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日も沈み空が暗くなって日本中の時間帯が夜に足を踏み入れた頃、学校終わりに遊びに出ている学生やディナーに向かう大人たちなどで人通りの多い華やかな街の大通りもちょっと裏通りに入ると全く違う顔を見せる。
綺麗な色とりどりの電灯が輝く道から外れ、カラフルなスプレーで落書きされている古びた外壁の店舗が並び不自然に形成された裏通りに入ると治安の悪さを象徴するような喫煙所とは名ばかりの不特定多数の人間の様々な吸殻が誰からも処理されずに容量オーバー気味に突き刺さった質素な灰皿スタンドが一つだけ立てられている人溜まりを抜けると見えてくる寂しげなネオンの看板に照らされてうっすらと見える廃れたライブハウスの前に紅音は1人で立っていた。
聖白百合女学院の白いワンピーススカートの制服とは違い、赤と黒のボーダーニットの肩出しトップスに赤チェックと黒のハーフプリーツで丈がアシンメトリーのミニスカートにいつもの赤いリボンのチャンキーヒール。そんな紅音の装いを九条康信財務大臣の娘、九条紅音だとはまわりの誰も思わなかった。
人の雑踏と下品な笑い声を耳から断絶するようにお気に入りの赤いコードレスヘッドフォンをつけて名も知られてないようなバンドのステッカーが数え切れなほど乱雑に貼られた重みのある厚いドアを開けて中に入った。
自分と同じか上の年齢の男女ですでにごった返しているハウス内の壁一面にはられた目新しいものからいつからのものか分からないポスターにまで染み付いてそうなタバコの煙と混じりあったアルコールドリンクの香りをも塗りつぶすほどの汗とそれをもみ消すような香水の匂いが狭い室内に蔓延る。
何度来ても慣れない吐き気さえ覚えるほどの臭気に壁に手を付きながら嘔吐きそうにもなる紅音は、陽気に話しかける受付嬢に紙幣を手渡しお釣りを受け取らないままドリンクチケットだけを奪い取るように受け取って、まだ人気の少ないハウスの一角で立ち止まる。
薄暗いハウスの中で新鮮味のない空気を何度か体に取り入れ気を取り直すと、バーカウンターでやる気なく無言で立っている顔面ピアスだらけのドレットヘアの男の店員にドリンクチケットを差し出す。
店員は無表情の紅音に気づくと仕事のマニュアル通りの内容を読み上げてドリンクメニューを指さす。
多種多様のドリンクの名前が乗っている黒いメニュー表のソフトドリンクを指さした紅音は大きめな氷を入れられて飲み物の量を誤魔化されてるようなプラスチック製のコップに入ったジンジャエールを受け取りたったままバーカウンターに体を預けて口をつけた。
そこかしこから発生している無駄に熱い空気に晒された紅音の体にキンキンに冷えた薄味のジンジャエールが体に染み入る。
ヘッドホン越しにも耳に入ってくる騒ぎ声に嫌気がさして聞いている音楽の音量をあげる。
痺れるようなギターのリフと気持ちいいほどに曲にはまってリズムを刻むドラム、惚れ惚れするほどの低音を響かせてるベース、そして何より紅音の心を掴んでいる圧倒的な歌唱力を持つボーカルの福本ツバサの歌声が紅音の耳を外の世界から隔離させている。
そんな福本ツバサ率いるバンド、s.Rascalが出演するライブ公演が今日ここで今から始まる。
そのために紅音は使用人や両親の目を盗んで家から出て本来なら行きたいと口にする事もはばかられるライブハウスに数年前から彼に会うためにこっそりと通っている。
ここでは自分がどこの家の誰なのかなんて関係ない。
ただ自分の音楽を世界を追求して満たすためだけに人が集まって吐き出して吸っていく場所なのだ。
家柄も肩書きも気にしなくていいこの掃き溜めのような場所が紅音にとってはある意味でオアシスなのかもしれないと1人で納得してジンジャエールの氷を口に入れる。
聞いている音楽に合わせて大きめな氷に歯を立てて口の中でボリボリと砕いているとラフな格好でニタニタと笑った男数名が目の端に入る。
ドリンク交換に来たんだと思って無視し、ドラムに合わせて足を動かしてリズムを刻みながらジンジャエールを飲んでいた紅音の耳から福本ツバサの音楽が切り離され、ぬるい空気と騒がしい雑音に晒される。
