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第三章 静まる幕間、ビフォーテンペスト



 第三章 静まる幕間、ビフォーテンペスト



  (12月18日 午前3時18分~午前3時24分 路地裏)


「はははははははははははっ!! これは驚いたわ!」

 夜中の路地裏に響き渡る笑い声。

 何がそこまで面白いのか久郷には分からなかったが、目の前の瘦せ型スキニージーンズの仲介者は、ひとしきり横隔膜の運動を繰り返したのち、涙目でこちらを見た。

「すまんすまん、取り乱してもうたわ……」

「治まったようなので、もう一度訊こう」あくまでも自分のペースを崩す事はせず、久郷は淡々とした調子で語り出す。「これで問題なかったか? 証拠の品は」

 久郷と西條勉の間には、小さなクーラーボックスがあった。

 その中に入っていたのは、いくつかの保冷剤と三つの小包。

 そして透明な液体に満たされた三つの球体。

 食材ではない。だがタンパク質の塊である事に間違いはない。

 つまり――人肉と眼球。本来であれば、このような容器に収められる事などないもの。

 それらにはかつて名前があった。

「椎葉、宇津井、唐松。それぞれの脊髄と眼球だ」

 事務的に名を列挙する。全て、この手で葬った者達の名前であった。

「そして、こちらが奴らの『持ち物』だ」

 ワインレッドのジャケットのポケットから何かを取り出す久郷。青透明のジップロックに入れられていたのは、やはり三つの物体。血のこびりついたスマートフォンだった。

「証拠として回収してきたのは、これで全てだ」

「十分や」西條は満足そうに言い、グロテスクな人体を横目に先ほど淹れたコーヒーを飲む。「まさか依頼したその日の内に殺してくるとはなあ。それも三人や。あんた、腕っぷしだけやなくて、情報収集の技術も相当なもんやろ?」

「あれだけ事前情報があれば、そう難しい事ではない」

「はは、簡単に言ってくれるやないか。その時点で、全殺し屋の中でもかなりの上澄みにおるんやで、あんたは。どんだけ自覚があるかは分からへんけど、な」

「自分自身への主観的な評価も、第三者からの客観的な格付けにも興味はない」

 久郷の様子はどこまでも無機質だった。

「依頼を達成できるかどうか、それが殺し屋の全てだ」

「ずいぶんとストイックやな。友達にもよう言われへんか? 『クソ真面目』ってな」

「あいにくと、そんな事を言い合える者達はもう誰一人としてこの世にいない」

「おっと、それは失礼。嫌な事訊いてもうたわ」

「気にしなくて構わない。もう何年も前の話だ」

 それよりも、と話題を切り替え、久郷はサングラス越しに西條を見据える。

「この依頼、続けさせてもらっても構わないか?」

 朝、この件について西條からはこう聞かされていた。

 ――『全員とは言わん。そのリストから最低二人殺してくれ』と。

 すでに久郷は三人を殺害している。

 もう依頼は達成したも同然であり、これ以上首を突っ込む必要はないに等しい。

 西條もそれを訝しく思ったようで、眉をひそめつつ――

「別に構わへんっちゃあ構わへんで? 二人までなんちゅう決まりはあらへんしな。せやけど、あんたにメリットはないやろ? 時間と銃弾の無駄になるだけちゃうか?」

「この依頼の中で会っておきたい人物がいる。それだけだ」

「ひょっとして、朝話してた奴か?」

「……そうだ」僅かな間をもって久郷は肯定する。「リストに記載されていた標的の最後の一人……四十沢。奴を追っていけば、こちらの探しものが見つかるかもしれない」

 脳裏に思い浮かべるのは銀色の髪。そして、それを携えた光り輝くシルエット。

 特定の『誰か』ではない。

 その輪郭は久郷の中で形を変え、男にもなり女にもなる。子供にもなるし大人にもなる。

「これは『殺し屋』ではなく、俺個人の目的だ。その銀髪の何者かを見つけて話をする。……場合によっては命を奪う。そのために、俺はまだこの世界にいる」


  (12月18日 午前10時21分~午前10時30分 浅湖経済大学、キャンパス内)


 一時限目は情報処理関係の授業。

 一〇メートル四方ほどの講義室の前方にはスクリーンが掲げられ、教卓のPCから映される映像が忙しなく切り替わっていく。講義室備えつけのデスクトップPCを学生達が慣れない手つきで操作している。

 昨今の大学生はスマートフォンに親しみ過ぎて、PCの扱いは苦手などと言われているが、笹井(ささい)(はじめ)にとっては関係ない話だった。少なくとも、教卓で気だるげに話している非常勤講師よりは、そのあたりのスキルはあるはずだからだ。

「…………」

 手許のキーボードを叩く。ディスプレイに表示されているのは、教員が指定したソフトウェアではなく、メッセージアプリだ。左右から吹き出しが出てくる形のベーシックなものだが、そのインターフェースは従来のものとは異なる。

 一般向けに公開されている正規品ではないのだから、当然と言えば当然だ。

 とはいえ、それは笹井の所属する消耗品部隊や、彼より上の人間が扱うものでもない。

 このアプリを作ったのは個人。

 決して外部から覗き見される事のないよう、完璧なセキュリティを施した一品。もちろん、学生用のPC画面を見れるようになっているはずの教員からも、そのアプリの存在を確認する事はできない。『彼女』自慢の自信作だ。

『昨日はお疲れ。どうだい? 役に立っただろう? 僕の渡した情報は』

 講義室の最後方にいる笹井と違い、彼がメッセージを送った相手は最前列にいる。

 すぐに返信は返ってきた。

『こちらとしては生きた心地がしませんでしたがね……。勘弁してほしいもんですよ、全く……。襲撃者の一人と内通してたなんて知られたら、どうなる事やら……』

『別に仲間を裏切っている訳じゃないんだ。むしろ、敵から情報を引き出して役立てているんだから、褒められこそすれ怒られる事はないだろう?』

『……そういうのヘリクツって言うんですよー……』

『あいにく、生まれつきこういう性格でね。矯正は無理だ。で、首尾はどうだい? 雀森』

『訊くまでもないでしょう? 笹井君の送ってくれた情報で、第一三支部襲撃についても知れましたし、能力者がいる事も事前に分かっていましたから、比較的楽に作戦練れましたしね。結果はあの通り。笹井君の上司達は瞬殺です』

『まあでも、別にペンデュラムやガロットの事は話さなくても良かったかもね。僕の情報がなくても苦戦する事はなかったんじゃないかな? 君らのところのお姫様なら、さ』

『それは間違いないですね』文章だけだが、それはどこか自信ありげに見えた。『能力者としてはド三流も良いところです。あの子じゃなくても、私達で一人くらいなら倒せましたよ?』

『一応、僕らにとっては「絶対の存在」だったんだけどね。あの人達は』

『そいつらを出し抜いて謀殺した張本人が何言ってんですか……』

『いやいや、紛れもなく本心だよ』

 事実、上司の能力者達は笹井にとって邪魔以外の何物でもなかった。

 連中に届く『牙』を手に入れたのだって、つい最近の出来事だ。

『いくつか想定外の事態もあったけど、八割がた上手くいった。僕の悲願成就までもう少しだ。君には本当に感謝してるよ、雀森』

『まあ、曲がりなりにも、今回の件以前からの腐れ縁ですからね。私としても、笹井君とは完全に敵対したくはありませんでしたから』

『……ありがたいね。そう思ってもらえて』

『これから、どう動くつもりですか? 「自然回帰」は虫の息ですよ。組織存続のための最低限の情報は別の施設に移せたみたいですが……完全に体勢を立て直すには、最低でもあと一か月はかかります。ご令嬢も未だに見つかってませんしね』

『機会を見て動くよ、僕達も。あと、娘さんの件については、こっちでも色々調べとくよ。上からのお咎めもなくなった今、娘さんにこだわる理由はなくなった。見つけたら、君達に譲ってあげるよ』

『助かります。うちのリーダーいわく、「自然回帰」とはもう手を切りたいらしいので』

『娘さんを拉致して交渉の材料にするのかい? 物騒な事するね』

『何度でも言いますけど、笹井君にだけは言われたくないです』

 それから二、三言交わし、笹井はおぼろげに時計に目をやった。

 そろそろ講義が終わりそうなころだった。

『それじゃあ、また。何かあれば連絡するよ』

『こっちとしては控えてもらいたんですけどねー……ハッキングやってるフリして笹井君と話してるところ覗かれたら一貫の終わりなんですから……』

『その時は消耗品部隊に来なよ。こっちには優秀なハッカーがいなくてね。雀森が来るなら歓迎するよ』

『絶・対! イ・ヤ・で・す!』

 講義終了を告げる安っぽい電子音が鳴った。


  (12月18日 午前10時27分~午前10時31分 浅湖経済大学、図書館)


「ここに来るのも久しぶりだな……二年ちょっとぶりくらいか……?」

 胸に込み上げてくる懐かしさを感じながら、文谷良助は図書館の自動ドアを潜った。

 望実は一応高校生なため、夕方までは学校。

 となれば、現在絶賛無職な良助は暇を持て余す。

 何せ、大学を卒業してからの良助は一日中働き詰めだったのだから。

 一人暮らしをしている嘉島荘の部屋には、生活するのに最低限必要な家具以外何もない。趣味の一つも持てない生活を二年以上続けてきた良助にとって、有り余った時間の使い道など思いつかなくなっていた。

 だから、母校に足が向いたのも何となくだった。

 図書館は、現時点で学部生でなくとも卒業生であれば利用できる。

 時間潰しにはある意味最適な場所だ。

 カウンターで卒業証書と身分証明書を見せて、利用証を発行してもらう。

 まだ一限目の最中だからか、館内に学生はほとんどいない。三階建ての図書館の階段を上がり、小説などが置いてある最上階へ。フロアの両端はガラス張りとなっており、光を存分に取り入れられる構造になっているが、あいにくと今日も天候はすぐれない。窓を濡らす雨粒が水玉模様を形作っていた。

 古い紙とインクの匂いが漂う館内を歩く。

 ――学生のころは自習と休憩以外に使う事なんてなかったなあ、図書館なんて……。

 大した思い出もない学生時代を思い出しつつ、目的の場所へ向かう。

 フロアの奥の方、小説が置いてある一角まで来ると、そこには先客がいた。

 長身で銀髪のパンクファッションの青年だった。整った顔立ちは日本人にしては掘りが深く、まだ幼さが残る他の学生に比べて、やけに大人びている。大学なので、彼自身の年齢が本当に高い可能性もあるにはあるが、そういう訳ではないという事は、良助には分かっていた。

 なぜなら――

「麓洞? 麓洞じゃないか」久々に知り合いの名を呼ぶ。

 青年――麓洞梗弥がこちらに気づき、驚いたように目を丸くした。

「あれ? 文谷さん? 文谷さんですよね? 何でここに?」

「ちょっと色々あってね……仕事、今やってないんだ」嘘にならない程度に話を濁す。それから、その事を突っ込まれないように話題を転換する。「どうしたんだ、その髪? ずいぶん派手な色に染めてるじゃないか」

 良助の記憶にある梗弥の髪は黒だった。とはいえ、梗弥と知り合ったのは彼が入学してきたばかりのころなので、今現在彼が染髪している事に不思議はないのだが。

 梗弥は整髪料で整えられた自身の髪をいじくりながら、「こっちも色々ありましてね」と自嘲気味に笑う。「――今、彼女がいるんですよ」

「へえ。麓洞の彼女さんなら、そりゃあ綺麗な子なんだろうね」

「そうなんです。あの子は世界一です」梗弥は社交辞令程度の謙遜すらしなかった。どうやら相当入れ込んでいるようだ。

「それで、彼女さんと、その頭の関係は?」

「はい、僕の彼女、アルビノなんです。とはいっても、全身じゃなくて髪だけ色素がない珍しいタイプなんですけど。彼女、周りと違うせいで、昔色々あったみたいで……」

「なるほど」

 梗弥が事情を説明し終える前に、良助はある程度察した。

「彼女さんのため、か……誠実だね。君らしいよ」

「もちろん、それだけじゃないですけどね」

 梗弥は柔和な笑みを浮かべ――

「『一緒』になりたかったんです。彼女と。彼女と『同じ』になって……何もかも共有したかった。仲の良い後輩には若干引かれましたがね、朝丘って奴なんですけど」

「僕はそうは思わないよ。麓洞のそんなところが『誠実』だって思う根拠だよ」

「ありがとうございます。そんな事言ってくれるの、文谷さんくらいだ」

「はは、昨日も別の子に同じような事を言われたよ。……でも、ま、上手くやっているみたいで良かった。その朝丘って子とも、まだ仲良くしてるのかい?」

「ええ、まあ。こいつが手のかかる奴でして。ロクに単位も取らずに遊び惚けてるような、どうしようもない不良学生なんですよ」と言う梗弥の様子はどこか楽しそうだ。「今でもかなり危ないですけど、僕が助けてやってなかったら、今頃留年確定してたでしょうね。ま、僕と彼女の話に引きやがった時は、一科目完全に見捨ててやりましたが。それからはだいぶ従順になりましたね」

「はは、えげつない事するね」

 他愛ない事を話し合っていると、館内のスピーカーから一時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。ちょうど一〇時半だ。

「おっと……もう時間か。それじゃあ僕はそろそろ行きますね。二限目があるので」

「と言っても、麓洞ももう四回生だろう? 単位なんて全部取りきってるんじゃないのかい? まさか君まで留年の危機になってたりしないよね」

「心配せずとも卒業するのに問題はないですよ。ただ、まだ勉強しておきたい事がたくさんあるんです。……彼女と生きていくためにも」

「……そうか」

 良助は心の底から微笑んでみせた。

 ――麓洞は僕と違って、良い道を選べたみたいだ。

 胸の内で梗弥を賞賛しながら、彼を見送る。

「それじゃあね。久しぶりに会えて良かったよ」

「こちらこそ」梗弥は歩き去りながら、「次の仕事、早く見つかると良いですね」

「はは、痛いとこ突いてくるね……。まあ、頑張るよ」

 世の中、そう簡単に上手くはいかない。

 まして、一度完全に失敗してしまった自分のような人間ではなおさらだ。

 最後の最後に選んだ選択肢すら、一回りも年齢の低い子供に止められてしまうのだから。

 先の見えない、いや――先の『ない』トンネルをひたすら彷徨うしかないのだ。

 文谷良助は。


  (12月18日 午前11時41分~午前11時50分 嘉島荘、204号室)


 砂木真人の布団で小柄な少女が寝息を立てていた。

 彼女の傍らにはログインしっぱなしでゲーム画面が放置されたノートPCがある。日々の電気代すら切り詰めて生活している砂木にとっては何気に痛い。とはいえ、勝手に触って、あとから何か言われても面倒なので放っておく以外に方法はない。

 砂木は少女――土倉梢を見やりながら、「傷だらけで泣きついてきたり、そのまま気絶したり、手当てしたらゲーム始めたり……そんで昼になっても爆睡してたり……忙しい奴だな……」と疲れたように呟いた。

 結局、今日の学校は休んでしまった。

 自分の勉強と後輩の安否。それらを天秤にかけた時、砂木は無意識に後者を選んでいた。

「で、どうすんだ? 砂木。土倉ちゃん……だっけ? 病院にも行きたくないし、警察にも連絡してほしくないんだっけ?」

「つーか、あんたは何でここにいるんですか? 酔いが覚めたなら、さっさと帰れ。そして何であれだけキマッてたのに記憶あるんですか。今回に限って……」

 辛辣な言葉を投げかける先には、同じ嘉島荘の住人である朝丘大司(たいし)がいた。こいつもこいつで昨日の夜はゲームに興じて砂木の安眠を妨害しまくっていた(その後、すぐに梢にゲームから強制退去させられていたが)。

 朝丘は未だにアルコール臭い口であくびをしながら、「いやいや、忘れられる訳ねえじゃないの」と梢を指差した。「こんな可愛い子がチームメイトだったんだぞ。そりゃ興奮すんだろ。記憶飛ばしたくても飛ばせねえだろ、なあ?」

