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真美子は10時間前の自分を呪った。
急な雷雨でビシャビシャに濡れてしまった制服と髪の毛を気にしながら体温を奪われないよう身体を縮こめて運良く逃げ込んだ雨風を避けることが出きる小さなフレンチレストランの軒先で激しく音を立てながら無数の大きな水滴で人の世界を攻撃する真っ黒な空を恨めしそうに睨みつける。
数分前翠璃達とパンケーキの店先で別れ、自宅に向かって歩いて歩いていた時だった。
朝から雲ひとつなかった空に騙されて梅雨は終わったんだと思い込んでいた真美子は雨具は持たずに家を出た。
それだけならまだしもいつも持ち歩くように両親や陽菜乃に強く言われている携帯電話も自宅のベッドで充電器プラグをくわえ込んだまま眠っているようで真美子の手元にはなかった。
あの時無理にでも携帯を充電器から切り離して自分の元に置いておいたら…、考えても仕方がないが真美子は10時間前の不注意だった自分を呪っていた。
「困りましたわ…」
雨に降られて身動きが取れない真美子には誰かに迎えに来てもらうよう頼む連絡手段も、この雨を終わらせる方法も持ち合わせていなかった。
生憎逃げ込んだフレンチレストランの扉にはCLOSEDの札がかけられていてモザイクガラスの向こうに灯りはなく人の気配もないという絶望的な状況。
腕時計を確認するともうすぐ親によって決められた門限の時刻になろうとしていた。
しばらく経ってもやまない雨にどうせもうびしょ濡れなのだからこれ以上濡れたって変わらないからこのまま突っ走って帰ろうかそう考えていた頃だった。
「人の店の前で何してるの?」
真美子がピッタリと背中にくっつけていた重めの木製扉が店内側に男の声と同じタイミングで開かれた。
それと同時にそれまでかけていた体重の支えがなくなりバランスが崩れ後ろに倒れそうになるが何かによって支えられた。
「きゃっ」
「おわっ」
斜めになった冷えきった体はびしょ濡れの制服越しに程よい温かさのしっかりとした手によって支えられ、それが何なのか思わずぎゅっと閉じてしまった目をゆっくりと開いて目の前を確認する。
真っ直ぐな茶色の前髪と絶妙に整えられてない太い眉、綺麗なぱっちり二重で澄んだ瞳が真っ直ぐに真美子を見下ろしていた。
上下反対に見えていた顔だが真美子にはその人が若い青年であることが分かった。
「うわっ、すごい濡れてる」
「あ、も、もっ申し訳ございません!!」
真美子はせっかく支えてもらったのにも関わらずその男から逃げるように体を離して謝罪とともに頭を下げた。
男は真美子の制服に触れて手が濡れると嫌そうな顔をして着ていたコックコートで拭った。
真美子はそれについても申し訳なく思い頭を下げて謝る。
その度にレストラン内の床に水滴が真美子の体と制服を経由して落ちていく。
「私、帰ります。お邪魔してしまって申し訳ありません…」
真美子はおでこに張り付いた前髪を正しながらこの場から逃げ出したい一心で震える声でそう言って入口から出ていこうとするが、しっかりと左肩を掴まれて引き止められる。
「この雨で帰れるの?」
「うっ…」
閉め忘れられた入口から外を見ると先程と同様に向こうの世界が見えないほど激しい雨が降っていた。
ここで男の人といるくらいならこの激しい雨にうたれながら家に帰る方がマシだと感じた真美子の動作を封じるようにいきなり体全体に向かって真っ赤な布が被せられた。
大きさと店内で一つだけ裸のテーブルがあるのを見るとかけられた布がテーブルクロスであることがわかった。
「とりあえず座ってな。あと、下着透けてるからそれ被ってて」
開かれたままだった入口の扉をパタンと閉めた男は腰に巻いていたエプロンの紐を解いて脱ぐと小さくまとめながら小動物のように怯えた目をしている真美子にそう言うとテーブルに置いて店内の奥にある階段に向かって行った。
「…やだっ…私ったら…」
「クロエー」
デリカシーのない事を言う男は女性と思える人の名前を呼びながら住居があるらしい上階段につながる階段を登って行ったので真美子は知らない店内でテーブルクロスを被ったまま1人きりになった。
男が言う通り制服に目をやると雨で濡れたせいでうっすらと下着のピンク色と紐の跡が見え、恥ずかしくなりテーブルクロスで体を隠した。
落ち着くように何度か深呼吸をして、窓にぶつかる雨音が店内に残響するなか改めて店内を見回す。
灯りがキッチンにしかついてなくあたりは日も入らずあかりもなく薄暗かった。
唯一灯りのついているカウンターキッチンにはたくさんのワインボトルや食器類が並べられ、被せられたテーブルクロスと同じように壁紙も赤く様々な絵やオブジェが飾られフレンチレストランというよりバルのような印象だった。
「女の子?」
