18
永遠とも感じられるような刹那。未理の意識は、彼方へと飛んでいた。それが戻ってきたとき、未理の目と鼻の先には舌なめずりする大蛇の頭があった。
[…………契約した者同士の魂は繋がっている。だから、異界人が契約した人間を喰らうことは、契約者の魂を完全に吸収し自分と一つにする行為に等しい。その異界人は今後二度と契約を結ぶことはできないけれど、契約者と共に死ぬなんて可能性はなくなる]
「――…………だから……私を、喰らうのね」
公遙の言葉の先を、未理は引き継いだ。
[…………抵抗しないのか?]
緑と金に煌めく二つの眼が、訝しげに未理を見る。その瞳自体も、瞳から透ける性格も、未理の知る公遙と何ら変わらない。そのことに未理は不思議と安堵をおぼえながら、頷いた。
「……この状況で抵抗したって、意味なんてないでしょう? 助けなんか来るわけないし。前にあなたが言ったように、私は分を弁えるの」
死にたいわけでは、ないけれど。しかし、未理の中には、前のように死にたくないという身を切り裂くほどの思いはどうしてか湧いてこなかった。
[賢明だね。……いや、それとも愚かなのかな]
どこか寂しげに、かつて公遙と呼ばれた大蛇は言った。
「だって、私はあのとき死んでいたはずなんでしょう。それなのに、あなたのおかげで少しの間生きていることができた。だったら感謝こそすれ、恨んだりののしったりする理由はないわ」
[……やけに諦めがいいんだね]
「…………きっと、もう疲れたの。さっきからとんでもない光景が目の前で繰り広げられるわ、とんでもない話を聞かされるわで」
異界に関する重大な秘密など、一学生の身には余る事柄だ。そんなものを知り過ぎて、感情の糸が擦り切れてしまったのだ。だから、こうして淡々と自分の運命を受け入れようとしているのだろう。
[未練はないのかい?]
未練。そんなことを思った気がする。暗い、自分以外誰一人としていない路地の上で。けれど、今はそんなことを考えるような心持ではなかった。
「……あ」
視線をふと動かしたとき、地面に倒れている奏緒の姿が目に入った。
(…………奏緒)
未練というなら、自分がいなくなった後の奏緒のことは気がかりだった。未理と、そして冬治。大学に入って早々友人を二人失って、奏緒は何を思うのだろうか。
(…………ごめん、奏緒)
奏緒だけでなく他の異学部の面々や、実家で独り暮らす母にも、未理は謝りたかった。勝手にいなくなって、ごめんなさいと。特に母には、女手一つで育ててくれた恩を返せないことに対し、申しわけない気持ちでいっぱいだった。
(…………でも……無理)
目の前の大蛇の顎から逃れる術などないのだ。未理にできるのは、ただ自己満足のために大切な者たちに内心で詫び、別れを告げることだけだった。
「……私が、いなくなったら」
[…………]
「なるべく周りの人に不信感を与えないようにして。行方不明だって知らせるときも、生きているなんて希望を残さないように。なんなら、私の存在を記憶から消したっていい」
[……そんな大がかりなことはできないよ]
「それでも、できる限りのことはしてほしい。こんなこと言えた立場じゃないのかもしれないけれど。……あと、あそこで倒れている子が、無事に帰れるようにして」
公遙は何も言わなかった。しかし否定するなら言いそうなものだ。未理は肯定と受け取ることにした。
(……自分が死んだ後のことだもの。任せるしかない)
[……じゃあ、これが最後だ。他に、何か言い遺すことはないかい]
そうは言われても、もう思いつかない。未理は考えてみようとしたが、
(…………未練ってほどのものじゃないけれど)
眼前の相手に、ひと泡吹かせてやれなかったのは、悔しいと言えば悔しいのかもしれない。多少あたふたさせたことはあったけれど、それは勝った、と言えるほどではないだろう。
傾いた陽の光が、未理の目を射抜く。その眩しさに目を細めたとき。
未理は、あることを発見した。
(……間違ってるのかもしれないけれど。違ってたら馬鹿にされそうだけれど)
最期に一花咲かせようとしてみるのも、悪くはない。
[何もないのかい。だったらもう――]
「ありがとう、公遙」
[え?]