「うるせえ、犯罪者予備軍」

「さすがに手は出さねえよ。ブルー……土倉ちゃんは大切な友達だからな」

「……そうですか」

 朝丘は台所で組んできた水を一口飲むと、少しだけ真剣な様子で話し出す。

「いくら何でも、こんな状態の子供連れ込んでんのバレたら、俺達も無関係って訳にはいかなくなる。同じ学校で未成年の砂木ならともかく、俺は間違いなく警察のお世話になるだろうな」

「……なら、さっさと逃げた方が良いんじゃないですか? 回れ右して出ていって、隣にある自分の部屋まで戻れば良い。もし、こっちに何かあったとしても朝丘先輩を売ったりはしませんよ」

「そいつはありがたい提案だが……」朝丘はグラスの中身を飲み干すと、自分の部屋から持ってきていたノートPCを横目で見た。「さっきも言っただろ? 土倉ちゃんは友達なんだよ。たとえ実際に会ったのが、昨日が初めてでもな。見捨てる訳にはいかねえよ。土倉ちゃんが何か抱えているんなら、俺も協力するぜ」

「朝丘先輩……」

 腐れ縁の先輩を少しだけ見直そうとした直後、「たとえ、大学をサボる事になったとしてもな!」という身も蓋もない発言が飛んできたので、砂木は容赦なく手許にあった枕で駄目人間をぶっ叩いた。


  (12月18日 午前11時43分~午後12時46分 狐根山高等学校、校内)


 ――さて。

 ――どっちから……そんで、どうやって問い詰めようかね……。

 昼休み前の四限目の授業。

 周囲の生徒達は昼の眠気に負け、半分ほどが居眠り(リタイア)している。戸賀望実自身も普段はそんな連中の一人であるのだが、今日だけは違った。目は限界まで冴えわたっている。

 とはいえ、教壇で退屈な話を延々と続ける教師に意識が向いている訳ではない。

 望実の興味の対象は、同じ教室にいる二人の少女。

 それも一年近く交友関係にある友人である。

 机の下、教師の死角になるところでスマートフォンを操作する。画面には昨晩撮影した写真が映っている。

 一枚目の写真には、キャスケット帽の女および鉤爪を装備した男と対峙する鋼岬彩美。

 二枚目の写真には、鉤爪男と銀髪の青年が乗るバイクのサイドカーに収まる白坂桔奈。

 そして。

 三枚目の写真には。

 左腕を赤く染め、苦し気な表情で『自然回帰』の支部から逃走する土倉梢の姿――。

 ――昨日、あんな事があったにも関わらず、三人の内二人は学校に来てる……。

 そう。

 彩美と桔奈の二人は普段と変わらず、何食わぬ顔で授業を聞いている。とはいえ、彩美の方は顔中に絆創膏やガーゼなどが貼られており、その下の皮膚も心なしか腫れているように思える。袖の先や襟の隙間からも、ぐるぐる巻きにされた包帯が見え隠れしており、かなり痛々しい。

 そんな友人達を見て、望実はこう結論付けた。

 ――たぶん、二人にとって昨晩みたいな事は『日常』なんだろうね。

 ――私が知らないところで、何度も何度も繰り返してきた『当たり前』の延長……。

 それを暴く。

 だが、彼女らはずっと自らの秘密を隠し通してきた。

 それはつまり誰にも知られたくないという事に他ならない。ただの友人の一人でしかない望実には、当然教える気はないだろう。

 ――さすがに……鋼岬の方は後回しね……。

 ――何の策もなしに突っ込んで殺されたら、たまったもんじゃない。

 一部始終という訳ではないが、望実は確かにこの目で見ていた。

 この世のものとは思えない力を振るう女と、人間離れした身体能力を有する鉤爪男。そして劣勢ながらも彼らと渡り合った彩美の姿を。

 キャスケット帽の女と同じく、人間の理解を越えた力を振るって戦う彩美。問い詰め方を間違えれば、その殺意が望実に向くかもしれない。そんな事は御免だ。

 ――まずは白坂ね。

 望実は標的を定める。

 この際、彼女達との関係が壊れる事になったとしても構わない。

 ――悪いけど、私の好奇心の方を優先させてもらうよ。

 ――必ず化けの皮剥いでやるわ。


        ***


「うん。それ、確かにボクだよ。驚いた。戸賀さんもいたんだね、そこに」

 昼休み。

 場所は屋上(もちろん、施錠されていた扉は無理矢理こじ開けた)。

 望実は一瞬、自分の置かれた状況が理解できなかった。

 先ほどまでの想像とは一八〇度異なる反応が返ってきたのだから仕方ない。

 誰が見ても間抜けな顔を晒しているだろう事は理解しながらも、望実は自分の表情筋を元に戻す事ができない。「……えーと……白坂、さん……?」

「別に隠してる訳じゃないよ。言う必要がなかっただけ」

「……それだけ?」

 その問いにも、桔奈は小動物のように頷くだけだ。

「『自然回帰』についてはどれだけ知ってる?」

「正直に言うと、何も知らないよ」桔奈はあっさりと答えた。「独自に調べたりもしてないし、もしかしたら戸賀さんの方が詳しいかも。ボク達は依頼で、その鉤爪男を『自然回帰』の支部まで送り届けただけ。あとは、その写真の通り。全部終わったあとにビルから出てきたその人を乗せて逃げた」

 ――嘘は言ってないように思うけど……。

 桔奈自身、元々何を考えているのか分からないところはあったが、やはり釈然としない。

 ――自分の身分は正直に答えて、『自然回帰』については、ぼかした……?

 ――いや、白坂にとって『自然回帰』は敵対する存在のはず……!

 ――少なくとも仲間ではない……! 庇う必要なんて、これっぽっちもないはず……!

 ――それなら……やっぱり嘘はついてない……。

 一人考え込んでいると、不意に耳許で桔奈が囁いた。

「他に何か訊きたい事はある? 個人名について以外なら、できる限り答えるよ」

「……なら、最後に一つだけ」

 望実は低い声と共に、スマートフォンに保存されている『もう一枚』の写真を見せた。

「鋼岬については? どう?」

 それは鋼岬彩美が映っていた方の写真。そして、そこにはもう一人重要な人物が映り込んでいる。そう――桔奈と行動を共にしていた鉤爪男だ。

「この鉤爪野郎をビルに送り届けたのは鋼岬を狙わせるため? それなら、何かしら知っているんじゃないの?」

「信じてもらえるかは分からないけど」と桔奈は前置きしてから、「鋼岬さんがいたのは、完全に偶然」と言った。「ボクらが……というより、鉤爪の人が狙っていたのは『自然回帰』の幹部達。そこに、そのキャスケット帽の女の人や、彼女を統率している人も含まれてた」

「つまり、鋼岬は商売敵って事? 白坂達にとっての」

「そういう事になるかも。だからこそ、その場面で『三つ巴』になったんだろうし」

「昨日の事について、鋼岬とは何か話したの?」

 桔奈は首を横に振った。「何も話してないよ。確かに、あの場所に突入した時に鋼岬さんと目は合ったけど、それだけ。……でも、それで良いんだと思う」

「鋼岬は……明らかに普通の人間とは違う。変な能力使って、簡単に人を殺せるような奴だ。それでも、白坂は『今まで通り』の関係を続けるつもり?」

「うん」桔奈の目に迷いはなかった。「裏ではどんなに立場が違っても、学校に戻ればボク達は友達。その事実は変わらないと思う。鋼岬さんがどう考えてるのかは分からないけど、彼女が何も訊いてこないって事は、このままそっとしておいてほしいって事なんじゃないかな?」

「…………」望実はしばらく無言を貫いたのち、「……はあ」と嘆息した。「私の負けね。分かった。これ以上は何も訊かない。だから――これからもよろしく、白坂」

「うん、よろしくね、戸賀さん」

 桔奈の口許が少し綻んだのを見て、望実も小さく笑った。

「でも、『自然回帰』について諦める気はないから」とそこだけは語気を強めて宣言した。「そいつを徹底的に調べ上げるのが、白坂が言うところの『私の裏の立場』。その点については妥協するつもりはない」

「分かった。ボクも、その事については何も訊かないし、何も言わないよ」

 やがて昼休みが終わる。

 予鈴が鳴ると、それまで騒がしかった校内が少しずつ静かになる。

「ボク達も戻ろっか。授業、始まっちゃう」

「……だな」

 全てのわだかまりを屋上に置き去りにして、望実と桔奈はその場をあとにした。


  (12月18日 午後12時22分~午後12時46分 浅湖経済大学、食堂)


「やあ、東雲君。昨日は良く眠れたかい?」

「……世間って……意外と狭いんですね……」

 大勢の学生でごった返す昼休みの食堂。

 窓側のカウンター席の隅で煮魚をつついていた東雲晴雨に声をかけてきたのは、彼にとって非日常の象徴と化した青年だった。

「まあ、大学のレベル的にも人は集まりやすいしね。特に、僕達みたいな人間には都合が良いんだよ。人里離れたところに建てられた他の大学と違って、ここは街中にあるからね。招集がかけられても、すぐに目的地まで向かえるしさ」

 笹井肇は涼しい顔で説明すると、東雲の引きつった表情など完全に無視して――

「少し、時間良いかな? 東雲君に会わせたい人達がいるんだ」

「会わせたい人達?」

「まあ、三人共、昨日いた人達だけどね。ちゃんと話してはいないだろう? これから一緒に仕事をこなしていくんだ、紹介くらいしておいた方が良いと思ってね」

「はあ……」

「同じ食堂内にいるから。ついてきて」

 そう言われ、東雲は食べかけの料理の乗ったトレーを持って席を立つ。

 先導する笹井のあとをついていくと、堂内の中央辺りの席に見知った顔ぶれを見つける事ができた。

 いたのは三人の男女。内訳は男が一人と女が二人。昨晩の『自然回帰』支部襲撃の際に戦っていた者達だ。長身で三〇代くらいの侍ヘアーの男性が鮫島という名前だった気がする。制服の上からジャージを羽織ったボブカットの少女と、ブレザーにツインテールの少女については名前までは知らなかった。

「紹介するよ」と笹井が軽い調子で切り出した。鮫島、ジャージ少女、ツインテール少女を順番に指し示しながら、「鮫島さん、武田香織、五十嵐御守」と名前を呼び上げる。「彼らは、消耗品部隊の中でも僕が最も信頼している隊員で、最も長く生き残っている隊員でもある」

「ちなみに俺が五年で、武田が四年半、五十嵐が四年だ」と鮫島が補足を入れる。「笹井に至っては七年。ぶっちぎりの古株だぜ」

「七年……」思わず東雲は反芻していた。たった一日、いや、一晩だけでも幾度となく死にかけた。そんな生活を年単位で続けているというのか、この者達は。「……しかも、武田さんと五十嵐さん、でしたっけ……? 見る限りだと、二人はまだ高校生くらいですよね……? それなのに……」

「もう慣れた。人殺しの恐怖も嫌悪感も、とっくの昔にどこかに行っちゃったよ」と返したのは武田香織だった。彼女は、くせ毛混じりのボブカットの毛先を指でくるくると回しながら、「まだ義務教育も終わってないころから、何十人も殺ってきたんだ。感覚が麻痺しない方がおかしいと思わない?」と吐き捨てる。「まあ、この先生き残り続ければ、きっと君にも分かる時が来るよ。……ああ、ちなみにアタシは高校生だけど、そっちのツインテールはまだ中学生ね」

「はい! 五十嵐御守、一五歳の中学三年生です!」

 落ち着き払った雰囲気の鮫島、香織と異なり、元気良く挨拶するツインテール少女。

 御守は人懐っこい笑顔を振りまきながら、「これからよろしくお願いしますね! 東雲さん!」と東雲を見やった。「一緒に生き残りましょうね!」

「あ、ええと……東雲晴雨と申します……。その……昨日は本当に申し訳ありませんでした……! 俺がターゲット逃がしてしまったせいで……皆さんにご迷惑をおかけしたようで……その……」

 しどろもどろになりながら自己紹介と謝罪を口にする東雲に、笹井が苦笑交じりに言う。

「気にしなくて良い。むしろ東雲君は良くやった方さ。本来は、最初の仕事を五体満足で生き残る事さえ難しいんだ。十分過ぎるほどの成果だ」

「ま、とにかく座りな」と鮫島が促す。「東雲。昨晩のお前の働きを見て、笹井から頼みがあるみたいだぜ?」

「頼み……? 俺に……?」

「まあ、そんなところだよ」肯定しつつ、席に着く笹井。「ほら、東雲君も」

「は、はい……」訝しみながらも着席する。

 鮫島達は、このあとの話は笹井に一任するつもりなのか、一斉に黙り込む。

 周囲の学生達がいつも通りの日々を過ごす中で、今東雲達がいるこの場だけが異様な雰囲気を纏っているように感じられた。

「詳細は長くなるから、先に結論から言うね」

 笹井は落ち着き払った調子で話を切り出す。

「僕らと組まないか? 東雲君」

「組む……?」すぐには笹井の意図を掴めなかった。「ええと……俺達は消耗品部隊っていうのに所属している……んですよね? なら、組むも何も……」

「そうだね。東雲君を含めて、僕が指揮する消耗品部隊は全部で三二名。確かに東雲君の言う通り、僕らは最初から手を組んでいるとも言える」

「じゃあ……笹井さんの言う『組む』というのは……」

 東雲が再び投げかけた疑問に、笹井は真剣な眼差しで答えた。

「僕には……ある『目的』がある。それを果たす事ができれば、少なくとも今いる三二人を、全員この地獄のような日々から解放できるはずなんだ」

「……! それって……!」

「おっと。これ以上はまだ教えられないな。……君の答えを聞くのが先だ」そう言って、笹井は僅かに威圧すような視線で東雲を見据える。「さあ、選んでくれ。――僕らと手を組むか、それとも組まないか」

「……仮に、俺が後者を選んだら……どうなりますか……?」

「別に何もないよ。今いる部隊員の中にも、僕の誘いを断った人はいる。そういった人達とは『仕事』の時に協力するだけの関係だ。……ああ、安心して良いよ。東雲君が仲間にならなかったとしても、最低限の生き抜く術は教えてあげるから」

「…………」

 笹井の言う『目的』とやらが何なのかは分からない。

 彼らと手を組み、その『目的』を成し遂げれば解放される――当然、今の東雲にとっては美味しい話だ。そう、都合が良過ぎるくらいに。

 ――冷静に考えろ……。

 ――昨日今日入ったばっかの新人に、そんな重大な秘密を打ち明けるか? 普通……。

 ――何かを試している? じゃあ何を?

