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5限目の国語の授業は昼食を摂り終えた少女の体には子守唄のようだった。
国語の女性教師の優しい声で読み上げられる教科書の文章たちは心地いい音色で耳に入っていき意味も理解しないまま魔法にでもかけられたように瞼が重くなっていった。
黒板を眺めていたはずなのに気づけば視界は真っ暗になりいけないいけないと首を横に振って眠気を飛ばそうと努力をするも教師の魔法は強力だった。
くかぁ、と口元を手で覆ってバレないように欠伸をひとつすると眠気覚ましにでもと窓の方に目をやる。
眠たくなるような日差しを浴びているグラウンドには中等部の体育着を着た女子生徒が体育の授業を受けていた。
昼食後の国語も大変だが体育も体育だなと蒼は頬杖をついてその様子を見つめていた。
「それではここは…久我山さん、読んでくださる?」
「っ!?は、はい…!!」
人のいいような笑みを浮かべる教師にいきなり指名された橙子の声に驚く。
橙子が座る左後ろの席に目をやると橙子も眠りかぶっていたのかいきなりあてられて慌てた様子で立ち上がると広げていた教科書を手にして指定された部分を読み上げる。
初めは自信なさげに小声だった橙子だが徐々に聞いていて安心するような落ち着いて品のある声に変わり朗読する様子を蒼はぼんやりと眺めていた。
「私の、すべての幸いを、かけて願う…」
「はい、ありがとうございます」
教科書の文章を読み終えた橙子は教師と生徒たちの拍手を浴びながら照れたような笑みを浮かべて頭を下げると席に着いた。
蒼も微笑んで拍手を送るとありがとうと橙子に返される。
「では、今読み上げてもらったところの解釈をしていきますね。まず…」
生徒たちに背を向けた教師がチョークで黒板に綺麗に文字を書く。
カツカツとリズム感のある音が心地よかった。
ふぅ、っと小さく息を漏らした蒼は教科書に目を落とす。
ほとんどがひらがなで書かれているこの詩をもう一度理解しようかと目を通すも4行程で諦める。
作者の大切な妹の死について書かれていると説明された詩、同じ境遇になったことの無い自分には理解できないが、同じ授業を受けているこの生徒たちは共感できるのだろうかと少し疑問に思えた。
早く授業終わらないかなぁと思いながら蒼は頬杖をついてまた窓の外を眺め出す。
こんなに暑い季節で1番日差しの強い時間帯にキャッキャと元気に球技をしていて若い子は元気だなぁとしみじみ思った。
ぼんやりとしていたたら5限目の授業終了まで残り10分ほどになっていた。
気づけば黒板には知らない内容が多く書かれていてハッと我に返り急いで横にしたノートに板書を写した。
書いている内容は理解していないがとりあえず書き写していると教師がこの辺はテストに出やすいかもしれませんねと含み笑いをしながら告げた。
「げぇ」
蒼が素直に思っていた言葉が背後から聞こえてきた。
思わず心の声が漏れて始末またのだろうかと口元を抑えるが自分ではないようで安心した。
そのまま今ある板書を済ますとチャイムがなって5限目が終わり頭を下げて挨拶を交わすと教師は笑顔で教室から出ていき教室の中は生徒たちのざわめきがおこる。
蒼は堪えていた眠気に耐えられずに教材も片さないままコテンと体を机に倒して目を閉じた。
女子高生の睡魔というものは侮れないものでその気になればすぐに夢の世界へといける。
心地よく意識を失いそうになっていたころに背後からいつものように女子生徒2人の声が聞こえる。
「ちょっとアンタのノート見せなさいよ」
「はぁ?それが人に物を頼む態度なの?」
「うっ、な、何よ私が見てあげるって言ってるんだから、それ以上のことはないでしょ?」
「見てあげるって、何様よ。これでアンタは赤点決定ねー」
「はぁ?バカ言ってんじゃないわよ、アンタのノートなんかにたよんなくたって赤点なんか取らないわよこのブス!!」
「だったらいいじゃない、ってブスじゃない!!」
相変わらず言い争いになる2人の声でなかなか眠るタイミングがあわずに、重くなった瞼をゆっくりと上げて座っていた自分の席から立ち上がりふらりと言い争う二人の間に割って入る。
眠そうにふわふわした表情の蒼が視界に入ってくると言い争うのはやめて2人とも蒼に目を向ける。
「2人とも…しーっ…」
蒼は口元で人差し指を立てると2人を静かにさせるような仕草をし、その動きに思わず2人はごめんなさいと口を塞いだ。
謝られた蒼はまだ眠そうな目で座っている2人の太ももを見定めるように交互に見ると橙子の太ももにポテッと横に腰掛け、橙子の胸元に甘えるように寄りかかり倒れないように橙子のセーラーカラーを心もとなくきゅっと掴みまた目を閉じた。
「あ、蒼!?」
いきなり乗っかってきて驚くも自分の上で安心しきって赤子のように眠っている蒼を起こさないように手を添えて抱き寄せて頭を撫でてやった。
翠璃は自分が選ばれずに目の前の女が選ばれてしまったのが気に入らないらしく驚きと羨ましがるような目で橙子を睨みつけた。
橙子は睨まれても自分の元に蒼がいることが大きな盾になり得意げに笑っていた。
「何よ、何よ何よ!!」
「もー、だめよ翠璃ちゃん大声出しちゃー」
プンプンと怒る翠璃にわざとらしくそう言う橙子に蒼がうるさいと言うようにんーとうなりながら頬を寄せた。
