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12

 初めて公遙と夕食を食べてから、二日後の大学の休憩時間。

 未理は次の授業の準備をしようと、鞄の中を覗き込んでいた。

 英語のテキストに、電子辞書。あとは板書を写すのに必要なルーズリーフを取り出せばいいか。


「ねえ、未理」

「ん?」


 隣の席に座っている奏緒から声をかけられ、未理は顔を上げた。


「ちょっとこの前から気になってることがあるんだけど、聞いてもいいかしら」


 いいかしらと言ってはいるものの、許可を求めているというよりは、聞くことが確定事項であるかのような口調だった。


「何?」

「未理、最近料理をしてるときに何か失敗したりした?」

「え?ううん、失敗なんてしてないけど」


 むしろ味つけがうまくいくことが多く、成功しているくらいだ。それに、もともと未理は料理が不得手というわけではない。

 唐突な質問の意図が掴めず、未理は訝しげに眉をひそめた。


「じゃあ、最近家具を買って組み立てるときに失敗した?もしくは裁縫をしたときにうっかりしてたとか」

「全然そんなことはしてないけど……どうして?」

「そう……料理でも家具でも裁縫でもないのね……」


 未理の問いかけには答えず、独り言を言うように呟く。

 軽く俯き、奏緒は少しの間思案していたようだったが、「単刀直入に聞くしかないわね」と呟くと、未理の顔を正面から見据えて言った。


「一切の遠慮なしに聞くわ。未理、その左手の絆創膏、どうしたの?」

「へっ⁉」


 完全な不意打ちだった。表情や声色を整える間もない。


「それは,その、ちょっと怪我しちゃって……」


 慌てて言い繕うとするが、奏緒は追及の手を緩めない。


「ちょっとって言うけど、月曜から貼っていて、今日で三日目よ。それだけ貼っておかなきゃいけないんだったら、結構深い傷なんじゃないの。でも、それだったら意識していてもよさそうなものなのに、最近怪我した経験があるかを確かめたら覚えが無いみたいに言うし。……ねえ未理、あなた私に隠し事してるでしょう」

「かっ、隠し事ってそんなこと……」


 動揺がもろに声に出る。このままではまずい。何とかしてごまかさなくては。


「やだ、奏緒ってば探偵の真似事でもしてるの?こんなの本当に大したことないのに。ただ、ちょっと水仕事のとき染みるから貼ってるだけで」


 茶化すような調子を交えつつ、軽く笑って手を振る。

 だが、奏緒の視線はすっと細められ、絆創膏を捉えて放さない。


「……じゃあ、その絆創膏はそのうち、ひょっとしたら明日にでも剥がせるかもしれないのね。大したことのない傷だものね」

「そっ、それは……」


 言葉尻をつかまえられ、未理は詰まる。

 その一瞬を奏緒は見逃さない。


「――隙ありね」


 電光石火の早業で、奏緒は未理の左手の薬指に触れた。その触れ方は未理が深い傷を負った可能性に配慮してか優しく撫でるようだったが、絆創膏の下に異物が隠されていることを感じ取るには十分だった。


「何かしら、この感じ……硬い……この形……指輪?」

「――っ‼ そ、そっ、それは……その、ええと」


 しどろもどろになる未理に、奏緒は一切容赦せず問い詰める。


「未理。どうして怪我をしているはずのところに指輪なんかが嵌っていて、しかもそれを隠しているのか……話してくれるわよね?」




 完全に奏緒に追い詰められた未理は、とうとう絆創膏を剥がさざるを得なくなった。もともとこんな処置は一時しのぎに過ぎないとわかっていたことではあったが、奏緒の勘の鋭さには舌を巻く思いだった。


「えっと、ほら、三丁目に雑貨屋があるじゃない。そこに日曜に行ったらこの指輪が気に入って、試しに嵌めてみたら抜けなくなってしまって。それで、買わなきゃいけなくなったから買ったの。でも、そんな話するのちょっと恥ずかしくて、話しにくくて。だから隠してたっていうか……」


