹴り上げ、こちらに突撃してくる。

 力強く、かつ流れるような動き。

 視界の中ではゆっくりと動いているように見えた。

 しかし、実際の速度は完全に異なる。

 その正体は――

「ッ!? お、おああああああッ!?」情けない声を上げながら後退し、防御態勢を取る。

 その直後に半円型の軌跡を描きながら飛んできた斬撃が、刀の側面を叩きつけた。

 それと同時に軸足を蹴り抜かれ、防御が崩れると同時に膝をつく。

 見上げた先には、もう片方の鉤爪が振りかぶられている光景。首筋が凍りつく。

「おら! 死ねや!」間髪入れず遠藤の首許へ凶刃が迫る。

 このまま抗わなければどうなるか。

 刹那の間に回答を導き出した遠藤は、とっさに日本刀の柄を迫りくる霧崎の手首めがけて打ち込んだ。鉤爪ごと腕が弾かれたのを見計らい、遠藤は慌ててその場から離脱。体勢を立て直し、最小限の動きでもって霧崎の懐へ潜り込んだ。

「うおおおおッ!」恐怖心を振り払う怒号と共に、日本刀を右斜め上に振り抜く。

 しかし霧崎は左の鉤爪で攻撃をいなし、斬撃の隙間を縫うようにして遠藤の腹部へと蹴りを突き込んだ。硬い靴底が内臓を圧迫し、胃の奥から強烈な吐き気が込み上げる。

「汚いもん見せんなや、おっさん」

 霧崎の攻撃は止まらない。

 後方に倒れ込みそうになっている遠藤に詰め寄り、遠心力を活かした左回し蹴りを放つ。側頭部を起点に脳みそが揺さぶられ、一瞬意識を手放しそうになる。汚い地面に俯せに叩き伏せられ、吐瀉物と血液の混ざった液体をぶちまけた。霧崎から背を向けていたため、彼に侮蔑混じりに命令された通り、遠藤の吐く姿は彼からは見えない。

「ぐッ……くそったれが……!」袖口で口を拭いつつ、何とか立ち上がる。

 意識が朦朧とする。視界が霞む。

 戦闘開始から一分も経っていないにも関わらず、この様だ。実力の差は歴然だった。

「動きからして殺し屋……いや、殺し屋崩れやな」

 圧倒的な力の差を見せつけてもなお、霧崎の佇まいに一切の油断は見られなかった。

 やがて彼はどこか納得したような様子で――

「実力不足で業界じゃ生きられんくなったか。そんでイカレ組織の小間使いとは哀れやな。俺があんたの立場なら、とっくに自殺しとるわ。プライドないんやろうなあ?」

「……はッ、何とでも言えよ」

「あん?」

「プライドなんて何の役にも立たないものなんて、とっくの昔に捨ててやったよ。今の俺にあるのは……『あの人』への忠誠心だけだ。お前みたいなのにいくら罵倒されたところで、ちっとも響かねえから安心しな……!」

「負け犬の遠吠えほど見苦しいもんはない。殺し屋の面汚しに引導を渡したる!」

 再び凄まじいスピードで突っ込んでくる霧崎。

 隙を一切見せない完璧な動作でもって、遠藤の命を刈り取りにかかる。

 ――今だ! やれ! 井筒屋!

 口の中で遠藤は呟いた。

 次の瞬間、喉元一センチにまで迫った鉤爪が突如として弾き飛ばされる。

 霧崎の右腕が大きく弧を描き、しっかりと装着されていたはずの鉤爪がアタッチメントごと宙を舞った。飛ばされた得物とほぼ同じ座標には、パチンコ玉の五倍はありそうな大きな鉄球があった。

 その正体こそ井筒屋の本領。

 つまりは戦闘のサポートを行うためのトラップである。

 ――勝機!

 遠藤が踏み込む。刀を左手に持ち替え、かつ逆手に構え、ガードの空いた霧崎の右半身めがけて浴びせかける。ここで初めて霧崎の余裕が崩れた。交差した二人の双眸。刹那にして遠藤はそれを読み取る。

 ――決めるなら、ここしかねえ!

「井筒屋ああああああッッ!」腹の奥底から目一杯叫び、そのまま刀を振り抜く。

 霧崎は舌打ち混じりに上体を仰け反らせ、すんでのところで斬撃を躱す。

 だが、奴が避ける事は折り込み済みだった。

 体勢を立て直す前に、左肩で強烈なタックルを繰り出す。

 鳩尾に肩を突き込み、そのまま地面に押し倒す。その合間に再び刀を持ち替えていた遠藤は、霧崎鷹の首を落とさんとギロチンのように刃を振り下ろす。

 もう片方の鉤爪でギロチンが受け止められるが、これで霧崎の手は塞いだ。

 井筒屋のトラップによる追撃を防ぐ術はない。

 ――今から毒の塗りたくられた矢が四方八方から襲いかかる! さあ、防げるもんなら防いでみな! 本職の殺し屋様よおッ!

