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「さて、さっさと帰らなくちゃ」


 自分に言い聞かせるようにそう言うと、未理はさっさかと歩き出し、講義室を後にした。

 ただでさえ公遙のせいで睡眠時間が増え、レポートに充てられる時間が減っているのだ。一秒たりとも時間を無駄にはできない。

 しかし、そういうときに限って何かあるのが世の常であり、


「よっ、貝塚。これから帰り?」

「あ、いっきー」


 構内の往来の真中で、すれ違いそうになったのは翔だった。


「いっきーも今日はもう終わりだっけ。お疲れ」


 友好的に応じる声の調子こそいつもと同じだったが、喋る速さは一・五倍だった。翔には悪いが、こっちはレポートで頭がいっぱいなのだ。未理は手短に会話を終わらせようとしていた。


「いんや、これから吹奏楽のコンサートに顔出してくるとこ。友人が入っててさ、聞きに来てくれって頼まれちゃって」

「へー、そうなんだ。でも、吹奏楽サークルって部員少ないんでしょう? コンサートとか大変じゃない?」


 確か、冬治がそう言っていた気がする。

 冬治といえば、先ほど奏緒と一騒動あったが大丈夫だったのだろうか。自分が介入するとかえってややこしくなりそうだし、それに当人たちの問題だろうと思いあの場を後にしてしまったが――


「……部員が少ない?」


 訝しげな翔の声に、未理ははたと我に返る。


「え?う、うん。前、吹奏楽の人からそう聞いたんだけど」

「……いや、そんなはずはない。だってあのサークル、少なくとも八十人はいるぜ。一年だけでも三十人くらいはいるし」

「……え?」


 訝しげな声を上げたのは、今度は未理の方だった。


「本当にそいつ、吹奏楽だったのか?貝塚の聞き間違いじゃねぇの?」

「でも、確かに吹奏楽って――」


 言っていた。だから、同じサークルの友人の非礼を詫びようと未理たちの前に現れたのだ。

 だが、その言葉は、行動は事実だったのか。疑ってみることは十分に可能だった。

なぜなら、冬治が他のサークル員や友人らしき人物と一緒にいるところを実際に目にしたことは、一度もない。


「……ねえ、いっきー。いっきーって吹奏楽に入ってる友だち多い?」


 胸の奥から湧いてくる嫌な予感に必死に蓋をしつつ、未理は尋ねた。


「え、ああ、まあそれなりにはいるか」


 常ならない未理の様子に気づいたのか、どこか緊張した面持ちで翔は答えた。


「じゃあ、吹奏楽に工学部の……蔭枝冬治くんっていう人がいるかどうか、わかる?」


 できることなら自分の勘違いであってほしいと、祈りながら未理は問いかけた。

 しかし、


「蔭枝? ……いや、少なくとも一年にはいない。俺、前に一回サークルの練習見に行ってそこの一年全員と話したんだが、太田はいても蔭枝なんて奴はいなかったぜ」


 翔の口から返ってきたのは、未理の疑念を裏付ける言葉だった。


「……ありがと、いっきー」


 未理の顔からは、一切の感情が消えていた。翔に礼を言うとすぐに、未理は駆け出した。背後から呼びとめる翔の声が聞こえた気がしたが、それどころではない。


(奏緒……‼)


 走りながら携帯を取り出し、すぐさま電話帳から奏緒の番号を呼び出す。呼び出し音の音すらもどかしい。


(お願い、お願いだから出て――)


 ガチャ


「かなっ」

『ただ今、電源が切られているか、電波の届かないところに――』

 すぐに切り、リダイヤルする。


『お客様のお掛けになった――』


 リダイヤル。


『もう一度お掛け直し――』


 リダイヤル。


『電話に出ることが――』

「何でよ……っ」


 走りながらリダイヤルを繰り返すうち、未理は最後に奏緒と冬治を目にした場所へとたどり着いていた。だが、二人を目撃したのはもう二時間以上も前だ。当然ながら、二人の姿は影も形もなかった。


「奏緒……っ!」


 絶望が襲いかかって来る。だが、こんなところで立ち止まる訳にはいかない。握りしめていた携帯を開き、未理はメールを打つ。


 奏緒、今どこにいるの?

