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「何かあった?」
「え?」
ミットに中段蹴りが入ってスパーンと聞いてるだけで清々しい気分になれるような音が室内に響く。
両手で黒のキックミットを構えて陽菜乃の蹴りを受けている響が力強いワン・ツーをミットにくらわす陽菜乃に唐突に問いかける。
真美子との一件があった日の夜、自宅のトレーニングルームで昔から習っている空手の練習を無性にしたくなった陽菜乃は、あまり乗り気ではないが仕事だからと言う響を連れてミット打ちのトレーニングを数十分前から始めている。
有段者の陽菜乃の拳や脚がミットに決まる度にスパーンと大きな音が自宅内にあるトレーニングルームに響き渡り、その度にミットの向こうからはうわぁ、と情けない声も少しだけ聞こえてくる。
「ねぇ、聞いてる?」
「何、がっ?」
また問い掛けてきたのでそれに答えると同時にワン・ツーから後ろ回し蹴りをかますと今日のトレーニング中で1番大きな音が鳴ってミットを持っていた響がううっと小さく呻きゆっくりと倒れていった。
立って、と言おうかとも思ったが気持ちよく後ろ回し蹴りが決まったので自分も休憩がてらにとその場に座った。
響がミットから手を離すと、その手は薄く色づいていた。
「いたぁーい…わぁ、見てよぉー…赤くなってきてるー」
可愛らしい女子高生のように間延びして話す響が赤くなった手を陽菜乃に見せる。
話し方ほど可愛くない響にはいはいと陽菜乃は軽く流して立ち上がる。
陽菜乃が立ち上がれば自分も立ち上がらなくてはならない響は落胆してまたミットを構えた。
「ねぇ、ヒナちゃんさ…今日なんかあったでしょ?」
「なんでそんなこと聞くのよ」
「だって、技の威力が普段と違うもん…なんて言うのかな…ストレス発散してるみたいな」
ミットを抱えながら目の前で構える陽菜乃に爽やかな笑顔を浮かべてさらに続ける。
「なんかあったなら話聞くよ?オジサンに話してみなよ」
「オジサンって…響くんそんな歳じゃないで、しょっ!!」
綺麗な笑顔で自虐的なことを言う響にふふっと笑って回し蹴りをミットに打ち込む。
万全の構えでなかった響は陽菜乃の回し蹴りでよろめいた。
「ててて…とは言えさ、俺はヒナちゃんよりも長く生きてるから少しは役に立つかもよ?」
「女子高生の悩みがアラサー男子に分かるの?」
わざと意地悪く笑って響にワン・ツーと回し蹴りのコンボを決めると、響はその発言か技の威力かがものすごく効いたようでうっと崩れ落ちて眉を下げ悲しむ素振りを見せた。
「そんな…アラサー男子なんて…痛い、あー痛い、俺のガラスのハートが正拳突きで粉々に…」
「どこがガラスのハートよ。ボーボーに毛が生えてるでしょ」
「はーぁー、ヒナちゃんはデリカシーがないなぁ」
執事といえど年上の自分にでさえズバズバものを言う陽菜乃に不服そうに口をとがらせる響だったが直ぐにヘラっと笑っては何も言わずにミットを構えてどーぞと目で合図する。
そこから陽菜乃は何度か繰り返してワン・ツーと回し蹴りのコンボを決める。
先程まで辛そうな表情でしぶしぶ付き合っていた響も真剣にミット打ちをする陽菜乃を目の前にしては、それ以上彼女については詮索せずに気の済むまでミット打ちに付き合った。
しばらく体の動くままにミット打ちをしているとトレーニングを始める前につけていたタイマーが鳴って休憩しろと教える。
「はぁ、いてててて…もう明日から手が使えないよぉ」
「大丈夫よ。それでも死にはしないから」
「うぅ…スパルタだなぁ」
タイマーがなると同時にへばって座り込んだ響にタオルとドリンクを陽菜乃が渡す。
ありがとうと受け取った響はスポーツタオルを頭に被って浴びるようにドリンクを飲んだ。
