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「あーあ、今日は早く帰って課題を済ませたいって思ってたんだけどな」


 そうひとりごちながらも、未理の足取りは軽やかだ。


「ま、明日は日曜日だしね。別に明日ゆっくりやればいっか」


 課題を早く済ませようと考えていたのは単に日曜日はのんびり過ごしたかっただけで、別に急ぐ必要があってのことではない。


 喫茶店の前で奏緒と別れ、未理は一人帰路についていた。未理の住むアパートはスーパーや飲食店のある大学周辺からはやや離れた位置にあるので、自転車や通行人とすれ違うことは少なく、路地はしんと静まりかえった不気味さを漂わせていた。また、路地のあちこちに点在する街灯の光はまばらで、黒々とした闇が辺りを覆っていた。

 しかしそんな周囲の様子とは対照的に、未理の胸中は明るかった。


(今日はいい日だったな……)


 今まで接することのなかった他学部の学生と普通に会話ができたこと、そして何より、常に周囲に対して壁を張っていたようだった奏緒が、いつもより柔らかい態度を見せたことが未理の心に広がる温かなものを残していた。


「本当に、いい日だったな」


 口に出して確かめると、いっそう今日という日のありがたさが染みてくる。

 だから、明日もいい日であったらいいと思う。

 そして明後日も、そのまた次の日も。

 今日のような日が続けば、きっと毎日楽しくなって――


 ずぶり


「…………え…………?」


 最初に感じたのは、圧倒的な衝撃だった。


「……う、ぐっ……!」


 一瞬の後、灼熱を伴う痛みが腹部に走る。焼きごてをあてられ、そこから広がった炎に自らが燃やされてしまうのではないかと錯覚する程の激痛だ。未理は耐えきれず、身体をくの字に曲げた。

 そうして視線の先になった腹部からは。

 何かが、生えていた。

 何かが未理の背中から腹を貫いていて、そして、腹に生えたようになっていた。おぼろげなその何かの影を呆然と見て、未理は理解した。


 これは――

 この形は――

 人間の手の――


「……っ、…………あっ…………」


 口からごぼりという音を立てて鮮血が溢れた。腹に空いた傷も口から零れる血も赤く熱い。まるで、燃え盛る業火のように。

 胴体に刺さっていた腕が不意にずるりと引き抜かれたが、喉に溢れた血のせいで痛みを叫ぶこともできない。ただただ命の赤を流しながら、未理は地面に倒れ伏した。

 背後で膨らむ圧倒的な飢餓の気配を感じながら、未理は自分を襲ったのが何者であるかを悟った。



◇◆◇



『そして、もう一つは――』


 五年前のあの日、異界王は人類に対して二つの条件を提示した。

 一つは、異世界の住人である異界人を認め、受け入れること。

 そして、もう一つは。


『我々の、糧を提供していただくことだ』


 異界人たちは、不自由することなく彼らの世界で生きていた。

 だが、彼らの食糧が生息する地域と異界人たちの住む集落が、ある日何の前触れもなく突如として二つの世界に分断されたのだという。そのままでは当然異界人たちは飢え、やがては多くが死ぬ運命を辿ることになっただろう。異世界の賢者たちは必死に元に戻す方法を模索したが、残念ながらそれは不可能だった。

 しかし、その食糧の生息する新たな世界の存在を知ることは可能だった。そして、彼らの力を持ってその世界へとつながる門を開くことも。

 そうして五年前に彼らの世界と、彼らの求めていた食糧のあるこの世界は繋がったのだ。


『我々の糧――すなわち、あなた方人間を』

 

 異界人たちは人と変わらない姿を持ち、高度な知性を持つ。故に彼らには、異なる世界の人――異界人という呼称が正式には用いられる。

 だがある者は人肉を食らい。

 またある者は人の血を啜り。

 そして多くの者は人の精気を吸い。

 何らかの形で、彼らは必ず人を喰う。


 ――だから彼らは魔物と、今もなお忌まわしき名で呼ばれ続ける。




 生命活動の危機に瀕し、もはやどのような治療も間に合わないということを身体が悟ったのか、未理はもはや痛みを感じなくなっていた。ただ耳に届く三つの音だけが、未理が未だ息をしているということを示していた。