 遠藤の目の届かぬところで、井筒屋がトラップを起動する。

 各所に設置された吹き矢筒から半自動的に射出される矢じり。

 それは遠藤の体を避け、倒れ伏した的へ向かう。

 刀を握る手に、さらに力を込めて霧崎を縫い留めようとする。

 しかし勝利を確信した次の瞬間、霧崎が驚くべき行動に出た。

「があああああああああ!」という雄叫びと共に、武器のなくなった右手で日本刀の刀身を鷲掴み、無理矢理横へとずらす。刃の沈み込んだ皮膚からは、振ったあとの炭酸飲料のように血が噴き出し、彼の相貌とコートを濡らした。

 面食らっていた遠藤の顔面を蹴り飛ばし、その勢いに任せて後方に回転、距離を離す。

 その最中に落ちていた鉤爪を拾い上げ、再度腕に装着。

 完全に体勢を立て直した霧崎鷹と、痛みに鼻を押さえる遠藤が向かい合う。

「ッ……くそッ……! やっぱ、そう簡単にはいかねえか……!」

「はッ! これで振り出しに戻ったなあ? 次こそ確実に殺ったるわ!」


        ***


「四十沢だな」眼前に佇む男は静かな声色で確認を取った。

 力なく、ぐったりと倒れ伏した絹花の傍らで、この状況を作り出した男は、硝煙が立ちのぼるコルト・ガバメントを手に、サングラスの奥から覗く眼光を四十沢へと向けている。

「あい……ざわ、さん……」額から血を流す絹花が絞り出すような声で、四十沢を呼んだ。「逃げて……ください……この男の狙いは、あなたです……!」

「そういう事だ」男は短く相槌を打つと、「そちらに恨みはない。だが、こちらも仕事なのでな」と拳銃を構えた。「悪いが、死んでもらう」

「――当然だが」

「?」

 四十沢の返答に、男は僅かに眉をひそめる。

「俺も絹花も、そして貴様も『プロ』だ。私情に流される事なく、自らに課せられた任務を遂行する。その過程で誰が不幸になったとしても関係ない。もちろん、その『誰か』の中には自分自身も含まれる。返り討ちに遭い、死んだとしても、全ては自己責任だ」

「何が言いたい?」

「簡単な事だ」

 次の瞬間だった。

 狭い路地裏の中で、乾いた発砲音が木霊する。

 音の出どころは、数瞬の内に抜き放たれた四十沢の拳銃。

 そして、吐き出された鉛玉の行く先は――

「――――ッッッ!!!」

 とっさに体を捻る襲撃者の男。しかし四十沢の方が一手早かった。

 眉間への直撃こそ避けたが、銃弾が右肩の肉を弾き飛ばす。

 男が痛みによろけた、その一瞬の隙を縫って、四十沢は一気に踏み込んだ。

「俺がテメエを完膚なきまでにぶち殺したってなあ! 誰にも文句は言わせねえッて事だあああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!」

 直後、大木をへし折るような衝撃が男の体を突き抜けた。

 四十沢の放った渾身の正拳突きが、男の腹部を正確に捉えたのだ。

「ごッ……!?」口角から血の泡を吐き出しつつ、男が後方に吹き飛ぶ。

「おおあッ!」

 突き込んだ拳を振り抜く事はせず、最小限の動きで腕を引き戻すと、さらに追撃。

 しかし、これは躱された。

 男は傾ぐ体を無理に立て直そうとはせず、そのまま成り行きに任せて倒れ込んだのだ。

 仰向けに転倒した男は、流れるような動きで回し蹴りを放ち、四十沢の軸足を薙ぎ払う。革靴のつま先部分が脛に直撃し、脳芯に響く痛みと共に片足が浮き上がる。

 ――このまま倒れたところを撃ち抜くつもりか! だが……!

「させん!」間髪入れず拳銃を反転させ、グリップではなく銃身を握り込む。

 男の方も四十沢が何をしようとしているのか察したのだろう。「くッ……!」と呻きながら汚い地面を転がる。無駄な足掻きだ。

 銃把をハンマー代わりにして、男の膝へ振り下ろす。

 ――もらった!

 インパクト。

 硬いもの同士がぶつかり合う轟音が鳴り渡る。

 しかし、「……――!?」本来、聞こえてくるべきはずの『骨が砕ける音』がしない。

 それもそのはず。

 四十沢の攻撃を回避できないと見た男は、とっさに自らのガバメント拳銃を、四十沢の拳銃と自身の膝の間に滑り込ませたのだ。結果、男の膝が破壊される事はなくなり、代わりに拳銃だけが犠牲となった。

「お返しだ」片腕をバネのようにしならせて地面を叩いて起き上がる男。

 倒れ込みながらのカウンターを狙っていた四十沢にとって、この状況は極めて不味い。再び拳銃を持ち変えて発砲する暇もない。体勢は完全に崩れてしまっているので、防御に移る余裕もない。

 つまり――男の放った膝蹴りが、無防備な四十沢の顔面にクリーンヒットした。

「ぶほはあッ!?」折れた鼻の穴から粘っこい血液を撒き散らしながら、後方に倒れ込みそうになる。だが、ここで終わる訳にはいかない。どこかに飛んで行ってしまいそうになる意識の鎖を死に物狂いで繋ぎ止め、前のめりに体を倒す。

 片膝をつく程度まで被害を抑えたが、そもそも相手はプロ。

 この好機を見逃すはずがない。

 ――ならば……近づけぬまで!