 ――いや、そんな事決まってる……新入りが裏切らないかどうかだ……。

 そうだ。

 昨日、召集された時の事を思い出せ。

 あのアイアンメイデンと呼ばれていた少女からのメールを。

 ――GPSか何かを使ってるのか、あの女は俺のいる場所を把握してた……。

 ――それなら、俺や笹井さん、鮫島さん達がこの大学にいる事も分かってるはず。

 ――当然、今何をしているかも……。

「アイアンメイデンが僕達の事を監視してると疑ってるね?」

「……っ!」

 ぎょっとする東雲に、笹井は含みのある笑みを見せた。

「察しが良い。君が自覚してるかは分からないけど、僕が君に注目したのは、そういう感の良さがあったからでもある。もちろん、それだけじゃないけどね」

 笹井は一拍置いてから、再び口を開く。

「そのうえで言うけど、その心配はない。確かに、僕らの体には発信機が埋め込まれていて、アイアンメイデンや、さらに上にいるだろう連中にも居場所は筒抜けになってる」

 ――やっぱりか……。

「でも、向こうが分かってるのは、あくまでも居場所だけだ。音声までは届いていない」

「失礼を承知で訊きますが……そう言い切れる根拠は何ですか?」

「根拠は二つ」笹井は指を二本立てる。「一つは、僕らに金をかけるほどの価値がない事。要するに、声まで聴けるような高性能な発信機を仕込む意味なんてないって訳だ。消耗品の名の通り、僕達は最低限の管理しかされていない」

「もう一つは……?」

「そっちはもっと簡単。アイアンメイデン本人に訊いて確認した」

 さらりと言ってのける笹井に、東雲は疑いの目を向ける。

 さすがに東雲にだって理解できている。あの少女は東雲達を『支配する側』で、東雲達は『支配される側』だ。誰がどう見たところで両者は明確に対立している。自らを不利にするような事実を簡単に教えるはずがないだろう。

 しかし、やはり東雲の胸中を見透かしたように笹井は告げた。

「昨日も見てたと思うけど、僕はアイアンメイデンを含む『支配する側』から一定の信頼を勝ち得てる。……最初、消耗品部隊は完全な捨て駒でしかなかった。不幸にも裏の世界を見てしまった者達を拘束、監視し、危険な現場で死なせて処分させるための仕組みに過ぎなかったんだ。――でも、僕はその現状を変えた。能力者達をサポートする下部組織としての地位を確固たるものにした。その実績が評価されて今に至る……って訳さ」

 信じるか信じないかは君次第だ、と笹井は付け加え――

「こちらから、できる限りの説明はしたつもりだ。改めて訊くよ。東雲君は、僕らについてくる気はあるかい? 悪いけど、今この場で決めてほしい」


  (12月18日 午後2時7分~午後2時35分 某所)


「眠い……眠気がピークに達して気持ち悪い……寝たいです……寝て良いですかー……?」

「……駄目だ。このあとも仕事がある。夜通し遊び惚けていたお前の責任だ」

 どこかのマンションと思われる場所の一室。ちょうどリビングのような構造となっている部屋に、四十沢と絹花はいた。雀森は大学、遠藤と井筒屋も所用で出かけており、今は二人の男女しかいない。

 昨日、岩佐という雑誌記者を尋問した部屋とは思えないほど緩い空気が漂っていた。

 四十沢の真正面に置かれているCDプレイヤーに繋がったスピーカーからは、普段絹花が遊んでいるオンラインゲームのサウンドトラックが流れている。

 部屋中央に置かれたソファには四十沢が腰かけ、自らのノートPCのキーボードを叩いている。そして四十沢の後ろには、その大柄な体に抱き着くようにしてうなだれる銀髪キャスケット帽の女が一名。死にかけの蛙のような呻き声を洩らしつつ、一向に離れる気配はない。

 しばらくは絹花を無視して作業に没頭していた四十沢だったが、やがて痺れを切らしたように重い口を開いた。「……いつまで、そこにいるつもりだ……?」

「次の仕事が始まるまでえー……もし寝たら……むにゃ……四十沢さんが起こしてくれるじゃないですかー……むにゃむにゃ……ぐー……」

「……全く……お前という奴は……」

 四十沢は呆れたように溜息を吐きながらも、絹花を引き剥がす事はせずに作業に戻った。

 ――しかし……変わったな……。

 自身にもたれかかる体重を感じながら、二十歳前後の、まだ幼さの残る顔立ちを見やる。

 彼女を保護したのは何年前だったか。この世の全ての絶望を湛えたような瞳で、全人類に対する怨嗟の声を放ち、夜になれば悪夢にうなされ狂ったように泣きわめく。世界に自分の居場所は存在しないと信じ込み、四十沢達とも常に距離を置き、決して心からの信頼を見せる事はなかった。

「……それが今や、この有様か……」やがて四十沢は小さく呟く。

 四十沢の声はどこまでも平坦だったが、彼を良く知る者が聞いていたのであれば、僅かな声色の変化を感じ取っていただろう。

「少なくとも、喜んで良い事ではあるのだろうな……」

 たとえ完全に意識を手放したのだとしても、周りには自らの命を狙う者はいない。それを完全に理解しているからこそ、耳元で聞こえる寝息はどこまでも安らかなのだろう。

 二人きりの時間は、まだしばらく続く。


  (12月18日 午後2時34分 某所)


 燃えて、焼ける。

 様々な臭いが鼻腔を突く。

 木材が焦げる臭い。人が炭になる臭い。鉄臭い血の臭い――。

 あちこちで爆発音が響き、分厚いコンクリートの壁が砕け散る。

 悲鳴が聞こえた。

 言葉にならない言葉を誰かに向かって叫んでいた。

 それを誰かの悲鳴が虚しく掻き消して、その悲鳴がまた別の誰かの悲鳴で掻き消される。

 惨劇の中心で、一人の少年が笑い声をあげていた。氷のように冷たい銀髪と、それに不釣り合いなほどの激情を込めた眼差しで、自らが壊した全てを眺めていた。

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――、」

 どこまでもリアリティのあるその光景を、絹花は落ち着いた様子で傍観している。

 分かっている。

 これは夢だ。

 過去の自分が脳の奥に押し込めた、どうしようもない現実。それが睡眠という行為を引き金にして、意識の中に再構築され、こうして見せつけてきているのだ。

 決して忘れるなと。

 永遠に罪の意識に苛まれ続けろと。

 お前に人間として生きる価値はないのだと。

 消えない傷跡を深く深く、何度も何度も容赦なく抉ってくるのだ。

 だが。

 絹花は動じない。

 どこまでも他人事といった様子で、その惨劇を眺め続ける。

 かつて、幾度となく自身を苦しめた再現映像を、つまらないバラエティー番組でも観ているかのように、一切の感情の排した瞳で捉え続ける。

 そうだ。

 こんなもの、もう怖くもなんともない。苦しくもなんともない。意識の最奥に潜む断罪人が、いくらその手の鎌を振るおうとも、自分には何の関係もない。

 なぜなら、この世界の向こう側には、心の底から信頼を寄せられる人がいるから。

 何があっても自分を裏切らない、絶対の仲間がいる事が分かっているから。

 過去を清算する事はできなくとも、それを押しのけられるほどに充実した現在(いま)がある。

 だから、自分は大丈夫。

 自分の知らない自分に押し潰される事なんてない。

 忌まわしき過去に唾を吐き捨てて、これからも進んでいくのだ。


  (12月18日 午後4時23分~午後4時38分 霧崎鷹の自宅)


「つーか、ほんと信じられないんだけどー? せっかく人が死ぬ思いで情報集めてやったってのに収穫ゼロって何よ? 社会人としての自覚ありますかー? きりさきたかクーン?」

 昨日からずっとこの調子である。

 不機嫌度一二〇パーセントな感じの坂島綾華からの一方的な罵りが耳に痛い。

 そして実際、霧崎には一言たりとも言い返す資格はないのだった。

 ――くそが……! 一体誰なんや、俺の獲物横取りした奴は……!

 昨晩の『自然回帰』第一三支部内での、能力者の少女達との戦いののち、霧崎は支部内を駆けずり回って標的を探した。しかし、『生きた状態』で発見できた者は一人もいなかった。当初、狩る予定だった椎葉、宇津井、唐松の三人は、全員が首の肉と片方の眼球を抉り出された状態で絶命していた。

 それはつまり、霧崎以外の『殺し屋』が先に獲物をかっさらっていったという事を示す。あの釘使いの少女や、その部下と思われる連中の仕業ではない。推測でしかないが、奴らの目的は要人の暗殺などではなく、大規模な戦力での『殲滅』だった。だから、『殺し方』や『死体の処理』が極めて雑であった。細切れにされて個人の特定すら困難なものも散見された事から、全く的外れな推測でもないだろう。

 要するに、霧崎の知らない『第三者』が、あの場に潜り込んでいたのだ。

 あれだけの騒ぎの中、自らの存在をほとんど臭わせる事なく仕事をこなす。おそらく、只者ではない。霧崎よりも殺し屋としての腕は格段に上だろう。

「…………」

「そんで、どうするんや? 霧崎」と、霧崎と似た口調で話しかける声がした。

 霧崎と綾華以外に、部屋にはもう一人いた。

 派手に染めた金髪にシルバーフレームの眼鏡。紺色のマウンテンパーカーのファスナーは一番上まで閉められている。細身のスキニージーンズによって脚のラインが協調されており、彼が不健康なほどに痩せ型な事を窺わせる。

 西條勉はリビングのキッチンで、自身が持ち込んだコーヒーメーカーを使って、人数分のコーヒーを作っている最中だった。普段は生活臭すらしないような空間に、芳醇な香りが漂っている。市販のものでは出せない質のものだ。ド素人の霧崎にも、西條のこだわりが感じられる。

「いちいち訊くような事やないやろうが。もっぺんどつかれたいか? 西條」

 霧崎は苛立ち混じりに吐き捨てた。

 ちなみに西條勉の右顔面には大きなガーゼが貼りつけられており、その下の皮膚はパンパンに腫れ上がっていた。当然、やったのは霧崎である。

 昨日の宣言通り、この部屋の鍵を綾華に渡した事の制裁として、本気の殴打をお見舞いした。少なく見積もって、三日は腫れが引く事はないだろう。

 霧崎は自分に言い聞かせるように――

「『自然回帰』の雇っとる用心棒集団……連中を殺る。リーダーの四十沢、そんで能力者の女。まだ、あの二人が残っとるやろ。十分挽回はできる」

「悪い事は言わん、手を引け」

「あ?」

 ガンを飛ばす霧崎に対し、西條は真剣な様子で――

「お前が戦った女は人間やない。正真正銘のバケモンや。麓洞達に見せさせた映像で怖気づかなかったんは想定外やった。お前の戦闘狂っぷりを見落としてた俺の落ち度や」

「でもさ」と口を挟んだのは綾華だった。こたつに潜り込み、仰向けの状態で本を読みながら、「現にタカは無事に帰ってきたじゃん」と言った。「つまりタカは能力者相手にも負けなかったって事。しかも、つとむっち達が把握してた奴以外にも、もう一人いたんでしょ? タカは馬鹿だけど強い。そんなに怖がる必要ないんじゃ……」

 おいコラ、誰が馬鹿やコラという霧崎の指摘を無視して、西條が綾華の言葉を否定した。

「ほんまに能力者だけやと思うか? 危険なんが」

「……? どういう事よ?」

「簡単な事や」出来上がったコーヒーの入ったカップ三つをトレイに乗せ、霧崎の部屋に入ってくる西條。彼はこたつの机にカップを置き、自身も布団に潜り込んだ。「不思議に思わんか? 何でそないなバケモン達が組織に従って動いとるのかを――」

 その一言で、霧崎も綾華も、西條が何を言わんとしているか理解した。

 二人の表情を確認した西條は、「そういう事や」と言ってコーヒーを口に含む。「バケモンを手懐けとる連中がおる。霧崎の戦った二人、おそらくはそのどちらにも。単純に武力で支配しとるんやったら、そいつに勝てる確率はどんくらいや? 力による支配やなくても十分脅威や。バケモンに対する人心掌握……そんな事ができる奴が敵に回ると考えただけで恐ろしいわ、俺は」

「…………」

 西條が伝えたい事は霧崎にも分かる。

 要するに何としても手を引かせたいのだ。

 普段は何を考えているかも、何についているかも分からない男だが、彼が本心から霧崎の身を案じている事くらいは察せられる。一五年以上――まだ裏の世界の存在すら知らなかったころからの付き合いなのだ。そこだけは、嘘ではないと言い切れる。

「どうするの? タカ」自分の分のコーヒーを飲みつつ、綾華が尋ねてくる。「つとむっち、割と本気っぽいけど」

「…………」

 自身の目の前に置かれたマグカップから、気分を落ち着かせる香りが立ち昇る。

 西條と綾華、そして霧崎を取り囲む環境。

 その全てが、自分の行動をいさめようと必死になっているように感じられた。

 霧崎はおもむろにマグカップの取っ手を掴む。「……俺は……」


  (12月18日 午後4時36分~午後6時5分 霧崎鷹の自宅前)


 ずいぶんと信頼されているらしい。

 本来の役目を失った電柱に寄りかかりながら、久郷は内心で呟いた。

 街外れの廃ビルの前に久郷はいた。人の気配は全くなく、見渡す限りの廃墟が広がっている。周囲には壊れた自動車や重機などが打ち捨てられており、埃と油の混ざったような臭いが雨に流される事なく充満している。

 そして、その全ては自然にできたものではなく、西條が人工的に作り上げたもののようだ。この場所が彼の私有地なのかどうかは定かではないが、いずれにせよ、これだけの『装飾』を施すためには相応の手間と経費がかかっただろう。

 しかも、ここに住んでいるのはたった一人の殺し屋。

 ――そうまでして、自らの手中に収めておきたい……という事か。

 ――一体、どれほどの腕なのか……興味が湧かないと言えば嘘になってしまうな。

 そして、それだけの人材の居場所を簡単に久郷に教えた辺り、西條は久郷の事をかなり信用していると言える。殺し屋同士はコンビやチームでもない限り、基本的には商売敵である。同じ標的を追っている時にかち合えば、そのまま殺し合いに発展する事も珍しくない。もっと血の気の多い連中であれば、日常的に他の殺し屋を狩っていたりもする。

 西條から見て、久郷はそういった連中には映らなかったようだ。

 実際、久郷にとって、商売敵は排除する対象ではない。彼らは出し抜くものだ。他の連中が標的に辿り着く前に、事を終わらせる。つまりは先手必勝。時間をロスするだけのイザコザに飛び込むよりも、よほど有意義だと久郷は考えている。

「…………」頭上に掲げた安物のビニール傘から、絶え間なく雨粒の音が響く。

 動くもののない空虚な空間の中で、それだけが時間と共に変化するものだった。

 西條が子飼いの殺し屋の自宅に入っていってから、一時間近くが経過していた。彼からは、どこか別の場所で時間を潰しておいてほしいと言われていたが、あいにくと他所から来た久郷にはここの土地勘がない。

 とはいえ、今の時間に不満がある訳ではない。

 人の手が入って作られた環境とはいえ、俗世から隔離されたようなここは居心地が良い。

 どこまでも続く灰色の世界と、全ての雑音を掻き消す雨の音。

 それらに囲まれているだけで、頭の奥が澄み渡っていくのが分かる。

 おそらくは、西條の知り合いの殺し屋も同じような事を考えているのだろう。

 決して世間と折り合いをつけて生きる事はできない人種。それが久郷達だ。

 だからこそ自分達は心地の良い孤独を求める。

 そして、同じ価値観を共有する者達との狭い関係のみで満足する。

 ――だが……俺にあるのはもう孤独だけ。

 ――名前も顔も知らない君には、まだ仲間がいる。

 ――本気で、その身を案じてくれる仲間が……な。

 廃ビルの中のどこかにいるだろう同業者と西條を思い浮かべながら、内心でぼやく。

 しばし物思いにふけったのち、「……ところで」と久郷は声を発した。「そこにいるのは分かっている。そろそろ出てきてほしいのだが……。こちらに敵意はない」

 久郷が一度も視線をやらなかった場所――打ち捨てられた(ように見せかけた)重機の陰。しかし久郷の意識は明確にそこへ向いていた。

「……いつから気づいてたの?」物陰の向こうから訝しむ声がした。少女のものだ。

「最初からだ」即答する。「西條の知り合いか?」

「あなたは?」

「西條勉から仕事を依頼されている者だ。それ以上でも、それ以下でもない」

「…………」

 少しの沈黙のあと、重機の後ろから小柄な人影が顔を覗かせた。

 色素の薄い髪の毛は、茶髪を通り越して真っ白。黒を基調としたセーラー服の上からは、防寒用のダッフルコートを羽織っている。緩くウェーブしたミディアムヘアを揺らめかせ、宝石のように綺麗なブラウンの瞳が久郷を捉えていた。

「……!」少女の姿を視認した直後、久郷の肩が僅かにこわばる。

 白髪の少女は、それを見逃さなかった。「嘘。敵意、あった」

「……君は……」

「これ、気になる?」と少女は自身の頭を指し示した。「心当たり、あるんだね」

「……君も、そうなのか?」

 久郷の問いに、白髪の少女は薄く笑って――

「違うよ、私は。ただの生まれ持った体質」そう言って否定したあとに、「アルビノとも言う」と自信を含ませた声で付け足した。

「だが、知ってはいるんだな」

「うん」少女は肯定する。「昨日と合わせて、二回見たから」

「よく無事だったな」

「一回目は偵察だけ。二回目は頼りになる人達がいたから」

「そうか」久郷はそれ以上は込み入らなかった。話題を切り替えるように、西條のいる廃ビルもどきを見やる。「あそこに用があるのか」

「用ってほどでもないけど」少女は小さく首を傾げて、「学校終わったから遊びに来ただけ」と言った。「そしたら、あなたがいたから、どうしようかなって」

「すまなかった。警戒させてしまったようだ」久郷は謝罪を口にすると、ビルを見据えたまま続ける。「俺は西條が出てくるのを待っているだけだ。君の邪魔をするつもりは毛頭ない。気にせず行ってくれ」

