あなたとわたし
風は左側から吹いてきた。
頬を撫でたその風はほんのり甘く。
視線を向けると、窓枠に体を預けている黒髪の女性。私の好きな人がそこにいた。ニヒルに笑う茜先輩は、軽やかに踊るように、歌うように、
「書けた?」
と、問いかける。
――ああ、だからか。
納得した私は、できるだけ自然に伸びをする。背筋を駆け上がる幸せに溺れるように、おどけるフリをして舌を出した。
「すみません、全然です」
ダメじゃない、と言いながら、言葉とは裏腹に、甘やかな動きで先輩は近くの椅子を引き寄せ座り、私の肩に頭を乗せてきた。
人が正気を喪失するのは、人の存在が強まるときだ。特に、好きな人の場合は。
さっきの比じゃないくらいの刺激で、頭がクラクラする。ふざけて酒を嘗めた時のように。
「ん? なーに?」
「え、えと……あっ、そだ! 進路相談! どうだったんですか!」
今日はそれで部活遅れるからって、昨日先輩はそう言っていた。
「んー……ああ、そんなのもあったわねー」
雑な回転をかけつつねじ込むように頭を押しつけてくる先輩。ホント、もうやめてください。死んでしまいそうです。濃すぎて。
「あ、でも、先輩、希望の欄三つとも作家って書いてましたし、やっぱりもめました?」
ピタリと、先輩の動きが止まった。
……あれ、マズった?
恐る恐る、視線を動かす。先輩の後頭部が、ゆっくりと私から離れていく。長い綺麗な黒髪が、少し、はらりと、私の肩から滑り落ちた。
そして、私に背を向けて椅子に体育座りした先輩は、こう言い放った。
「……それね。作家になるって話、やっぱやめたわ」
「は、い?」
今なんと。
「やめるって、どういうことですか?」
思わず立ち上がっていた。
作家になるのをやめる。それはつまり、茜先輩はもう小説を書かないってこと? そうなるともう、茜先輩のお話は、読めないってこと?
「――そんなの、っ!」
次の言葉が出る前に、振り返った先輩が、手のひらを私に向けてきた。
「ちょ、ちょっと待って」
言われて、出掛かっていた言葉を飲み込むしかない私。
ちょっとというのが一体どれくらいの長さなのか、一分なのか五分なのか、もしかして十分? それとも一時間?
「あ、あのね……」
「は、はいっ!」
思考が深みにはまらないうちに、先輩の声が耳に届いた。
「私、編集者になろうと、そう思うのよ」
手で顔がよく見えない。けど、明らかに言葉の歯切れが悪い。
というか、
「え? なんですかいきなり……編集?」
それって、書く人じゃなくて、えと……、
「……取り立てに来る人?」
「あのね、借金じゃないんだから」
力なく、ダラリと垂れる先輩の手。
やれやれ、と言うように左右に揺れる小さな顔は、呆れているように見える。けど、時折髪の隙間から見え隠れする耳は、ほんのり赤みが残っていた。
「そうじゃなくてね……私ね、やりたいことができたのよ」
「編集、ですか?」
首を傾げる私に、違うわ、と茜先輩は言う。
「それはなりたい職業。やりたいことじゃないわ」
「じゃあ、編集者になって、なにがしたいんですか?」
ここで、再びストップがかかった。
向こうを向いている先輩の、今度ははっきりと、秋の夕空よりも真っ赤な耳が、顔を出している。
そして、
「……その、ね。好きな人の作品をね……一番に、読みたいのよ」
ああ、と、私の頭はグルグル回転し始めた。
「あー……確かに、編集の特権ですもんねっ、それ」
お菓子を作ってるとき、味見と称して出来立てを口に放り込むような、そんな、どこか背徳的にも感じられる魅力。
「い、いいですね編集っ。私も、ちょっと興味が沸いてきましたよ」
けど、そんなことじゃなくて、そんなことどうでもよくて、
「っていうか先輩、どうしたんですか急に。最近部活来ても全然書かないと思ったら」
先輩が私に教えてくれた光を、先輩は追いかけないと知ったことへの、驚きが、焦りが、苛立ちが、