「おん。あの子。すごい濡れてるから着替え貸してあげて」
「やだ、ホントじゃない。あなた大丈夫!?」
男に連れられ2階から降りてきたのはやはり女性だった。
聞こえてきた名前の通り日本人ではなく金髪碧眼で目鼻立ちのしっかりとしている40代くらいの女性が真美子を見つけるやいなや心配そうに駆け寄ってきた。
「あ、あの…申し訳ありません…、私…」
「急な雨だものね。早く着替えないと風邪ひくわ」
外国人特有の訛りがあるが流暢な日本語で真美子に話しかけるクロエと呼ばれた女性にそう言われるとこっちに来いと言わんばかりに腕を引かれて階段の方に連れていかれそうになる。
「い、いやっ、あのっ、わ、私はこれで結構ですので」
「Non!女の子は体を大事にしないとよ」
外国語混じりにそう強めに叱られまびしょ濡れの真美子はクロエにやや強引に引っ張られて2階に引き込まれた。
引っ張られながら階段を上り2階に行くとやはり居住スペースになっていた。
ここで靴を脱ぐように言われ黒のローファーを揃えて脱ぐとすぐ近くにあった脱衣場に連れ込まれた。
「あ、あの」
「あなた背が高いのね。私の服入るかしら?」
そう言ってクロエは真美子にバスタオルを1枚差し出して脱衣場から出ていった。
自分の話を聞いて貰えず仕方なくそれまで被っていたテーブルクロスをそれっぽくたたみ、真美子はバスタオルで髪の毛から下に向かって体を拭いた。
これからどうなるのだろう、そう不安になりながら考えているとノックもなしにドアが開けられクロエが着替えと黒のビニール袋を持って帰ってきた。
「下着は貸してあげられないからさすがにシャワーは無理ね。まぁ取り敢えず濡れてる服はこれに入れて持って帰るといいわ。あと私の服何個か持ってきたから着れるのがあればきてね」
「ありがとうございます…。こんなことまでしていただいて…なんとお礼すればいいか」
「De rien。髪の毛はそこにあるドライヤー使って」
そう笑みを浮かべるクロエは終わったら呼んでねと再び脱衣場から出ていった。
真美子は言われた通りピッタリと体に張り付いて気持ち悪かった制服と靴下を脱いで黒のビニール袋に小さくたたんで放り込み、湿った体をバスタオルで拭いてクロエから受け取った服を手にして茶色のニットワンピースを頭から被った。
湿った髪の毛を程よくタオルドライして壁にかけられた白のドライヤーを手に取って電源を入れる。
大きめの音と冷えたからだに心地いい暖かい風を髪の毛に受けながら手ぐしを通して乾かす。
数分間髪の毛を乾かしてある程度乾いたと感じればドライヤーを元あった通りに戻して洗面台の鏡で自分の姿を確認して汚れた洋服を詰め込んだビニール袋を持って脱衣場のドアを開けて頭だけ出してクロエの名を呼んだ。
「あ、着替え終わったら下にいらっしゃい」
階段の下の方からクロエの声が聞こえたので返事をして思ったより急な階段を下って1階に戻る。
「クロエさん、ご親切にありがとうございます。お洋服まで貸してもらって」
「気にしないで。濡れてる女の子をほっとくなんて出来ない」
カウンター席に1人で座っていたクロエの斜め後ろに立ち頭を下げて感謝すると笑顔でいいのよと受け流される。
「また後日、お礼をさせてください。いつ頃がご都合つきますか?」
「来週のこの時間がいいんじゃない?丁度定休日だし、俺もいるし」
クロエに問いかけたはずの真美子の問いに目の前のキッチンで何かを煮込んでい先程の男がクロエを見ながら先に答える。
男が料理している姿を眺めながらそれがいいわとクロエが答えたので分かりましたと真美子は頷く。
「まぁ座りなさい。ほら」
いつまでも突っ立っている真美子に笑顔を向けて隣の椅子に座るようテーブルを叩く。
戸惑いながらも言われた通りにクロエの隣のカウンター席にゆっくりと腰掛けた。
「あなたお名前は?」
「…私、白樺真美子と申します」
「シラカバ、マミコ?日本人の名前は発音が難しいわ」
「はい、どーぞ」
真美子が名前を教えるが初めて聞いたであろう日本語の発音に難色示していたところでクロエと真美子の目の前に真っ白なスープ皿に盛られたスープが男の手で並べられた。
湯気が上がりいい香りがしてくるのを見るかぎり、さっきからこの男がキッチンで煮込んでいたのはこれだったのかと合点がいった。
「新玉ねぎのポタージュに黒胡椒で香り付けしました」
「へぇ、美味しそうな香り。いただこうマミコ」
「え?でも、私…」
「アンタも食べてよ。で、味の感想聞かして」
そう言う男は真剣な目で真美子を見つめるのでポタージュに手をつけることを躊躇っていた真美子はその視線から逃れるように頷いてしまった。
「味の心配はないわよ?この人一応フレンチシェフだから大丈夫よ」
「おい、一応ってなんだよ。これでもちゃんと名のある店のシェフですー」