 とっさに考えた作り話をしながら、こんな説明で奏緒が納得するはずがないと未理は思う。

 案の定、奏緒は疑惑に満ちた眼差しを向けている。


「いくら恥ずかしいとはいっても、絆創膏を貼ってまで指輪を隠すような真似をするのかしらね」

「それは、その、この指って薬指でしょう?誤解を招きそうかなって……」

「それじゃあどんな誤解を招きそうだと思ったのか、具体的かつ手短に私に話してくれるかしら」

「え⁉ それはほら…………エンゲージリングとか…………」


 何となく日本語で言うのがはばかられて英語で言ってみたが、それでも顔が熱くなるのを感じる。

 未理の頬がほんのり朱に染まったのを見て得心したのか、奏緒はため息交じりに口を開く。


「……はあ。まったく、正直に言えばいいでしょう。彼氏に買ってもらったって」

「違うってば‼ 彼氏なんて、絶対、一二〇パーセント、天地がひっくり返ったとしてもありえない! あんな、あんな奴が彼氏だなんて――」

「男からもらったってことは認めるのね」


 むきになって否定する未理に、間髪入れず奏緒の冷静な指摘が入った。


「っ!!! そ、そ、それは、言葉のあやで、いや、そうじゃなくて、その、何て言えば……」

「何て言うも何も、さっき未理は第三者の存在に言及したのよ。彼氏にしたくない『あんな奴』についてね。なら、少なくとも男がらみの何かがあったってことでしょう。でも、そこまで感情的になるなんて珍しいわね。未理をそうまでさせる『あんな奴』を、この目で見てみたいものだわ」

「……見なくていい」


 奏緒に公遙を引き合わせれば、奴が何を言い出すかたまったものではない。半目でにやける公遙の姿が脳裏に浮かび、未理はうんざりした面持ちになった。


「あら、否定するのはやめたのね」

「だって、一応間違ってはいないし。彼氏云々は全力で否定するけど」


 言い繕うのをやめた未理に、やれやれとばかりに奏緒は矛を収めた。


「本当は、彼氏にもらったとかそんなことはどうでもいいのよ。……ただ、未理が自分から本当のことを言ってくれなかったっていうのが、少し残念なだけで」


 口では少しと言いながらも、奏緒の面差しは憂愁を帯びているように未理の目には映った。


「……ごめん、奏緒」


あの夜の出来事や公遙についての詳細を言うことはできなくても、言えないなら言えないとだけ言えばよかったのだ。絆創膏を貼ったり、言い訳したりするという小細工をせずに。

