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二人が食堂から出てすぐに、聞き慣れた声がした。
「おや君たち、今頃食事してたのか。遅いな」
食堂脇のベンチに腰掛け、無精髭を生やした口から煙草の煙を吐き出しながら、よれよれの白衣をはおったその人物は言った。
「鷹薬教授……」
「ええ。少し慌ただしかったものですから」
目の前の誰かさんのせいでね、と奏緒がぼそりと呟いたのが未理の耳に入った。
鷹薬信行。若干三十一歳でありながら、未理たちが属する異学部の主任教授にして十の博士号を持つ男である。そして、何を隠そう五年前に繋がった異世界とその異世界からやって来た「彼ら」――「異界人」に関する学問である異学を世界で最初に提唱し、体系化したのが彼だ。
そのため世間では天才と呼ばれているが、
「ああ、そうだったのか。でも一度きりの人生、少しぐらい慌ただしい方が充実していて楽しいだろう? だからもっと慌ただしくて楽しくなるように、藤倉君には来週までにレポートをお願いしようか。テーマは『異界人との交流による我々の生活環境の変化』。形式はA4の用紙十枚で……」
「! いいえそれには及びませんわ鷹薬教授。わたくしは鷹薬教授の数々の素晴らしい講義で日々充実していますもの」
「そうかい、それなら来週の講義を楽しみにしておくといい。きっと藤倉君は貝塚君や樹君の数倍楽しめるだろうからね」
「⁉ それはそれは。是非ともわたくし、僭越ながら楽しみにさせていただきますわ」
「ふふふ……」
「ほほほ……」
裏では――というか、主に奏緒に鬼畜と呼ばれているのが彼だ。
一週間以内に五題のレポートを提出させるなど普段の様子は言うに及ばず、そもそも入試からして鬼畜である。
この栄泉学院大学は名前から察せられる通り私立であり、基本は大学独自の試験だけだが、異学部だけはセンター試験で文系理系を問わず六教科七科目を要求する。それに加えて、英語、数学(ⅠAⅡBⅢC)、現代文+古典の国語総合問題、物理+化学+生物+地学の理科総合問題、世界史+日本史+地理の地歴総合問題、現代社会+政治経済+倫理の公民総合問題という文系理系はおろか、学習指導要領さえも超越した六つの筆記試験が課されるのである。しかも合格するにはミスは許されても一回か二回、ほぼ満点に近い成績を取らなければならない。
鷹薬曰く、「君たちはこれから異世界について学ぶんだろう?自分たちの世界の最低限のことぐらいはわかっていてもらわないとねぇ。本当は第二外国語もやりたいところだけど、高校じゃあやらないようだから、仕方がないけれど勘弁してあげようか」とのことである。
そんな試験に誰が通るのだと大抵の者は思うだろう。事実、異学部が創設されて以来、合格者数・生徒数共にゼロだった。しかし、創設三年目の今年になって初めて三人の優秀な学生が入学してきた。そして、
「あの鬼畜……間違いなく私を集中的に狙ってくるわね……。来週までに完全理論武装しておかないと……」
未理の隣でぶつくさ言っているゴシック・アンド・ロリィタ愛好家こそがその三名の中で唯一、入試で満点を取った学生である。
どういうわけか、奏緒は鷹薬と凄まじく相性が悪いらしい。鷹薬と馬が合う人間がこの世に存在しているかは怪しいが、少なくとも未理やもう一人の異学部生は奏緒ほどではなかった。
「本人の前で迂闊なことを言うからよ」
鷹薬の去っていった方向を未だ睨んでいる奏緒を見かね、未理が言った。
「わかってるわよ。でも、あいつを見ているとつい言ってしまいたくなるのよね……」
「何て言うか……」
難儀なことね、と未理が言おうとしたちょうどそのとき、背後から遮る声があった。
「……あの、すいません!」
「何?」
未理よりも先に奏緒が振り返る。そこには、髪を短く刈りこんだ青年が立っていた。
「……未理の知り合い?」