 狭い路地裏。横幅はほとんどない。四十沢の周囲一八〇度に弾をばら撒けば、立ち上がるための一瞬の時間くらいは稼げる。

 弾倉の中身を全て撃ち尽くすつもりでトリガーを連続で引く。

 戦闘員としての本能ゆえか、目線を合わせるより先に腕と指が動いていた。

 コンマ数秒遅れて首が動き、前方を見やる。

 そして――四十沢は言葉を失った。

 ――なッ……!?

 いない。

 日本人離れした体格を持つ大柄な成人男性のシルエットが、存在しない。

 少なくとも、四十沢の視界に男の姿は映し出されていなかった。

 そして、その一瞬の怯みが命運を決した。

 頭上から叩きつけるように降り注いだ二つの銃弾が、四十沢の両手の甲を撃ち砕く。

「あがああああああああああああああああああああああああ!!?」

 意識の外側から突如として襲い掛かってきた激痛に、思わず絶叫がほとばしる。

 ――上……だとおッ……!?

 反射的に目線を上げる。そこには、空中で体をほぼ真横に倒した状態で拳銃を構える男の姿があった。壊れたコルト・ガバメントは左手に携えたまま、右手で構えた小型の回転式拳銃の銃口が正確に四十沢の方へ突き出されていた。

 おそらくは、発想が違ったのだ。

 横に動いて避けるのではなく、縦に動いて避ける。そして反撃に持っていく。

 男は外壁を蹴り上げて中空へ飛び上がり、そのままカウンターに移ったのだ。

 ――とてつもない男だ……絹花を退けるだけは……ある……。

 四十沢は悟る。

 止まったように動かない時間の中で、悟ってしまう。

 まだ来る。

 両腕を奪われ、為すすべがなくなった四十沢の脳髄に鉛玉を叩き込む時間程度は十分にある。そして、それを回避するほどの体力が残っていない事も。

 ――絹花、遠藤、井筒屋、雀森……すまない。

 ――俺はお前達を守る事が……できなかった……!


 夜空の下で、乾いた銃声が響いた。


        ***


 ぼとり、と。

 何か質量のあるものが落ちた。

 それはワインレッドの布を纏っていた。

 それは五本の指で、拳銃を握っていた。

 それは人間の持つ腕の形を成していた。

「…………」久郷はある一点を見据えていた。

 自身の右腕。それが肘の当たりから綺麗さっぱりなくなっていた。

「……させ……ないッ……!」少し離れたところから今にも途絶えてしまいそうな声がした。「わたしの……しょを……せはしない……!」

 うつ伏せに倒れていた絹花が、前歯を食いしばりながら必死の形相で久郷を睨みつけていた。その腕からは、青白い光が樹木の枝のように伸び、久郷のすぐ近くに落ちた腕にまとわりついていた。

「絹……花……」久郷の足許で彼女を呼ぶ声。両手の甲から大量に流血した四十沢が、今にも閉じきってしまいそうな瞼を何とか開きつつ、彼女を見つめていた。

 そう、見つめていた。それだけである。四十沢は死んでいない。

 回転式拳銃から放たれた銃弾は、近くの外壁を穿っていただけ。

 それが、惨劇の最後を彩る演出を作り出す事に失敗した証拠となっていた。

 ゆっくりと絹花が立ち上がる。

 とめどなく血が溢れ出す額を押さえ、前髪を掻き上げ、肉食獣のような瞳を向ける。

「あんたなんかに……壊させない……!」

 極寒の中にいるかのように声を震わせる。しかし、その声には熱が籠っていた。

 この世のあらゆる物質を溶かしつくすような灼熱の憎悪と願いが込められていた。

「ここは! 私が! 生まれて初めて自分の力だけで手に入れた居場所なんだ! その辺の平和ボケした連中から見れば異質かもしれない! でも! これが私の手にした『日常』なんだ! 私を『実験動物(モルモット)』扱いする奴なんていない! 心の底から信頼できる人達と一緒に過ごして笑い合う! そんな……たった一つの願いがやっと叶ったんだ! あんたみたいな部外者に、それを壊されてたまるかあああッ!!!」

 腹の奥に溜まったヘドロを余す事なく掻き出すように、獰猛な叫びが反響する。

 気づけば、彼女の顔を伝う液体は、流れ出た血液だけではなくなっていた。

 透き通った液体が彼女の瞳からとめどなく溢れ出し、鮮血と混ざり合っては、半透明のルビーのごとく煌く。

「四十沢さんは……皆は……私が守る……!」絹花の体から、瞬く樹木が次々に生成されては伸長していく。「次は腕だけじゃすまさない……! 確実に……あんたの息の根を止めてやる……!」

