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「ねえ未理、そこのお醤油取ってくれない?」
「はい、奏緒」
「ありがとう」
ピークを過ぎた午後二時半の学生食堂。貝塚未理は、友人の藤倉奏緒と遅い昼食をとっていた。午後の講義前に食事がとれなかったため空腹でたまらなかった未理たちだったが、今現在は食欲を満たせる喜びに頬を緩ませていた。
「長引くことはあると思っていたけど、まさか次の講義の直前までやるなんてね……。おかげでさっきの時間は意識が朦朧としたわ」
笹身のフライに醤油をかけながら、奏緒がぼやいた。
未理も焼き魚をほぐしつつ頷き、
「うん、私も集中力がちょっと。でも、仕方ないわ。教授がそういう人だって、入学前から何となくそんな感じしてたし、四月の時点でたっぷり身に染みたじゃない」
「それは、そうなんだけどね……」
話題に上っているのは、彼女ら二人の必修講義のことだ。
「でも、やたら頭を使ったのに、次の授業のために栄養補給する時間もないのよ。こんなんじゃ脳が枯れちゃうわ」
「だったら、午後までもつように朝しっかり食べたら? 失敗は成功の母って言うし、今日のことを活かして今度から」
「朝は作るのが面倒くさいのよね」
「まあね、それには同感。……あ、この大根サラダ結構いける。また今度も食べてみよっと」
昼食を口に運びつつ、友人と他愛のない会話を交わす。どこの大学でも見られる光景だ。
そして、
「そこのお二人さん、もしかして一年?吹奏楽とか興味ない?」
こんな勧誘も、どこの大学でも見られる光景と言えた。
「興味ないわ。私が今興味あるのは食事だけ」
「ごめんなさい。私もあまり」
「二人して即答かい! ……いやいやいや、ひょっとしたら話を聞いたら気が変わるかもしれないよ?」
二人に声をかけてきた人物はなおも引きさがってくる。ジーンズをはいた茶髪の青年で、手には『新入部員急募! 吹奏楽サークル』と書かれたビラを持っていた。
「私の気が変わることは、人間が酸素を必要としなくなるのと同じくらいありえないわ」
「奏緒ったら。……すぐ済むのなら、私は構いませんけど」
すげない奏緒をフォローするように、未理は青年に言った。
「え、マジ?」
「未理、人の食事中に話しかけてくるような奴なんか相手にする必要はないわ」
奏緒は食事を邪魔されたことがよほど不快なのか、苛立ちを隠そうともしない。
「でも、これ以上話してたら余計に時間を取られるし。ここはさっさと相手に満足して帰ってもらった方がいいと思う。ご飯冷めちゃうし」
奏緒を説得しようと、未理は青年に聞こえないように囁いた。
「……聞こえてるよー」
しかしそんな未理の小細工は無駄だったらしく、青年は呆れ半分、苦笑い半分といった表情で二人を交互に見た。
「えっ? ええと、ごめんなさい。どうぞ話してもらって構いませんから」
詫びの意味も込めて慌てて青年の方に向き直ると、未理は話を聞く姿勢をとった。
だが、奏緒は青年を一瞥すると意地悪く口を歪め、
「――そうね。こう言えば、すぐに帰ってもらえるかしら」
「私たち、コトガクの学生なの」
その言葉を聞いた瞬間、青年の顔色が変わった。
「え……」
どこか怯えを感じた様子の青年を尻目に、奏緒は皮肉たっぷりに続ける。
「医学と区別するために、コトガクと呼ばれることもある『異学』。本来の異学とは時代と相いれない学派を指す言葉だけれど、今の時代ならば時代に合いすぎた学問、とでも言えるのかしら。私たちが学んでいるのは、江戸時代に異学の禁で禁じられた学問などではもちろんない。江戸時代どころか、五年前までは存在しなかった学問だしね。私たちが学ぶのは『彼ら』の世界であり、そして『彼ら』自身についてよ。そう、彼ら――」
「奏緒!」
未理が声を荒げることは珍しい。そんな未理に不意を突かれたのか、奏緒は黙った。
「…………しっ、失礼しました!」
ひきつった笑みを浮かべながら、青年は走り去って行った。
「……奏緒。こんな場所で『彼ら』について話そうとするなんて……」
「未理こそ、なんで止めるのよ。未理は、自分が学んでる学問に誇りが持てないっていうの」
口調こそ静かだが、未理を睨んだ目には確かな怒りがこもっていた。
だが、未理は首を横に振り、
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、何だって言うの」
「『彼ら』について忌避したくなる気持ちも、わからないではないから」
「…………」
奏緒はしばし無言だったが、やがて「そうね」と微かに呟いた。