未理は首を横に振った。この年頃の男性の知り合いなど、異学部の同級生の一人しかいない。
「……私たちに何かご用かしら」
奏緒も未理と同様なのだろう、不審そうな目で青年の頭から足まで品定めするように見た。
「えっと、さっき俺の友人が食堂で迷惑かけたって聞いて……」
奏緒の視線にやや気押されながらも、青年が答えた。
「迷惑?」
「その、サークルの勧誘のことで……」
なるほど、と未理は胸中で呟いた。おそらく先ほどの青年が、食堂での出来事をサークル仲間である目の前の青年に話したのだろう。それを聞いて、仲間が悪いことをしたと感じたこの青年が、改めて謝罪に来たというところか。
「別にもう気にしていないわ。それに、私たちはあいにくサークルに入る気はさらさらないしね。用件がそれだけならもう行くけれど」
奏緒は冷たく言い放ち、青年に背を向けて歩き出そうとする。
「ちょ、ちょっと待って! 同じサークルの仲間が迷惑かけたんだし、何かお詫びさせてよ!」
慌てて青年が奏緒の前に回り込むが、
「もしも本当に謝りたいっていうのなら、当事者が来るのが礼儀ではなくて?」
奏緒は言葉の刃で突っぱねた。
「そ、それは……」
青年が詰まった。その隙に、奏緒はその横をすたすたと通り過ぎようとする。
しかし、
「えっと、別にわざわざお詫びというほどのことをしていただかなくても……とは思うんですけど」
「……未理?」
奏緒の背後で、未理は青年に歩み寄っていた。
奏緒とは違う未理の態度に少し安堵したのか、青年はほっと息をつくと話し始める。
「でも、不快な思いさせたんだろ?だったら何かしなきゃ俺の気が済まないっていうか……」
「どうしても、何かしたいと?」
「うん……」
未理の問いに、青年は頷いた。
「だったら……何かおいしいもので手を打っていただくのはどうでしょうか」
「未理⁉」
声色と表情で露骨に不満を表した奏緒に、
「こういう場合は何か安いものでもおごってもらって、ことを済ませるのが一番よ。これ以上面倒なことになったら困るし」
未理はこっそりと耳打ちした。
「……未理ってときどきすごく合理的というか、何というか……」
呆れたのか感心したのかよくわからない様子で奏緒がため息をついたが、未理の言葉に一定の正当性は認めたようだ。腕を組み眉を歪めながらも、それ以上異議を唱えることはしなかった。
「じゃあ、そこの喫茶店で何かおごるよ。それでいい?」
「はい。わざわざすみません」
未理は軽く頭を下げ、嫌そうな奏緒を引っ張りながら青年の後に続いた。
カフェ・フロコン・ドゥ・ネージュは大学から車道を挟んですぐのところにある喫茶店だ。クラシックの音色が店内を満たし、挽きたての珈琲豆の香りが漂うこの場所は、落ち着いた雰囲気で老若男女に幅広く人気があった。
「うー……なんで知り合いでもない人とお茶しなきゃならないのよ……」
奏緒はカウンターに貼ってあるメニュー表を睨みつつ唸っていた。
「そう言いながら、注文にはこだわるのね……」
未理も青年も注文が決まり、あとは奏緒だけという状況なのだが、
「塩キャラメルパフェがいいかしら……いいえ、ここはせっかくだから普段じゃ頼めないチョコレートソースワッフルの苺のせを……」
十分前からずっとこの調子だ。レジに立つ接客スマイルを浮かべた店員が、困惑しているのが見てとれた。
「いい加減決めないと、後ろにお客さんが来るよ」
「そう言う未理は決めるの早かったわよね。何にしたんだったかしら?」
「普通にアイスコーヒーだけど。……おごってもらうんだから、一番安いのじゃないと悪いし」
最後の方は後ろに立つ青年に聞こえないよう小声だったが、奏緒はそれを聞くなり、
「そうね、おごりだったわね。……すみません、デラックスチョコバナナパフェを一ついただけるかしら」
店で一番高いメニューを注文した。
「……奏緒」