「…………」

 向かい合う久郷と絹花。

 蠢く閃光から発せられるプレッシャーが、周囲の大気まで震わせる感覚に陥る。

 沈黙の時間は、おそらくは数秒にも満たなかっただろう。

 先に静寂を破ったのは久郷だった。「……そうか」と。

 どこか納得したような声色で、一言そんな風に呟いた。

 おぞましいほどの殺意の秘められた目で射抜かれているにも関わらず、久郷の表情は極めて穏やかなものだった。「俺は勘違いをしていたようだ」

「何がだ……?」

 目を細める絹花。久郷の態度の変化に、少なからず動揺しているようだ。

「俺は君の事を誤解していた」静かに答える。「その『力』を使って人を殺す。ただ自分自身の破壊衝動に身を任せて惨劇をばら撒く。かつて対峙した『あの青年』のように、君はただ世界を恨み、そして絶望しているのかと思っていた」

 だが、と久郷は直前の言葉を否定する。

「違った。君は、その『力』を誰かのために使っていた。踏み外した道の上で、それでも何かを得ようともがいていたんだ」

「私が人を殺していたのは事実だ……! 私もあんたも……外道である事に変わりはない……!」

「その通りだ」久郷は否定しなかった。「もとより、俺達が普通に生きる事など、できはしない。この手を泥と血で汚しながら、汚水を啜って生きていくしかない」

 久郷は右手のガバメント拳銃を投げ捨てた。空いた手の人差し指を絹花へ向ける。

「そんな中でも、君は『守るべきもの』を見つけられた」

「――!」

「その男が……自分の仲間が大切なのだろう? 絶対に失いたくないと、心の底から思う事ができるのだろう? なら――君は仲間と生きるべきだ」

「それって……」

 久郷は頷いた。「彼は殺さない。早く手当をしてやると良い。その『力』を使えば、君の生命力を彼に注ぎ込めるはずだ。君の負傷も軽い脳震盪程度にしてある。死ぬ事はない」

「何で……そこまで知ってる……? あんたは一体……?」

「ただの殺し屋だ」短く答え、久郷は足許に転がっていた右腕を拾い上げた。

 その断面を見た少女が怪訝な表情を見せる。「……義手……?」

 そう、久郷が持った右腕の傷口からは赤い血ではなく、金属製のフレームや銅線、モーター、ギアなどが飛び出していた。生肉ではなく、機械。無機物の塊。

筋電(きんでん)義手(ぎしゅ)だ。本来の右腕とは、とうの昔に決別している」

 身を翻すと、久郷は路地の奥へと消えていく。

 徐々に闇に溶けていく背中を見送る事しか、彼女にはできない。

「数々の無礼を詫びさせてほしい。そして、君達の前には二度と姿を現さないと誓おう。『彼』や『彼女』の分まで――君は幸せになるんだ」


        ***


 静寂が包み込む。星が煌く夜空の下には、すでに二人分の影しかない。

 あっけに捉われていた絹花は、殺し屋の男がいなくなってから、たっぷり一〇秒を要してやっと我に返る事ができた。

「はっ!」と自分の置かれた状況に気づく。「四十沢さん!」

 血だまりの中央で沈む四十沢に駆け寄り、すぐさま彼を抱きかかえる。

「死なないでください……! すぐに治しますから……!」

「待て……絹花……」

「大丈夫です! 必ずあなたを助けて、私も生きます! だから……――」

「違う、そうじゃない……」

 慌てふためく絹花に対して、今まさに死にかけている四十沢は冷静な調子で――

「まずは遠藤達に連絡だ……俺達を回収してくれる連中がいなければ……二人して凍え死ぬだけだろう……?」

 四十沢は笑っていた。死にゆく恐怖を誤魔化すのではなく、まだまだ半人前の娘のような存在と共に、これからも生きてゆける事に。

 自分の早とちりを理解したためか、絹花は羞恥心で頬を赤らめ、泣きながらも笑っている。年相応の良い顔だ。

「俺の傷が完治したら……一緒に買い物にでも行こう……。助けてくれた……礼だ。何がほしい……? 何でも買ってやる……」

「ぐすん……じゃあ、パソコンのモニターがほしい……最近、ゲームやってる時……映りが悪いから……」

「…………」想像の斜め上を行くチョイスに一瞬だけ真顔になる四十沢だったが、すぐに笑顔を取り戻す。「ははは……相変わらずだな、お前は……」

「……だめ……?」

「そんな訳ない。俺が治るまで……楽しみにしておくと良い」


        ***


「いつまで逃げるつもりだい? 東雲君? さっきまでの威勢はどうしたのかなあ!? カッコ良くお姫様を守るヒーローになるんじゃなかったのかなああああ!!?」

 東雲を誘き出す……というつもりでもないだろう。いくら戦闘の素人である東雲でも、こんなあからさまな挑発に引っかかるはずがない。東雲を恐怖で竦み上がらせようとしているのか、それとも……