 少女は小さく頷くと、そのまま久郷に背を向けてビルへと向かっていく。入口の方まで来ると、ただでさえ小さな背中はさらに小さくなり、雨で視界が悪い事もあって、彼女の姿はまともに見えなくなる。

 そのまま建物の中に消えていくと思われたが、突如、ぼやけた輪郭が動く。少女が振り向いたのだという事が、かろうじて分かった。

「……?」

 久郷が怪訝に思っていると、雨音の向こうから張り上げた声が届いた。

「ごめんなさい! 最初、あなたの事怪しい人かと思っちゃった! だから、勘違いしててごめんなさい!」

 それだけ言うと、今度こそ少女の姿はビル内へと吸い込まれて見えなくなった。

 再び、辺りは騒がしい静寂に包まれる。

 弾かれた化学繊維の奏でる音色が、久郷を孤独のさなかへ引き戻す。


        ***


 西條が出てきたのは、それからさらに一時間が経ったあとだった。

 午後六時を回り、ここらの景色一帯は深い闇に塗り潰されている。街灯もなく、都会の空には星の一つも瞬いていない。遠くの方に薄っすらと見える街の明かりだけが、ここが地球の一部である事を示していた。

「結局、どうだった?」

 隣を歩く瘦せ型スキニージーンズの男に、久郷は無機質な声で尋ねた。しかし答えを聞く間でもなく、西條の表情を見れば結果は分かる。

「無理やったわ。説得失敗。ほんま強情なやっちゃな」

 予想通りの解答にも、久郷は眉一つ動かさない。

「そいつの上にいる連中がどうとか、それっぽい事言って気い変えさせようとしたんやけどな……」西條はあからさまに肩を落としながら、「もう完全にスイッチ入っとるわ。誰が止めても絶対聞く耳持たん。殺すか、殺されるかするまで、あいつは止まらんわ」

「そうか。なら――」

「せや。場合によっては、かち合う事になるで。久郷さん、あんたがアホほど腕が立つんはこっちも承知しとる。やけど、あいつはマジモンの戦闘狂や。クソガキからの付き合いの俺が言うんやから間違いない。油断しとったら……いや、油断せんでもやな。掻っ切られるで、首」

「肝に銘じておこう」

「……なんや、リアクション薄いんとちゃうか。バケモン二人も相手にして生きて帰ってきた奴やぞ。もうちょい怖がってもええんちゃうか?」

 不満げな西條に対し、久郷は自身のペースを崩す事なく、「確かに、正面から戦えば、こちらの方が不利かもしれない。だが、『闘い』とは顔と得物を突き合わせて殺し合う事だけではない。やりようはいくらでもある。当然、彼を殺さないように済ませる事もだ」と淡々と述べる。「心配しなくて良い。この仕事のあとに怨恨が残る事はない」

「言い切るなあ。そんなら、お手並み拝見とさせてもらうで」

 楽しそうに口の端を歪める西條。

 そんな彼の様子を見ながら、久郷は先ほどから抱いていた、ある疑問をぶつけてみた。

 具体的には、熟れた林檎のように赤く、大きく腫れ上がった西條の右顔面に対して。

「その怪我は何があった」

「だから言うたやろ。そういう奴なんや、あの狂犬ならぬ狂鳥は」


  (12月18日 午後4時53分~午後6時5分 大学からの帰り道)


 自分の選択は正しかったのか。

 東雲の頭の中では何度も同じ疑問が飛び交っていた。

 あのあと、考えた末に東雲は笹井の提案に乗る事とした。

 ――けど……本当にそんな事できるのか……?

 ――やっぱり俺は罠に嵌められたんじゃ……。


        ***


「……アイアンメイデンを……殺す……?」

 信じられないといった様子で、直前の笹井の言葉をオウム返しする東雲。

「正確には『アイアンメイデンを含めた能力者達を殺す』だけどね」と笹井は訂正を入れる。「でも、アイアンメイデン以外の能力者は昨晩死んだ。ガロットさんもペンデュラムさんも……ね」

「本来の計画なら、その三人を消す算段だったの」補足するように言ったのは武田香織だった。彼女は指を三本立て、その内二本を引っ込める仕草を交えながら、「だけど、嬉しい誤算が起きた」と微笑を浮かべた。

「敵の方にも能力者がいるって事は誰も知らなかったんだ」笹井が言う。「しかも、僕らの『上司』達よりも数段格上の人がね。おかげで計画は一気に進んだ。二人分を殺す手間が省けたんだからね」

 あのニット製のキャスケット帽の女の姿が思い浮かぶ。

 莫大なエネルギーを内包した閃光を自在に操る規格外。アイアンメイデンの少女とあの女。どちらが危険な存在かなど考えるまでもない事は東雲にも分かる。

 だが。

「具体的には……どうするんですか……? それに、あの女を殺したところで……何が変わるんですか……? 話を聞く限り、彼女よりも上の立場にいる奴がいるんですよね? そして、そいつは俺達を監視している……とも……!」

 そう。

 いくら少女達が『化け物のカテゴリ』の中では大した事がなくとも、依然、真人間である東雲達にとって最大級の脅威であるのには変わらない。さらに東雲達が所属させられているであろう組織には、現場に出る者達を束ねる者さえ存在しているそうだ。

 仮に、目に見える脅威だけを排除できたところで、今度は目に見えない脅威が立ちふさがるだけでないか。その二段階の脅威を一体どうやって取り除くつもりなのか。

「そこは安心して良いよ」

 とはいえ、笹井の方はそんな疑問が出るのも分かっていたのだろう。

 すぐさま答えを提供してくる。

「勝機がなきゃ、こんな事はしない。ちゃんと算段は立ててるよ。猟師が人間よりも強い動物を狩る時と同じように、念入りに準備してきた。僕らが負ける道理はない」

 笹井の声は自信に満ち溢れており、この瞬間だけを切り取れば、何の変哲もない大学生に見える。

「計画実行は次の任務の時だ。ここで全部終わらせる。……七年待った。いつ死ぬかも分からない死線を数えきれないくらいかいくぐって、少しずつ仲間を増やし続けた。おそらく『勧誘』は東雲君で最後。僕らの勝利は目の前にある」


        ***


 計画の詳細はまだ知らされていない。いきなり重大な決断を迫られて困惑しているだろうからと、そのまま解放された。東雲が落ち着いたころに、笹井から接触してくるそうだ。

「……そもそも、落ち着けるのか……?」

 未だ東雲は何も知らない。いや、理解できていない。

 バトル漫画にでも出てくるかのような特異な力を使う少女達。

 それに付き従う消耗品部隊。

 それらを統率する連中。

 大規模な武力をもって殲滅しなければならない『自然回帰』とは何なのか。

 こんな事が起こっているのは日本だけなのかどうか。

 表面上の事も理解できていなければ、それらの背景に何があるのかも一つとして掴めていない。目隠しと耳栓をされた上で、巨大な渦の中に放り込まれているかのようだ。上も下も右も左も見えない。聞こえない。感じない。あるのはただ困惑だけ。

「何が間違ってたんだろうな……?」ぽつりと呟いて出る疑問。どうすれば、こんな事にはならなかったのか。どうすれば、代わり映えのしない平和な日々を奪われずに済んだのか。

 早い時期にレポートを書き切ろうとしなければ良かったのかもしれない。インスタントコーヒーが切れていたのに気づかなければ良かったのかもしれない。それに気づいても、外に買いに行かなければ良かったのかもしれない。もっと店に長居すれば良かったのかもしれない。いつもとは違う道で店から帰れば……。

 もはや変える事のできない過去の選択肢がいくつも想起される。

「……はあ」

 ――確かに、こんな状況で計画とやらについて話されても、何も理解できないだろうな。

 肩からずり落ちかけていたリュックサックを背負い直し、土砂降りの中を歩く。

 元々薄暗かった空は日が暮れかけた事によって、さらに明度を落とし、所々に見える街灯の明かりがつき始めている。

 しばらく歩いていると、前方から制服を着た学生らしき少女が二人見えてきた。

 彼女らの姿を視界に入れた瞬間、東雲の相貌から一気に血の気が引いた。

 ――……あいつは……!

 二人の内、一人は知らない顔だ。だが、もう一人――黒を基調としたセーラー服の上からベージュのカーディガンを羽織り、目許が隠れるまで伸ばされた黒髪をした少女。彼女については忘れるはずがない。自分をこの地獄に引きずり込んだ張本人なのだから。

「……ッ」後ずさりしたが遅かった。少女の方もこちらに気づいたからだ。

 しかし、その反応は想像していたものとは違った。アイアンメイデンの少女は東雲の姿を視認した瞬間、東雲以上に怯えた表情を見せたのだ。

 そして、二人のリアクションを片割れの少女の方が見逃さなかった。

「何? 知り合い? その兄さん」

「あ、いや……違う、けど……? 全然知らない人……うん、知らない知らない……」

 しどろもどろになりながら否定するアイアンメイデンの少女。そこに昨晩までの威圧は感じられない。そして、どんなお人好しでも誤魔化せないほどに挙動不審になっている。

「いやいや、それで騙せる奴なんていないから」片割れの方が冷静に突っ込む。そして東雲の方にターゲットを移す。「ねえねえ、お兄さん。鋼岬とはどういう関係? もしかして彼氏さんだったり?」とニヤニヤと笑いながら、こちらへ距離を詰めてくる。

「いや……ええと……」

 片割れの少女に質問攻めにされながら、東雲は目だけを動かしてアイアンメイデンの少女を見やる。そして再度目が合う二人。目許を覆い隠す前髪の隙間から、一瞬だけ視線が露わになる。殺意に満ちた瞳で東雲を射抜きつつ、彼女の唇が動く。

 何も声を発してはいなかったが、何を言ったのかは分かってしまった。


 ――「誤魔化せ」


 ――あ、ミスったら死ぬやつだこれ。

 昨晩と同レベルの極限状況に置かれ、東雲は覚悟を決める。

 食い下がってくる片割れの少女に対し、マシンガンのようにまくしたてた。

「ああ! 俺、東雲っていうんだけど、彩美のいとこなんだよ! 実家がこことは凄い離れててさ、今年、大学進学を機に引っ越してきたんだ! それで、彩美にはその事まだ話してなくて、まさか鉢合う事になるなんて思ってなかったから、びっくりしてさ……」

 傍から見れば怪しい事この上ない演技であったが、誤魔化し方としては悪くなかったのではないかと東雲は考える。昨晩、笹井が何度か少女の名前を呼んでいたのを覚えていて助かった。いとこ設定なら、下の名前で呼び合う仲でも別段おかしくはないし、久々に会った事にすれば先ほどのリアクションにも納得いく理由がつけられるはずだ。

 最後に、アイアンメイデンの少女に(引きつった)笑顔を向けながら、「な! そうだよな!?」と同意を求める。必死だった。

「う、うん! そう! そんな感じ! 久しぶりだね、晴雨! こっち来たんなら、連絡の一つくらいくれても良かったのに……!」

 相変わらずの挙動不審っぷりであったが、向こうも東雲の名前を覚えていたらしい。うまい具合に乗ってきてくれた。

「ふうん……いとこ……ねえ?」

 ジト目で東雲達を舐め回すように見てくる片割れの少女。

 ――さあ……どうだ……!?

 心臓が破裂しそうなほどの緊張に襲われるが、それを悟られれば終わりだ。どうにかして表面上だけは平静を装う。

 やがて、片割れの少女が晴れやかに笑った。「確かに良く見れば二人共ちょっと似てるかも! 変な風に疑ってごめんなさい、東雲さん!」

 その反応を見て、内心で東雲は大きく溜息を吐いた。何とか誤魔化し切れたらしい。

 アイアンメイデンの少女の方も、安堵した様子で胸に手を当てている。

 だが。

 厄介事はここだけでは終わらなかった。

 片割れの少女は瞬時に表情を小悪魔的なニヤニヤ笑いに変えて――

「私、鋼岬のクラスメイトの戸賀望実って言います! うらやましいですよ、東雲さん。こんな可愛い子がいとこだなんて! 私もこんな身内が欲しかったなー!」

 片割れの少女改め戸賀望実は速足で東雲達から少し距離を取ると、こちらに振り向いて、「鋼岬、私は先に帰るから!」と手を振った。「久しぶりに会ったんでしょ? 積もる話もあるだろうし、邪魔者は退散ってねー!」

「え!? ちょっと待っ……!」

「そんじゃー東雲さん、鋼岬をよろしくー!」言うだけ言って立ち去っていく戸賀望実。

 あとに残される自称いとこ同士の二人。

 そのまま一分弱ほど、お互い沈黙のまま時が過ぎる。

 やがて、苦し過ぎる空気に耐えかねた東雲が口を開いた。

「……何か話ってあったりする……?」


        ***


 当然、こんな日の公園に人は集まってこない。普段は近所の小学生達の溜まり場になっている遊具の数々も、今は寂しく雨に打たれている。

「……ここなら濡れる心配はなさそうだな」

「そうね……。それにしても、久しぶりに入った、こんなところ……」

 東雲と少女がいたのは、コンクリート製のドーム型遊具の中だ。斜面に開いた直径一メートルにも満たない出入口からは、多少雨が入ってくるが、そのまま外で立ち話をしているよりかは格段にマシだ。それに、一般人に立ち聞きでもされたら堪ったものではない。昼間、笹井達と話していた時とは違い、少人数の会話程度なら打ち消すくらいの人数が周囲にいる訳ではないのだ。

 冷たいコンクリートの地面に腰を下ろし、先ほどコンビニで買ってきた熱々の肉まんにかぶりつく。冷えきった体が芯から暖まっていくようだった。

「ほら、あんたも」ビニール袋からもう一つ肉まんを取り出し、少女へと投げ渡す。

「……良いの? あなたが買ったやつじゃ……」

「元々二人分として買ったからな。それに袋ん中には、まだ何個かあるし」言いつつ、早くも一個目を完食した東雲は袋から二個目を取り出していた。「それで……話ってのは?」

 望実と別れたあと、おそるおそる尋ねてみた結果は、「話がある」との事だった。東雲としても予想外の答えであり、本来なら、そのまま会話を切り上げてアパートへ一直線のはずだったのだが……。

 少女は両手で持った肉まんをふーふーと冷ましながら――

「そうね……まずはお礼を言っておくわ。ありがとう。あなたが誤魔化してくれなかったら、戸賀に怪しまれたままだった。……まあ、あれで騙せたのは奇跡だったけど」

「……あの子は、こっちとは関係ないのか?」

「ええ、全く。ただのクラスメイトで……ただの友達。私なんかと仲良くしてくれる数少ない連中の一人ね」

「その……普段は普通に学校に通ってるんだな。てっきり四六時中、昨晩みたいな事やってるのかと……」

「もちろん、そういうのもいるわ。……いや、いた……と言うべきね。――ペンデュラム。覚えてる?」

 訊かれ、すぐに思い出す。昨晩、キャスケット帽の女に殺された、ライダースジャケットの青年だ。

「あいつは典型的な片方の世界だけで生きるタイプの奴だった。こっち側に来る前の自分を完全に消し去ってた。……結局、犬死して、『表』にも『裏』にも何も残らなかったけど」

 少女は虚空を見つめながら、少しだけ寂しそうに言った。

「私は……捨てたくない。『表 』の方に……どんなに小さくても良いから……自分の居場所を残しておきたい……。私がいなくなった時に……私を覚えてくれている人がいてほしいから……。だから感謝してるの」

「……そうかい。けど、俺はあんたに対して、そんな感情は抱けない」

 静かに、かつ憤りを内包させた声で断言した。少女に対する畏怖の念は未だにある。彼女に釘を打ち込まれた箇所の傷痕は消えていない。だが、それ以上に怒りが勝った。このあと、もう一度めった刺しにされたところで構わない。――言ってしまえ。脳の奥で何かが東雲を促した。

「なあ……あんた達は何者で何様なんだ? 問答無用で他人の人生まるごと台無しにして……命がけの戦場に身一つで投げ込んで……! 俺はあんたみたいな特別な力なんて持ってない! 撃たれたら死ぬ! 斬られたら死ぬ! 殴られただけでも死ぬかもしれない! あんたに分かるか!? ただの人間の気持ちが……あんたみたいな化け物に! 『自分の居場所を残しておきたい』だと!? あんたにそんな事言う資格があると思ってるのか!?」