ヘッドホンをしていたはずの耳に手をやりどこに消えたのかと辺りを見回すと先程目の端にいた男の1人が紅音のヘッドホンを手にして無駄に大きな声で紅音に唾を飛ばしながら話しかけてきた。
「なぁ、1人?誰かと来てんの?」
鼻にピアスをあけた男が卑しくニタニタと笑い臭い息を吐きながら紅音のヘッドホンを手で弄ぶ。
紅音はそんな問いかけも無視してヘッドホンを奪い返そうと手をのばすがその様子を見た男は簡単に取られないようヘッドホンを届かないほど上に掲げる。
いつものチャンキーヒールを履いている紅音が手を伸ばしても軽く飛んでも指をかすめはしなかった。
「返して」
届かないと諦めて男を睨み返せと手を差し出す。
しかし男達はニヤニヤ笑いながら紅音に逃げられないように周りを囲む。
紅音も負けじと強気でいるがキュッと手をにぎりしめる。
「ダメだよー、子供が1人でこんなとこ来ちゃ」
「そうだよ、バンド演奏聞く前に追い出されちゃうよ」
「子供じゃないしアンタ達には関係ないでしょ」
「お子様が1人だと危ないからお兄さん達と一緒に遊ぼーよ」
なんだ、それが目的か…、と紅音は男たちを軽蔑するように白い目を向ける。
しかしそんなことを気にしない取り巻きの男1人がいーじゃんいーじゃんと言いながらいきなり紅音との距離を詰めて肩を抱く。
「ふざけないでっ!!私はアンタ達と遊ぶために来たわけじゃないの!!」
「へー、強気な女。俺好みー」
だいぶ酒を飲んでいると容易に想像のつくほど臭い息を間近でさせる男が強引に紅音をさらに人が多く薄暗い場所に連れていこうとする。
それに負けじと紅音も必死に抵抗するが、女子高生の智瑛莉にさえ敵わない紅音の力では成人男性の力には到底及ばず引きずられそうになる。
せめてもの救いを求めてバーカウンターのドレットヘアの店員に目をやるが面倒事に関わりたくないと言わんばかりにこちらに背中を向けてスマホをいじっていた。
「やめてっ、離しなさいよ!!」
「とか言って期待してんじゃん?」
「おいおい何ひとりで楽しんでんだ」
肩を触っていた手では無い他の男の手が紅音の体に触れる。
不用意に体を触ってくる手を振り払おうと必死に抵抗するが引きずられていく度に徐々に何をされるか分からない恐怖から体が震えだして力がなくなる。
「あれ、震えてる。さみーの?」
「大丈夫、すぐ汗かくほど熱くなるって」
「気持ち悪い、今すぐ離しなさい!!じゃないとっ…」
男たちをずっと睨んでい紅音はそこまで言ってハッと口を噤む。
ここで九条の名前を出したら負けな気がした、何があっても紅音は親の名前に頼りたくなかったのだ。
男たちは紅音の発言にパパに言いつけられるー、とバカにするようにケタケタ笑い酒の匂いをさせる。
「ごめん、みーこ!!待たせた!!」
もうダメだと少し泣きそうになったその時、また別の男が横から間に入って紅音の細い手首を掴んでナンパ男達から引き剥がす。
引っ張られた紅音の小柄な体は男の腕の中に収まる。
「お兄ちゃんチケットどっかやっちゃっててさー、また受付で止められちゃったよー。…で、この人たちは知り合い?」
紅音のことをみーこと呼ぶ知らない男は息をするように嘘をつきながら紅音に話を合わせるようにと必死に目で合図をする。
混乱気味で泣きそう紅音はその合図を受け取ると、全然知らない人、と話を合わせて首を振る。
「なんだ、ナンパかー。まぁ、仕方ないなみーこ可愛いし」
「んだよ、男いんのかよ」
「ごめんねー。妹は俺が居れば十分だからー」
自称みーこの兄は鼻ピアス男から紅音のヘッドホンを奪い取って紅音の首にかけて返却する。
「きめぇな、シスコン野郎が」
男がいるとわかったら男達はそんな捨て台詞をはいて時間を無駄にしたと言わんばかりにあからさまに苛立った様子で舌打ちをしながら人混みに紛れていった。
鼻ピアス男たちが居なくなった途端に紅音は力無くしたようにへなへなと床に座り込んだ。
「ダメでしょー、知らない奴についてったら…って、みーこ大丈夫?」
「…」
「みーこ?」
安心と恐怖とが混ざり合い複雑な気持ちの紅音は大きな瞳に浮かぶ少しでも気を抜けば零れてしまいそうなほどの水滴を零さないようにと強がり両手で顔を覆い見えないように伏せる。
そんな様子を見ていた男も去ればいいのに懲りずに話しかける。
