その二十七 朱仝、宋江に問うのこと
(お願い!! お願いだからもうちょっとだけ保って!!)
宋江はへし折れかけてる竹の枠組みを見ながら必死に祈った。だが、宋江の祈りもむなしく、竹に入る亀裂は次第に増えていき、自分たちの落下速度もぐんぐんと増している。
地面の様子など見る余裕もなかったが、ここで敵のど真ん中に突っ込んだなどという事態になったらしゃれにならない。いや、そんな事を心配する必要はないのかも知れないが。
(……そうだ!)
一か八か、試したことはなかったが、宋江は竹でできた枠に自分の気功の力を注ぎ込む。
「つな……がって!」
自分の声とともに、何かがかみ合ったような感覚があった。改めて確認してみると、へし折れかけていた竹は修復され、その強度を取り戻している。落下速度がわずかに落ちた感覚があった。だが、一方で気功を通して、自分たちを支えている竹の構造物全体からプレッシャーをひしひしと感じる。竹に気功の力を注ぎ込み続けなければ、すぐにまた折れてしまいそうだった。
「……さん! 宋江さん! 今すごく不吉な音がしたんですけど!」
「なんとか直しました!」
ごうごうと荒れ狂うような風の向こうから朱仝の声がしたので怒鳴るようにして言い返す。
「直した!?」
と、疑問を返してきたのは花栄だが、どのみち、宋江には子細に説明する余裕はなかった。
それにその宋江が気功で保持してなお、三人の落下速度はわずかずつであったが増している。下を見れば、どうやら包囲していた兵士達はとうに飛び越したようだが、とても飛び降りれるような高さでは無い。グライダーはどうやら狙い通り滑空を続けてくれるようだったが、油断はまるでできなかった。
そして、そんな状況で、さらに出し抜けにボンと爆発するような音がした。
「げ!!」
音のした方を見て、宋江は青ざめた。グライダーの羽の部分を覆っていた一部の布が吹っ飛ばされている。空気の圧力についに耐えきれなくなったのだろう。
(まずい!!)
竹でできた枠組みはまだしもさすがに布に気功を通すのは無理……というより、もう吹っ飛んでしまったので、補強もくそもあったものではない。
「ど、どどど、どうしましょう!」
「終わった……」
狼狽する朱仝の声と何もかも諦めたような花栄の声が聞こえるが宋江はどちらにもかまってられず、視線を下に向ける。地表は先ほどとは比べものにならない速度でぐんぐんと近づいていた。
「くそっ!」
竹にまとわせていた気功を解き、今度はその力をすぐさま下へと伸ばす。直接対象に触れずにどこまで力が発現できるかは未知数だったが、迷う暇などありはしない。
「これで、本当に……最後の最後!!」
自分にそう言い聞かせると、グライダーが突っ込んでいく場所に木を地面から生やしていく。とは言っても、それが自分たちをうまく受け止めてくれるかはかけだった。小さな枝葉なら衝撃を緩和することができるかもしれないが、太すぎると単に激突して終わる。
(ぶつかる!)
落下速度があがり、風がごうごうとうなる中では、声を満足にあげることもできず、宋江は無言のまま、その伸び始めた枝葉の中に突っ込んだ。
目をつぶり、両手を片手の前で交差する。まずグライダーの羽が木に激突し、容易にひしゃげる音がし、そしてすぐに宋江たちの体がグライダー本体から跳ね飛ばされた。背中にばちばちと枝葉のぶつかる衝撃を受けた後、中空へと放り出される。
目を開けると、周囲のスピードが常識で考えられないほどゆっくりとした速度で動いている。自分の体の動きも、重力にひかれて落ちるだけのはずの周囲の物体の落下速度も。
(……何?)
何が起こっているのかわからないが、それを考えるより先にばらばらになった枝葉の向こうからおびえた顔の朱仝が助けを求めるように手を伸ばしているのが見えた。手をこちらも伸ばそうとするが、それもまた信じがたいほどゆっくりとしたものだった。だが、最終的にはかろうじてどうにか手をつなぐ。
(花栄さんは!?)
朱仝の手を握ると同時、もう一人の同行者を思い出すが、視線を動かすことすらままならず、彼女の行方はわからなかった。
(せめて……!)
