6
「あと三つ質問があったね」
未理の内心を知ってか知らずか、錦野は余裕のある態度を崩さない。
「だけど、その三つの質問は根本的には同じだ」
そこで言葉を切り、錦野は未理の顔を見た。
「だけど、それらの質問に答えようとなると、必然的に昨日の夜のことにも触れなければならなくなる。君は、それでも聞く気があるのかい?」
魔性の潜む金の瞳に、恐怖を隠す茶の瞳が射抜かれた。
未理は悟った。
今まさにこの瞬間、貝塚未理という「人間」が、試されているのだと。
「………………あるわ」
束の間の沈黙と逡巡の後に、未理は言葉を絞り出した。
「本当に?」
どこか面白がるような口調だった。だが、面白がっているように感じられるのは口調だけで、それ以外はどこも笑ってなどいない。目も、口元も、何もかも。
「…………本当よ」
異界人を称する青年に、人間である少女は恐れを必死に抑え、告げる。
どんなに怯えていても、その言葉に嘘はなかった。
「……そうか」
錦野はどこか満足げにそう呟くと、
「――それじゃあ、語ろうか。血と死に彩られた、昨夜の出来事をね。まず、昨夜君はいわゆる『異界人』に襲われた。それは覚えているかい?」
「……ええ」
チャイムを連打したり、怒りに転化させたりして誤魔化してきたけれど、もう逃げられない。
冷たい汗が噴き出してくるのを感じながらも、未理は何とか頷いた。
「そこで、君は腹をぶち抜かれた。そして君は、死んだ」
「――…………え?」
錦野の言葉が理解できない。
「……えっ。え。え?」
「死んだんだよ、君は」
馬鹿みたいに「え」ばかりを繰り返す未理に、錦野は無慈悲に告げた。
「嘘……そんなの嘘」
だって、現に自分は今生きているではないか。生きて、こうしてここにいるではないか。感情を動かすことも、呼吸をすることも、話をすることもできているではないか。
「嘘じゃないさ。だって、ありえないだろう? 昨日あれだけのことがあったのに、君は後遺症があったりもしないし、病院のベッドに張りつけられてもない。それどころか、何もなかったように動けている。答えは一つしかない。君が、死んで幽霊になったっていう答えしかね」
錦野の言葉が遠い。ゆうれい? 「ゆ」に「う」に「れ」に「い」でゆうれい? なにそれ。どこのことば?
「はは……」
かさかさに乾いた笑いが口から洩れる。こんな幼稚な現実逃避をしようとしたって、自分を騙せはしないのに。認めろ。自分が今感じている全ては幻だということを。
「や……」
目の奥が痛い。嫌だ。泣きたくなんて――
「まあ、あと十秒くらい処置が遅れていたらの話だけどね」
「………………はい?」
錦野の言葉の意味がわからない。
「幽霊を着替えさせられるわけないだろう。冷静に考えたらすぐわかることじゃないか。そもそも、異界人がいることは証明されていても、幽霊がいることの証明はされてないし」
少し前の言葉を裏切るような錦野に未理は追いつけずにいたが、徐々に日本語を理解する能力が戻ってきた。
つまり。
今までの錦野の言葉は。
「いやあ、怯えきった人間を目の前で見るのってなかなか楽しいね」
底意地の悪い笑みを浮かべ、錦野はさも愉快でたまらないというように言った。
未理の中で、ぶつりと音を立てて何かが千切れた。
「さ、最低! 悪趣味! 人でなし‼」
気がついたら腹の底から叫んでいた。
だが錦野は全く意に介した様子もなく、
「人でなしで結構。人じゃないし。君らは僕たちのこと『異界人』ってさも自分たちと変わらない『人』です、みたいに言ってるけどさ。『異界人』だろうが『魔物』だろうが、こっちからしたらどうでもいいんだよね、そんなこと。名称なんてただ便宜上必要なだけで、それに大した意味なんてないだろう? 僕の名前だって適当に日本で通用しそうなのをつけただけだし。ていうか、実際のところ正式な名前なんてないしね。僕らの世界では皆好き勝手に通り名をつけられるか、あるいは自分で名乗ったりしてたけど、誰が誰かわかれば別に何だっていんだから」
長々ととってつけた反論をする錦野に、未理は押し黙る。