 燻っていたドロドロとした感情を一気に吐き出す。有無を言わせず、しつこく追いかけてくる理不尽におとなしく耐えられるほど、東雲は大人ではなかった。まだ年端もいかぬ少女に対して、容赦なく薄汚れた胸中を叩きつける。

「…………ッ!」言い切り、正気に戻った東雲は歯を食いしばる。次の瞬間には、少女が操る釘が一斉に突き込まれるかもしれない。

 しかし。

 東雲の肌に触れたのは、冷たく尖った金属の塊ではなく――温かく柔らかい手のひらだった。少女が伸ばした手が、優しく東雲の頬を撫でていた。

「え……?」

「私が言っても説得力なんてないかもしれないけど……本気で、酷い事をしたと思ってる。自分がされた事……絶対に他人には味わわせたくなかったのに……あなたを巻き込んでしまった……」

「もしかして……あんたも……?」

「私ね、最初から化け物だった訳じゃないの。七年前、まだ小学生だった時……あなたと同じように見てしまったの。そして、この抜けられない地獄に連れてこられた。……最初の仕事でたくさんの仲間が死んだわ」

 七年前。

 その言葉に僅かに反応する東雲。記憶が確かなら、今日同じキーワードを聞いたはずだ。

「そうだ……笹井さんも七年前に巻き込まれたって……」

「ええ。笹井と私は、同じ日に巻き込まれたの。その時からのメンバーで残っているのも、もう私達だけ。私にいたっては途中で能力に目覚めたせいで、消耗品部隊から抜ける事になってしまった……」

「その能力ってのは……一体何なんだ? 本当に何もないところから、釘を作り出してるのか?」

「詳しい仕組みは私達も知らない。たぶん、上の連中は知らせる気もない」少女は沈んだ声で言いつつ、「でも、一つだけ分かる事がある」と付け足した。「ペンデュラム、ガロット、アイアンメイデン……日本語に直せば、振り子刃、絞首用器具、鉄の処女。これが何を表すか分かる?」

 考えるまでもなかった。「そうか、拷問器具の名前か……!」

「そう、私達に共通するのは拷問器具を模した能力が自然発生的に発現する事。それぞれの器具の名をコードネームとして与えられる事。そして……消耗品部隊よりは上の地位にいるらしい事」

 少女がしきりにアイアンメイデンと呼ばれていたのも、このせいだったのだろう。鉄の処女は、女性を象った空洞の人形の内側に大量の釘が配置された拷問器具だ。相手を問答無用でめった刺しにする様は、確かにその名にふさわしい。

「私は、この力を得てから数えきれないくらいの人間を殺してきた。真人間だった時とは違う。生き残るための手段として殺すんじゃない。……仕事だから殺す。それを繰り返している内に、自分が段々と人間じゃなくなっていくのが分かるの。ただの化け物になっていくのが……」

 少女の声は震えていた。目の前にある恐怖にただ怯え、恐れる。そこには、ガロットやペンデュラムには見られなかった当たり前の感情があるように思えた。

「あなたと私が出会ってしまった日……あの日は緊急の任務だったの。『自然回帰』の構成員が近くにいたからって事で、ちょうど付近にいた私一人に仕事が回ってきた。急ぎだったせいで笹井の手も借りられなくて……最低限の隠蔽工作もできなかった……」

 少女は苦々しい思いを隠すかのように、顔を伏せる。

「結果、あなたを巻き込む事になってしまった。私が地獄に引きずり込んでしまった……最初の一般人にしてしまった……。本当に……ごめんなさい……」

「…………」

 東雲は、自身の胸がズキズキと痛むのを感じた。物理的な痛みではない。一つの後悔が浮かび上がってきたのだ。

 ――そうだ……何で気がつかなったんだ……。

 ――気づける機会はあったはずなのに……。

 東雲はおもむろにスマートフォンを取り出すと、ある画面を少女に目線の先へと滑り込ませた。

「……これ、やっぱり書いたのは、あんただよな?」

 それは昨日、大学にいる際に送られてきた招集のメールだった。

「それが……どうかしたの……?」

「おかしいと思ったんだ」東雲は確信をもって言い放った。「あんた達能力者連中は、下の連中の管理を全部笹井さんに丸投げしてるんだろ? だったら、この程度の連絡くらい、普通は笹井さんがやるはずだ」

「別に私が書いたとも言ってないわ。あなたの言う通り、消耗品部隊への連絡事項は全部笹井が処理してるんだか――」

「いいや、これはあんた自身の手で書かれたものだ」少女の言葉を遮るように、東雲は告げた。「他の『新参者』がどうだったかは分からないけど、少なくとも俺に送られてメールは、あんたが書いたものだと断言できる」

「……根拠はあるの?」

「まず一つは、指定された場所に新参者達が到着したタイミングだ。あの場所には、笹井さんを除けば俺が一番乗りだった。他の奴らが着いたのは、それから、かなりの時間が経ってからだった。変だろ? 命令に従わなかったら、殺すとまで明言されてるんだ。なのに、他の連中はずいぶんとゆっくり来てたよな? つまり、最初から指定の時間帯が違っていたんだ。俺と、そいつらとで。おそらくは俺の方が早い時間を指定される形でな」

 少女は黙って東雲の推理を聞いていた。

 なので、そのまま先に続ける。

「命令を無視すれば抹殺……これは嘘じゃない。だからこそ、あんたは少しでも余裕をもって来れるように時間を設定したんだ。万が一の時に備えて、『特段の事情がない限り、遅刻は認めない』なんて文言まで付けて、間に合わなかった場合の逃げ道まで用意してくれてた。普通に考えて、二〇人以上はいる新参者全員に同じ対応ができるはずがない。だから、このメールはあんたが個人的に送ってきたものだ。あんたが巻き込んでしまった、たった一人に対して、あんたが取った行動だ。違うか?」

「…………」

 しばらく俯いたまま無言を貫いていた少女だったが、やがて、その顔が上がる。

「……あ」彼女の表情を見た東雲は、思わず息を飲み、間抜けな声を洩らしてしまった。

 泣いていた。

 前髪の隙間から見える瞳から、ぼろぼろと大粒の涙を流す少女。

 彼女は何かに必死に耐えるように肩を震わせている。

「あ、ええと……ごめん……。何か間違えてた? やっぱり……」

 急に自信が消え去ると共に、言いようのない罪悪感に襲われ始める。何とかして取り繕おうとしたが、先ほどまでの饒舌っぷりはどこへやら。何も上手い言葉が出てこない。

「ううん……違うの。あなたは……何も間違ってない……」途切れ途切れになりながらも、少女は東雲の推理を肯定した。「ただ……嬉しかったの。理解……してくれた事が……」

「じゃあ……」

「ええ……このメールは……私が書いて送った。笹井に頼み込んで……特例で……」

「そう、か……」

 東雲の胸中に、数十分前まで抱いていた恐怖や怒りは、すでになかった。もちろん、自分を地獄に引きずり込んだ彼女を完全に許した訳ではない。だが――普通に誰かを思いやり、普通に自らの過ちを反省でき、普通に涙を流す事ができる……そんな普通の少女に対し、これ以上強い言葉で責める気にはなれなかった。

 東雲は乱暴に自分の頭を掻きながら、「俺も悪かった……。あんたの事化け物とか言って……」と謝罪した。「あんたの考えを知れて良かったよ。おかげで、これからあんたを恨まないで済む。……それじゃ、また仕事とやらで」

 腰を上げ、傘も差さずに足早に立ち去る。後ろで少女が何か言っていたが、東雲の耳には入らなかった。


        ***


「くそっ……何で俺は、こうタイミングが悪いんだ……」

 ずぶ濡れで帰路につく東雲は、誰にも聞こえないほどの声で悪態を突いた。

 自分にとって死神のような存在だった少女は、本当は何の変哲もない普通の女の子でしかなかった。東雲に対して負い目を感じ、怯えながらも真実を話してくれた。

 なのに。

 東雲は未だ彼女に隠し事をしている。

 ――言える訳がないだろうが……!

 ――あんたの部下達が、あんたを殺そうとしているだなんて……!

 そして、東雲はすでに笹井の誘いに乗ってしまっている。つまり、少女の預かり知らぬところで、彼女をどうしようもないほど裏切ってしまっているのだ。

 再び自分の選択を後悔するが、もうあとには引き下がれない。

 どっちに転んでもロクな事にならない選択肢しか残されてはいないのだ。

 つまり、笹井に付くか、彼を裏切って少女の味方となるか。

 前者を選べば、おそらく東雲は永遠に消える事のない後悔に苛まれるだろう。後者を選べば、自分よりも経験豊富な兵隊を何人も敵に回す事になる。その選択の行き着く先は、間違いなく死だ。

 ――俺は……どうすれば良い……!?


 (12月18日 午後5時57分~午後6時9分 公園付近の物陰)


 コンクリート製のドーム型遊具から東雲晴雨という青年が出ていくのが見える。持っているにも関わらず、傘も差さずに去っていくところを見るに、さっさとこの場からいなくなりたかったようだ。

 彩美の方は出てくる様子はない。

「女の子の扱いとしちゃあ赤点ねー、東雲さん? もっとたくさん慰めて、寄り添ってあげて、肯定してあげないと。ま、鋼岬にとっては、あれでもだいぶ効いたみたいだけど?」

 望実は薄く笑いながら、手許のスマートフォンを操作している。何かのアプリと思われる画面が開いており、端末のイヤホンジャックからは黒色のコードが伸びている。当然、イヤホンのスピーカーは望実自身の耳許にあてがわれていた。

 ドーム型遊具の死角となるところには、防水加工の施された盗聴器が設置されていた。

 望実は、二人と別れたふりをして、ずっと彼らを尾行していたのだ。二人がドーム型遊具に入っていくと同時に、慎重に遊具へ近づいて盗聴器を仕掛ける。あとは簡単だ。無線で飛ばした声をこちらで拾うだけで良い。

 ――でも、ま……鋼岬自身は『自然回帰』とはそんなに関係なさそうねー。

 ――ただ単に敵対してるだけって感じ。

 ――鋼岬や東雲さんが現場で動く駒でしかないのなら、大した情報は持ってなさそう。

 ――無理に詰め寄らずに泳がせて、『自然回帰』と接触するのを待つのが得策かな。

 白坂桔奈は完全に空振り。

 鋼岬彩美と東雲晴雨についても、そこまで大きな期待はできそうにない。

 それならば――

「全く……どこをほっつき歩いとるんかね、土倉は……」


 (12月20日 午後1時12分~午後1時28分 嘉島荘、204号室)


 頬っぺたをハムスターのように膨れさせた梢が、目つきだけは肉食獣のごとく尖らせて砂木を睨みつけていた。

「……………………」

「……………………」

 気まずい。とにかく気まずい。そして心の底から面白そうなニヤニヤ笑いを浮かべて修羅場を傍観している朝丘を殴り飛ばしたい。

「今日こそ話してもらいますよ」むくれっ面の梢が凄みを利かせて詰め寄る。「何で……何で絵を描かなくなっちゃったんですか!? 何度も賞取るほど凄かったじゃないですか!? せんぱいは天才です! やめちゃう理由なんて、どこにもないじゃないですかあ!?」

 そう。

 ここ最近のゴタゴタで忘れていたが、土倉梢という少女はそういう奴だった。どうやって調べたかのかは定かではないが、彼女は砂木の進学した高校を独自に調べ上げ、自らも入学してきたくらいの筋金入りのストーカーだ。

 当面の危機が去って余裕が生まれれば、次に何を仕掛けてくるのか想像しておくべきだったのだ。

 学校では何とかあしらう事もできた。だが、この密室空間では逃げ場はない。さらに、ここには『真実』を知っている朝丘大司もいる。彼は梢がその話題を切り出した瞬間に、数秒前までのニヤニヤ笑いを引っ込めて、真剣な眼差しで砂木を見据えている。

 ――もう……誤魔化せないか……。

 やがて観念したように砂木は大きく息を吐き出した。「分かった、言うよ」と落ち着き払った声色で梢を見つめる。急に様子の変わった砂木に、梢も少々面食らっているようだった。

「良いのかよ、話しても」

 助け舟を出すように朝丘が訊いてきたが、砂木は、「はい」とだけ返す。

 砂木は右腕を――正確には右手の指先を梢に向けて差し出した。「これだよ」

「……?」梢は首を傾げる。「手……?」

「ああ」砂木は一拍置いてから告げる。「もうロクに動きやしない」

 その直後、梢の表情が完全に固まった。さすがの彼女も理解したようだ。

 砂木は続ける。「中二の終わりくらいだったかな。コンクールに出す作品を描き上げたあと、すぐに交通事故に遭った。俺を撥ねたクソ野郎が、ながら運転してたのが原因だ。とっさに避けたおかげで直撃こそしなかったが、掠った右手が壊された」

「親指、人差し指、中指の粉砕骨折。見た目は元に戻っても、その機能は治らなかったって訳だ」横合いから朝丘が補足してくる。「……撥ねた野郎は、俺がぶち殺してやりたかったよ」

「朝丘さんは……その時からの、せんぱいの知り合いだったんですか……?」

 梢が恐る恐る尋ねると、朝丘は頷いた。

「まあな。こいつがどう思ってたかは知らねえけど、ある意味相棒みたいなものだったよ」

「相棒……?」

「梢ちゃん、砂木の絵見てるんだろ? なら、こいつが毎回何を描いてたかは知ってるはずだ」

「風景画、です……。現実にある風景を描いてるだけなのに……それは、どこまでも現実離れしていて……どこまでも『本物』らしかった。現実よりも現実らしい……矛盾しているようでいて、でも作品を見たら皆がそう納得してしまう……そんな作品でした」

「そ。砂木が描いてたのはあくまで現実の風景。つまりモチーフがあった訳だ」

 言いながら、朝丘はカメラを構えるような仕草をしてみせた。

「――元々の風景を撮ってたのが俺。写真が趣味でな。俺が撮影してきたやつを見て、砂木がインスピレーションを得る。そして現実の世界をこいつの想像力が拡張していく。そうやって描かれたのが、砂木の作品のほとんどだ」

「……朝丘先輩は絶対に自分の名前を公にしたがらなかったからな」と砂木は肩をすくめる。「知らなかったのも無理はないさ。俺も信頼できる大人にしか言ってなかったし」

 結局、その出来事があってから事実上コンビは解散。朝丘は今も趣味として写真を撮り続けているが、砂木は彼が撮影した写真を見る気にはなれなかった。変わらない現実を突きつけられるようで気が進まなかったからだ。

「ま、そんな訳だ」

 砂木はこれで終わりだとばかりに話をまとめた。

「現実は受け入れなくちゃいけない。そんで次に進まなきゃいけない。……絵しか描いてこなかった俺には何もなかったからな。とりあえず今は本気で勉強してる。良い大学入って、大企業に入るか公務員にでもなるかすれば人生安泰だ」

「……で……んですか……」

「……? 何だよ?」

 いい加減納得しただろうと思っていた梢だったが、どうやらそういう訳ではないらしい。

「本当に! せんぱいは! それで納得してるんですか!?」

「ちょッ……!?」

 梢は砂木の差し出していた腕を掴み、思い切り自分の方に引き寄せる。砂木の視界が涙目の梢の顔でいっぱいになった。

「現実を受け入れないといけない!? 本当にそんな事ができていたのなら、そんな悲しい顔なんてしてないはずです!」梢の勢いは止まらない。「その左手は何なんですか!? 右手と違って、まだ動くんですよね!? ノーとは言わせませんよ! そんなにたくさん勉強ができるほど文字を書く訓練をしたのなら……! まだ夢が終わった訳……ないじゃないですか……!」

「……ッ、」砂木は僅かに気圧されたが、すぐに反論する。「文字を書くのと絵を描くのとじゃ感覚が全然違うんだよ……! それに……文字は多少汚くても読めれば良い。けど……絵はそうじゃないだろ……!? ド素人以下の手つきで描かれたもんに感動する奴なんている訳が……!」