その隣にあぐらで座った陽菜乃もダラダラと流れる汗をタオルでガサツに拭って、流れ出た分の水分を取り戻すようにどんどんと冷えたドリンクを体に流し込む。
ひんやりとした感覚が喉を通って胸元のほうへ落ちていくのが心地よかった。
「…で、何かあった?」
汗で濡れた前髪をタオルでかきあげた響が陽菜乃に首を傾げて問いかける。
金メッシュの前髪を上げておでこを晒すような響を見たことは今までになく、不本意だがカッコイイと思ってしまった自分に苛立ちさえ覚えた。
「そんなに知りたい?」
「だって、ヒナちゃんの面倒は俺が見るように言われてるし」
「父さんの言いつけだからって理由ならほっといて」
粗方の汗を拭いたタオルを首にかけて呆れたように笑う。
しかし響はヘラヘラ笑いながらも真面目に続ける。
「違うよ。これは旦那様の言いつけだからとかじゃなくてさ、純粋にヒナちゃんのこと知りたいだけ」
恥ずかしげもなくそう言う響がまた一口ドリンクを飲むと休憩の時間が終わったことをしめすタイマーが鳴った。
響は残念そうにドリンクの蓋を閉めてタオルをその辺に放るとまたミットをかかえてかまえる。
陽菜乃も拳を作って構えると先程同じように打ち込みの練習を始める。
さっきよりも蹴りの方に力を入れる陽菜乃に響も体を下に構えて耐える。
「あのさ…っ」
「えぇ?」
黙って黙々とミット打ちをしていた陽菜乃が響の方を見ないまま声をかける。
自分に向けられた声なのか分からなかった響だがとりあえず返事をするがスパーンという音に消される。
しかし陽菜乃は少し悩みながらも続ける。
「…友達の、…友達の話なんだけどさ」
気恥しさから遠回しの言い方をする。
「う、うん。遠いね」
「その子がさ、…最近っ、彼氏が出来たってさ」
「へぇー、青春だね」
「で、その友達の友達の友達が」
「うん」
「彼ができたことに妬いたんだって」
「ははっ、女子らしいね」
可笑しそうに笑う響の構えたミットに中段回し蹴りが2回決まる。
「でもね、その子はっ…彼よりもその友達の方が好きなんだって」
「え?」
内容に驚いた響は構えていた体を緩めてしまい陽菜乃の勢いづいた蹴りが決まって膝を着く。
「好きって…?それは友達としてでしょ?」
「じゃあ響くんは友達だからって2回もキスする?」
「え!?ヒナちゃんそんなことしたの?」
「いや、私じゃなくて…友達の友達の話だってば」
そこまで言うと最後に思いっきり回し蹴りを決めてはぁと息を着き練習を切り上げると、先程投げ捨てたタオルを拾い首にかけて顔に流れる汗を拭いた。
響はミットを腕から離すとそれを片し出す。
陽菜乃は思い切って今日の真美子との事を言ったもののなんとも言えない反応をされた響に視線を送る。
「で、でさでさ!!その子達は、どうしたの?」
片し終えた響は興味津々に目を輝かせながら陽菜乃に詰め寄るとそれからの話を聞きたがる。
女の子の話への食いつきように若干引き気味の陽菜乃は詰められてなくなった距離を少しだけ取ると無駄にキラキラとさせている響の目から逃れるように顔を逸らす。
「…そんなに食いつくなんてびっくり」
「いいじゃん、今どきの女子高生の話聞きたいのよ」
「変態じゃん」
楽しそうに笑う響に思わず軽蔑するような目をしてしまった陽菜乃だが、誰かに聞かれる訳でもないからいいかとその続きを話し出す。
「はっきり好き…って言われたわけじゃないんだけどさ…。なんて言うのかな感覚っていうか…見え見えでわかるのよね…って言ってた」
あたかも他人の話をしているという前提を忘れないように自分は第三者の立場で話しているように振る舞う。
気づいてないのか響はうんうんと何故か楽しそうに相槌を打つ。
「それでさ、色んな気持ちの整理がつかないの…って友達の友達の友達が言ってた」