 奏緒にそんな表情をさせたことを、未理は心からすまないと思った。


「別に、そんなに深刻に謝らないでいいのに。未理にだって言いたくない事情はあるでしょうし。でも……」


 重くなりかけた空気を吹き飛ばそうと、冗談めかして付け加える。


「彼女にそんな真っ黒な指輪を嵌めようとするなんて、未理の彼氏は悪趣味よね」

「だから、違うって言ったじゃない。もう、そんなに彼氏、彼氏って。奏緒こそ、彼氏ができたりしたんじゃないの?もしくは気になる人ができたとか」


 からかうように言ってみる。

 もちろん冗談のつもりだったが、奏緒の反応は未理の予想を裏切るものだった。

「⁉ き、きき気になる人って誰かしら。ま、まったくもって見当がつかないわ、宇宙の広さぐらい」


 明らかに不自然なくらいどもっている。それに視線も明後日の方向を向いている。


「……奏緒」


 もしかして何か心当たりがあるのか。

 そう問おうとしたとき、授業開始のチャイムの音と共に教員が入ってきた。抑えがたい好奇心を覚えつつも、授業に集中しようと未理は奏緒から目を外した。


 そんな未理の隣で、奏緒が密かにほっと息をついた。




 授業が終わり、未理と奏緒は講義棟の外を歩いていた。


「これで私は終わりだけど、未理は次の時間空いててその次が授業よね。どうやって時間を潰すのかしら」


 さっきのことは聞いてくれるなと無言のオーラを出しながら、奏緒が訊いてくる。


「……うーん、図書館でレポートに使う参考文献を探してみようって思ってる。それで少しでもレポートが進めばいいかな」


未理は尋ねたい衝動を密かにこらえつつ、質問にだけ答えた。


「あの鷹薬に目をつけられてるんだものね。……大変ね、未理」

「普段は奏緒の方が目をつけられてると思うけど……あれ?」


 どんよりと曇った空の下、次の授業へと向かう生徒と帰宅する生徒が行き交っている。

 その中に見覚えのある姿を見つけて、未理は声をかけた。


「蔭枝くん! 今帰り?」


 冬治の名を聞いた途端、隣を歩く奏緒がびくっと身体を強張らせたのを未理は感知した。

 だが、次の瞬間そんなことは未理の頭から吹き飛んだ。


「え? ――⁉ 君、は……」


 振り返った冬治は、信じられないものを見たような目で凝視していた。

 奏緒ではなく、その隣を歩く未理を。


「お、蔭枝くん……?」


 そんな視線を向けられるいわれはなく、未理は戸惑う。


「……えっと、どうしたの?」


 冬治は答えない。時が止まってしまったかのように、ただひたすら未理を見つめるだけだ。

 穴が空いてしまうのではないかというほどの視線にたじろぎ、未理は思わず一歩後ずさり――


「……そんなに未理ばかり見るなんて、何かあったのかしら?蔭枝くん」


 じゃり、と未理の靴が地面と擦れた音をたてたとき、奏緒が問いかけた。心なしか、むっとした口調で。

 その声に冬治ははたと我に返ったのか、


「……あ、いや、ごめん、ぼーっとしてたときに声かけられて、ちょっとびっくりしたんだ。驚かせちゃったかな、貝塚さん」


 何でもない顔をして、そう言った。


「……ううん、別に大丈夫だけど……」


 だが言葉とは裏腹に、未理は先ほどの冬治の目が忘れられないでいた。

 あの目は、「ちょっとびっくり」なんてものではなかった。

 あれは、まるで。

 まるで、墓場から死人が甦ったのを見たような。


「ふうん、そうなの。私はてっきり、蔭枝くんが未理の指輪の彼なんじゃないかって思ったんだけど」

「って、ちょっと、蒸し返さないでよ」


 半目で意地悪く言う奏緒に、未理は渋面になった。


「え? 指輪がどうしたって?」


 奏緒の言葉に興味を示したのか、冬治が身を乗り出してきた。


「別に、たいしたことじゃ……」

「そうね、たいしたことじゃないわね。指輪を貰う相手がいることくらい」

「奏緒っ」

「あら、本当のことでしょう」


 思わず睨むような目つきで奏緒を見たが、当人はどこ吹く風だ。


「へえ、貝塚さんって指輪くれるような彼氏いるんだ。すごいなあ、何て言うか、青春してるね」

「そうなのよ、私にも内緒でこの子ったらいつの間にか相手を見つけてたみたいで。まだ入学して一カ月くらいだっていうのにね」

「藤倉さんにも内緒? それはまずいね、友達に隠し事しちゃさ」

「ええ。だから未理にこれから指輪の贈り主について、差し支えない範囲でいいから聞こうと思ってるの」

「ちょっと、勝手にそんな……」


 奏緒の調子に冬治が乗ってきて、未理を置いて会話が進んでいたが、こればかりは聞き捨てならない。

 そう思い口をはさんだ未理だったが、奏緒はけろりとした様子で、


「あら、『差し支えない範囲』でいいのよ。たとえば相手の好きな食べ物は何だとか、背の高さはどれくらいだとか、出身地はどこだとか、この大学の生徒なのかそうでないのか、年齢とか生年月日とか、名前とかね」