「それは私達が……見た人が決める事です! 自分だけで決めつけてしまえるほど、せんぱいの作品は独りよがりなものじゃないはずです!」

「独りよがりなのはどっちだ……!?」

 このままでは平行線だ。そう思った時、二人の怒鳴り声を掻き消すほどの下品な笑い声が響いてきた。その出どころを見れば、なぜか朝丘が抱腹絶倒している。

 朝丘は目許に溜まった涙を拭うと、「その通りじゃねえか、砂木」と言った。「そうだよ。お前はそうやって頑張れる奴なんだよ。右手が駄目になったんなら、もう片方を使えば良い。梢ちゃんの言う通りだ」

「ちょ……本気で言ってるんですか……!?」

 思わず食ってかかる砂木だったが、笑い終えた朝丘の目は真剣そのものだった。

「お前が心の底で諦めきれてねえ事くらい分かってるよ、俺だって。じゃなきゃ、今も画材店に行くはずがねえからな」

「う……あの日はたまたま……」

「やってみろよ、砂木。少なくとも筋通ってんのは、梢ちゃんの方だと思うぜ?」

 バツが悪そうに黙り込む砂木を見て、朝丘は年長者らしい達観した表情で微笑むと、二人の頭をガシガシと乱暴に撫でた。

「ま、いずれにせよ二人共ちょっと熱くなり過ぎだ。俺、今からバイト行ってくるからよ。その間にちょっと頭冷やしとけ」

「……あんたに宥められるなんて心外だ」

「ひでえ言いようだな。これでも、お前の両親から、お前の事任されてんだぜ」

 男二人のやり取りを隣で聞いていた梢が、「ふふっ」と笑う。「仲……良いんですね」

「……そんなんじゃないって」照れ臭そうに砂木は視線を逸らす。

 梢はそんな砂木に対し、「さっきは、ごめんなさい。朝丘さんの言う通り、熱くなり過ぎました」と頭を下げた。「せんぱいの事……何も知ろうとせずに好き勝手言っちゃいました……」

「俺も大人げなかった。少し頭冷やすよ。でも……」

 砂木はぼんやりと雨の降る窓の外を見据え――

「土倉の望む俺に戻れるかどうかは分からないけどな……」


 (12月20日 午後2時10分~午後2時16分 嘉島荘、203号室)


「……本当に来た」東雲は未だ半信半疑なまま呟いていた。

 目の前には先ほど宅急便で届いた大きめの段ボールが鎮座している。すでに荷物自体は開け放たれており、その中には本物の兵器がいくつも収められていた。

 自動小銃とその弾薬。先日もらった拳銃の方の弾薬。警棒。ダガーナイフ。手榴弾やプラスチック爆薬などの爆発物。暗視ゴーグルなどなど……

 笹井からは事前に『自宅に武装のスタンダードセットが届くから』とは聞かされていた。初回の任務を生き残った者だけに支給されるようだ。ご丁寧に追加注文時の案内について書かれた文書も同封されている。ただの捨て駒でしかない消耗品部隊にも、それなりの待遇が為されているのは、やはり笹井のおかげなのだろう。

 自動小銃を持ち上げて、その重さに驚いていると、不意に自室のインターホンが鳴った。

 東雲は慌てて銃を段ボールにしまうと、それを部屋の隅に追いやり、ドアを開けた。

「荷物、届いたみたいだね」

「笹井さん……」

 玄関前にはタイミングを見計らったかのように紺色ダッフルコートの青年が佇んでいた。

 彼は相変わらず真意の読めない笑みを浮かべて、困惑する東雲を見据えている。「遅くなって申し訳ない」と言って話を切り出すと、鞄から取り出した茶封筒を手渡してくる。

「これは……?」

 東雲が眉をひそめると、「次の作戦の概要」と笹井は軽い調子で言ってきた。次いで、声のトーンを少し落として告げる。「それと……この前言ってた『計画書』だよ」

「……っ!」

 笹井は東雲の肩を軽く叩くと、「決行は明日の夜だ」と告げた。「必ず成功させよう」

 それだけを言い残して去っていく。本当に、事務連絡のためだけに来たらしい。直接訪問してきたのはメールや電話で詳細を連絡するよりも、傍聴の危険が少ないからだろうか。

 それとも……――

 ――さすがに考えすぎか……?

 脳裏に過ぎった考えを、頭を振って追い出す。代わりに浮かんできたのは、ドーム型遊具の中で物憂げな表情で本音を吐露する鋼岬彩美の姿だった。

「……くそッ!」誰にともなく毒づきながら乱暴に頭を掻きむしる。

 答えは、まだ出せない。


 (12月21日 午後7時53分~午後8時1分 嘉島荘前)


 いくら『裏』の世界の歩き方を知っていようが、根本的なところで彼女は『普通』なのだ。自分の居場所を誤魔化し続けられるほど情報戦に長けてもいないし、命を付け狙う連中を撃退できるほどの腕っぷしもない。

 だから、いつかは詰む。

 それは厳然たる事実であり、まさに今、遠藤達が突きつけようとしているものだった。

「ここか。令嬢がいる場所は」

「雀森が数日かけて掴んだ情報だ。間違いはないはずだ」

 遠藤と井筒屋は、年季の入ったアパートを前に佇んでいた。遠藤の持った日本刀は、すでに鞘から引き抜かれており、鋭利な輝きが暗闇を不気味に照らしている。

「遠藤、分かっていると思うが」井筒屋がスマートフォンを操作しながら言う。「『自然回帰』の令嬢は、俺達にとって生命線とも呼べる存在だ。……くれぐれも殺すなよ」

「当たり前だ。んな事しちまったら四十沢さんに顔向けできねえだろうが。必ず生きたまま捕まえる。令嬢を匿ってる奴には、ちょいと痛い目見てもらうがな」

「……遠藤」

「もちろん殺さねえよ」遠藤は多少うんざりした様子で、「抵抗してきたら、ちょっとばかし横になってもらうだけだ」と言い直した。

「それなら問題ない」

 井筒屋は会話を交わしながらも、スマートフォンを操作する手を休める事はしない。もちろん遊んでいる訳ではなく、れっきとした仕事の一環だ。井筒屋は遠藤と違い、直接的な武力による戦いはしない。敵勢力との戦闘の際は、遠隔操作のトラップを用いたサポートに徹し、今のような場面では様々な機械を用いた情報収集に徹したりする。

 井筒屋が操作しているのは、手にしている端末そのものではなく、アパートの上空や周囲に展開するドローンの群れだ。ある一定のプログラムに沿って動くように調整された無人機は、指向性のマイクや小型カメラが内臓されており、そこから得た情報をリアルタイムでスマートフォンに送信している。雀森がネットの海から情報を拾ってくるハッカーだとすれば、井筒屋は現場で様々な情報を漁る工作員だ。

「どうだ?」

 遠藤が尋ねると、井筒屋はディスプレイから目を逸らさないまま言う。

「住民もほとんど出払っている。令嬢のいる部屋以外では、一〇三号室だけ人の気配がするが、まあ許容範囲だろう。さっさと用事を済ませてしまえば問題ない」

「了解、んじゃ行くか」

「ああ」

 ドローンは待機させたまま、井筒屋は端末をポケットにしまい込み、その代わりとでもいうようにベルトから拳銃を抜いた。当然、牽制以外の使い道はない。

 今にも崩れ落ちそうなほどに錆びついた薄い金属板で作られた階段を上がり、二〇四号室前で立ち止まる。遠藤が合図を送ると、井筒屋はウエストポーチから粘土のような塊を取り出して指で成形し、そのままドアノブへ張り付けた。次いで、一昔前の水銀体温計のような見た目をした棒を粘土に突き刺す。

 粘土の正体はプラスチック爆弾を成分調整して爆発と爆風を抑えたもの。

 体温計の方は、設置した爆弾に起爆の合図を送るための電気信管だ。

 準備を終えると、遠藤と井筒屋はドアから少し距離を取る。通常のC4であれば殺傷範囲が広すぎるせいで、もっと距離を離さねばならないが、これは井筒屋が作り直した特別製だ。必要最低限の威力しか持ち合わせていない。

 すなわち――小規模な爆発と共にドアノブが弾け飛び、その内部機構も本来の役割を失うほどに破損する。


 (12月21日 午後8時1分~午後8時20分 嘉島荘、204号室)


 突如として響き渡った爆音の正体を、砂木は当然看過する事はできなかった。二人のチンピラ風の男が土足で乗り込んでくる様も傍観しているしかなかった。

「邪魔するぜ」日本刀を持ったチンピラが凶暴な笑みと共に言う。そこに人間として当たり前の礼儀作法など見られなかった。「よう、久しぶりだな、お嬢ちゃん。攫いに来たぜ」

 チンピラ達は砂木の事など見ていない。一切眼中にない。彼らがまともに意識を割いているのは、砂木の傍らにいる土倉梢ただ一人。

 ――こいつらが土倉を追っていた奴らなのか……!?

 今この部屋に朝丘はいない。近くのスーパーに買い出しに出かけていたため、砂木と梢二人きりだったのだ。

 この状況が危ない事くらいは何とか理解できた。玄関の金属製ドアが一部グシャグシャにひしゃげていたからだ。

「……遠藤さんと井筒屋さんですね」不意に隣にいた梢が襲撃者の名を呼んだ。普段の彼女からは想像もつかないほど冷たく落ち着いた声だった。「攫う……と言いましたね? 私を保護しにきてくれた訳ではないのですか?」

「どっちに取るかはあんた次第だ」日本刀男が一歩前に出た。「こっちとしては、お嬢ちゃんの『ご家族』とはそろそろ手を切りてえ訳。カルト組織との付き合いは疲れちまったもんでな。そこで、お嬢ちゃんの身柄を確保してえんだ」

「私を交渉の材料にするつもりですか」

「その通り、賢いねえ」

「仮に私がおとなしく捕まったとして……組織との交渉に使ったあとはどうするつもり?」

「目的達成しちまったら、お嬢ちゃんに価値はねえ。当然だろ? 俺達からしたら『持ってるだけでコストのかかる穀潰し』だ」

「……そうですか。分かりました」

「そうかい、答えは?」

「決まってます」梢の声が一瞬沈む。「――交渉決裂です」

 いつの間にか梢の手には、おもちゃのように小さな拳銃が握られていた。銃把は固く握り込まれ、その銃口はチンピラ達へと真っすぐ向いている。

 それを見た日本刀男が口の端を歪めた。「そんな護身用以外に使い道のねえもんで俺達に勝てると思ってんのか? 可愛いねえ、お嬢ちゃんは」

「もちろん、勝てるとは思ってませんよ」梢の表情は崩れない。「あなた方はプロで、私は素人ですから。たとえ私が自動小銃を持っていたとしても、勝負にすらならないでしょうね」

「分かってんじゃねえか。つっても、それを分かった上で挑むたあ……以外と根性座ってんじゃねえか」

「買いかぶり過ぎですよ」梢は微笑み混じりに謙遜した。「私に勇気なんてありません。これっぽっちも。だから――こうします」

 次の瞬間、梢の拳銃を持った方の腕が大きく動いた。概算で一八〇度ほど肘を捻り、そのまま真後ろへ向けて引き金を引く。砂木の耳許で乾いた破裂音が響き、一瞬遅れてガラスの砕ける音がした。

 同時に、梢は爆風で転がってきていた靴を拾い上げて一目散に走り出す。目指す先は彼女自身が銃撃によって壊した窓。ガラスの破片が刺さるのも気にせず、サッシに足をかける。「せんぱいも! 早く!」

 彼女の呼びかけに、考えるよりも先に体が動いていた。靴を拾って梢のあとに続く。

 それを律儀に待っている襲撃者ではなかったが、その凶刃が砂木に届く事はなかった。

 梢が小型拳銃で銃撃し、チンピラを足止めしている隙に、砂木もサッシに足をかけた。

 薄い皮膚に破片が刺さり、鋭い痛みが走り抜けるが、ここで怖気づいて日本刀に斬り伏せられるよりかは格段にマシだ。そのまま二階の窓から飛び降りる。裏出に着地すると、血まみれの足に靴を履かせて逃亡を図る。ほぼ同時に飛び降りていた梢も並走してきた。

「土倉……お前、そんなもんどこで……!?」砂木の視線は、梢の右手に向けられていた。そこには未だ硝煙を上げる一挺の拳銃がある。どう見てもおもちゃにしか見えないそれが紛れもない本物である事は、先ほどのやり取りを見ていれば馬鹿でも分かってしまう。

 梢は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに砂木へ視線を戻す。そこには右手の拳銃と同じくらい冷徹な色が滲んでいた。やはり、砂木の知る彼女ではない。

「本当は知られたくなかったんですけど、もう隠し通す事はできませんね。……見ての通りですよ。私は『そういう世界』で生きてる人種です。せんぱいが普段学校で見ている私は、本当の私じゃないんです」

 梢は口許だけを自嘲気味に歪ませて――

「本来の私は……ああやって躊躇なく他人に銃を向けられる化け物です。直接誰かを殺した事はまだありませんが……間接的に命を奪った事は何度もあるかもしれないですね」

「……嘘だろ……?」思わず口をついて出た言葉が何の意味も為さない事は分かっていた。現在、砂木を取り巻く全ての状況が、梢の言葉に偽りがない事を示していた。

「でも、せんぱいを手にかけるつもりは微塵もありません」梢はきっぱりとした口調で断じた。「今さら信じてもらえないかもしれませんが……せんぱいが私にとって大切な人なのは……事実です」

「いや……信じるよ」無理矢理笑顔を作り、砂木は言った。「たとえ土倉がどんな人間であったとしても……さっき俺を助けてくれたのは事実じゃないか。だから、信じたい。……ここから、どうすれば良い?」

 梢の表情が少しだけ明るくなったような気がした。「逃げましょう」と砂木の手を引く。「相手はプロです。少しでも遠くへ行きましょう。人がたくさんいるところへ逃げ込めば、何とか撒けるかもしれません」

「分かった……! 行こう!」

 走り出す二人。

 しかし、襲撃者達は哀れな逃亡者をみすみす逃がすつもりはないようだ。上空から何機ものドローンが降下してくる。即席の神風特攻隊が一直線に砂木達へと突っ込んできた。

「ッ……!?」恐怖で体が硬直する。その瞬間、自身の腕を引く力が強くなった。横合いに引っ張られ、体の軸が傾く。そのまま体勢を崩してしまうが、それが命運を分けた。ドローン特攻隊は的を捉える事ができないまま通過し、再び頭上高くに浮上していった。

「怖がらないでください! あれはただの偵察用、追尾性能はありません! 遠藤さん達が来るまでに逃げ――」

「――させるつもりはねえよ! クソガキ共!」

 玄関前の柵から飛び降りた日本刀男がドローンと入れ違いで急降下してくる。当然、その手には振りかぶった日本刀が携えられている。

 梢はとっさに砂木を突き飛ばし、自身も横に飛ぶ。分断された二人の間に、振り抜かれた日本刀の刀身が抉り込んだ。

「外したか。結構良い目してるじゃねえか、お嬢ちゃん?」日本刀が歯をギラつかせて笑う。彼が日本刀を構え直すと同時に、拳銃を持ったもう一人の男が下りてくる。

「遠藤、あまりやり過ぎるなと言っただろう」

「死なねえように配慮はしたっつうの」

 ――あれのどこが配慮だよ……!? 完璧に殺しにかかってただろうが……!

 思わず内心で抗議する砂木だが、当然チンピラ達には届いていない。

 砂木と梢はジリジリと後退していく。アパートの敷地外からは出られたが、前方には危険人物が二人も立ちはだかり、周囲は無数のドローンで包囲されている。

「くッ……」

「もう十分だろう。子供にしては良くやった方だ」拳銃の銃口はこちらに突きつけたまま、もう一人のチンピラが言った。「二人共、先ほど足を割れた窓ガラスで怪我しているはずだ。このままでは辛いだろう。投降すれば治療もしてやれる。遠藤が一人で舞い上がっているが、こちらとしては君達を害するような事はしたくない。お互い、ベストな選択を選ぼうじゃないか」

「とてもじゃないですが信用できませんね……!」梢が奥歯を食いしばりながら反論する。「先ほどまでのやり取りの中で、私達が何回死にかけたと思ってるんですか……!?」

「我々は曲がりなりにもプロだ。ギリギリのラインを攻めていく事自体は造作でもない」

「どうだか……!」

 梢の語気は強いが、圧倒的な戦力差は覆せない。徐々に距離を詰められていく。

 ――イチかバチか……ドローンを振り切って逃げるべきか……!?

