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「さて、何を聞きたい?」
ダイニングテーブルに腰掛け、机上で組んだ手の上に顎をのせた錦野は、にこやかに微笑んでいた。血塗れの衣服入りの開いた箱を挟み、未理と向かい合わせに座っているという異常な場面にもかかわらず、だ。
この状況でそのような表情を浮かべている錦野が恐ろしく、未理は肌が粟立つのを感じた。
「……こ……、れ……」
これは何、と未理は尋ねようとした。しかし、声は情けないほどに震えていた。
先刻部屋で箱の中身を認識するや、未理は錦野の部屋のチャイムを狂ったように鳴らしていた。
夜道と血と痛みの影を振り払おうと――
「っ! やだ!」
思い出したくない。昨日の夜のことなんて。
(……昨日の夜?)
一体自分は何を考えようとしたのか。昨夜は、何もなかったではないか。奏緒と日が暮れるまでお茶をして、それから家に帰って適当に夕飯を食べて風呂に入って寝たはずだ。
ただ、よく覚えていないだけで。
「昨日の夜のことを考えてたのかい?」
未理の思考を見透かしたかのように、錦野が問うた。
「昨日の、夜って……何のこと……?」
まだ声は震えていたが、先ほどよりはましだ。この調子で落ち着かなくてはと自分自身に言い聞かせながら、未理は聞き返した。
だがそんな未理の努力も、続く錦野の返事によって水の泡になった。
「昨日の夜、君が腹に大穴を開けられて食べられそうになってたってこと」
「――‼ そ、そんな、だ、だって」
声が上ずり、心臓の鼓動が跳ね上がった。否定しなければ。錦野の言葉が何の根拠もない荒唐無稽なものだと。
「だ、だって、私、ちゃんとパジャマだって着て……」
「ああ、あれ。着替えさせたのは僕だけどね」
「へっ、変態!」
緊迫した話をしていたにもかかわらず、未理は思わず反射的に叫んでいた。
「失敬な。僕が着替えさせなきゃ、君のベッドは今頃血でひどいことになってたっていうのに」
「そっ、それでも。勝手に人の服を脱がせて衣装入れからパジャマを引っ張り出すなんて……」
「じゃあどうすればよかったって言うんだ。気を失った君を無理やり叩き起こして、昨夜のうちに事情を説明していれば良かったとでも? はっ、そんなことをしていれば君が叫んで騒ぎになって、アパート中の住人が君の部屋に押しかけて来るのが落ちだね。いや、むしろアパートの住民ってお互いに無関心だから、君は単に夜中に奇声を上げた変人として認識されるだけかもね」
小馬鹿にしたように鼻で笑った錦野が、未理の心の導火線に火をつけた。
「さっき箱を開けたときだって叫ばなかったのが不思議なくらいよ! ……あ、そっか。着替えさせたって簡単に言うけど、それって服だけじゃなくて下着のシャツだって変えたってことよね。何よ、やっぱり変態じゃない‼」
「……はあ。何でそう過程をいちいち細かく考えるんだか。それに、そんなに憤慨するほど大したことなかったし……」
後半は小声だったが、この至近距離では意味はなく、未理の耳にははっきりと届いた。
「……なっ⁉ ってことはそう言えるくらいには見たんじゃない‼」
「不可抗力だって。まじまじと見たわけじゃないし、それに別に減るもんでもないんだし」
「減るわよ!」
「ふーん。じゃあ聞くけど具体的に何が?」
「具体的に、って……とっ、ともかく!減るものは減るの!」
「……へえー」
思いっきり馬鹿にした目だった。
「~~~~~~~~~っ‼」
今すぐここで地団太を踏みたい気分だったが、持ち前の自制心で何とか踏みとどまった。
(私は大学生、大学生は社会では大人とみなされる、私は大人、大人はこんなことくらいで感情的にはならない…………)
必死に自分に言い聞かせる。十八年の人生の中で、ここまで苛立たせられたのは初めてではないだろうか。もし奏緒が今の未理を見たら、驚いた顔をするに違いない。
「すー……はー……」
落ち着くにはまず深呼吸だ。基本的な方法がおそらくこの場合は最も有効だろう。そう考え、深呼吸をし始めた未理を、錦野はにやにやしながら見つめていた。
(ああもう、あの目つきが腹立たしい……!)