「……そうね、私たちは……弱いものね。でも、私たちはさんざん『彼ら』の世話になっているっていうのに、口に出したくないなんてひどい話ではないかしら。たとえば、この空だって彼らのおかげだっていうのに」
奏緒は窓の外を見上げた。そこに広がる空はどこまでも澄み渡り、ともすれば飲み込まれてしまいそうな程に青い。それは五年前と変わらないようで、しかし本質が決定的に異なる五月晴れの空だった。
「五年前までは、オゾンホールだの紫外線だの地球温暖化だの騒いでたっていうのに、今じゃ考えられない話よね。日焼け止めなんてものは、よっぽどのことがない限り必要はなくなったし、熱射病で倒れる人の数も減った。それだけじゃない。空気だって、海だって本来の姿を取り戻しつつあるし……。すべて『彼ら』のおかげなのに、私たちは彼らを嫌悪し、恐怖している。『彼ら』はそんなこと、気にしはしないらしいけれど。でも、私は…………」
きらきらと降り注ぐ日差しを硝子越しに受けながら、奏緒は彼方の空をぼんやりと見つめていた。
未理は、しばらく黙ってそんな奏緒を見つめていたが、
「……じゃあ、その日傘もいらないわね。それからその重装備な長袖も」
「あら、ゴシック・アンド・ロリィタは別よ。これは私の生きがいなんだから」
「ああ、奏緒の最大の趣味だもんね。ゴスロリは」
「ゴスロリって呼ばないで。ゴシック・アンド・ロリィタよ。ここだけは譲れない私個人のこだわりなんだから。そもそも、ゴシック・アンド・ロリィタという呼称にほれ込んだのが私のゴシック・アンド・ロリィタ歴の始まりで……」
黒のフリルとレースのあしらわれたブラウスの袖を振りつつ、熱を込めて語りだす奏緒の話をそれとなく聞き流しながら、未理もまた五年前に思いをはせていた。
五年前のあの日、二〇一二年の九月三十日。世界標準時で日付が変わり十月になろうとするさなかに、それは起きた。
誰かが空を指し、あれは何だと叫んだかもしれない。気象を観測する者が、空の異変に気がついたかもしれない。最初に気付いたのが誰だったかなんて知る術はないし、そもそもそんなことに意味はない。重要なのは、ただ一つの事実。あの日空にぽっかりと黒い穴が開いて、それまでの世界が終焉を迎えたという事実だけだ。
『――この世界の方々よ』
それが終わりと、新たな世界の始まりを告げた言葉だった。
空に穴が開いたのに多くの人々が気付き、不安と混乱が世界を席巻し始めたとき、その声は響き渡った。不思議なことにその声はどこの国の人にも聞こえどこの国の人にも理解できたが、「彼ら」の力をもってすればそのようなことは造作もない。
『この世界の方々よ。唐突に挨拶もなく申し訳ないが、聞いていただきたい。我々は今、異なる次元にある我々の世界から、この世界へと門を繋げた。我ら異世界の民が、この世界に来られるようにするために。誠に勝手な話ではあるが、緊急事態であったのでそうさせていただいた。もちろん、その代償は払おう。あなた方の抱えている問題の幾つかを解決するという形で。――つまり、あなた方を助けるということだ』
多くの人々が恐慌と共にその声を聞いていた。しかし、ごく一部には神が降臨したと言ってその場に跪いた者もいたという。
その期待が、続く言葉に裏切られることとなるのも知らずに。
『その代わり――』
後に異界王と呼ばれることになる、異界の代表たるその者は続ける。
直後に、この世界を阿鼻叫喚の巷へと導くことになる要求を。
『その代わり、あなた方にも我々を助けていただきたいのだ。我々は善意の使者でも、この世界で言うところの神でもない。しかし我々は、あなた方の友となりたいのだ。我々はあなた方の世界がより善きものとなるように尽力しよう。それは、王たる我が名に賭けて誓う。ただし、そのために幾つかあなた方にお願いしたいことがある。一つは、我々の存在を認めていただくこと。そして、もう一つは――』
「……ゴシックとロリィタは本来別物であると思うわ。でも、あえてその二つを組み合わせてみようとした先人の発想に私は敬意を払いたいのよ。それがゴシック・アンド・ロリィタファッションを身にまとう者としての私の矜持……って未理? 聞いてるの?」
「へっ? あ、ごめん」
いつの間にか、完全に思考が過去へと行っていたようだ。まったく、これでは先ほどと立場が逆ではないか。未理は苦笑し、
「ごめん。日差しが暖かくて眠くなってきたみたい」
と、軽く手を振りながら言い訳をした。
「もう。……まあ、いいわ。ならこれ以上眠くならないように、食べ終わったらさっさと出ましょうか」
「あ、うん。そうしよっか」
そう返し、未理は食事を再開した。