 無謀だと分かっていても、そんな考えが脳裏を過ぎる。何も手を打たないでいるよりは、はるかにマシだと思えたからだ。チンピラ達に気づかれないよう、梢の腕を掴んで行動に移そうとした時、砂木は気づいた。

 ――この音……車のエンジン音……?

 認識してからは早かった。アパート近くの曲がり角から猛スピードでカーブしてきた軽自動車が猪のごとく、こちらへ突っ込んでくる。

「うおわああああああああああッ!?」その場にいた全員が素っ頓狂な悲鳴をあげながら、慌てて後方に跳ぶ。チンピラ達と砂木達の間に割って入るように直進してきた軽自動車は、急ブレーキをかけて砂木の前で停まった。

 開け放たれた運転席から怒号が響く。「早く乗れ! ずらかるぞ!」

「朝丘先輩!」「朝丘さん!」

「良いから、さっさとしろ!」

 砂木と梢は、朝丘の運転する軽自動車の後部座席に乗り込み、ドアを閉める余裕もなく発進した車の中で大きく溜息を吐き出した。

「バイト先から車借りてて助かったぜ……!」朝丘は胸を撫でおろしながらも、「つーか、あの物騒な連中は何なんだ! 刀に銃って……映画の撮影じゃねえんだからよ!」

 後部座席には、朝丘が先ほど買ってきたばかりの食材がパンパンに詰まっているビニール袋がいくつもあった。

 梢はそれらに一切目をやる事なく、朝丘に向かってまくしたてる。「お願いします! できる限り遠くへ……人の多いところへ……! あの人達はすぐに追ってくるはずです!」


 (12月21日 午後8時20分~午後8時32分 嘉島荘前)


 走り去っていく軽自動車を見送りながら、遠藤は冷静さを崩さずに言った。

「井筒屋。居場所は?」

「問題ない」井筒屋はスマートフォンを操作しながら、「奴らが逃げる直前にGPS発信機を仕掛けた。向こうが気づかない限りは反応を追い続ける」と説明した。

「よし。雀森には?」

「すでに情報を送ってある。いつも通り、オペレートは雀森に任せる。街中の監視カメラを潰してもらわないと、あとで厄介だからな。途中で警察に介入されるのも煩わしい」

 その時だった。遠藤の携帯電話が着信音を鳴らす。

「ちッ、さすがに隠し切れなかったか」遠藤は舌打ち混じりに電話に出る。相手は名前も知らない『自然回帰』の幹部だった。「四十沢さんじゃなく俺に直接って事は、分かってんだろ? ……ああ、居場所が分かったのはついさっきで、かなりの偶然だった。情報の共有が遅れたのは謝る」

 それから二、三言やり取りしてから通話を切った。

「何て言ってた?」井筒屋が訊く。

「すぐに武装した構成員を一〇人くらい向かわせるってよ。あと車も。こいつらを使って、お嬢を捕らえろって事みてえだ。あと面倒くせえ条件までつけてきやがった」

「何だ?」

「指定した場所に追い込んでから捕まえろっつう命令だ。要するに、この前壊滅した一三支部がある区画には人員が大勢いるから、そいつらも総動員して確実に確保してえようだ」

 忌々しそうな様子の遠藤だったが、井筒屋の思いは少し違ったようだ。

「いや、悪くない条件だろう。駒は一人で多い方が良い」

「つっても、組織所属の戦闘員なんて、まともな奴いねえだろ。素人に毛が生えたレベルの奴ばっかだろうが」

「別にプロを捕獲する訳じゃない。逃げている三人は、令嬢を除けば一般人だ。彼女についても戦闘員としての腕は皆無。中途半端な構成員でも問題はないだろう」

「……そういうもんかねえ」

「四十沢さんと絹花にも、指定された場所へ向かうように言っておこう。構成員を利用して令嬢を捕らえたあとは、俺達で皆殺しにすれば良い」

「それについては賛成だ」遠藤はニヤリと笑う。

「それにしても」と井筒屋は唐突に話題を変えた。「さっきは、あの対応で良かったのか? 令嬢の方はある程度事情を察しているんだ。わざわざ脅さなくとも、普通に事情を説明するだけで良かったように思うが」

「ああ、その事か。別に良いんだよ、あれで。この辺で俺達が『自然回帰』とは別の思惑で動いてるって事を感づかせておかねえとな」

 遠藤は怯える少女の顔を思い浮かべ――

「事態がどう転んだところで、あの子はもう『表』じゃ生きていけない。今回の件を受けた組織が、今後令嬢をどうするかなんて考えるまでもなく分かんだろ?」

「……そうだな」

 そう。

『自然回帰』が令嬢を保護したとしても、彼女はもう普段通りに学校へ通う事はできないだろう。彼女の存在が敵対勢力に洩れてしまっているのだ。おそらく、保護された彼女は永遠に牢獄のような組織の奥底へ押し込められるだろう。

「四十沢さんも、たぶん最初からそのつもりだと思うぜ」

 遠藤が歯を見せて笑うと、井筒屋も小さく笑った。

「ああ、俺もそう思う。歓迎の準備もしておかないとな」

 彼女を――土倉梢をこちらで捕らえ『自然回帰』と手を切るための交渉材料とする。必要なのは彼女自身ではなく、彼女が持っているであろうデータだ。それさえあれば目的は果たせる。

 あとは用のなくなった梢を保護すれば良い。成行きのままに事態が進行した時、必ず不幸になってしまうだろう彼女に、第三の道を提示する。

 遠藤は知っている。井筒屋は知っている。四十沢も絹花も雀森も知っている。

 梢がこの組織の人間達とは根本的に違う事を。支部へ遊びに来た時、心の底から楽しそうに『とある先輩』の話をする彼女の姿を。本来ならば、こんな薄汚れた世界にいて良いはずがない事を。

「……そんじゃ、行くか」

 自分達はヒーローではなく悪人だ。だから、不幸に苛まれている人を完全に救ってやる事はできない。取り巻く障害や降りかかる災難を全て排除して、元いた場所に戻してやる事は絶対にできない。

 だが、だからと言って見捨てる事もしない。そうやって自分達を地獄の底から地獄の表層まで引っ張り上げてくれた人を知っているから。

「いつも通りだ」

「ああ」

 二人はいつも通りのやり取りを交わす。

 やる事は変わらない。かつての自分達がしてもらった事を、今まさに救いの手が届かない場所で泣いている者に対して行う。血にまみれた手を差し伸べる。それだけだ。


 (12月21日 午後8時32分~午後8時34分 嘉島荘、103号室)


 一連のやり取りを見ていた良助と望実は、顔を突き合わせて苦い顔をしていた。

「文谷さん、知ってた……?」

「いや、全く……」

 望実が追っていたクラスメイトの少女は、このアパートにいた。少なくとも数日前からずっと。良助達は目と鼻の先にいた土倉梢の存在に気が付かず、見当違いな捜査をしていただけだった。

「不覚……」

 うなだれる望実に、良助は恐る恐る声をかける。

「どうするんだ? 土倉って子は逃げてしまったけど……」

 すると望実は苦々しい声色で、「まあ……間違いなく、ここに戻ってくる事はないだろうね」と言った。「今すぐ追うしかないわ。あのチンピラ連中は土倉達の居場所が分かるみたいだから、あいつらにこっそりついていけば良い」

「でも、こっちに車なんてないぞ……!」

 薄給激務で、家具すら買う余裕のなかった良助に自家用車などあるはずもなかった。免許があっても、運転するための車がなければ意味はない。

 しかし返ってきた答えは、良助の想像を遥かに超えていた。

「車なら、そこら中にあるでしょ?」と。

「ちょっと待て……もしかして……!?」

 もう望実が何を企んでいるか分かってしまう。

 良助の顔面がとてつもないスピードで青ざめていく。

 望実は可愛らしく頷いて――

「鍵は私が開けるし、エンジンもかけてあげるから。大丈夫よ、近所の何人かは絶対にチンピラ共を見てるから。私達が少しくらい悪さしても、たいていの事はあいつらに擦り付けられる」


 (12月21日 午後9時0分~午後9時34分 簡易拠点内)


「こんばんは、東雲君。迷わず来れたかい?」

 扉を潜ると、やはり出迎えてくれたのは笹井だった。

 初任務の時とは違い、今回の集合場所は廃工場のような寒々しいところではなかった。

 工事現場の一角に建てられたプレハブ小屋はそこそこ広く、部屋も最低三つはあるようだ。奥に扉が二枚あるのが見える。中央には石油ストーブが置かれ、武田香織と五十嵐御守が至福の表情でストーブを取り囲んでいた。

「……アイアンメイデンは……?」

 押し殺した声で尋ねると、笹井は薄く笑って、二枚の扉の内、右側の方を指差す。

「……作戦の決行は消耗品部隊が全員集まってからですか……?」

「そうだね。鮫島さんがもうすぐ来るはずだから、そのあとすぐに決行するよ」

「……分かり、ました……」

「怖いかい? 人間を超えた化け物に牙を剥く事が」

「あっ、いえ……いや、まあ……そんなところです……」

「大丈夫さ、僕の作戦に不備はない。今日、皆で自由を勝ち取ろう」

「はい……計画の成功を祈ってます」

 力なく微笑むと、部屋の隅に置かれたソファに移動する。

 あまり上等なものでもなさそうな硬いクッションの上に腰を下ろし、東雲は目を閉じる。

 彩美がいるのとは別の部屋から何人かの声がする。彼らもまた、笹井の計画に乗った者達だろう。ここに集められているのは、全員笹井側の人間だ。それ以外の部隊員および笹井側の中でも、『その他』を統率・監視しておく役目を与えられた者達は、他の簡易拠点内にいるらしい。

 ――鮫島さんが来れば、計画が遂行されちまう。

 ――鋼岬がいる部屋の中は、すでに準備が完了しているはずだ。

 ――あとは笹井さんが任意のタイミングで鋼岬を嵌めるだけ……。

 思考にふけっていると、すぐに鮫島が到着した。

 ――くそッ……考える暇もくれないってか……!

 鮫島は野球のバットケースのようなものから自身の得物(槍斧(ハルバード))のパーツを取り出しながら、「他の拠点を見て回ってた。向こうも全員揃ってる。問題ない」と報告した。

「よし」と笹井はいつも通りの調子で返す。


「そろそろ『アレ』も回ったころだ。全員で行こう」


「え……?」

 東雲は、最初、笹井が何を言っているか理解できなかった。もちろん、計画の詳細は知らされている。笹井の言う『アレ』が何なのかも分かっている。この部屋や、彩美がいるのとは別の部屋。そこにいる者達がどういった役目を与えられているのかも知っている。

 しかし。

「『アレ』を撒くのは……全員が揃ったあとのはずじゃ……?」

 怪しまれる事が分かっていながらも、東雲は疑問を口に出していた。先日、笹井から渡された計画書の中身はほとんど暗記している。だから間違えようもないのだ。

「東雲には悪いけど、念のためだよ」

 薄く笑った笹井が、全てを見透かしたような目で東雲を見やる。

「さすがに新入りに対して、一〇〇パーセント正確な情報を教えるはずがないだろう? たとえ、どんなに言って聞かせても、どんなに酷い目に遭わされても……アイアンメイデンの見てくれは『普通の女の子』だからね。ちょっとでも情が移っていたとしたら危ないだろ?」

「…………」

 ――バレてるのか……!?

 ――俺が鋼岬を殺す事に戸惑ってる事に……!

 だとすれば、今この場に東雲の味方はいない事になる。彩美と共に始末されるのではないかと一瞬覚悟したが、助け船は思わぬところから来た。

「気を悪くしないでね。皆、そうだったから」と武田香織が気だるそうな声色で言ってきた。「新しく入ってきた連中に関しては、こうして『一部が嘘の情報』を伝える。で、笹井が『こいつは信用できる』と踏んだら、改めて正しい情報が伝えられる。以外と小心者なのよ、この優男」

「慎重だと言ってほしいね……」笹井は特に気にした様子もなく、「あいにく、東雲君とは信頼を築く時間があまり取れなかったからね」と肩をすくめた。「決行ギリギリに『種明かし』する事になってしまって申し訳ない」

「あ、いえ……当然の事だと思いますし……俺は別に……」

「そう? それなら、ありがたいんだけど……」

 ――良かった……気づかれた訳ではないのか……。

 ――それなら、まだ勝算はある……!

 彩美がいるのとは別の部屋から、三人の部隊員が出てくる。すでに一仕事終えた彼らの表情は、どことなく明るい。東雲は、喉の奥からせり上がってきた感情に耐えるため歯噛みした。

 笹井が一つ頷くと、その場にいた全員が武器を構えた。東雲も拳銃を抜いて安全装置を外す。

 笹井がドアノブに手をかけ、その付近に拳銃を持った武田香織と五十嵐御守が張り付く。少し離れたところでは、いつでも刺突に移れるようにハルバードを構えた鮫島が配置された。

 そして笹井が一気にノブを回し、部屋に突入する。拳銃組もそれに続き、即座に銃撃体制に移った。しかし、うっすらと異臭の立ち込める室内で銃撃戦が繰り広げられる事はなかった。安全を確認した各員は胸を撫でおろしながらも、銃口はある一点を捉えたまま離さない。

 そう――床に倒れ伏して荒い息を吐く鋼岬彩美へと。

「やあ、アイアンメイデン。どうだい? 人生で初めて『ラリった』感想は?」

「ささ……い……な、に……を……」

 彩美の言葉は途切れがちで、ほとんど言葉の(てい)を為していない。だが、笹井や東雲達には分かる。彼女が何に対して戸惑っているのかを。

「運が良いよ、君は。こんな裏世界にいても滅多に体験できない事だよ? これだけの量の大麻を一気に摂取するなんて事――」

 未だに部屋に薄く漂う異臭。その正体が大麻だ。東雲達が突入する前に、この密室は大麻を燻した煙で満たされた。およそ、人体に対して使用するべきでない分量で。

「君を無力化できるものであれば手段は何でも良かったんだけどね」笹井は楽しそうに説明を始めた。「でも、そんなものを大量に注文して組織に怪しまれる訳にはいかない。だから、どこでも簡単に手に入るこいつを集める事にした」

 笹井いわく、能力者が力を使うためには相当な集中力がいるらしい。つまり、脳に莫大な負荷がかかれば必然的に能力者は無力化される。適量でさえ脳みそを無茶苦茶に掻き回すそれを、規定量の数十倍で摂取させたのだ。普通の人間であれば、どうなるかなど説明するまでもない。

「気分、最悪だろう? 乗り物酔いの比じゃないレベルのはずだ。普通の人が吸ってたら、一瞬で意識が遥か彼方へ飛んで行ってただろうね」

「何で……こんな、こ、事……したの……? わた、し……なにか……わる、い事……した……の、……?」

「おっと。さすが規格外だ。早くも喋れるくらいまで回復したか」

 笹井は彩美の質問には一切答えなかった。

 代わりに、コートのポケットから包装された小型注射器を取り出す。

「彩美、こっちは君も普段良く見ているやつだ。捕らえた捕虜の拷問の最後に使う劇薬。これを打ったらどうなるかは……言わなくても分かるよね?」

「あ、ああ……!」

 彩美の表情が急激に絶望へと染まっていく。顔中から不自然な汗を流し、焦点の定まらない目で必死に周りを見渡す。

 しかし、「本当はこの手でぶっ殺してやりたいんだがな」「ま、確実さを取ったら、全員の恨みを晴らす余裕なんてないわよね」「良いじゃないですか! これで私達は自由の身ですよ!」部屋中から聞こえてくる声は、彼女の身を案じたものなど一つもない。

「さて、無駄話をしてる余裕はないね」笹井は注射器を準備しつつ、「この調子じゃ筋弛緩の方もすぐ収まりそうだ」と言った。「名残惜しいけど……ここらで幕引きにしようか」