「うんうん、要するにヒナちゃんの友達の友達に彼氏が出来たけど、その友達の友達の友達がその子に嫉妬したけど実は両想いってことだね」
「飲み込みが早くてよろしい」
変に真剣に話を聞いている響は自分の両手を使って空中に話の関係図を作り面白そうに笑うので陽菜乃も子供を褒めるような笑みを浮かべると親指を立てる。
「でもね…その彼氏が出来た子を仮にAとするでしょ?そのAは彼氏がいるのに…まぁBとして、Bが好きで…。Bからしたらさ、やっぱり両想いとはいえ彼氏持ちの子にちょっかい出す訳にはいかないでしょ?」
「…まぁ、そうだね」
悩ましい表情で語る陽菜乃とは反対に楽しそうに相槌を打つ響にところどころ疑問と苛立ちが起こる。
「で、キスしたのはAとBだっけ?うわー、昼ドラみたい」
「…ま、まぁ…」
キスという単語を改めてきくと気恥しそうに顔を逸らしてゆっくりと頷く。
そこまで笑顔でいた響は考え込むように腕を前で組むとでもなぁと呟く。
「Aも罪な子だよねー、同時に2人にいい顔するなんて。Bもそれを知っててキスまでするなんてなぁ…彼氏が可哀想だね」
「うっ…そ、そうだよね」
自分のことだが自分のことじゃない響からの意見がグサグサ突き刺さるが、そんなことに気づきもしない響はさらに続ける。
「ねぇ、キスしてきたのはどっちから?」
「お互いに1回ずつ…」
「それはもう彼氏持ちの子がするのはアウトだなぁ…。Bも狡いよね。男なら潔く諦めて好きな子応援するべきだと思うけどなぁ」
「…そうだよね…」
男なら諦めろと言う響の言葉を直接言われたように感じた陽菜乃は肩を落としてため息混じりに納得する。
その様子を見た響はクスリと笑って陽菜乃の肩をぽんぽんと2回励ますように叩き手を置く。
「でもさ…高校生だもんね。高校生なんてさ、大人と違って何も知らないんだよ。だからさ…本気で相手にぶつかったって不完全にしかなれないよ」
顔を伏せていた陽菜乃に小さく微笑みを浮かべて置いていた手を離す。
「まぁさ、純粋さを兼ね備えてる若いうちにしか出来ないことだからさ…結局は後悔しなければお互いにいい結果にはなるんじゃないかな?」
珍しく真面目に答える響に驚きとさすが年上の大人だなという感心を同時に感じた陽菜乃は頷きながら納得するが"不完全"という言葉が陽菜乃の胸に強く突き刺さってそれがこの関係においてどういう意味をなすか考えずにはいられなかった。
"不完全"…女子同士だから一般的な男女の恋人に訪れるような幸せも周りの人々や環境あらの祝福も与えられない。
ましてや高校生、大人でない自分らに出来ることは限りなく少ない。
どんなにお互いに愛し合っていたとしてもそれは完全なものではない他の何か。
そう思考をめぐらせる陽菜乃は頭の中のAのことを思うほどに、せっかく相談したのに答えが分からなくなってため息を漏らした。
「ほら、もうシャワー行きなよ。冷えたら風邪ひいちゃうよ?」
「え、あぁ、うん…」
立ったまま考え込んでいた陽菜乃にそう言うと響は使い終わったトレーニングルームの掃除をすべく部屋の隅にあるロッカーからモップを取り出してモップがけを始める。
さっきまでミット打ちに付き合ってくれていた響が掃除し始めると今日はこれ以上トレーニング出来ないと思った陽菜乃は小さく頷き床のドリンクを拾い上げた。
「なんか響くんにそんなこと言われるなんて思わなかった」
「んふふ、どう?参考になった?」
「さぁ。友達の友達に伝えとくね」
からかうような笑みを浮かべる陽菜乃は手際よく掃除する響にそう言い残すと言われた通り汗を洗い流すためにそのままお風呂場に向かった。
その頃にはせっかく動いて汗をかき温まっていた体もひんやりと冷え始めていた。