 もしこのメールを見たら、すぐに返信するか電話して。お願い。


 用件だけを手短に打ち込み、送信する。

 何もかもが自分の思い違いで、本当に奏緒はたまたま電話に出られなかっただけであってほしい。けれど、冬治は吹奏楽サークルに所属してなどおらず、その不審な冬治と奏緒が一緒にいたという事実が、否応なしに未理の不安を煽る。

 奏緒の返信を待つ間も惜しく、未理はまたもや走り出した。




 チャイムをひたすら連打する。この前も同じことをした気はするが、この前とは決定的に異なるのは、確固たる目的意識があっての行動だということだ。


(いて、奏緒……‼)


 内心で安否を叫びながら、未理は奏緒の部屋のチャイムを鳴らし続けた。『そんなに鳴らさなくても聞こえるに決まってるでしょう。まったく、未理ってば奇行にでも目覚めたのかしら』などと不機嫌そうに言いながら、奏緒が目の前のドアを開けて出てくるのを切望しながら。

 しかし、眼前のドアは沈黙を保ったまま、未理の前方を塞いでいた。


「どうしてよ、どうして……」


 悲痛な声を上げて、未理はその場にへたり込んだ。

 大学内で奏緒の行きそうなところは粗方探した。図書館も、食堂も、購買も。一縷の望みをかけて奏緒の部屋の前までやってきたが、この通り奏緒のいる気配はない。


「……どうしよう」


 警察か、それとも大学か。まだ奏緒と別れて数時間しか経過していないのだから、警察よりは大学に先に連絡した方がいいのかもしれない。吹奏楽サークル員を騙る青年に、友人が連れ去られたかもしれないと。それから大学の指示に従って、構内放送で呼び出すなり、警察に連絡するなりすれば。

 だが、足に力が入らない。立ち上がる気力が湧いてこない。こうしている間にも、奏緒が危険な目に遭っているのかもしれないのに。


(……だめ、奏緒に何かあったらって考えるだけで……)


 震える手を、必死にドアノブへと伸ばす。手からドアノブがすり抜けるのを何度も繰り返した後ようやくドアノブを掴み、そこを支点にして立ち上がった。


「……行かなきゃ」


 とりあえず、大学の事務へ。そう考え、震える足を鼓舞しながら、アパートの階段を下り――


「――……え?」


 目の前に広がっているのは、先ほどまでと何も変わらない風景だ。学生アパートの群が立ち並び、そして広い道路のある、そんな風景。

 だが、消えていた。

 確かにいたはずの、人が。車が。一つ残らず消失していた。


「……うそ」


 間抜けな声がこぼれ落ちた。だが、目をこすってみても、頬を叩いてみても、目に映る光景は姿を変えない。

(何なの、これ……)


 まだ六時にもならない時間だ。いや、たとえ深夜だったとしても、人通りも車通りも多い奏緒の家付近では、絶対にこのようなことなど起こりうるはずがない。


(……そうだ、奏緒‼)


 周囲の様子に呆然としていたが、今自分が考えなければならないのは奏緒のことだ。だが、この異様な町の大学事務に行ったところで、果たして人がいるのか。


「……でも、ここでこうして突っ立ってても、何にもならない……」


 自分に言い聞かせるように呟き、未理は恐る恐る一歩を踏み出した。


(一刻も早くこの変な町を出て、奏緒を助けないと……!)


 この町が一体何か、どうして自分はこんなところへ入り込んでしまったのかなど気になることは多いが、今は奏緒が最優先だ。鬼が出るか蛇が出るかと周囲に油断なく目を配りながら、未理はひとまず大学を目指し歩き出した。



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