13
「……えっと、その……」
「ああ、うん……」
あの後、逃げるようにその場を後にした奏緒と冬治だったが、お互いに何も言い出せずにいた。いや、言い出す言葉が見つからないと言うべきか。
妙な沈黙が場を支配するかと思われたそのとき、
「ごめん‼」
そう言って突然頭を下げたのは、冬治だった。
「え……ごめん、って、何が」
いきなりの謝罪に、奏緒は戸惑いながら尋ねた。
「その、さっき藤倉さんを呼び捨てにしたから」
「……そんなこと?」
拍子抜けしたように、奏緒は思わず問い返す。
しかし冬治の表情は硬いままだ。
「だって、まだ会ってそんなに経ってないのに呼び捨てにするのって悪い気がするから……」
冬治は本当に心からそう言っているようだった。
はあ、と奏緒は大げさに溜息をつき、肩をすくめると、
「何て言うか、蔭枝くんって……変なところで律義よね。この前だって、友人の無礼をお詫びしたいとか言っていたし」
「藤倉さんから見たら律儀すぎるのかもしれないけど、それが俺なんだよ。しょうがないし、変われないよ」
「………………」
実直にそう言う冬治を、奏緒はしばし無言で見つめていたが、
「えい」
唐突に冬治の額を指で小突いた。要するにデコピンである。
「っ⁉ ……って藤倉さん……?」
冬治は痛いというより単純に奏緒の行動に驚いたようだ。もちろん奏緒は全然力を入れていなかったし、仮に力を入れていたところで奏緒の細腕では大したことがないに決まっているので、痛くないのは当然だったが。
「……あのねぇ、蔭枝くん。ここはあなた、私に怒ったっていい場面じゃないかしら」
「怒るって……何で? 別に軽くデコピンされたぐらいじゃ怒らないけど」
「違うわよ! デコピンじゃなくて、さっき私が喚いたせいで困らせたし、それに変な目で周りから見られたでしょう。だからそのことで怒っていいって言ってるのよ!」
思わず声を荒げた奏緒だが、冬治の呆気にとられた顔にはっとして口元を押さえる。
「……と、とととにかく。その……怒りなさいよ」
「……こ、こらー……?」
どう聞いても棒読みだった。
「…………」
「…………」
「…………何をやってるのかしらね、私たち」
「いや、藤倉さんがそれを言っちゃ……」
「何か言ったかしら?」
思わずもれた冬治の本音に対し、奏緒はじっとりとした視線で答えた。
「あ、いや、その」
「なんてね。冗談よ」
慌てる冬治に、奏緒はくすりと笑う。が、すぐにその表情に影が落ちる。
「……この前から本当、私何やってるのかしら。みっともないところばかり蔭枝くんに見せてばかりで」
「そんなことないよ!」
冬治は奏緒の言葉に、即座に首を振り、
「藤倉さんはみっともなくなんかないよ。むしろ……」
「むしろ……何?」
口ごもった冬治の言葉が気になり、奏緒は先を促す。
「……みっともないのは俺の方なんじゃないかな」
「え?」
奏緒は思わず目を見張る。
「だって、藤倉さんがみっともないと思うようなところを俺に見せるってことはさ。俺にそうさせる何かがあるってことなんじゃないかって」
「…………」
「だから……」
「……馬鹿?」
身も蓋もなく、奏緒は冬治の言葉を遮った。
「へ?」
「馬鹿じゃないの。さっきから私をかばうこと言ってばかりで。私に呆れたって、見捨てたっていいはずなのに。……この前蔭枝くんは私のこと不器用だとか言ってたけど、蔭枝くんの方こそ不器用よ。不器用で、馬鹿正直よ。どうしてそんなに……」
泣きそうな顔を見せたくなくて俯く。
「私に優しいのよ……」
奏緒をかばおうとしたり、奏緒の望むことをしようとしたり。冬治は、今までずっと奏緒に優しかった。その優しさに甘えてしまいたいという思いは、奏緒の中に確かに存在した。
けれども、奏緒はその思いに身を委ねることはしない。できない。