 ――単純にブチ切れているだけか……。

 おそらくは後者だろう。笹井の怒りは本物だ。何せ、七年もかけて積み上げた計画を何も知らない新参者に台無しにされたのだ。平静でいろと言う方が無理がある。

 ――けど……こっちにだって正義がある。

 ――あんたに比べたら薄っぺらいかもしれないけどな……譲る訳にはいかないんだ……。

 徐々に笹井の怒号と足音が近づいてくる。

 散乱したデスクの陰に隠れているのも限界だ。

 とはいえ、真正面から戦ったところで勝算はないだろう。真人間同士とはいえ、二人の戦闘経験には天と地ほどの差がある。実際、先ほどの邂逅では奇襲さえ通じなかった。

「…………ッ!」東雲は奥歯を噛み締めた。

 心臓が縮み上がりそうなほどまで距離を詰められた瞬間、東雲は口を開いた。

「なあ、笹井さん……一つ訊きたい事があるんだ……」

「ああ、そんな近くにいたのか。さっさと手榴弾でも投げ込めば良かったな」

「鋼岬から聞いたんだ。笹井さんと鋼岬は七年前、全く同じ時期にこの地獄に巻き込まれた者同士だって……!」

「確かにその通りだけど、それがどうかしたのかい? 僕と彩美の関係に……君みたいな三下のドクズのクソカス野郎が何を言うつもりかなあ……?」

 尋常でないほどの威圧感。出会ったばかりのころの鋼岬よりも、ガロットやペンデュラムよりも、彼らよりも格上の能力者の女よりも――。笹井の持つ殺意は、その全てを子供のお遊戯レベルにまで引き下げてしまうほどの含みがある。規格外じゃない、ただの真人間だからこそ出せる人間としての憎悪。それを濃縮して練り固めたかのようなおぞましさが、常時東雲の理性を食い破らんと迫ってくる。

 極寒のさなかにいるかのような震えを気合で押さえつけ、東雲は舌を動かし続ける。

「ずっと鋼岬と一緒にいたのなら分かっているはずだ……! 彼女が血も涙もない化け物なんかじゃなく、どこにでもいる普通の女の子だって事を! おかしいだろ! 皆……巻き込まれただけの被害者じゃないか! どうして憎しみ合って殺し合わなきゃいけないんだ!」

「お前みたいなボケナスが知ったよう口を聞くなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!! お前に言われるまでもねえんだよ! 僕は! 僕だけが! 彼女の全てを理解してるんだああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

「うわああ!?」

 狂人のように叫び倒しながら、笹井が身を乗り出してくる。デスクの陰に隠れていた東雲を視認すると、感情のままに胸倉を掴み上げ、もう片方の拳で殴りつけた。

 鈍い感触が顔面を走り抜け、鼻腔から血が噴出した。……と思えば、間髪入れず力任せの打撃が再び飛んでくる。神経が痛みの信号を処理しきるより早く、何度も何度も――。

「僕と彩美の過去を汚すな! それを知っていて良いのは僕だけだ!」

 息切れするまで東雲を殴り続け、ボロ雑巾のようになった彼を無造作に床へ投げ捨てる。

「はあ……はあ……! 良いかい? 東雲君。……僕は憎しみから彼女を殺そうとしているんじゃあないんだよ……! むしろ逆だ……!」

「ぎゃ……く……?」

「僕は助けたいんだ、彼女を……。救ってやりたいし、解放してやりたいんだ、この……地獄の連鎖からね……!」

「それが……どうして、鋼岬を殺す事に繋がるんだ……!?」

「まだ分からないのか!? 彩美は生き続ける限り、この地獄に身をやつし続けないといけない! その行き着く先が何かは分かるだろう! 死だ! この上なく無様な死だ! 彼女の綺麗な顔が、体が、精神が! 全部蹂躙されてゴミ同然にされてしまうんだ!」

「だから、あんたが手を下すのか……? 鋼岬を綺麗なまま……葬るために……!?」

「そうだ。僕が彩美を手にかける事で……彼女は永遠に色褪せない存在へと昇華する。誰にも触れさせない。誰にも汚させない。彼女の全ては僕のものだ……!」

 それが笹井の導き出した答え。

 七年間の地獄が一人の人間を蝕み、歪ませた結果。

 それを踏まえた上で、東雲は反論した。「何様のつもりだ……クソ野郎……!」

「……はあ? 誰に向かって言ってるんだい?」

「あんただよ、笹井肇。あんたに向かって言ったんだ。このサイコパスの自己中野郎」

 東雲は言う。

 絶体絶命の状況の中で、飛びそうになる意識を繋ぎ止め、壊れかけた勇気を振り絞って。

「少なくとも、あんたよりは鋼岬を理解してるよ。だって、彼女の気持ちは『死にたくない』一択なんだから。勝手に『綺麗な死』を唯一の救いとして定義しちまってるあんたは何も分かっちゃいない。だから……あんたは、ただのクソ野郎だって言ったんだよ」