「どんどん具体的になってるじゃない!」


 しかも背の高さ以外は言えそうもない。好きな食べ物や出身地など論外だ。


「いや、でも俺も気になるかも。貝塚さんがどうやってその人と出会ったのかとか。今後の人生の参考にしたいな」

「蔭枝くんまで奏緒に乗っかって。ていうか、参考って何?」

「そりゃ、今後好きな人ができたときの参考に。…………それに俺、貝塚さんとももうちょっと話してみたかったんだ」

「…………え?」


 未理と話したいと言ったその言葉に、今までとどこか違う響きを感じて冬治を見る。明るい表情を浮かべるその顔は、何らおかしいものではない。

 けれど、瞳の奥に底知れない影が覗いたのは気のせいだろうか。


「おおえだ、くん……?」

「最近のこととか、いろいろと、できる限りじっくり、詳しく聞いてみたいんだ」


 細かく区切りながら、まるで言い含めるかのような口調で冬治は言う。そしてじり、と、未理との距離を一歩詰めてきた。


「――……ぁ」


 喉が渇く。講義の後にペットボトルの緑茶を口に含んだはずなのに、変だ。

 これと似た感じを、つい最近どこかで――


「……そう。蔭枝くんは、未理と話がしたいのね」


 未理の思考を遮った、凍てつくような声音は奏緒のものだった。


「……藤倉さん?」


 奏緒の様子にただならないものを感じたのだろう。未理と会話していたことなど忘れたように、冬治が心配そうに奏緒の方を向いた。


「私じゃなくて、未理と話したいのよね。そうよね。私みたいなちびで何考えてるかわからない陰気な子より、未理みたいなしっかり者でさっぱりした子の方がいいわよね。当然よね」


 無理して笑うように口元を不自然に歪めながら、奏緒は言った。


「奏緒、何言って……」

「そうよ。話していて楽しいのだって、一緒にいて楽しいのだって、頼りになるのだって、結局いつも私じゃない誰かなのよ。……わかっていたことじゃない」


 普段と変わらず、淡々とした口調で奏緒は話す。しかし、口から紡ぎ出される言の葉の端々に、隠しきれない感情の色が滲んでいた。


「藤倉さん、俺は、そんな――」


 焦った様子の冬治の言葉を聞かず、奏緒は駆け出した。


「待って‼」


 叫び、冬治は奏緒の後を追って走り出す。見るからに歩幅も瞬発力も奏緒より優れていそうな冬治は、すぐに奏緒に追いついた。


「藤倉さん、俺は――」

「嫌っ、放して!」


 腕を掴んだ冬治から逃れようと、奏緒は身をよじる。


「蔭枝くんは未理がいいんでしょう⁉ だったら私のことなんかほっとけばいいじゃないの‼」

「⁉ そんな! ほっとけないって言ったじゃないか‼」

「嘘よ!だってそんなの、誰にでも言ってるんでしょう⁉ だって、誰とでも話したいんでしょう⁉ 私じゃ、私じゃなくても――」

「聞けって藤倉‼‼」


 奏緒の動きが、そして、二人をなす術なく見ていた未理の呼吸が止まった。


「俺は、軽い気持ちでああいうことを言ったんじゃない」

「…………」

「俺がほっとけないって思うのは、……藤倉さんだけだから」

「それは……」


 奏緒の瞳に、動揺がよぎる。それだけではなく、顔一面にぱっと朱の花が広がるように赤くなるのを、未理は確かに見た。


「……それは……どういう……」

「ヒュー、見てるこっちが恥ずかしいなぁ、お二人さんよ‼」


 唐突に、軽薄そうな声が奏緒の声を遮った。


「な、何よ……!」


 聞き覚えのない声に、奏緒は思わず振り返る。


「な⁉」


 見渡すと、周囲の学生ほぼ全員が奏緒たちを見ていた。しかも皆、奏緒が視線を向けるとどこか気恥ずかしそうに目を逸らす。

 おそらく先刻とは違う意味で、奏緒の顔が一気に赤くなった。



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