深呼吸を五回ほど繰り返し、未理は何とか表面上はいつも通りの様子を取り戻した。
改めて、笑っている錦野――ではなく血に染まった衣服を見る。目を反らしたくなる衝動を、理性で必死に抑え込みながら。そうして見ているうちに、やはり、という思いが湧きあがる。
やはりこれは、昨日自分の着ていた服だ。
だから、「これは何」というような、わかりきった問いを発するべきではない。もう問うたところで意味はないのだから。未理の持ち前の冷静な頭脳は、この場で最も適切な答えを導き出した。
今、問うべきは。
「……あなたは、誰。いいえ、あなたは……何」
「……へえ。そこを聞くんだ」
錦野の笑みが深くなる。口だけの笑みが。
「僕は錦野公遙と言う名前の、善良な一般人だよ」
「嘘。善良な一般人は引っ越しの挨拶に血だらけの服を持って来たりしないし、そもそも勝手に人の服を着替えさせたりもしない」
「案外根に持つね。じゃあ、僕は本当は錦野公遙という名前でも、善良でも一般人でもない。こう言えば満足かい?」
「……私をからかってるの?」
こんなに緊迫した場面なのに。先ほどとは別種の怒りが湧くのを未理は感じた。
「これでも、一応本当のことは言ってるんだけどなあ」
錦野は嘆息した。
そして何気ない調子で、
「僕は、君たちの言う『異界人』だ」
「――え?」
思いがけない言葉に理解が追い付かない。
錦野は今、何と言った。
「僕は、五年前この世界と繋がった『あちら』の住人だ」
錦野は同じ内容のことを繰り返し、そうしてゆるゆると未理にもわかってきた。
「……嘘」
思わず呟き、まじまじと錦野を見た。
確かに、異界人は外見からは普通の人間と見分けがつかないと学んだ。でも、それにしたって、錦野はどこをどう見てもこの世界の人間にしか見えない。やや緑がかった金の髪も、それと同じ色の瞳も、白い肌も。
しばらくの間、未理が無言でじっと錦野を見つめていると、
「何まじまじと人の顔見てるのかな。……ひょっとして、僕に見とれてる?」
「なっ⁉ 何を言って!」
焦ったように言い返す。思わず凝視してしまったのは、ただ人間かどうかを確かめたかっただけで、錦野に見とれたからでは断じてない。
(そりゃ、客観的に見てそこそこは整ってるとは思うけど……)
そう思ったところではたと我に返り、未理は慌てて首を横に振った。まったく、こんなときに何を考えているのだ。そんなことを考えてしまうのも、すべては錦野にペースを乱されたからだ。
そう結論づけると、未理は油断のない目つきで錦野に向き直った。
「……あなたが、仮に異界人であるとして」
「疑い深いね」
錦野の茶々は無視して、未理は畳み掛けるように続ける。
「どうして、私の服を持ってきたの。どうして、私の隣に引っ越してきたの。もともとここに住んでいた人はどうしたの。あなたは……どうしてここにいるの」
「質問が多いね。どれから答えたらいいんだか」
「聞きたいことがあるか、と言ったのはそっちでしょう」
切り込むような未理の口調に、錦野はため息を一つついた。
「やれやれ、仕方ない。じゃあ、まずは一番答えるのが楽そうなやつから答えようか。ええと、元一○一号室の住人はどこへ行ったのかってことからかな。簡単なことだよ。昨日の夜、『ここよりも大学に近くて便利な物件が空いたから住んでみないか』って勧めてみただけさ。二つ返事で彼は引っ越して行ったよ」
「…………」
みるみるうちに、未理の目から不信感が滲み出た。
「何が言いたいのさ。言っておくけど、物理的には何もしてないよ」
「……つまり、精神的には圧力を加えたのね」
問い詰めるような未理の視線を真っ向から受けた錦野だったが、「さあ、それはどうだろうね」と飄々とうそぶいて見せた。
その様子に、未理は改めて思う。
異界人であろうとなかろうと、この男は危険だ。




