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甘いな、と彼は嚥下しながら思った。
彼自身の好みを言うなら、もう少し酸味のある方が好きだ。だが、甘くてもそれはそれで悪くはない。なんでも、ここはこの生物にとってはあまり意味のない部分であるらしい。その上、病気になったときにはあっさり取り去ってしまうとか。
ならば、あらかじめ取ってしまって提供してくれてもいいものを、などと考えたところで彼は苦笑した。そんなことが可能ならば、自分は今ここでこうしていることはないのだ。
無駄な思考を払い除けようと、首を横に振る。さて、さっさと前菜を片づけてしまわなければ。空腹だから前菜でも十分に舌を満足させるが、所詮前菜は前菜でしかない。
ちらりと彼は、横たわる主菜を目の端に捉えて思う。
あれほど自分を焦がれさせた主菜は、果たしてどれほど美味であるのか。きっと舌を蕩けさせ、喉を滑らかに滑り落ち、胃の中で歓喜と共に溶けていくことだろう。そのときにこそようやく、ようやく終わるのだ。気が狂いそうなほどの空腹も、満たされないことによる苛立ちも、胸を焼く主菜への憧憬も。
それに、この晩餐さえ終われば、この町に留まる意味もなくなる。追手がかかっているのはわかっているのに移動しないという愚を犯したのも、全てはこの主菜のせいだったのだから。
そうやってしばし彼は主菜に思いを馳せていたが、ふと食事の手が止まっていたことに気づくと、再び前菜に齧りついた。
しかし、聞こえるはずのない足音が聞こえた気がして、すぐさま顔を上げる。
そんな馬鹿な。この空間には、今自分しかいないはずでは。
だが彼の疑念をよそに、足音は近づき、
「――⁉ 奏緒‼」
名を叫んだ。彼にとっての主菜の名を。
「――⁉ 奏緒‼」
大学の中の道に横たわっていた奏緒を目にしたとき、反射的に未理は叫んでいた。
「奏緒っ! 大丈――」
奏緒の方へと足を向けたそのとき、鼻をかすめた鉄のような異臭に思わず立ち止まる。そして奏緒から少し離れたところにある人物の姿に気づき、
「――ひっ」
一瞬にして、口の端が引きつった。
だって、だって、だって――
「……どうしてこんなところに来たの、貝塚さん。君を呼んだ覚えはないんだけど」
口から血を滴らせ、つい先ほどまで齧りついていた髪の長い女性の体を抱えたまま、彼――蔭枝冬治は言った。
「……ぉ……ぇ」
「さっきから藤倉さんといい、貝塚さんといい、俺の名前をちゃんと呼んでくれないなあ。ま、別にそんなことどうでもいいんだけど」
舌さえも満足に動かせない未理に、表面上は世間話でもするような気楽さで冬治は話しかける。だが、その瞳には、大学で話したときの様な親しみはこもっていない。
「……はぁ。何でいいところで邪魔が入るんだろう。この前だって、強大な気配が近づいてきて食事を中断させられたし。……ああ、そういえば、貝塚さんに聞きたいことがあったんだっけ」
金縛りにあったかのように動けない未理のことなどお構いなしに、冬治は一方的に喋りつづけていたが、そこで不意に未理に目を向け、
「貝塚さんさぁ……何で生きてんの?」
「――ぇ――」
「だってさ、この前俺が腹をぶち抜いたはずじゃん?本当なら生きてるわけないのに、こうして俺の目の前に現れて、人の食事の邪魔をする。……食べ物の恨みは怖いんだよ?」
にんまりと大きく開けた口から、鋭い鮫のような歯が覗く。その歯は当然の如く血と、肉片に塗れていた。
そのおぞましい様をまともに目にした未理は、悲鳴すら上げられない。
「答えられない? ……まあ、いいか。前菜が一つ増えるぐらい、大したことじゃない。さっさと平らげて、主菜に移ればいいだけだ。……何もかも全部喰べてしまえば、この飢えも直に治まる。この間から続いてる厄介なこの感じだってきっと、満腹になれば消え去るさ。――とりあえず、こっちの前菜を食べ終えるまで大人しくしてなよ、貝塚さん?」
その言葉を言い終えると同時に、冬治は赤黒く、先の尖った爪を未理の方へと伸ばす。
その爪が未理の喉元に迫る直前、
「……やあ未理。さっきスーパーで林檎が安かったんだけど、一緒に食べない?」
「な⁉」
弾かれたように冬治は声の主の方を向いた。未理もつられて視線を移す。
スーパーの袋を提げてにこやかに笑う、錦野公遙がそこにいた。




