終章
「よし、これで全員のレポートが揃った。評価は後ほど伝えよう」
そう締めくくり、鷹薬は教室から去って行った。
「お……終わった……」
思わず言ってしまう。だが、未理がレポートを提出したときに鷹薬の眼鏡が怪しく光ったのは気のせいではないのだろう。後に何やら恐ろしいことになりそうで、未理はこれ以上レポートについて考えるのをやめた。
「お疲れー、貝塚」
「お疲れ、いっきー」
鷹薬に引き続いて、翔も教室を後にした。残っているのは未理と、もう一人だけだ。
「奏緒? 帰らないの?」
「……ねえ、未理」
いつもとは違う、意を決したような、改まったような言い方だった。
「……どうしたの?」
「ちょっと、付き合ってほしい所があるんだけど……いいかしら?」
二人が向かったのは、大学近くのカフェ・フロコン・ドゥ・ネージュだった。
「…………」
ここへと向かう道中も、席に着いてからも、奏緒は無言だった。目の前に置かれるデラックスチョコバナナカフェに手をつける様子もない。
未理も黙ってコーヒーを飲みながら、奏緒が話し始めるのを待った。
「……私、吹奏楽サークルの見学に行ったの」
唐突に切りだした奏緒に、未理は顔を上げた。
「でもね、そこに蔭枝くんはいなかった。この前彼に……よくは覚えていないのだけれど、何か悪いことを言った気がして。それで、一言謝ろうと思ったの。……でも、いなかった。それどころか、そんな人間は知らないなんて言われて……」
「…………」
未理は何も言えない。言えるわけがなかった。
「ねえ、未理」
切実な様子を漂わせて、奏緒は言う。
「蔭枝くんは……確かにいたわよね? 確かにここで……」
「…………いたよ」
未理は頷いた。奏緒の目を見ることのできないまま。
「……そうよね。私の勘違いとか、妄想とか……幻なんかじゃ、ないわよね」
それから、奏緒は冬治について一言も触れることはなかった。未理と奏緒は一時間ほど雑談した後、喫茶店を後にした。
電子レンジの中で回る皿を見つめながら、未理は考えていた。
いつか、奏緒に本当のことを話す日は来るのだろうか。もし奏緒がそれを望んだとしても、そうするのは正しいことなのか。そもそも、誰にとって、何が正しいことなのかもわからない。自分は、どうすればいいのだろう。
答えのない問いに、思わず重いため息がもれた。
電子レンジが鳴り、扉を開ける。取り出した皿からラップを剥がし、食卓へと運ぶ。
「お待たせ、できたわよ」
「できたって……冷凍食品ばかりじゃないか」
食卓の上にずらりと並べられた冷凍食品の盛り合わせに、公遙はげんなりとしたつぶやきをもらした。
「冷凍食品だって馬鹿にできないわよ。人類が生み出した素晴らしい発明品の一つじゃない。おかげで食べ物が長持ちするようになったんだから」
「……まるで手を抜くことを覚えた主婦の言いわけだね」
「仕方ないでしょう。今日は昨日レポートで徹夜して疲れてるんだから。明日はちゃんとしたものを作るわよ」
「でも、今日のメインディッシュは冷凍の唐揚げ……」
「文句があるなら食べなきゃいいじゃない。いただきます」
公遙の文句は無視して、未理は箸をとって食べ始める。公遙もしぶしぶといった様子で箸を手に取った。
あれだけ不満気だった公遙だったが、未理が食べ終えた頃には皿を空にしていた。
「さてと、皿洗いしなくちゃね」
「……どういうつもりさ」
立ち上がりかけた未理を、公遙の重々しい声が止めた。
「どういうつもりって?」
「……自分を食べようとした相手を平然と食卓に招くなんて、並の神経でできることじゃない」
「じゃあ、すっかり神経が太くなったんじゃない?誰かさんのおかげで」
「そういうことが聞きたいんじゃない。一体、未理は――」
「公遙こそ、私を食べるんじゃなかったの」
「それは……」
痛い所を突かれたのだろう。公遙が口ごもった。
だが、それも一瞬だった。公遙は重々しい空気を一変させるかのように、にやりと口元を吊り上げた。意地悪そうに。余裕ありそうに。
「だったら、未理は僕に食べられずに不老不死のまま生きていくっていうんだ?」
「……完全な不老不死じゃないんでしょう?」
そう言っていたはずだ。自分は重傷を負って死ぬこともあるし、それに公遙にだって寿命はあるのだと。
「でも、僕はおそらく少なくともあと千年は生きるだろうね。……それに、未理が死ぬようなこと、僕は絶対に許さない。未理と一緒に心中するなんてごめんだ。だから、たとえ未理の手足が千切れようが、未理が自殺しようとしようが、その度に僕は再生させる。……痛みに未理が、発狂しようとね」
爬虫類の瞳で、公遙は未理を追い詰めようとする。
だが、
「でも、それって全部仮定の話じゃない」
あっさりと未理は言った。
「え……」
余裕綽々の笑みを浮かべていた公遙の表情が揺らぐ。
「先のことなんてわからない。ひょっとしたら永く続く生が嫌になって、死のうとするかもしれないし、公遙に自ら食べられようとするのかもしれない。わからないわよ、そんなこと。でも、今私はそうするつもりもないし、公遙だって私を食べる気もない。だったらそれでいいじゃない。少なくとも、今は」
「……問題の先送りかい? 愚かしいね」
「何とでも言ってれば。わからない将来に不安を感じて怯えるよりも、私にはもっと大事なことがあるの。友人のこととか、レポートとか……」
そこで思い出したように付け加える。
「……人の食事にケチ付ける人を、どうやって黙らせるかとか」
「…………」
「話はこれでおしまい? だったら、私はさっさと皿洗いしなくちゃいけないんだから」
黙ってしまった公遙に背を向け、未理は流しへと向かう。
「……未理」
「ん?」
水道の蛇口をひねりながら、公遙の方を向かずに返事をする。
「食事を作ったり、かと思えば冷凍食品で済ませたり、皿を洗ったり。未理って、完全に主婦だよね。まるで……僕の奥さんみたいだ」
「――なあ⁉」
動揺する未理に、公遙はにこやかに笑い、
「うん、その表情が見たかったんだ。じゃ、また来るよ」
平然と言って、公遙は玄関から出ていった。
皿の山が崩れるような音が聞こえたような気がしたが、公遙は気に止めない。
「――ははっ」
自分の部屋に戻ると、公遙は小さく笑った。
単なる気まぐれで拾った人間に、まさか言い負かされるような日がこようとは。この世界に留まるような職に就いて正解だった。愚かで矮小で、しかし自分の思いもよらぬ行動をとる人間。まさしく退屈させられない。大いに結構なことじゃないか。
「でもね、未理――」
もしも、自分を失望させるようなことがあったら。
「――そのときは、我慢なんてしないよ」
不穏な囁きは、誰に知られることもなく闇へと溶けていった。