 透明な液体で満たされたシリンジ。そして、それが接続された注射針が徐々に少女の柔肌に迫っていく。その先端が彩美の首筋に触れる。

 その時、東雲は気づいた。

 彩美の唇が小さく動いたのを。


 ――「だれか、たすけて」


 瞬間。

 東雲は叫んでいた。

 東雲は走り出していた。

 一点をめがけて。

 今まさに無抵抗の少女を毒牙にかけようとしている一人の青年へ向けて。

「――ッ!」笹井が振り向いたが、すでに遅い。東雲の繰り出したタックルが笹井を押し倒し、共々床へ叩き伏せられる。彼の手から離れた注射器が宙を舞い、壁に当たって砕けた。透明な液体は誰に降りかかるでもなく、床や壁に撒き散らされて無駄になる。

「動くんじゃねえ! ここで死にたくないならな!」

 すぐさま起き上がった東雲は、懐から金属塊を取り出し、刺さっていたピンに指をかけて周囲に見せつける。ただし金属塊本体を正面に向けるのではなく、それを持った手の甲を正面に向ける形で。

「あいつッ! 手榴弾を!」鮫島の肩がこわばる。

「今すぐ武器を捨てろ! じゃないと、ここで全員仲良く挽き肉になるぞ!」

「……何のつもりかな? 東雲君……?」ゆらりと起き上がる影。いつも通りの笑顔を浮かべた笹井が、東雲へと率直な問いを投げかける。

「腹が立ったからだよ」対して、東雲は敵意剥き出しの声で応答した。「散々、口八丁で仲間に引き込んでおいて、いざ作戦当日になったら『お前に教えた情報は嘘でした』だと? ふざけてんじゃねえよ、クソ野郎。だから、これはムカついた腹いせだ。あんたの計画を今この場で滅茶苦茶にしてやろうと思ってな」

「血迷いやがって……! 自分が何してるか分かってんの!?」

 武田香織が激高するが、東雲は鼻で笑い飛ばした。

「はっ! あんたらこそ何も分かってなさそうだよな! 笹井に付いて回って金魚の糞やってるだけの連中が偉そうにしてんじゃねえよ!」

「……殺す」

 拳銃の銃口が一斉に東雲へと向く。

「おとなしく殺されろ、裏切り者」武田香織の怨嗟の声。「アタシは……何としても日常に戻らないといけないのよ……! 警察官の父親に堂々と顔向けするために!」

「……お兄ちゃんが待ってるの」五十嵐御守の絞り出すような悲痛の声。「新幹線に乗ればすぐに会いに行ける距離にいるのに……この女のせいで……! だから私はこいつを殺して、胸を張ってお兄ちゃんに会いに行くの!」

「弟との何でもない日々を取り戻してえんだ」鮫島の覚悟を決めた声。「お互いにとって、たった一人の肉親なんだ……。あいつを一人にする訳にはいかねえ。俺は生きて表の世界に帰らなきゃいけねえんだよ!」

 各々が吐露する、それぞれの物語。彼らにも彼らの事情がある。運悪く『裏』の世界に引きずり込まれた彼らは、自らにとって大切な人のために、ここから抜け出す事を誓った。そうして何年も地獄で生き延びてきた。その想いは、東雲が汲み取って良いものではない。

 しかし、それを理解したうえで。

「知るか」

 東雲はガムでも吐き捨てるかのように言った。

 そして――

「あんたら、武器捨てなかったな。交渉決裂だ」

 手にした兵器の安全ピンを抜き、それを思い切り地面へと叩きつけた。

 爆音と閃光が全てを蹂躙する。


 (12月21日 午後9時35分~午後9時37分 簡易拠点内)


 結論から言って、東雲が使ったのは火薬を用いる手榴弾ではなかった。マグネシウムなどを燃焼させて発生する光と音によって、相手を行動不能に陥れる兵器。

 音響閃光弾――俗にスタングレネードやフラッシュバンなどと呼ばれる類のものだ。

 東雲がこれを見せびらかしながらも、投げる直前まで本体を手の甲で隠していた理由は、これが非殺傷兵器であると悟らせないためだろう。

 そして、それを使用した目的も明白だ。

 全員の視覚と聴覚が回復した時、すでに東雲と彩美はいなかった。彼が少女を連れて逃げた事は火を見るよりも明らかだ。

 慌てふためく鮫島達を横目に、笹井は一人思考にふけっていた。

 ――やってくれるね……。

 本来の計画を本来の方法で達成する事に関しては、完全に失敗した。奇しくも、笹井が自らの意思で仲間に引き入れた者の手によって――。

 だが、どうしようもなくなってしまった訳ではない。

 まだ過程を変更せざるを得なくなっただけだ。目的達成までの道は消えていない。丁寧に舗装された道路ではなく、凹凸だらけの砂利道だが、進めない事はない。

 ――でも……。

 ちらりと消耗品部隊の面々を見やった。

 そして内心で冷徹に呟く。

 ――そうするとすれば彼らは邪魔だな。

 部屋にいるのは笹井を除いて六人。

 東雲の行動によって冷静さを欠いている彼らを、今から説得する時間はない。そう悟った笹井はダッフルコートの内側に忍ばせたサブの拳銃に手をかけた。

「……嫌になるね」

「笹井、どうすんだ!? 早く裏切り者を追わねえとヤバいぞ!」

 切羽詰まった様子の鮫島が怒号混じりに訊いてくる。

 対して、笹井は平坦な声で答えた。

「大丈夫。まずは状況を整理しよう。皆、僕の前に集まってくれ」

 笹井が呼びかけると部隊の面々は素直に集まってくる。緊急事態だからこそ、何かに縋りたいのだろう。その都合の良い対象が笹井なのだ。

「どうするつもり……?」冷や汗を浮かべた香織が尋ねる。

「簡単さ」笹井はいつも通りの声色で言った。「――達にも消えてもらえば良い」

 一瞬。

 抜き放った拳銃を全員のどてっ腹へ向けて即座に六連発。

 エコーのような炸裂音が木霊し、直撃を食らった部隊員が崩れ落ちる。何が起きたかさえ理解できなかっただろう部隊員を見下ろしながら、笹井は静かに言った。

「ここからは僕一人の問題だ。いや……正確には最初から僕一人のための計画だった。君達は利用していただけ。でも、もう必要ない。これまでご苦労だったね」

 踵を返して部屋を出ていき、次いでスマートフォンを取り出して雀森に繋ぐ。

「二人の居場所を教えてくれ。ああ、全部僕一人でやる」


 (12月21日 午後9時32分~午後9時39分 ファッションビル前)


 車を乗り捨て、狭い道を通ってまで逃げ惑い、最終的に辿り着いたのはCDショップや雑貨などを扱う店舗が多くあるファッションビルの前。普段であれば、何の気なしに遊び来る施設の一つ。しかし、今はそんな気楽な気持ちではいられる状況ではなかった。

「チェックメイト……って言ったら良いんだよな? この状況。おら、さっさと引き渡せ。逃げたり抵抗したりすればどうなるかくらいは、いくらパンピー共でも分かるだろ?」

 日本刀を携えたチンピラ風の男が凄む。さらに、彼に付き従うようにゾロゾロと自動小銃で武装した者達も出てくる。

「結局……逃げ切れなかったか……」諦観の念を見せる朝丘。もはや四肢から力は抜けてしまっていた。

 ――これで……終わりなのか? こんなところで……!

 砂木は奥歯を噛み締める。状況を打開するための策を考えるが、車を乗り捨てざるを得なくなった時点で運命は決していた。これ以上できる事はない。

「もう良いだろ? 一般人にしては十分良くやったよ、てめえらは」チンピラが日本刀の切っ先をこちらへ向けてくる。「お別れの挨拶が必要なら、あと三〇秒くらいは待ってやる。さっさと済ませちまいな」

 ジリジリと距離を詰めてくる日本刀男。覆せない戦力差を理解しているからか、その佇まいは堂々としている。先ほどの言葉にも嘘はないのだろう。

 しかし、その後ろに待機していた連中は違ったようだ。

 日本刀男の横合いから突き出す形で、続々と自動小銃を構えていく。その照準は全て砂木と朝丘に向けられていた。「今すぐ撃てば良い」と誰かが言った。

「まあ、慌てんな」チンピラは兵隊連中を制しながら、梢の方を見やった。「俺達の役目は何か考えてみろよ? お嬢の回収だろ。お嬢が持っているデータ、そんでお嬢自身を無傷で回収してやる事が、だ。せっかく逃げられないところまで追いつめてやったんだ。最後まで確実にいこうや」

 ――くそ、舐めやがって……!

 砂木は内心で歯ぎしりするが、かと言ってこの場を切り抜ける手がある訳でもない。

 自動小銃組が渋々といった様子で銃を下げる。それを見たチンピラは不敵に笑う。

「さて、お嬢を確保したら、あとは四十沢さんに連絡するだけで終わりだ。あんたらも急に駆り出されて災難だったな。仕事が終わればゆっくり休んで――」

「今、四十沢言うたか? お前」

「――!?」

 どこからともなく聞こえてきたドスの利いた声に、その場にいた全員が息を飲んだ。

 そして。

 事態は急変する。

 砂木には黒い塊が現れたようにしか見えなかった。視界の外から乱入してきたソレは、目にも留まらぬ素早さで兵隊共の間を縫うように駆け抜ける。それが何度か繰り返されたあと、何が起きたのかをようやく理解する。

 黒い塊の正体は人間だった。ステンカラーコートに身を纏った二〇代ほどの男だった。服の両袖からは鉄製の爪が伸びており、その先端からはポタポタと赤い液体が滴っている。

 ステンカラーコートの男が猛禽類のように鋭利な視線を砂木達に向ける。

 その直後、自動小銃を持った男達の全身――正確には頸動脈がある部位から一斉に鮮血が噴き出した。悲鳴すら上げる間もなく、あっけなくその生命を終えた者達が汚い地面に崩れ落ちていく。

「……ッ! テメエ……よくも邪魔してくれたな……!」

 死体の海の真ん中で、まだ自身の足で立っている者がいた。

 日本刀を持ったチンピラ風の男は、細かい傷こそ見受けられたが、致命傷には至っていない。あの一瞬の攻防をギリギリで切り抜けたのだろう。

 凄まじい敵意を向けられているにも関わらず、ステンカラーコートの男は日本刀男の方を見向きもしなかった。代わりに砂木達の方へ歩み寄ってくる。思わず身構える三人だったが、男の対応は想像していたものとは異なった。

「お前らが誰かは知らんし、興味もない。後ろにおる雑魚に対しても同じや。せやから、さっさと逃げえ」

 男はそれだけ言うと、こちらから視線を外す。チンピラの方を振り返ると、嘲笑を含んだ声で吐き捨てた。

「お前、四十沢の部下やろ? 三下に興味はないけどな、標的と繋がっとるんなら話は別や。お前殺して、その汚い首持って呼び回れば出てくるやろ」

「……上等だ。このクソ野郎……!」

 チンピラがこめかみに青筋を浮かべながら応じる。

「人の仕事の邪魔した罪……その薄汚ねえ命で償わせてやるよ……!」


 (12月21日 午後9時42分~午後9時47分 路地裏)


 ――始まったようだな。

 手許の端末を使い、各地の情報を収集していた久郷は胸の内で溢す。

 すでに局所的に衝突が起こり始めている。戦っている者達のほとんどは、先日の『自然回帰』第一三支部での戦いに参加していた連中と同じだろう。組織が壊滅寸前のため、前回ほどではなくとも相当な人員が導入されている。久郷は、そこを突けば良い。

 西條から受けた依頼はまだ継続している。組織側の用心棒集団のリーダー、四十沢を見つけなければいけない。そして彼を足掛かりとして、久郷の本来の目的も果たす。

 久郷の顔はまだ誰にも知られていない。『自然回帰』側にも、組織と敵対しているであろう者達にも。暗躍するのに、これほど適した状況はない。

 行動を開始しようとする久郷。

 しかし、その時、視界にあるものが飛び込んできた。

「……ッ!」思わず物陰に飛び込む。

 久郷以外の誰かがいた。一瞬だったので良く分からなかったが、おそらくは女性だろう。ニット製のキャスケット帽を被り、パーカーの上からジャケットを羽織っていた。

 ――一般人じゃないな。

 久郷はすぐさま結論を導き出す。

 ――動きがプロのものだ。

 ――どちらの陣営にいる者かは分からないが、このままやり過ごすのが得策か。


「――なあ、それで気配殺しきったつもりになってる? おっさん」


 耳許で声がした。女性の質のものだ。つい数秒前まで、かなり距離が開いていたにも関わらず。明確に久郷の存在を認識して。殺意を込めた声が、真っすぐと突き付けられていた。

 ――まさか……!?

 久郷の眼前が真っ白に染まる。目を焼き焦がすような純白の閃光が炸裂し、脆弱な人間を消し炭にするため、一気呵成に迫りくる。久郷はとっさに身を捻り、ギリギリで射線の外へと退避した。突き進んできたレーザー光のような軌跡が耳の皮膚を掠り、灼熱の痛みが襲う。

 久郷は左手でベルトに挟んでいたコルト・ガバメントを抜き放ち、襲撃者へと向ける。

「……やはりか」

「そりゃ、こっちの台詞よ」

 対峙する二つのシルエット。キャスケット帽の女は、敵意を剥き出しにして久郷に立ちはだかる。遠目からでは見えなかったが、今なら分かる。帽子の中に大部分が収められてはいるが、彼女の髪の毛は色素が抜けきった銀色をしていた。

 そして、先ほどの閃光および気配を完全に殺しきっていたはずの久郷を発見した事。

 この三つの条件が揃った時点で、確信しない方がおかしい。

「君を探していた」久郷は言った。「君だけじゃない。君を従えているリーダーもだ」

「何? 私の事も探してたの、おっさん。さっき避けたのといい……おっさん、『私達』の事も何か知ってるみたいね」

「ああ、知っている。俺は君と――」

「でも関係ない。死ね」

 久郷が言い終える前に女が動いた。彼女の全身が光のベールに包まれ、その背中からいくつもの光の束が表出する。瞬間、そこから絨毯爆撃のごとく光弾が射出されていく。

 狭い路地裏の中、最小限の身のこなしで次々と迫りくる弾を躱していく。その隙間を縫って、牽制のために女の脚めがけて銃撃するが、あっさりと光の鎧に防がれた。

「…………」

「良い事教えてやるよ、おっさん」獰猛な笑みを浮かべながら女が言い放つ。「相手の事把握してるのは、あんただけじゃない。こっちもよ」

 久郷は言葉を返す事はしなかった。カマをかけているだけかもしれない。そういった可能性もあったからだった。

 しかし、キャスケット帽の女は容易く可能性を覆す。「『自然回帰』の側にも、それと敵対してた一団の中にも……あんたみたいな男はいなかった。外部から参戦してきた第三者の内、鉤爪野郎については、私があの日戦ってたから違う」

 そうすると、と女は前置きし――

「おおかた、あの戦いが起こった日に漁夫の利を得た奴って事だろうね。椎葉、唐松、宇津井……だったっけ? 支部に詰めてた幹部連中を殺ったの、おっさんでしょ?」

 もちろん、彼女の言葉に肯定してやる義理はない。たとえ、寸分違わず推測が的中していたとしても。

 女の方もそれは分かっているらしく、「ま、答え合わせは期待してないけど」と肩をすくめる。「でも、あんたが第三者の殺し屋で、組織のアキレス腱を狙ってるのなら……見逃すっていう選択肢はない訳。ほとんどが死んだってどうでも良い連中だけど……その中の一人だけは、絶対に手にかけさせる訳にはいかない……!」

 光の奔流がさらに強大なものとなっていく。水を詰め過ぎた風船のように、何かが内側から破裂せんと蠢いている。爆発的に膨張していく暴力の源泉を前にしながら、久郷は取り乱す事はしなかった。

 答え合わせをしてやる義理はない。

 しかし、あえて口にする。

「ご名答だ」

 絶対的な力の象徴を具象化し、自由自在に振り回す権利を与えられた存在に向かって。

 久郷は、量産型の何の変哲もない拳銃を突きつける。「……殺し屋として、与えられた仕事は完遂する。邪魔をするというのであれば、標的以外であっても容赦はしない」

「――絹花」不意にキャスケット帽の女が平坦な声で言った。「今からあんたを殺す化け物の名前よ。私達を狙った事を後悔して、この名をあの世まで持っていけ」


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