だが、未理が沈黙したのは錦野に言い負かされたためではなかった。
「…………貝塚未理」
「……は?」
予想していなかった台詞に不意を突かれたのか、錦野は軽く目を張った。
「私の名前。大森貝塚の貝塚に未来の未に理科の理で、『貝塚未理』。姓の由来はわからないけれど、でも少なくとも名前には母さんと亡くなった父さんの願いが込められてる。――「未だ理を知らず」。物事を適当に知った気にならないで、まだ自分は理解できていないってことを認めて精進しながら生きてほしいっていう願いが。さっきからあなた、『君』、『君』って。私にはちゃんとした名前があるのに、そんな卵の中身みたいに呼ばれたくない。だからその……ほら、名前には意味があるっていうか」
「…………君だって僕のこと『あなた』って呼んでると思うけど」
「っ! それは……」
「僕だって『あなた』とか、そんな妻が夫を呼ぶように呼ばれたくない」
未理の口調をそっくり真似て、錦野が言った。
「それは…………、っ、ああもう、ああ言えばこう言う! じゃあ、き、『公遙』! これでいいでしょウ⁉」
半ば自棄とばかりに言い放つと、語尾が裏返った。
部屋に流れていた時間が、止まった。
(はっ…………恥ずかしい…………‼)
顔の温度が一気に急上昇するのがわかった。だが、ここで何かフォローを入れたらますます泥沼にはまる気がして、未理は何も言えずあたふたとするばかりだ。
そんな未理の様子に公遙は一瞬目をぱちくりとさせ、
「…………ぷっ、あはははは!」
「なっ、わ、笑うことないじゃない!」
「いや、だっていきなり下の名前って……しかも語尾が……あははは!」
「ひ、人の失敗でそんなに笑うなんて失礼よ!」
「あはははははははっ」
ムキになった未理の態度に、公遙はさらに笑う。ただ先ほどとは違い、嫌みのない笑い方だった。
(……こういう笑い方もできるんじゃない)
無論、そんなことを言えばまた何か言われるに決まっているので口には出さないが。これ以上藪をつついて蛇を出すような真似はしたくない。
ひとしきり笑った後、公遙は未理のほうに少し改まった様子で向き直り、
「まあ君は……じゃない、未理は、とにかく死ななかった」
「……本当でしょうね」
胡乱な目つきで公遙を見る。
「あとちょっとの間は嘘をつかないよ」
もう二度と嘘はつかないなどと不可能なことを言わないあたり、その言葉が真実であることを表したいらしい。猜疑心を多分に持ちながらも、未理はとりあえず今だけは公遙を信じることにした。
「かなりの痛手を負って、あと少しでも処置が遅れていたら死ぬところだった。それは事実だけど」
「……処置って、何?」
先ほどもそう言っていたような気がして、未理は思わず訊き返した。
「簡単に言ってしまえば、君の傷を塞ぐための処置かな」
「だから、具体的にはどういう処置なのかを言ってよ」
「僕は異界人だよ。君らから見たら難しいようなことでも一瞬でできる」
異界人の持つ力については大部分が未解明のままだ。それを持ち出されたら未理は黙るしかない。
「未理は、とりあえずあの場で死ぬようなことにはならなかった」
「それはさっきも聞いた」
どうして同じことを公遙は繰り返すのか。未理が死んだという嘘による衝撃を、事実で塗り潰そうという配慮のつもりだろうか。
絶対に違う、と未理は思う。この男がそんな親切をはたらくはずがない。
「……何が言いたいの。ううん。何を、……隠してるの」
「未理は生きることを選んだ」
未理の問いかけには答えず、公遙はまたもや同じ意味のことを繰り返す。
いい加減怒るのにはうんざりしていたが、それでもまた苛立ちがふつふつと湧くのを感じたそのとき、
「でも、代わりに死ぬことができなくなった」
決定的な一言を、公遙は放った。
「……え?」
「あの時僕が助ける代償として、君は不老不死になる契約を結んだんだ」
公遙が不老不死と言ったのを聞いたその瞬間、未理の昨夜の記憶が鮮明に呼び起こされた。
視界に広がる黒一色。その黒に浮かび上がる赤。一人で死んでいくという絶望。
そして、
――今すぐ死ぬのと不老不死になるの、どっちがいい?