 一つは、口から漏れる微かな呼気。

 もう一つは、僅かに動く心臓の音。

 そして、最後の一つは、


「………………はぁ、…………はぁ…………」


 荒い、飢えた獣の息だ。

 その息の音を聞きながら、未理は何故すぐに自分を食べようとしないのだろうと不思議に思ったが、


(ああ……そっ、か……)


 おそらく、


(私がまだ……抵抗するんじゃないか、って……様子をうかがってるのね……)


 おかしな話だ。どこをどう見たって、自分は虫の息なのに。そう思うと、こんな状況なのに口が自然と笑みを作った。


「……ふ……」


 自嘲するような、それでいて何もかも諦めたような笑いだ。

 これから、もっと毎日が楽しくなると思ったのに。

 まだ、色々とやりたいこともあったのに。

 せっかく、ここまで来たのに。

 友人や家族らの顔が、次々とよぎっては消えていく。


(走馬灯、か………やっぱり、私死ぬんだ……)


 この状況で死なないなどとは思っていなかったが、改めて見せつけられた気がした。

 もうすぐ、貝塚未理という存在はこの世から消える。

 背後の異界人、否、魔物も、今まさに未理の命の灯が消えようとしているのを感じ取ったのか、未理の体へと手を伸ばし――


(…………?)


 未理は、確かに魔物が自分に手を伸ばそうとしたのを感じたと思った。しかし、


(何も、ない……?)


 気がつけば、あの荒い呼吸音も消えていた。


(どうして……)


 自分は、助かったのか?

 そう思い、即座にそれを否定する。

 馬鹿な、どう考えたって自分が助かるはずがない。魔物の気配が消えたのは確かなようだが、それでも身体のこの惨状から、自分が死ぬという事実に変わりはない。

 この真っ暗な路地の上で、一人死んでいくという事実には。


(や――)


 嫌だ。


 自分の置かれた状況を冷静に理解した瞬間、その思いは洪水のように溢れてきた。


 嫌だ。

 こんな場所で、一人孤独に死んでいくなんて絶対に嫌だ。


 未理はそれほど人恋しい性質というわけではない。しかし、今は何よりも孤独が恐ろしかった。


 嫌だ。

 このままでは孤独に押し潰されて死んでしまう。


 自分を殺すのは外傷が原因だとわかっているのに、その考えは止まらなかった。


 嫌だ――


「――……今すぐ死ぬのと不老不死になるの、どっちがいい?」


 未理が何度目かの「嫌だ」を心中で唱えたとき、その声は頭上から降ってきた。


(不老、不死……?)


 この声は何を言っているのだろう。不老不死だなんて、そんなものが存在するはずがない。


「あれ、聞こえてないのかな。今すぐ死ぬか、不老不死になるかって聞いてるんだけど」


 聞こえているが、この状況で答えられるはずがないに決まっている。先ほどまで死の恐怖に支配されていたはずだったが、未理は声に対して苛立ちのようなものが湧いてくるのを感じた。


「うーん、返事がないね。それじゃあわかんないな。……だったら仕方ない、僕は帰るよ。死体に興味はないからね」

「…………まっ……」


 血が気管に入り声も出ないはずだったのに、微かな囁きが喉から漏れた。なるほど、これが火事場の馬鹿力というものか。できることなら一生実感したくはなかったが。

と、そこまで考えたところで、未理は内心で苦笑した。もうすぐ死ぬのに一生など。


「ん、何だい? そんなに小さな声じゃ聞こえないよ」


 からかいの口調に現実に引き戻される。

こちらは彼岸を渡りかけているというのになんて奴だ。未理は怒りの炎がめらめらと燃え上がるのを感じた。


「……いいね、その目。感情がみなぎってて、ギラギラしてて。まるで何かを切望するような眼だ」


 声の響きに喜色が混じる。


「じゃあ、これが最後の問いだ」


「――死ぬか、生きるか。どちらがいい?」


「…………ぃ…………た…………」


 呟きというのさえおこがましい、僅かな息の流れ。しかし未理の唇は、生への意思を確かに紡いでいた。


「…………契約成立だ」


 その言葉を聞くと同時、未理は身体を抱き起こされ、何か温かなものに包まれるのを感じた。


 それを最後に、未理の意識は闇へと沈んでいった。



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