今まで根付いてきた人間不信が原因、ではない。奏緒が冬治に甘えきれないのは、意地と自律と――そして。
「……私ね。人が隠したがってることを聞きたくなる所があるみたいなのよ。悪い癖だとは思うのだけれど、今日自覚したばかりだからかしら、ちょっとまだ自分でも制御できないみたいね」
「……? ……えーと……」
藪から棒に始まった奏緒の話に冬治は呆気にとられている様子だったが、奏緒は構わず続ける。
「……だから、言い訳にしかならないかもしれないけれど、言っておくわ。『蔭枝くんが言いたくないのなら、言わなくていい』。……でも、私は知りたい。すごく自分勝手なのはわかってるけど、……言うわ」
そこで奏緒は一度息を吸い込み、吐き出す。
そして、言った。
「……蔭枝くん。あなた……何か悩んでることでもあるの?」
「――⁉」
冬治の顔に、目に見えて狼狽が浮かんだ。
その様子に、奏緒はますます確信を深める。
「この前、蔭枝くんは言っていたわ。『それなのに、俺は』って。『俺は』……何なの?」
「それ、は……」
「さっきも言ったけれど、答えたくなければ答えなくていい。人の心に土足で踏み込むような真似をしてるのはわかってる。だから、言えないのなら言えないとだけ言ってほしいの。……でも、少しでも蔭枝くんに誰かに話してしまいたい気持ちがあるのなら、話してほしい。私じゃ力不足かもしれないけれど」
「そんなことない!」
「……そういうことははっきり言ってくれるのね」
冬治の強い否定に、奏緒は喜びと哀しみの入り混じったような微笑を浮かべた。
その表情を見た冬治の顔に、痛みをこらえるかのような苦悩が滲む。冬治はしばらくの間、じっと懊悩していたようだったが、やがて、
「…………ごめん。藤倉さんが力不足だからだとか、そういうわけじゃ全然ないんだけど」
消え入るような声で言った。
「力不足でないと思ってくれてても、話せないことなのね。……わかったわ。ごめんなさい、出しゃばるような真似をしてしまって」
「……ごめん」
「いいのよ、私が勝手に知りたかっただけだもの。……本当に、ごめんなさいね」
奏緒は冬治に背を向け、歩き出そうとした。
「待って!」
「何?」
冬治に呼び止められ、振り返る。
「藤倉さんはどうして……どうして俺をそういう風に心配してくれたんだ。だって、まだ少ししか話したことないのに」
「……」
冬治の言葉に、奏緒は少しの間考え込む素振りを見せたが、
「それは、蔭枝くんと同じよ」
「え?」
「蔭枝くんだって、ほとんど話したことのない私のことを心配してくれて、この前だって、……その、私の話に付き合ってくれたじゃない」
先日のことを思い返すと、恥ずかしさで顔から火が上がりそうだ。
思わず早口になりながら、奏緒は言う。
「だから、きっとそれと同じよ。……ほっとけないのよ、多分ね」
「…………」
「そういうことだから、じゃ、じゃあね」
何事か思案するように無表情になった冬治の返事を聞かず、奏緒は駆け足気味になりながらその場を去ろうとする。
だが、
「…………違う」
「……え?」
地の底から響くようなその声を耳にした瞬間。
両足が、ぴたりと動きを止めた。
火照っていた顔が、一瞬で冷えた。
それどころか、全身に寒気が走る。
「……同じなんかじゃ、ない……」
「……お、お、え……」
何を震えているのだろう。さっきまで話していた「彼」の声なのに。
頭ではそう思うのに、奏緒の震えは治まらない。
「――藤倉さん」
「ひ」
肩を掴まれ、奏緒の口から小さな悲鳴がもれた。無理もない。なぜなら、奏緒の方にかかるその手には、赤黒い爪が生えていたのだから。
「俺の悩みのわけ――教えてあげようか」
そう言いながら奏緒の瞳を覗き込む彼の口に、ぞろりと生え揃った牙があるのを目にしたとき。
奏緒の意識は、その口内へと落ちた。