頭部への衝撃さえ免れれば、致命的な事態は避けられるはずだ。そう考えて朱仝の頭部をそのまま自分の胸元へ引き寄せ、それを守るように自分の体を丸める。
「間に合えええええ!!!」
上下の方向すら定かならぬその状況で誰かの絶叫が聞こえた。それが誰のものかを確認するより早く、衝撃が背中に走った。
「っ!!!」
息すらできないまま、宋江は胸元の朱仝の体を保持する腕に反射的に力を込める。無理矢理空気が肺から飛び出すと同時、衝撃が骨を通して全身に周り、呼吸すら不可能になる。そして、何度かボールのように自分の体が回転しながらはねるのを感じた後、ごろごろと自分の体が回転した。地面を転がっていることをなんとなく察し、そのまま逆らわずにいるとやがて勢いが止まった。
「……生きてる?」
半信半疑のまま、宋江は呆然と呟いた。手を動かしてみる。動く。目の前で動かす。動いた。生きてる。死んでない。
「生きて、ますね」
その声は朱仝のものだった。彼女は仰向けになった自分の体の上に乗っかって寝そべったまま動こうとしない。
「すみません、その……すぐにどくべきなんでしょうけど……ちょっと腰が抜けちゃって、動けそうに無くて……」
「いえ、僕はかまわないんですけども……」
と、そう言いかけたところで宋江の鼻腔を朱仝の匂いが刺激する。その刺激が自分と朱仝が抱き合ってるも同然という事実を否が応でも思い起こさせた。
「ちょっと二人とも生きてる!?」
その事を詳しく考える前に、がなりたてるような声が聞こえたのは幸いだったのだろう。
「魯智深さん?」
聞き覚えのある声に宋江は反応した。してみると先ほどの絶叫も彼女のものだったのだろうか。
「生きてはいますけど、体が動かなくて」
「えーと、あんたが朱仝ね。とりあえず、宋江の様子も見たいし、そこどいて……ってなんであんたたち裸なのよ」
呆れたように魯智深が言う。
「裸?」
言われて、自分の服をグライダーの材料に供出したせいで、裸同然だった事を思い出す。朱仝もまあ、半裸なのだから魯智深がそう評するのも無理ないかも知れない。
「あ……」
魯智深によって宋江の上にかぶさっていた朱仝が起こされる。彼女が上半身で唯一身につけていた下着は激突の瞬間に枝にでも引っかけたのか、もはやぼろ布同然となり、その機能を果たしてはいなかった。
「へ……? あ、ああっ!!」
宋江より遅れること、数秒、自分の服の惨状に気づいた朱仝が慌てて腕で胸を隠す。
「…………見ました?」
「……記憶にございません」
目に焼き付いてしまった白と桜色のコントラストを心の奥深くに封印して、宋江としてはそう言う。それ以外に返答のしようが無かった
「はいはい。遊んでないで、あんたはとっとと宋江の上からどく」
魯智深があきれたような顔つきで宋江の上にまたがったままだった朱仝をずりずりとどかす。
「全く心配してきてやったらこんなことになってるなんて……あの呉用って人の気持ちがちょっとわかるわ」
「遊んでたわけじゃ無いんですけど……。あの、ところで花栄さんは……?」
「あたしならここにいるよ」
という声とともに上体だけ起き上がった宋江にぽいっと彼がはいていたズボンが投げつけられてきた。次いで横に居る朱仝にも上着が飛んでいく。
「無事だったんですね。良かった」
「林冲のおかげ。今回ばかりはさすがのあたしも死んだかと思ったよ」
そういう花栄の声色には呆れと不信の念がしっかりと込められていた。
「全く……君らが飛び降りたのを見たときは肝が冷えたぞ」
そう言いながら、花栄の背後から林冲が姿を現す。詳しいことはよくわからないが、どうやら自分たち三人は林冲と魯智深のおかげでまともに地面と激突することをギリギリ免れたということなのだろう。
「立てるか?」
「できれば休みたいところですけど……でも敵も追ってきますよね」
林冲の問いに宋江は応えた。実際には休みたいどころか、全くもって足に力が入らない、というのが正直なところだった。気功を無理に使ったのも原因かも知れなかった。
「それなんだが、敵はどういうわけか静かだ。ひょっとしたら、君たちが脱出したことに気づいてないのかもしれない」
「そんなことあり得ます?」
「君らの姿は煙の中で樹上の君らの様子はほとんどわからなかったからな。我々が気づけたのも偶然に近い」
「仮にそうだとしても、河清が気づかないわけがないと思うのですが」
「私もそう思うが……どのみち、こちらに近づいてくる気配が無いのは事実だ。宋江、動けないようなら馬が一頭あるからそれに乗っていくといい。今、引いてくるから少し待っていろ」
そう言って林冲はそのままその場から歩いて去って行く。彼女の向かっていく方向を見れば、確かに林冲の行く先、およそ二十メートルほどのところに馬が一頭だけ所在なげに立ち尽くしていた。
「ところであの……花栄さん。私のその服の帯は……」
「ああ、ごめん。遠くからあんたの様子が見えたからさ。とりあえず上着だけもってきたんだよ。帯はわかんない。どっかに吹っ飛んだ。必要?」
「できれば、お願いしたいです。さすがに、ちょっとこのまま前をはだけたままで行動するのは……下着もぼろきれ同然になってしまいましたし」
