1、逃亡
今から500年も昔、リトリス王国の危機を伝えるため天界より最高神アストリウスに仕える六枚の翼を持った、偉大なる大天使が王国へと舞い降りてきた。
その天使によって国難を免れた王国の王は大変喜び、天使を全力でもてなした。それに満足した天使は天界に戻らず、今でもリトリス王国の王都にある神殿で奉られているそうだ。
(リトリス王国昔話)
◆
夜の帳が下りた神殿の中、一人の女性が黒いマントに覆われた人の手を引いて逃げていく。
巡回する神殿の兵士を避けつつ、その二人は着実に神殿の裏口へと近づいていた。
あと少しで、神殿から脱出できるはずだった。
「あそこです!」
少女の甲高い声が夜の静寂を切り裂く。その少女の後ろから松明を持った兵士がぞろぞろとやってくる。
「なっ…!」
女性がそれを見て絶句し、立ち止まってしまった。
その少女は協力者であるはずだったのだ。少女が神殿へ新しく入ったときから色々と世話をしてきた女性にとって、その少女は娘みたいなものだった。だから、今一緒にいる御方を逃がす計画に加わってもらっていた。少女もこの計画に賛成し、協力してくれていた。
なのに、いったいどういうことだろうか。
いつも無邪気に慕ってきた少女は、そこにはいなかった。己の揺るぎない信仰心から来る圧倒的な自信に目をらんらんと光らせ、自身こそが正義であると言わんばかりに堂々と胸をはって立っていた。
兵士の中から、でっぷりとお腹のでた神官長ジョセフがどすどすと兵士をかき分け出てきた。
「ふ~む。ナターシャと言ったかな?お前にはがっかりだ。せっかく長年の敬虔なる信者であったから、天使様の世話人にしてやったと言うのに」
やれやれ、理解出来ないとばかりに神官長ジョセフが首を振る。
「まさか天使様を盗むと言う罪を犯すとは!全く信じられん!ここにいる、小娘が言わなければみすみす逃す所だったわい」
もはや、ここまでだった。
女性もといナターシャは横に立つ天使だけに聞こえるように、そっと囁く。
「いいですか、天使様。私が時間を稼ぐので、ここからは御一人で逃げてください。出口はすぐそこですので」
きっとナターシャは捕まったが最後、死刑となるだろう。その事に気付いたのか、天使がぎゅっと握っていた手に力を込める。
「駄目です!それではナターシャが…」
一緒に逃げる約束をした。神殿内にある塔の一室から出られない天使に、色んな話をしてくれたナターシャ。
この前行われた盛大なるお祭りに、市場で見かけた美味しい果物。遠い異国にあると言う、広大な砂漠に、どこまででも続くという海原。そして、病弱な弟がいること。
天使の背にあの素晴らしく大きな六枚の翼はなかった。翼があった頃に比べると力が無くなり、もはやただの人間と変わりがなかったが、人の傷を癒す力は依然として残っており、それ目当てで神殿にお金を積んでやって来る人が大勢いた。そのほとんどが、貴族か豪族であった。貧しい人は、到底払えない金額である。ナターシャも払えなかった。
もちろん天使は貧しい人も癒したいと、神官長に訴えたがのらりくらりとはぐらかされ、決して叶うことはなかった。
だからと言って抗議するために、やって来る人を癒さない訳にはいかなかった。誰もが等しく苦痛に呻いているのだ。優しい天使には、癒さないという選択肢はなかった。
だが、我慢の限界である。人を憎むこともせず、500年も力を貸したのだ。もう自由になってもいい頃だろう。
天使はナターシャに協力してもらい、神殿から出る事にした。この事は、神官長には伝えない。邪魔されるに決まっていたからだ。
外に出たら、真っ先にナターシャの弟を助けよう。そう約束していた。ナターシャも泣いて喜んだ。
あとちょっとだったのだ。10分、いや5分あれば二人とも逃げ切る事ができたはずだったのだ。
しかし、それはあまりにも手痛い裏切りによって阻まれてしまった。
ナターシャがぎゅっと手を掴むと、天使を見上げてにこっと笑って言った。
「彼女とは考え方が違ったのでしょう。彼女のせいではありません。だから、恨まないでやってください」
そう言い終わるやいなや、天使の手を振りほどき、背をドンっと押す。その勢いにたたらを踏む。
逃げる素振りをしたため、兵士たちが色めき立つ。
「おい!天使様が逃げるぞ!引っ捕らえよ!」
神官長ジョセフが命令を下すと兵士たちが一斉に襲ってくる。
「行って!お願い!逃げて!逃げるのよっ!」
ナターシャの命を削るかのような叫びに、天使は止まっていた足を懸命に動かす。
それでも後ろ髪を引かれて振り替えれば、兵士に取り押さえられてもなお、髪を振り乱しながら、逃げてと叫ぶナターシャがいた。
ああ、神よ。どうか、どうかナターシャを助けて下さい。
もう翼を失い、ほとんど人間になってしまった天使の願いはきっと天使の主であったアストリウスには届かないだろう。
それでも願わずにはいられなかった。
捕らえられ塔から出られず、もう二度と広い空の下へ行けないと諦めてた自分に希望を与えてくれ、そしてこうして外に出してくれた。
彼女のためにも必ず逃げ延びなくては。
天使の証である翼を失くしても、天使はやはり天使であった。
迫りくる兵士たちが矢を放つが、そのどの矢も当たりもしなければ、掠りもしない。
まるで矢が意思を持ったように彼の周りを避けて落ちて行く。
天使はその事に全く気づかない。とにかく足を動かし、逃げ延びることに、集中していた。
そして、この事にも天使は気づいていない。
彼がまるで空を飛んでいるかのように、物凄い速さで走っている事に。