「この辺頭おかしいヤツしかいないから気をつけなよ。特に今日は人気ツートップのバンドがライブするからね、皆馬鹿みたいにテンション上がってんだ」
男は紅音の頭を優しく撫でて立てる?と優しく声をかけ手を差し伸べる。
それに頷いて目を雑に手の甲で拭う紅音は男の手を無視して床に手をついて立ち上がろうとするが下半身に力が入らずなかなか立ち上がれなかった。
「…ひっ」
座り込んだままの紅音を見かねて男は紅音の両脇に手を入れて猫を抱き上げるように強引に立ち上がらせる。
そしてそのまままともに1人で歩けない紅音をバーカウンターの椅子に座らせた。
男は椅子に座らず隣に立ったままドレットヘアの店員に2人分のドリンクを注文した。
「で、1人なん?誰かと一緒?」
隣りの男は緩くパーマの当てられたうなじが隠れるほど長い髪の毛をかきあげてカウンターに肘をついて紅音に話をふる。
紅音が答える前に目の前にグラスに入れられた2人分の牛乳が差し出され、自分から聞いときながら答えを聞く前に男は牛乳を美味しそうに飲んだ。
「これ、俺の奢り。大したもんじゃないけどな」
そう言って笑う男のグラスの牛乳は半分はなく無くなっていた。
牛乳のついた唇をぺろりと舐める男を見る限り高い身長のせいもあってか自分よりも少し年上のように思えた。
「…私、牛乳好きじゃない」
「えー、好き嫌いしてたら背伸びないぞー?」
男は馴れ馴れしく紅音の頭をポンポンと叩きヘラりと笑うとまたグラスに口をつけて牛乳を飲み干す。
男の使っていたグラスには白い液体の通ったあとが残る。
「うるさい、大きなお世話よ」
「おっ、威勢がいいなぁ。さっきのみーことは別人みたいやわ」
「うっ…さ、さっきは…別に…怖かったとかいうわけじゃないし…私だけでもどうにでもできたわ」
頭に置かれた手を振り払うように頭を振り大きな瞳で隣の名前も知らない男に目をやり変に意地を張って口答えをする。
「ふーん、それなら変に手ぇ出しちゃったんだ俺」
「でも…感謝…してない訳じゃないのよ…。その…あ、ありがとう…」
普段感謝することに慣れていない紅音は、語尾にかけてをごにょごにょさせながら男にお礼を言う。
そして目の前に置いたあった水滴が周りについた牛乳入りのグラスを男の前に置いて、私からのお礼と差し出す。
それを見ていた男は可笑しそうにふはっと笑えばありがとうと自分のお金で買った牛乳を受け取る。
「みーこって面白い子だね。俺みーこ好きになっちゃった」
「はぁ?何言ってんのよ。たった今会ったばかりじゃない」
「えー?みーこは俺の事カッコイイとか思わなかったの?」
「そうね、自慢げに牛乳飲んでるような男はカッコイイとまでは行かないわね」
「何それひどいー」
男がわざとらしくオーバーリアクションで応えるのがどうしてかおかしくて紅音もつられて笑ってしまう。
馬鹿みたいに崩していた顔にいきなり優しいほほ笑みを浮かべて男は続ける。
「笑った。やっぱりそっちの方がいいよ」
「…え?」
「ここは楽しむために来る所、変な奴に嫌なことされるところじゃないの」
グラスを店員に返却して紅音に男は笑いかける。
不意にその男のあどけなさの残る少年のような笑みに紅音の心臓が変に動いた。
「それに、みーこは笑った顔の方が可愛いよ」
「は、はぁ…?何それ」
「んふふ、照れてる。あ、そろそろ開演時間だ。前行こうよ」
男の右手にしてる安物の時計が20:00をさそうとしていて、そう言うと紅音の手首を掴んでステージの前に連れていかれる。
私はここでいいのと言う紅音を無視してやや強引にステージ下手側の壁際に連れてこられる。
オールスタンディングの会場のボルテージが最高潮になり始めているのでまわりの観客は騒がしく荒々しく動くので紅音がそれを避けるように体を動かすと自然と男にくっつくはめになる。
「そんなにくっついて、みーこは甘えん坊だなぁ」
「バカ言わないでよ。私は後ろの方でいいの!!」
「いーじゃん、俺がついてるから大丈夫。みーこには指1本触れさせないから」
「なにそれ、意味わかんない」
「大丈夫大丈夫」
変に自信を持ってる男はニヒッと幼い笑顔を浮かべるとそれまでついていた照明が落とされて観客の歓声が一気に大きくなりライブが始まった。