クロエに軽く扱われたのに冗談口調で返しつつキッチン内で使い終わったらしい食器類を片し出す。
「C’est bon!」
ポタージュを1口食べたクロエは取れそうなくらい目を開いて男に向かって大袈裟かと思えるほど大きな表情で感想を伝える。
その言葉を聞いた男も安堵の表情を浮かべお前は?と言わんばかりに真美子を見つめる。
真美子はいただきますと頭を下げてスプーンを手にするが、シェフに、男性に見られていることにより変に緊張してしまい指先が小刻みに震えた。
白色のポタージュを1口分すくって口に運ぶ。
新玉ねぎの甘さと少し残った玉ねぎ特有のシャキッとした歯ごたえを感じながら黒胡椒の香りが鼻をぬけた。
1口目が思っていたよりも熱く舌にダメージをおってしまった真美子は二口目にいけずスプーンを皿に置いた。
「どう?」
男は一口しか自分の作ったポタージュに手をつけない真美子に不安そうかつ真剣な眼差しを向ける。
真美子は震える手を見せないようにテーブルの下でニットをぎゅっと掴む。
「お、美味しい…です」
「ホント?」
何度も頷いて答えるが一口しか食べていない真美子を不審がる。
そんな2人を見ていたクロエはふふっと笑い、カウンターに並んでいたワインとワイングラスを取ると勝手に開けて適当に注ぐ。
「そんな険しい顔で見つめられたら何も言えない」
「そんな顔してませんー。てか勝手に飲んでいいのかよ?」
「いいのよ、ここ私の店みたいなもんでしょ?」
そう言って注いだ深い赤色の液体に口をつけて体に流し込むとフゥっと満足そうに息を漏らす。
「で、アンタどうやって帰んの?」
「え?」
「タイチ車で来たんでしょ?送ってあげなよ」
クロエは目の前のキッチンで食器類片している男にそう言ってまたワイングラスを傾けた。
その提案にタイチと呼ばれた男も驚くが真美子は声が出ないほど驚きながら強く握りすぎているニット越しに掴んでいる自分の手の甲に無意識に爪を立てた。
「いえ、そこまで迷惑はかけられません。家のものに迎えを頼みたいのですがお電話お借りしてもいいですか?」
「電話…?」
きっちりとした真美子の敬語をあまり理解出来ていない様子のクロエに食器を素早く片し終えたタイチがエプロンで濡れた手を拭いながらキッチンから出てきて店内に置いていた子機を真美子に差し出す。
ありがとうございます、と目を合わせずに両手で受け取ると自宅の番号を打ち込む。
タイチももう料理をしないらしくエプロンを脱いで着替えるためにか裏の方に消えていった。
しかし何度電話番号を打ち込んでも間違っているのか本当に存在しないのか耳に当てても聞こえてくるのはその番号は存在しませんという自動音声だけだった。
「電話繋がらない?」
同じ動きを繰り返す真美子を不思議そうに見つめるクロエにゆっくり頷いて答える。
「大丈夫よ、あの子が送ってくれるわ」
空になったグラスにもう一度赤ワインを注ぎ陽気に笑う。
しかしそれが問題なのだと喉元まででかかったが声にはならなかった。
もしかしたら雨が止んでいるかもと窓の方に目をやるがその思いも虚しく雨は未だに強く降り続いている。
覚悟を決めるべきか、一度落ち着いて呼吸を整えるように深呼吸をするともう一度クロエに笑顔を向けて頭を下げる。
「…今日は本当にありがとうございました。また後日お礼をしに参ります」
「いいのよ。あなたみたいな女の子と話せて楽しかった。もう他人じゃないからいつでも遊びに来なさい」
「ええ、ぜひ」
クロエも嬉しそうに微笑むと持っていたグラスをテーブルに置いて立ち上がり床に置いていた真美子の荷物を拾い上げて手渡す。
どうも、と受け取ったところで裏に着替えに行ったタイチが私服で戻ってきた。
「で、どうするの?」
「連絡つかないって。送ってあげて」
「おん。家どこ?俺ん家駅と真逆なんだけど」
「私の家は葉住町の白色の一軒家です。…白い外壁は家以外に無いのでわかると思うのですが…」
真美子はタイチの方を向いてなるべくタイチの顔を見る努力をしながら自宅の場所を伝える。
「葉住町か…、わかった。その辺適当に走るから近くなったら教えてな。じゃあ行くぞ」
ジーパンのポケットから車の鍵を出しながらそう言ってお店の入口の方に移動していく。
クロエはグラスのワインを飲み干して立ち上がると真美子の手を握ると陽気に笑いながらBisouをしてお別れの挨拶をした。
初対面のクロエに親しいもの同士がする挨拶をされ驚きつつありがとうございましたと頭を下げて入口で真美子を待っていたタイチの元に歩み寄った。
「じゃあ剛さんにもよろしくな。あんま飲みすぎんなよ」
「はーい、バイバーイ」
「では、失礼します」
バタンと扉を閉じると外は先程よりも雨は弱くなってはいたが未だに止みそうになかった。
嫌そうに空を見つめるタイチは車持ってくるからと雨の中駐車場があるらしい方に走っていった。




