勇者さまとくま退治
目を閉じると見えるのは、暗闇。自分の気管を空気が行ったり来たりしている音と、前を走る少女の早い呼吸が真っ黒の中で近づいたり離れたりしているようで。
もう走れないのに。こけないようにを繰り返す足は、痛くて、怠くて。何もしたくなくなるのに。握られた手が、湿った掌が、硬い親指が、それを許さない。
たくさんたくさん歩いたのに。たくさんたくさん走ったのに。終わりが見えない。
「へぇー、お前が勇者さまのお供ねぇ……、人は見かけによらねぇっつぅことか?」
「そんなこと……ないです」
情報収集にはまず酒場。そんなこと言い始めたのはどこのどいつだろうか。酒と煙草の臭いにむせっかえるそこは、ぼくの苦手な場所の一つだった。
真昼間だっていうのに半開きの窓から射す光は途中で途切れていて、カウンターの側はランプの灯りが吐息に合わせてゆらりゆらりと点滅していた。そんなことに気を取られてる場合じゃないってのに、琥珀色の灯りと暗闇の境界が行ったり来たりを繰り返しているのを、気が付くと目で追っている。
「それで、えーっと……、最近変わったこととか、困ったこととか……えっと……」
「お前何やってんだ? そうだな、貧弱そうだし魔術師か?」
「いえ、一応治癒術師を……じゃなくて! なんか噂とか……って、いた、いで、すって……っ」
酒場の店主が豪快にぼくの背中を叩くたび、カウンターのビールが跳躍する。こぼれたビールでテーブルがべとべとになるし、昼間から飲んだくれてる店主の息は臭いし、最悪だ。大体それ、僕が払うんだから、きちんとこぼさず飲んでほしい。早く情報収集終わらせて勇者さまのもとへ帰りたい。
「ちっこいのに、勇者さまと旅なんか難儀だなぁ! おめぇ、歳幾つだ?」
「たぶん十二……ってぼくの話聞いてます……?」
聞いてる聞いてる、と店主は繰り返すのに、一向に話が進む気配がない。この、まったく脈絡のない会話を繰り出す口を覆う不揃いなひげを引っこ抜いて、つるっつるの頭皮に移植してやりたい。しかしそんなこと実行する能力も、口走る度胸もなく、空になったグラスを指で揺らし、なんとなく、不機嫌であることを主張することしか出来ない。
ぼくは勇者さまのお供だ。長年慣れ親しんだ村を出てもうすぐ一年。勇者さまと、ぼくを入れて四人のお供と、全ての諸悪の根源である魔王を倒すために旅をしている。ぼくはここで、勇者さまのために魔王に繋がる情報を得ないといけない。それがぼくが、勇者さまに与えられた役目だ。
店主の相槌のいらない談笑は、切れ目さえみせてくれない。こういう時、どうやって会話に割り込んだらいいのだろう。いいや、ぼくの話を聞いてくれないなんて、この店の店主は意地悪だ。みんなはもう、宿屋の前で落ち合っているのだろうか。“こういう時”、一番最後になるのはいつもぼくで、勇者さんのお役に立ちたいと思うのに、彼の歩みを止めるのはいつだってぼくだ。
「そもそも勇者さまにわざわざお話するようなことなんて、そうそうねぇよ。むしろ勇者さまのおかげで日々平和に暮らせています、ってお礼を言いたいぐらいだ」
「でも、そうですけど……だって魔王が……」
ここ何年も、魔物に目立った動きはない。それもこれも、全て勇者さまのおかげだ。風よりも早く剣を薙ぎ、鷹よりも鋭く見渡す。きっと魔物達は勇者さまを恐れているのだ。
だけど諸悪の根源たる魔王の首はいまだ繋がったまま。もしかしたらぼくたちを油断させて一気に攻め入るつもりかもしれない。だからこそ、ぼくたちはこの平穏を守るため、一刻も早く魔王を討たなくてはならないのだ。
「なんでもいいんです! 小さなことでも!」
どこで何をしているのかもわからない魔王を探し出すには、一にも二にも情報収集。どんな小さなことが魔王のきっかけになるかもわからない。だいだい、一番最後に帰ったのに何も情報が得られなかったなんて、勇者さんに合わせる顔がないじゃないか。ぼくが役立たずってわかったら、また置いていかれるかもしれない。そんなのは、絶対にいやだ。どんな形でもいい、嘘だってつけるから、側に置いておいて欲しい。
息を吸って、そしてはいて。手を握ってイスが倒れるぐらい、勢いよく立ち上がる。ばたんと音がなるぐらい押しのけたつもりだったけど、三十度、後ろに傾いたイスはまたもとの位置に戻ってきた。
「なんでもいいですから!!」
張り上げた声はうわずっていたけど、なんとか誠意は伝わった。