「…………クーリングオフを要求するわ」
生々しく甦った記憶に吐き気をもよおしながらも、何とか強がりを言った。
「できないよ」
なけなしの抵抗も、即座にはね退けられた。
「この契約は誰にも解けない。結んだ本人であろうと、どんなに強い力を持った異界人であろうと。それだけ強力な契約なんだ」
「どうしてそんな契約なんか……!」
わけがわからない。
怒りというよりも泣く手前と形容した方が相応しい声音で、未理は疑問を絞り出す。
「僕は異界人の一人だ。自分たちが助かるために君たちの世界を助けて、その代わりに君たちを喰らうような、ね。僕は死にゆく君を助けた。なら、その代償を君に払ってもらうのは当然だろうに」
公遙の浮かべる表情を見て、未理は呆然と理解した。
ああ、確かに。この男は自分のような人間とは違う存在だ。こんな笑みを浮かべられるのは魔女か悪魔か、そういった手のひらで人間が踊るのを楽しむ存在だけなのだ。
「契約の内容は三つ。第一に、君は僕が死ぬまで死ねない。僕の永い寿命がつきるまで、君はほぼ不老不死のまま生き続ける。第二に、君が死んだら僕も死ぬ。これは第一の契約と矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、君は完全な不老不死ではない。病気にかかることはないし老化は完全に止まるけれど、身体の脆さはそのままだ。つまり、不慮の事故などで死ぬ可能性は排除できない。もしそうやって君が死んだ場合、魂で繋がった僕も死ぬことになる。第三に、君は僕に力を供給し続ける。――君は生きる限り、僕の糧だ」
「どうして、どうして……!」
いつの間にか公遙は「未理」ではなく「君」と呼んでいたが、未理にはもはやそれに気づく余裕もない。うわ言のようにどうしてと繰り返すばかりだ。
未理を見つめる公遙の眉が一瞬ぴくりと動いたが、それは感情が伴ってのことではなかったのかもしれない。未理に構うことなく、公遙は無情に告げる。
「これで、君の疑問に全て答えることができる。なぜ、君の服を持ってきたか? 君に自分の立場を気付かせるためさ。なぜ、君の隣に越してきたか? 契約者を放置しておけるわけがない。僕の命だって懸かってるんだ、目の届く範囲にいてもらわないと困る。なぜ、今ここにいるか? ……ああ、これについてまだ触れてなかったね。なぜ僕が今ここに、この町にいるかっていうと――」
「もう止めて!」
公遙の話を、叫ぶことで無理やり中断させた。
こうやって感情をむき出しにして叫ぶなど何年ぶりだろう。未理は基本的に、常に大人な対応をとろうと心掛けてきた。面倒事は起こさない。もし起きたとしてもできる限り穏便に済ませる。常にそうしてきたはずだった。
それなのに、今はこうしてみっともなく叫んでいる。本当は公遙の話を冷静に聞き、対処しなければならない場面のはずなのに。
「もう止めて! 聞きたくない‼ 後でならいくらでも聞くから、今だけは! お願い‼」
後で聞く、と言ったのは最後の理性か、あるいは昨日の夜のことを聞くと言った先刻の自分への義理立てか。いずれにせよ、公遙の話による衝撃で未理は、眼下で黒い海が口を開ける崖の縁まで追い詰められていた。
そんな未理に公遙はにっこりと笑いかける。親とはぐれた幼子を安心させようとするような、そんな笑みで。
だがその口から吐かれるのは、何よりも鋭利な毒針だ。
「分を弁えろよ、貝塚未理」
未理の名前を呼びながらも、その言葉には何の感情もなかった。ただ、事実だけを告げるための言葉だった。
「――」
未理は言葉もない。
思い知ったからだ。
どんなに意地の悪い言葉でも、「意地の悪い」という感情が入っているだけマシだということを。
「僕に命を助けられただけの君に、拒否権はないよ。……そこのところだけは、わかっていてもらわないとね」
何を思ったのか、公遙は右手をパチンと鳴らす。
「……⁉」
音が鳴ったと同時、未理は左手に違和感を覚えて目を落とす。
左手の薬指に、指輪が嵌っていた。何の装飾もない、ただ黒いだけの指輪が。だが材質不明で得体の知れないその指輪は、室内の照明を受けて不気味に光っていた。
「君たち人間が考えるには、その指は心臓に一番近い指なんだってね。なら、魂で繋がった僕らにとって、これ以上相応しい指はないだろう。その指輪は契約の証だ。君が何を誓ったか、その指輪を見るたびに思い出せるようにっていうね」
指輪の薄気味悪さ。
言い含めるような公遙の言葉。
未理の抗議する気力が、根こそぎ刈り取られていった。
「……話を元に戻そうか。僕がこの町に来た理由。それは、勝手に人を喰らう異界人……いや、この場合は『魔物』と言った方が適切かな。その魔物を捕まえるためなんだ」
人を喰らう魔物。その言葉に反応し、未理はのろのろと憔悴した顔を上げた。
公遙が頷く。
「そう、おそらく君の考えた通りだ。昨日君を襲った魔物のことさ。知ってると思うけど、異界人はむやみやたらに人間を襲うことは禁止されている。ほとんどの異界人は人間の精気を得て生きているけれど、それは町ですれ違った多くの人間から少しずつ分けてもらうという形でだ。それなら精気を吸われた人間に町で出歩いたことによる疲労にプラスして僅かな疲労が加わるだけで、生命にかかわるなんてことは絶対にない」