「な、何よ。こういうときは遠慮するのも相手に対して失礼にあたるのよ」
「……最近、ウエストがどうのこうの言ってたのって、誰だったっけ?」
「っ‼ きききき気のせいよ。も、もしくは未理の勘違いね」
「ははっ」
二人の会話が聞こえたのだろう。青年が小さな笑い声を漏らした。
「な、何よ。私、これでもゴシック・アンド・ロリィタを着続けるためにちゃんと考えてるんだからね」
むっとして奏緒は青年を睨んだが、
「ああ、ごめんごめん、そうじゃなくて。何て言うか……異学部の人たちって何となく近寄りがたい感じがしてたんだけど、こうやってるとそんなことはなかったんだなって」
「え?」
青年の素朴な発言に、奏緒はきょとんとした顔をした。
「お待たせしました、デラックスチョコバナナパフェをご注文のお客様」
「あ、呼んでるよ」
「わ、わかってるわよ」
青年に促され、奏緒は慌てて受け取り口へと向かった。
「へえ、サークルの勧誘をしてたからてっきり先輩かと思ったけど、同級生だったんだ」
コーヒーにミルクを混ぜながら、未理は意外そうに顔を上げた。
「うん、俺たちのとこ人手少なくってさ。四月に入ったばかりだってのに、先輩から新入部員を勧誘して来いって言われて。それであてがなくて困った挙句、食堂にまで出没してたってわけ」
飲んでいたカモミールティのカップを置き、青年が答えた。
青年は蔭枝冬治という名前の工学部の一年生だという。聞けば食堂で会った青年も同じ工学部の一年生で、一緒にサークルに入部したらしい。
「いくら困っていても、私はサークルに入る気はないけどね」
「奏緒……」
せっかく和んだ雰囲気に水を差すような奏緒を、未理は諌めるように見た。
「……でも」
奏緒はデラックスチョコバナナパフェをすくっていたスプーンを置く。
「さっきは私の態度も悪かったと思うわ。ごめんなさい。昼に会った彼にもそう伝えておいて。もし直接謝れって言うのなら、今からでも謝りに行くけれど」
真摯な瞳で、青年にそう言った。
冬治は奏緒の態度の変化に若干戸惑っていたようだったが、やがてふっと表情を緩ませると、
「いや、いいよ。もともとこっちが悪かったんだし。あいつもそんな気にしてないと思うから」
そう言って空になったカップを置き、立ち上がった。
「あれ、もう?」
あまりにも飲み終えるのが早いように感じられ、未理は不思議そうに冬治を見上げた。
「うん。俺、これからすぐバイトだから急がないと。じゃ、今日は悪かったね」
「ううん、おごってくれてありがとう」
未理が短い別れの挨拶を済ますと、冬治は去って行った。
未理は再びコーヒーに口をつけたが、奏緒はスプーンに手を伸ばさないまま、冬治の去って行った方向を見つめていた。
「…………」
「奏緒? パフェのアイスが溶けちゃうけど」
「え? ああ、そうね。食べないとね」
奏緒は慌てたようにスプーンを手に取ると、アイスにさっくりと差し込んだ。
「ええ、美味しいわ。ここのチョコレートソースのとろけるような上品な甘さは格別ね」
パフェに舌鼓を打ちながら、それでもまだ奏緒は出口の方をちらちらと見ていた。
「……あのね」
未理の方に向き直ると、どこかためらいがちに奏緒が話の口火を切った。
「ん、何?」
「私、異学部以外の人はこっちに距離置いてるのわかってたし、こっちだって向こうがそういう気なら知らないって思っていたけれど、ああいう人もいるのね。話をしてみれば、異学部だからっていう色眼鏡で見るのをやめようとしてくれるような人も」
「そうね、うん。あの人……っていうか蔭枝くんっていったっけ。確かにいい人だったね」
未理は納得したように頷いた。
「ええ……本当に」
チョコレートパフェを食べながら、奏緒はどこかぼんやりとした様子だった。
それからとりとめのない話をしているうちに何だかんだと話題が広がり、結局二人が店を出たのは六時半を過ぎてからだった。