「そうか。なら、僕から言う事はもう何もない」

 笹井は靴の底で東雲の腹部を押さえつけ、眉間へと拳銃の銃口を突きつける。

「さっさと地獄に落ちろ」

「あんたがな」

 トリガーが引き絞られたその時だった。笹井の横合いから何かが飛び出してきた。それは勢い良く笹井の脇腹にぶつかり、長身の青年を叩き伏せる。

「駄目、笹井……! もうやめて……!」

「彩美……!」

 笹井を押し倒したのは満身創痍の鋼岬彩美だった。笹井が、東雲への怒りで周りが見えなくなっていた事が功を奏した。彩美の接近に、笹井は最後まで気が付かなった。

「終わりだ。笹井さん」

 最後の気力を振り絞って立ち上がった東雲は、密着するほどの距離で拳銃を構え、笹井の両の二の腕を撃ち抜いた。


        ***


 耳が痛いほどの静寂が周囲を包み込む。

 掠れる視界で、何とか笹井の姿を捉える。

 腕は完全に潰した。

 仰向けに転がった笹井は、自力で起き上がる事はできないはずだ。

「負けたよ、東雲君。完敗だ」

 不思議と笹井の声色は清々しいものだった。

 先ほどまでの威圧感は欠片もない。

「俺は結局何もできませんでしたよ。勝ったのは俺じゃなくて鋼岬だ。あんたが負けたのは、俺じゃなくて鋼岬だ」

「ふっ……そうかもしれないね」

 笹井は自嘲気味に微笑む。その表情の意味を、東雲はすぐに理解できなかった。

 だが、すぐに思い知らされる事になる。

「彩美、君の命だけは助けたかった。たとえ君や東雲君、消耗品部隊の皆に恨まれる事になったとしても……君だけは生きて、この地獄から解放してあげたかった」

「……? 笹井さん、あんた何を言って……!」

「分からないかい? 演技だよ、全部。頭のイカレたストーカーみたいな言動も何もかも。本当の目的を隠すためのフェイクだよ」

「本当の……目的……まさか、あんたは最初から――」

 カラカラと。笹井のコートのポケットから、いくつもの注射器が零れ落ちた。

「これって……?」

 彩美の疑問に笹井は軽い調子で答える。

「麻酔さ。特注のね。眠らせるどころか、量を調整すれば一時的な仮死状態にもできる優れものだ。こいつを使って彩美をいったん殺して、安全な場所に移すつもりだった。この日のために消耗品部隊の外にも何人も協力者を作った。僕らに埋め込まれた発信機の信号すら誤魔化し、偽装するレベルのハッカー。美容整形に精通している闇医者。その人間が存在したという証拠を跡形もなく消し去れる掃除屋……でも、全部無駄になっちゃったな……」

 そう、笹井は最初から狂ってなどいなかった。それどころか誰よりも冷静で、誰よりも狡猾に立ち回っていた。決して感謝されないヒーローとして、自らの大切な人を、ありとあらゆるものを犠牲にして助け出そうとしていたのだ。

「何で……どうして、そこまでして私を……」

 笹井の傍らで、彩美は肩を震わせて泣き崩れる。

「東雲君も言ってただろう? もちろん僕だって知ってた。君は普通の女の子だ。だから、こんなところにいるべきじゃない。平和な世界で……当たり前の青春を謳歌すべきなんだ」

「私だけじゃ……ない……!」彩美は嗚咽を押し殺すように、笹井の胸に顔を埋めた。「笹井だって……普通の人でしょう……。初めて会った時は、どこにでもいるような普通の高校生だった……。あんな事がなければ普通の生活を送っていたはずだった……!」

「かもね」笹井は否定しなかった。「でもさ、僕は自分が『普通』でいる事になれなかったんだ。ただの人間である笹井肇じゃない。君にとってのヒーローになりたかった」

 それに、と笹井は苦笑と共に付け加え――

「これで結構楽しかったよ、僕は。友達もほとんどいなくて、親からの重圧で押し潰されそうになっていた時……この世界に巻き込まれて、そして彩美に出会えた。死に物狂いで頑張って消耗品部隊を鍛えて……信頼できる仲間ができた。僕自身が普通じゃない事は、案外悪くなかったんだよ」

「笹井……」

「――馬鹿野郎! なら、何で最初に俺達に相談しなかったんだ! お前にとって、俺達は信頼できる仲間じゃなかったのかよ!?」

 彩美の声を掻き消すように、どこからともなく怒号が響き渡る。

 複数の足音がこちらに近づいてくる。

「あれ……? 何で起きてきてるのかな……? あの麻酔銃、一発食らわせたら半日は起きれないはずなんだけど……」

 笹井が目線を向ける先には、三人の男女がいた。

 鮫島、武田香織、五十嵐御守。三人共、笹井を慕う部下だ。

「アタシが気づいたのよ」不機嫌そうな調子で告げたのは武田香織だった。彼女は右手で三センチほどのプラスチック製の筒を弄んでいた。「これを打ち込まれた瞬間、意識がなくなる前に引き抜いた。眠るまでの猶予なんて全然なかったから、自分と鮫島さんと五十嵐のぶんしか抜けなかったけどさ」

「あの一瞬でか……。やるね、香織」

「そりゃそうよ。笹井、あんたがアタシ達を育ててくれたんだから。おかげでさまで立派な兵隊になれました」

「笹井さん……! 私達は皆、笹井さんのおかげで生きてこの場にいるんです!」五十嵐御守が泣きながら言う。「私達は何があっても……あなたについていくって決めてたんです……! だから、隠さないで言ってほしかったです……! アイアンメイデンを助けるために力を貸してほしいって……」