公遙が目を張ったのがわかった。蛇でも案外感情の動きというのは面に浮かぶものなのだと思うと、何だか少しだけおかしかった。僅かに口元を上げると、未理は続ける。
「ありがとう、公遙。私を生かしてくれて。前は言えなかったけど、今なら言える。ありがとう」
[…………君を助けたのは、ただの気まぐれだよ。しばらく遊んだら後からこうするつもりだったし]
「それでも。気まぐれだろうが遊びだろうが、私があのとき助かったことは変わらない。それに――」
やや緊張しがちに、息を吸い込む。
「――公遙は、私の傷を引き受けてくれたんでしょう?」
見物というのなら、そのときの公遙こそが見物だった。瞼のない目を限界まで見開き、口をぽかんと開いたままにしている。
ああ、なるほど。自分の言葉で他者の反応を引き出すというのはこんな心地なのか。確かに少し、ほんの少しは面白いかもしれない。未理は公遙の気持ちがわかるような気がした。
(悪趣味だとは思うけどね……)
[――……どうして]
どうしてそう思ったのかを問う声ではなかった。これは、どうしてわかったのか、だ。
「当てずっぽう」
ふてぶてしい笑みでそう答える。だが、公遙の表情が納得していないのを見て、付け加える。
「確信があったわけじゃないんだけど。さっきね、見えたの。夕日が当たったあなたの腹、そこに白い大きな傷跡があるのが。……まるで、何か貫通したみたいな痕よね」
[そんな、少し見ただけのことで……]
公遙は呆然と呟く。いつも未理を翻弄してきた公遙がそうなっているさまを見るのは、なかなか痛快だった。
(……何だかんだで私も、人のことは言えないわね)
だが、これで最期なのだ。だったら少しくらい、今まで散々いらいらさせられた相手に意趣返しをしたって罰は当たらない――と思う。
罰が当たるよりも先に、自分があの世へ行ってしまうかもしれないけれど。
そういえば、もし死後の世界があるとしたら、自分は父に会うのだろうか。死後の世界など信じてなどいないけれども仮にあるとするのなら、どうやって父に詫びようか――
と、そこまで考えたところで、未理は視界が開けるのを感じて現実へと戻る。
「……公遙?」
自分の視界を塞いでいた大蛇が、後ずさりしていた。自分をこれから喰らうはずの大蛇が。
[…………ああもう、どうしてだよ、どうして…………]
頭を未理から背けて、ぶつぶつとそんなことを呟いている。
「公遙……?」
未理がおずおずともう一度名を呼ぶと、公遙はぐるりと向き直り、
[どうして、何で、気づいたりするのかなあ!]
やけっぱちな口調だった。公遙がそんな口調で話すのを、未理は初めて聞いたと思った。
[何も知らないまま、僕に喰われればよかったのに‼ 何で、何でさ! 未理の分際で……]
「なっ⁉ 分際って何よ、分際って!」
そんな言い方をされる覚えはない。聞き捨てならないとばかりに、未理は食ってかかった。
「大体、気づいたっていうか、認めたのは公遙の方じゃない!私は適当に思いついたことを言っただけで……」
[適当? はっ、栄泉学院大学異学部に通う俊英が、聞いて呆れるよ]
「それは関係ないでしょう⁉ それとも何よ、異学部の学生は思いつきで物を言ったらいけないっていうの⁉」
[そんな馬鹿みたいなことを言うつもりは毛頭ないさ。ただ、それによってどんなことを言われたとしても、自業自得だね!]
「謂れのない罵詈雑言を浴びせられることが自業自得ですって⁉」
[罵詈雑言? へえ、こっちの世界では親切心からの忠告もそんな風に言われるんだ。知らなかったよ]
「公遙のは親切心じゃなくて、侮蔑心でしょう⁉」
そんな、果てしなく不毛なやり取りが延々と続いた。喉を嗄らした一人と一匹がぜえぜえと息を切らす頃には、すっかり日が沈んでいた。
「……ぜえ、はあ、……ところで、公遙……」
[……はあ、……何さ]
「私のこと…………食べるんじゃなかったの」
[………………何を思い出したように、今さら]
「……有耶無耶にするわけには、いかないでしょう」
未理の指摘は正当だった。
だが、公遙は言葉に詰まったように視線を泳がせる。
「…………どうするの」
[…………僕は、目ざとくて口の減らない人間が、おいしいとは思えない]
「それって……」
口が減らないのはどっちだと思いながらも、未理は公遙の意外な言葉に戸惑った。
だが、だからといってこれからどうすればいいのか。未理も公遙も互いに無言になったそのとき、
ぐう、と。
間の抜けるような、かわいらしいような、そんな音がした。それはとても小さな音だったが、静まり返った空間の中で聞こえるには十分だった。
「…………」
[…………]
両者が無言なのは変わらない。だが、未理は俯いた顔を熟れた林檎のように赤らめ、公遙は何かを堪えるかのようにぶるぶると小刻みに震えていた。
「…………」
[……ぷっ]
公遙の口元から呼気が漏れた瞬間、弾かれたように未理は顔を上げた。
「~~っ、かっ、帰るわよ‼」
これ以上公遙が口から何か、たとえば笑い声とか出す前に帰らなければ。せっかく公遙を一時的とはいえやり込めたのに――
[……くっ、はは、あはははっ!]
「だあっ、もうっ‼ 知らないっ‼」
やけくそに言い放つと、未理はすたすたと歩き出す。後ろから聞こえてくる公遙の笑い声は無理矢理意識から締め出して、奏緒の元へと向かう。奏緒の傍に膝をついた未理は、奏緒が穏やかな寝息を立てているのに安堵する。
(よかった……)
この様子なら、明日また学校で会えるだろう。胸をなでおろしたところで、奏緒のわきに置いてあるものが目に入った。
「これ……」
スーパーのビニール袋に入っていたのは、これでもかというほどに詰め込まれた林檎だった。一人なら、きっと食べきる前に駄目にしてしまうだろう。
でも、二人なら。
「…………」
考えこむような未理の鼻先を、知恵の実の甘い香りがかすめていった。