「……ちょっ、ちょっと待って」
自分の立場を思い知らされた以上、口を挟みたくはなかった。けれど、公遙の言葉の中にはどうしても聞き逃せない部分があった。
「『町ですれ違う』って……異界人はこちらの世界に勝手に来れないはずでしょう?異界人への食糧供給は全て専用の施設によって行われてるって……」
公遙はくすりと笑い、答える。
「……ああ、そうか。表向きにはそうなってるんだったね。確かに、専用の施設はあるよ。たとえば俗に言う『吸血鬼』のような、何か特定の形ある栄養源を必要とする異界人に対しての施設ならね。その施設で金を必要とする人間が献血をして報酬を得て、そして血をパックに詰めて異界側に輸送する。それは現実に行われていることだ。でも、異界人の八割以上は人間からの精気だけで生きていけるし、しかも精気は形のないものだ。それを多くの異界人に行き渡らせる方法がないとは言わないけれど、ものすごく面倒じゃないかい?」
「それは……」
「そうするよりも、小腹が空いたときに異界人が人間に気付かれないようにこちらに来て、こっそり栄養補給した方が遥かに効率がいいと思うけど」
その通りだった。だが異界人たちが身近にいるかもしれないという事実は、多くの人間にとって容易に受け入れられるものではないはずだ。
異学を志したことからも察せられるように、未理は異界人に対する嫌悪感は強くはない。しかし、捕食者に対する生物としての本能的な恐怖は、そう簡単に理性で抑えきれるものではなかった。
「今言ったような特定の『何か』を喰らわなければ生きていけない者たち。彼らにはもちろん正規のルートで食糧が提供されるようになっている。でも、それだけじゃあ物足りないっていう奴らがいるんだよね。困ったことだよ。僕らはこの世界の人々と平和的で友好的な関係を築きたいっていうのに。だから彼らには……処罰を与えないといけないよね?」
公遙の言葉が、酷薄に響く。
「僕はね、執行官なんだ。人間を大っぴらに襲ったり、殺したりするような奴に刑を執行する役目の。だから、僕は今ここにいる。なんでも、この世界の人間を五人ほど食い散らかした魔物がこの町に逃げ込んだらしくてね。だけど、奴を確実に捕まえるためにはもう少しだけ力が必要だった。君と契約したのはそのためさ。あと、単なる暇つぶしでもあるかな。だって……」
公遙の表情がふっと緩む。
「契約が解けないって言ってみただけで、こんなに怯えてもらえるんだから」
「…………………………は、へ?」
未理は公遙の雰囲気の急激な変化についていけず、思わず間抜けな声を出していた。
放たれた言葉は耳に入っていた。日本語としても理解できている。
だが、自身の心が追いつけない。
「さっきと同じパターンでここまで怖がってもらえるなんてね。ははっ。まったく、そんなにひどい話が世の中に転がってるわけないだろう? この契約は僕が奴を捕まえるまでの間だけ。つまり、期間限定。終わったらもちろん解放してあげるさ」
そう言って笑うのは、「君」ではなく「未理」と呼ぶ公遙だった。刺すような空気を身にまとっていた先ほどまでの公遙ではない。
「…………ちょっとの間は嘘をつかないんじゃなかったの」
ようやく理解が浸透した未理は恐る恐る嫌味を言って、公遙の反応を窺う。また分を弁えろなどと言い出しはしないだろうか。
命知らずな真似をしている自覚はあったが、それでも確かめずにはいられなかった。
「だから、『ちょっと』の間は嘘はついてないじゃないか。未理は死んでない。僕と契約を結んだ。これらは本当のことなんだから」
しゃあしゃあと応じる公遙の様子は、未理と不毛な応酬をしていた時と同じだ。嫌味ったらしくて、意地の悪い笑みを浮かべている異界「人」だ。しかし、人間をじわじわと追い詰め嬲る「魔物」ではない。
「…………そう…………そうね」
精神的疲労が激しいためか、怒る気も起きない未理はただ呆れた視線を向けた。だが一方で密かにほっと肩をなでおろしてもいた。正直に言ってしまえば、不本意な契約を勝手に結ばれたのには思うところがないでもないのだが、命が助かったのだから安いものだろう。
と、ふとそこで気づく。
「……だったら、ここは公遙に感謝しておくべき?」
よく考えなくても、公遙は命の恩人だ。どんなに性格が悪かろうが、感謝してもしきれない相手ではあるのだ。
「べき、だなんて義務で感謝されても嬉しくも何ともないね。どうせならさ、心の底から僕に溢れるような感謝を捧げて欲しいね。ほら、遠慮なんてしなくていいからさ」
上位に立つ者特有の余裕綽々の表情を浮かべ、公遙は両手を広げた。
未理は疲労がまた一段と増すのを感じ、こめかみを押さえた。
「絶っ対感謝しない。ていうか、期間限定なんでしょう。だったらこんな指輪なんてなくても……」
「ああそれ呪いの指輪だから。無理に外そうとしたら指もげるよ」
「勝手に人に何て物嵌めてるのよ‼」
未理の絶叫がアパートにこだました。