橙子の体温高めの体が夏といえど眠る時のお布団替わりの暖かさにちょうどよく、更に心地よく眠れそうになる。
「蒼可愛いなぁ…」
「気持ち悪い、なにヘラヘラしてんのよ」
「ふふ、そんなに僻まないでよ。蒼起きちゃうでしょ」
悔しそうに橙子を睨みつける翠璃はふんっと顔を逸らしてきちんと自分の席に座り直すと国語の教材をカバンの中にしまい込んで次の教材を取り出す。
橙子はすやすやと眠る蒼の頭を撫でては愛おしさ余ってぎゅうっと抱きしめる。
半袖から伸びる白い肌は傷も毛穴ひとつなく幼女のようにすべすべとしていて触れる度にその肌触りを良く感じ、暗めの茶色の髪の毛が日に当てられミルクチョコのような綺麗な色にも見えて最近伸びてきたと言っていた前髪は丸みを帯びた黒の自眉にかかり呼吸をする度に毛先が揺れた。
前より伸びた襟足からは見た目の割に大人っぽい項がちらりと見えたが以前肩身離さずしていたチェーンネックレスは付けられておらず少々気になった。
長く上を向いて綺麗なまつ毛は閉ざされた目によってその長さが際立っていて小さく口も開いていてすーすー寝息をたてる姿は無防備そのもので守ってあげたくなる衝動に駆られる。
その安らかな寝顔を見ているとこちらまで幸せになるようでずっとみていたいとさえ思った。
「ん、うぅ…」
「あら、もう起きる?」
「やだ…」
頭を撫でられるとそれで起こされたのかゆっくりと目を開けて起き上がってみるも、よほど橙子の体が気に入ったのかまた目をつぶりもたれ掛かる。
橙子は悪い気もせずまた抱きしめるも、そろそろ次が始まっちゃうからと小さな肩を揺すって蒼に起きるように催促する。
そこまで言われてしまうと蒼も閉じていた目を開けて指の間接で擦りながら起き上がる。
「おはよう蒼ぃ」
「ぅん…おはよぉ」
寝起きで気の抜けたようにふにゃっと笑った蒼はありがとうと橙子に告げて立ち上がってんーっと伸びをして目を覚まそうとした。
蒼が席に戻ろうとするとあくびで潤んだ瞳は違う意味で潤んでいた翠璃の瞳と視線があった。
翠璃は目が合うと何も無かったようにパッと目を逸らすので蒼はそれに気づきつつもあえて気付かないふりをしてその前を通って自分の席に座った。
翠璃と同じように次の授業の教材を机上に出す。
橙子は蒼のいた温もりに名残惜しさを感じて座っていた自分の太ももを撫でながら机から教材を取り出すと教科書の角が机に引っかかった反動で机の上に置いていたシャーペンがカタンと床に落ちた。
「あっ…と…」
橙子は落ちていった水色のシャーペンを目で追い拾おうと座ったまま床に手を伸ばす。
拾い上げた時に隣の席の翠璃にちらりと目をやった。
頬杖をついて窓の方を向いていたのでハッキリとした顔は見えなかったが不貞腐れているのが見てわかった。
声をかけるべきなのか、少し迷った橙子だったが不機嫌そうな今の翠璃ならどうせまたうるさいブスと切り捨てられると思い声をかけなかった。
そんな中、翠璃は頭の中が釈然としない気持ちでいっぱいになり悶々とする。
2人だけで仲良くしてることに対して苛立っているのか、蒼が橙子を枕替わりに選んで安心しきって眠った事に落胆してるのか、橙子が蒼を愛おしそうに抱き締めていたことに悋気しているのか、翠璃自身もはっきりと分からなかった。
「あ、ねぇ翠璃ちゃん」
悶々としていると突然前の席に座っていた蒼から声をかけられて、複雑な心持ちのまま何?と聞き返そうとするが声にはならず視線だけを向けると橙子に背を向けるようにして翠璃の方をふりかえっていた蒼は何やら意味ありげに微笑んでいた。
「…ん?」
「ふふ、そんなに怖い顔しないでよ」
「え?あ、ごめん…」
「ふふっ、そんなに嫌だったかな?」
「…え?」
未だに笑みを浮かべる蒼に翠璃はもしかして自分が考えていた事を見抜かれているのではないかと不安になり別に何も無いというように振舞って見せたが、蒼はまたその反応に微笑む。
「ごめんね、からかっちゃって」
「何のこと?」
「えー、分かってるくせに」
そう言いながらくすりと蒼が笑うと翠璃は全てを見透かされているようで目を逸らした。
目を逸らした翠璃を可愛らしく思えた蒼はまた小さく笑った。
「ごめんね、翠璃ちゃん可愛いからついからかいたくなっちゃって」
「確かに、可愛いけど何言ってんのよ」
「えー?」
蒼はそんな翠璃に顔を近づけて小声で話しかける素振りを見せる。
思わず翠璃はその蒼の声を聞こうと耳を傾けた。
「…彼女、しっかりしてそうでも押しに弱いんだから」
しっかり見とかないとだよ、と翠璃の耳元で意味ありげにニコリと微笑んで告げた。
蒼の言う彼女と言うのがはっきり誰とは指さなかったが、蒼の笑みと目で大凡の想像がついた。
「まぁ、誰の話?」
「ん?興味無いならいいや。わざわざごめんね」
両肘を机について蒼に首を傾げてそう答える翠璃に蒼はふふっと微笑み言葉だけで謝るとちょうどチャイムが鳴り後ろを向いていた上体を前に向けた。
蒼が前を向くと翠璃は頬杖をついて窓の外に目をやった。
どうして蒼は自分にそんなこと言うのだろうか、疑問に思うのと同時に気恥しい気持ちにもなりさらに悶々とする。
教室に次の授業の教師が入ってくるが翠璃はまだ授業を受けることが出来るほどの気持ちの整理がつかなかった。