「……彩美は、君達にとっては憎悪の対象だ。それでも、協力してくれたのかい……?」

「何度も言わせるんじゃねえ。当たり前だろうが……!」鮫島は今にも泣き出しそうな様子で、「俺達はアイアンメイデンの部下じゃねえ。笹井、お前の部下だ。お前が一言命令さえすれば、命をかけて協力してた……!」と絞り出すように言った。

「そうか……」笹井は何かを悟ったように、小さく息を吐き出した。「僕は最後の最後で間違ってしまったんだね。君達を信用できなかった……いや、違うな。きっと、怖かったんだ。皆を裏切り、失望させてしまう事が……」

 本当は、そんな事は絶対に起こりえなかったのに――。

「後悔しても、もう遅いね」笹井は諦めたように笑い、目を閉じた。「東雲君、僕を殺せ。僕の死体と、渡しておいた計画書を上に差し出せば、まだ何とかなるかもしれない」

「笹井さん? いきなり何を……」東雲は笹井の意図を掴めなかった。

 しかし、「結局、本来の仕事は達成できていないだろう?」と告げられた事で、状況を理解する。「前回と今回の失敗を受けた上は黙ってないだろう。このままじゃ処分は避けられない。だから、僕に全てを擦り付けるんだ。『上の連中すら一定の信頼を寄せていた笹井肇が任務失敗の元凶だった』。……これだけの交渉材料があれば、あと一回くらいは温情をかけてもらえるかもしれないよ」

「待ってくださいよ! 笹井さん……! そんな事、できる訳……」

「君にしか頼めないんだ、東雲君。鮫島さんや、香織、御守じゃあ僕を殺せない。かと言って自分で頭を撃ち抜こうにも、もう両腕は動かない。勝手かもしれないけど、君に託すしかないんだ。皆を助けられる道は……もうこれしかないんだ」

 それこそが東雲の責任。笹井ではなく、彩美に味方した者として、やり遂げなければならない事。彼女を救うために、最後の役目を果たす。

 分かっている。頭では――理性では理解している。だが、脳裏に燻る感情が邪魔をしてくる。確かに、東雲は鮫島達ほど笹井に世話になった訳ではない。しかし、この世界に巻き込まれた東雲を守り、導いてくれたのは間違いなく笹井なのだ。簡単に切り捨てて良いはずがない。

 ためらう東雲に対し、笹井は声を荒げる。「早くするんだ! 僕らの体の発信機からの情報は、仲間のハッカーが誤魔化してくれてる! でも、それもずっと続く訳じゃない! 上に感づかれたら、全員仲良く処刑台に送られるぞ!」

 ――本当に……これしかないのか、方法は……!

 東雲の手には、まだ拳銃がある。安全装置は外されたままであるし、弾倉の中には弾も残っている。このまま銃口を笹井の額に向けて引き金を引けば、全てが終わる。彩美の命を助けられる。