「私、一人じゃ、一人で書いてても、楽しくなくて……というか、書けなくて……」
――あれ、前が見えないや。
「ちょ、どう、どうして泣いてるのっ!」
茜先輩の声が近付いてくる。足下が暗くなって、茜先輩の匂いが、私の頬に、触れる。
「ど、どうしてって……」
そりゃあ、
「先輩と……茜先輩と、ずっと一緒にいたいからっ、茜、先輩の小説、もっとずっと、読みだいがらっ!」
顔を上げると、先輩の顔が滲んで見えた。
先輩が、目と鼻の先にいる。
「そ、そんなの……」
困惑する先輩の息が、湿り気を帯びていた。
「……迷惑、だったんですか……?」
何を、過去形にしてるんだ、私は。
目尻を拭って、先輩を見る。
すると、
「……そう、ね。正直、迷惑だったわ」
心臓が、止まるかと思った。いや、確かに一瞬、止まった。
「っ! す、すみません、私――」
逃げるように背を向ける私の腕を、私より細い腕が力強く掴んできた。
――どうしてっ、
ダメだ、振り向いちゃ。
「だって、考えてもみてよ。夢を、ぶち壊されたのよ?」
けれど、そう言う声は、どこか楽しそうで。
「え……?」
「初めてあなたの小説を読んだとき、『こりゃダメだ。勝てっこない』って思った。しかもそれが、処女作だって言うじゃない」
……何を言っているんだろう。まだ頭がぐわんぐわん言ってて、理解が、追いつかない。
「だからね、決めたのよ。私は、もう書かないって」
――それって、
勢いよく振り返る。首の神経が弾けるように痛んだけど、気にしない。
「それじゃ、私が悪いんじゃないですかっ! 先輩のやりたいことを、やりたかったことをっ! 私がっ!」
出会わなければ、出会ってさえいなければ!
けれど、それなのに、先輩は、まだ私に優しい声色で、
「そうじゃない。そうじゃないってば」
「じゃあ何だって言うんですか!」
先輩は、両手で私の手を包むと、もう一度、あの言葉を口にした。
「好きな人の作品をね、一番に読みたいの」
ようやく、私は今度こそ本当に、その意味を理解した。
「好きな……人……それって」
大きく頷く先輩。その瞬間、私はもう一つ気付いた。
――先輩も、泣いてる。
「だからね、迷惑かけられた分、今度は私が迷惑かける」
先輩は、片手で目尻を拭うと、歯を見せる、満面の笑みで、
「これからは、私が担当編集よ。締め切りは必ず守ってもらうわ。もちろんちゃんと私が満足できる作品を書くの。例えどこに逃げようと、絶対に、絶対に逃がさないわ。世界の果てへでも……取り立てに行ってやるんだからっ!」
最後、先輩は少し考えてから、私にビシっと指を突きつけてきた。
その姿が、仕草が、とても可愛くて、
「……ふ、はは……」
「なっ、なによ、急に、笑ったりして……」
膨れる先輩は、これはこれでずっと見ていたくもあったけど、
「いえ、ちょっと……」
もう一度、目尻を拭って、今度は先輩の手を両手で包む。
「茜先輩」
少し顔を近付けすぎたのか、先輩がちょっと体を反らした。
「な、なに?」
けど、今度は私が、
「私も、自分が書いた作品は、好きな人に一番に読んでほしいです」
「――っ!」
みるみるうちに顔が赤くなっていく先輩。いつの間にか日が落ちていたけど、それでも、はっきりとわかるくらいに。
「先輩、外、真っ暗で誰もいませんよ」
言葉につられて、外を見る先輩。でも、首がせわしなく動いてて、本当に見てるのか、ただ視線がそっちを向いているだけなのかわからない。
「え、あ、そ、そろそろ帰らないといけない? 家、連絡しなくて大丈夫?」
正しいけれど、そうじゃない答えが返ってきた。
だから、
「違いますよ先輩。誰もいないってことは、誰も見てないってことです」
「へっ……? あ……!」
ようやく気付いた様子。けど、もう遅い。
――今くらい、いいよね。
ゆっくりと、先輩を引き寄せる。
「これは、契約の判子だと思ってください」
もう絶対に、手を離さないように。
この人が、私の物だっていう証を――