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「……ねえ、さっきの呼び方何? かっけるんとか何とか……」
大学からの出口として一番近い正門に向かいながら、未理は先ほど疑問だったことを口にした。
「ああ、あれね。何でも、昔好きだった子にそう呼ばせてたらしいわよ。今となっては穴を掘って埋めたい過去なんでしょうけど」
「それを掘り返すのはどうなのよ。……そもそも、何で奏緒がそんなこと知ってるの」
少なくとも未理は聞いたことがなかったのだから、異学部で集まったときに話題になった訳ではないだろう。
「ちょっと前に、食堂で樹くんが同じサークルっぽい人と話してたのが聞こえたのよ」
未理や奏緒とは違い、樹は積極的にサークルや課外活動に参加している。そのため、異学部以外に多くの友人がいる。異学部生はどうしても学部の特異な性質上敬遠されがちだが、翔は持ち前の人当たりの良さで広い人脈を開拓していると言えた。
「って、それは盗み聞きじゃ……」
「人聞きの悪いこと言わないで。たまたま耳に入ってきたのよ。そうやって聞こえてくる会話の中には有意義な情報もあるからあえて遮断しなかっただけで、聞こうと思って聞いたんじゃないわ」
奏緒は弁解しているが、未理は今一つ納得できない。苦言めいたものを口にしかけたそのとき、
「……あら、あそこに立ってるの留学生の人? でも、何で学内に入って来ずに正門で立ってるのかしら。まるで誰かを待っているみたいに」
奏緒が正門の方に視線を投げかけて言った。
そんなことで気をそらそうとして、と思いつつも未理もつられて正門を見た。
「――なっ⁉」
正門の向かって右端に、金髪金目の青年が立っていた。
実際には金髪なのは見てわかっても、金目かどうかはこの距離では判断できない。だが、未理にははっきりとわかった。昨日散々話した相手だ。見間違えるはずがない。
「……未理?」
未理の様子がおかしいのに気がついたのか、奏緒は怪訝そうな声を出した。
「ごめん奏緒。ちょっと急な用事思い出したから今日はここで。じゃあお疲れまた明日!」
早口でそう言うなり、未理は正門に向かって駆け出して行った。
「……何なのかしら、あの慌てぶりは」
どう考えてもごまかしとしか取れないような言葉を並べて唐突に去っていくなど、今までの未理からは考えられなかった。まだ一カ月と少しの付き合いだが、未理はたとえ何か言い訳をするにしてももう少し上手くやれるタイプだと奏緒は思っていた。
「……そういえば、今日は左手の薬指に絆創膏巻いてたわね。どうしちゃったのかしら。授業中に寝るわ、怪我はするわ」
我知らず呟いていたそのとき、
「あれ、君確か――」
正門前まで全力疾走し、そこに立っている人物の前に回り込むなり未理は叫んだ。
「どうしてあなたがここにいるの⁉」
「『あなた』? 誰のことだろうね」
未理の予想通りに金髪金目をしたその人物は、しゃあしゃあとそんなことを言った。
他に誰がいるのと叫びだしたくなる衝動をぐっとこらえ、
「……どうして公遙がここにいるの⁉」
代名詞を固有名詞に言い直した。
「どうして、ね。じゃあ足元に咲くタンポポはどうしてそこで咲くことを選んだ? タンポポに止まる蝶は? そこの電線に止まる雀は? どこかに行くのに理由は必要かい?」
「そんな哲学じみた問答は期待してない。っていうかそもそもあなた……じゃない、公遙は植物でも虫でも鳥でもなく言葉の通じる『人』でしょう⁉ 知的活動を行えるんだから理由ぐらい説明なさい‼」
激しい剣幕でまくしたてながら、視線を感じて未理ははたと我に返る。
帰宅中の学生がじろじろと無遠慮に未理と公遙、というか主に未理を見ていた。
顔が一気に朱に染まるのを感じ、未理はうつむいた。
(こんな醜態、晒すつもりじゃ……)
周囲に知り合いがいなかったのがせめてもの救いか。もっとも知り合いが片手で数えられるくらいしかいないのでは、それも当然かもしれないが。
「……ああお気になさらず。犬も食わないとかいう例のあれですから」
元凶である公遙は通行人にそんなことをのたまっていた。
怒り心頭に発していた未理だったが、意外なことに公遙の様子を見た途端、感情の波が引いていった。
すっと、思考が透き通る。
「……そっか。そうよね」
一人納得したように頷く。自分でもびっくりするくらい、落ち着いた声だった。
そして、がっちりと公遙の左腕を掴み、
「元凶を、人目の付くところに放置しておいた、私も悪いのよね……?」
「…………未理……さん?」
未理からただならぬ気配を感じ、さすがに何かまずいと思った公遙だったがもう遅い。いつの間にか未理の目には、らんらんと輝く鬼火が灯っていた。
「だったら、誰にも見られないような、……何をしてもバレないような場所へ行けばいい……。ふふ、ふふふふふ……」
普段の公遙なら、誰にも見られない場所なんてどきどきするね、とか何とか抜かしていたに違いないが、さすがにそんな命知らずな真似はしなかった。
冗談抜きで、今の未理は怖い。
「……怖い? はは、僕が人間如きにそんな……」
「……ふふ? なあに? 何か、言った……?」
「いえそんな滅相もない何も言ってませんともええもちろん」
目が回るのではないかというくらいに全力で頷く。
「……そう。良かった……」
良くない! と内心で思いきり叫びながら、公遙はずるずると街路樹の陰へと引きずり込まれていった。
その後四十五分に渡って、公遙は未理を元に戻そうと、涙なしには語れないかもしれない努力を繰り広げるのだが、それはまた別の話である。
そして後日、大学前で目撃されたという謎の夫婦喧嘩の話を耳にした未理が盛大にへこむのも、また別の話である。