「……すいません、あと……ありがとうございます」

 動きは静かだった。未だに全身を駆け巡る痛みを周りには悟らせないほど滑らかな挙動で、横たわる青年に向けて、引導を渡す準備を完了させる。

 葛藤が消えた訳ではない。だが、責任は果たさなければいけない。迷えば迷うほど、彩美や消耗品部隊の皆の死は確実なものとなっていく。

 笹井は自らの手を汚してまで、彩美を助けようとした。そして東雲はそれを阻止した。

 ならば、東雲は引き継がなければいけない。

 笹井が思い描いた、その全てを。

「彩美を……皆を任せたよ、東雲君」

 直後、停滞した空気を切り裂く音が響き渡った。


        ***


「何やと? お前ら、何を言っとるんや?」

「だからキャンセルだって言ってんだろ? 俺達は今請け負ってる仕事から手を引く。限時刻をもって『自然回帰』とは一切合切関係なくなるの。分かりまちゅか?」

「どうも本気で殺されたいみたいやなあ?」

 こめかみに青筋を浮かべながら、ドスの利いた声で問いかける霧崎。

 しかし殺し屋崩れの男は意に介した様子はなく――

「じゃあな、鉤爪男。報酬欲しけりゃ、イカレ組織の残党共でも見つけてセコセコ小遣い稼ぎにでも矜じてろや」

「じゃあ死ね! イカレ組織のクソ残党共がッ!」鉤爪を携えて突撃する。あの生意気な口がもう一度動く前に首を落とす。それで終わりだ。

 日本刀男の首めがけて鉤爪を振りかぶる。男は最後まで笑ったままだった。

 鉤爪を振り抜き、霧崎の視界から男の頭部が消える。

「ああ!?」しかし霧崎の口からは疑問の声が洩れた。当然である。首を落とすつもりで攻撃を仕掛けたにも関わらず――何の手ごたえもなかったのだから。

 そこで気づく。

 男が消えたのではない。

 霧崎の視界が塞がれていたのだ。

 霧崎の足許を視点として勢い良く沸き上がる白煙。

 スモークグレネードを投げつけられたのだ。

 おそらくは、日本刀男の後方で援護に徹していたトラップ要因に。

「うちの大切な『お姫様』から泣きつかれたんでな。俺達下僕とすりゃあ放っておく理由なんてねえ。ここらでお開きだ、あばよ」

「くそッたれが! 待ちやがれコラああああああああああああああああああああ!!」


        ***


 煙が晴れると、すでに男達の姿はなくなっていた。

 怒りに任せて壁を拳で叩きつける。痛い。

 鉤爪を袖の奥に格納すると、霧崎は乱暴に頭を掻いた。

「あいつらに何て言い訳したらええんや……?」

 吐き出した息は、先ほどの煙幕のように真っ白だった。


        ***


 響き渡る携帯電話の着信音。

 その発生源は笹井のジーンズのポケットからだった。

「……全く、何てタイミングだ」笹井は苦笑した。彼は自身に向けて拳銃を構えたままの東雲に、「たぶん協力者からだ。悪いけど、出てくれないかな。手、動かないからさ」と頼んだ。

 東雲は笹井のポケットからスマートフォンを取り出すと、画面のマークをスライドさせ、そのまま笹井の耳許に置いた。

『お疲れ様です、笹井君。どうやら失敗しちゃったみたいですね』

「ああ、悔しいよ」

『だから責任を取って、自分一人を悪者に仕立て上げようって事ですか』

「自分のわがままに皆を付き合わせてしまったうえに失敗したんだ。それが筋ってものだろう? 何かおかしい事でもあるかい?」

 笹井が当然の事だと言わんばかりに告げると、電話の向こうの雀森は楽しそうに笑った。

「……何がおかしい?」

『あはは! いえね、もう笑っちゃうしかないんですもん。こんな出来過ぎたハッピーエンドって現実でも起こりえるんですね! 最高です! 最高過ぎて最高過ぎてたまりませんから……笹井君にも少しおすそ分けしてあげますね!』


        ***


 通話が切れたようだ。

 笹井が疲れた様子で大きく息を吐き出す。「……東雲君、それから彩美」

「……何ですか?」

「命令だ。消耗品部隊隊長として命じる。僕の携帯に届いたメールに添付された地図。そこに記された場所に行くんだ。これがきっと……全員で助かるためのラストチャンスだ」


        ***


 コインロッカーの目の前で、雀森は満足した表情で通話を切った。

 笹井への『プレゼント』を入れたロッカーの扉を人差し指で優しく撫でる。

「……死なせませんよ、誰も」

 彼女は誰に向けるでもなく、優しい笑みを浮かべながら――

「大切な人には生きていてもらいたい……この感情だけは、誰にも否定させませんから」


        ***


「色々あったが、終わり良ければ全て良しってな!」

「もうさっさとアジトに帰って休みたい気分だがな……」

 上機嫌な遠藤に対し、井筒屋は死人のように真っ青な顔でうなだれている。

「四十沢さんと絹花を回収して病院に届けたあと、雀森の要請で『自然回帰』の構成員共と正面衝突……俺は、お前と違って白兵戦は苦手なんだ……」

 遠藤と井筒屋の体はボロボロだった。遠藤の方は霧崎鷹との戦いで負った傷も多かったが、それ以外にも擦過傷、打撲痕、銃創など様々な負傷が見て取れる。井筒屋も同様だ。

「つっても、それだけの苦労をした甲斐はあっただろ?」遠藤は自分達の所有するバンの横にもたれかかったまま、井筒屋を見やる。「目的のものが全部まとめて手に入ったんだ。これで『自然回帰』の連中とも手が切れる。それどころか組織壊滅も時間の問題だ」

「まあ、報復を気にしなくて良いのは大きいがな……」

「あんたには感謝してるぜ」遠藤の視線が別の人間へと向く。自分の隣にいる井筒屋ではなく、バンの中でうずくまっている少女へ。開いた窓から車内を覗き込み、「安心しな」と言った。「あんたは俺達が責任を持って保護する。そのあとの事は気にする必要ねえ。全部が全部元通りって訳にはいかねえが……『もう一度やり直すチャンス』くらいなら与えてやれる。辛い現実を今日まで必死に生きてきたんだ。それくらいの褒美があったところでバチは当たらねえよ」


        ***


 笹井のスマートフォンに表示された地図には二つの目印がついていた。

 一つはコインロッカーの場所。もう一つは鍵の隠し場所。鍵はロッカー近くの植え込みの中にあった。万が一の事を考えてか、鍵にはロッカー番号を記載したタグはついていなかった。東雲と彩美は泥だらけになったそれを持って、コインロッカーへと向かう。

「ここ……だよな?」

「ロッカーのどこ? 携帯には何て?」

 まだ本調子ではないにせよ、彩美の方はだいぶ回復していた。やはり真人間とは体の作りが違うのだろう。笹井から逃げ惑う時とは違い、今回は彩美が東雲の手を引きながら、ここまで連れてきてくれた。

 時間はあまり残されていない。すぐにでも行動に移る必要がある。

 東雲は笹井の端末に目を落とし、メールの本文に記載されていたロッカー番号を彩美に伝える。彼女は一つ頷くと東雲に肩を貸しながら、目的のロッカーへと近づき、鍵を差し込んだ。

 薄い鉄製のドアが開く。


 そこにあったのは一枚のメモと――USBメモリだった。


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