「まあ、だよね」
一応、朱仝は先ほどと違い、上着を羽織っていて肌の大半は隠れている。ただ、本人が言うとおり、帯がないせいでで襟の隙間から彼女の白い肌がちらちらと覗いていた。
「探してみるよ……魯智深さんも悪いけど手伝ってくれない? 結構手間かかりそうだし」
「ん……まあいいわよ。特にやることも無いしね」
と花栄と魯智深が連れ立って歩いていく。林冲が向かったのとは別方向、同じく二十メートルほど先に宋江の生やした木とグライダーの残骸が見えていた。そうして、後には宋江と朱仝のみがその場に残される。
「……生き延び、ましたね……」
ぽつんと朱仝が呟いた。
「ええ、なんとか……」
「自信があったのですか? うまくいくという……」
「正直に言うといいえです。なんとかしようとして、糸をたぐってったら、たまたまうまく行ったというだけだと思ってます」
宋江は素直に認めた。行き当たりばったりで、作戦なんてとても言えたものでも無い。思いつきを試してみたらうまくいってしまったというそれだけのものだった、と宋江は思っていた。
「なんとかしようと、ですか……」
「? ええ、諦め悪くあがいたのがたまたまうまくいっただけで……正直もう一度同じ事はやりたくないですね」
言って、宋江は苦笑いを浮かべた。が、朱仝の言葉はどうやら宋江に向けてのものではなかったらしい。彼女はどこか遠くをぼんやりと見つめていた。あるいは目の前の風景など見ていないのかも知れない。
「……私は……諦めが良すぎるのかもしれませんね……」
朱仝は思うことがあるのだろう。そうぽつりと漏らした。
「……それは冷静に状況を見極められてるっていうことだと思いますよ。繰り返しますけど、今回はたまたま、本当にたまたま、うまく行ったってだけです」
「宋江さんが私のように冷静だったら、私は今頃死んでるんですけどね」
「え? いや、えーと、そういうつもりじゃなくてですね……」
「冗談ですよ」
言って朱仝はふふっと笑った。少しの間、沈黙が二人の間に流れる。離れた場所で魯智深が勢いよくグライダーの部品を破壊する音が聞こえた。
「ありがとうございます。宋江さんには感謝してもしきれません。さっき、最後も私のこと、かばってくれましたよね」
「せめてもの償いのつもりでした。無茶を言ったのは僕の方ですから、責任くらいとりませんと」
「もう、礼ぐらい素直に受け取ってもらいたいものです」
少しむくれたように、朱仝は言う。
「でも、それはつまり、自分が下敷きになって死んでも、私を生かそうとした、ということですか?」
「えっと、どうでしょう……そこまで深く考えていたわけじゃないです……」
宋江が言うと朱仝はこちらを向いて、宋江のことをじっと見つめた。
「宋江さん、さっき言ったとおり、私はあなたに感謝してます。その言葉に偽りはありません。けれど、だからこそ聞きたい事があるんです。良いですか?」
「? ええ、どうぞ」
真剣な目で朱仝に問いかけられて、宋江は数回、目を瞬かせた。
「あの木の上であなたは、何故と私の行動の真意を尋ねましたけど、今度は逆に私に質問させてください。何故、そこまで私の事を気にかけてくださったんです? 楊志さんや秦明さんだってあなたにはいるでしょう?」
宋江は少しばかり沈黙した。答えは既に自分の中にある。けれどもそれを言葉にするには、時間がかかった。
「……気にかけて、とかそう言うんじゃないです。その……端的に言うと、僕は多分朱仝さんを失う事に耐えられないからなんです」
宋江の言葉に朱仝が少し驚いたように目をむいた。
「確かに、朱仝さんを見捨てれば僕はもっと安全に逃げられたかも知れません。でも、そしたらその後、僕はずっと苦しむことになると思うんです。朱仝さんを見捨てたことを。そしてもっと良い方法があったんじゃないかってずっと探し続けることになるんです。残る一生、ずっと」
「……真面目な方ですね」
奇しくも、それは宋江が朱仝に対して樹上の問いかけた時、彼女にもった印象と同一だった。
「でも少々残念ですね」
「残念?」
「ええ、残念。まあ、その方が良かったのかもしれませんね、お互いに」
「あの、それはどういう……?」
朱仝の言葉に宋江は疑問符をいくつも浮かべるが、朱仝はふふっと笑って答えた。
「さて、どういう意味なんでしょうね」
(やっぱり、馬がバテ始めてる……困ったわね)
楊志は馬の首をさすりながら、心中で一人ごちる。そんなことをしたところで気休めにもらならないだろうが、それでも何もしないわけにはいられなかった。
船まではもう距離は無いからそこまではさほど心配する必要は無い。ただ、楊志はできることなら秦明を船に届けたらすぐさま、とって返すつもりだったので、そこまで考えると馬の体力が限界を迎えているのは頭の痛い問題だった。
「……宋江くん、大丈夫かしら」
「……やっぱり戻る?」
「……ごめん。そう言いたくなるわよね」
実を言うと船にこのまますんなりと帰るかどうかは二人の間で何度か交わされた会話だった。特に、遠目に宋江のいるあの巨木から煙が噴き上がっているのを見た以降は二人とも気が気では無かったのだが、最終的には今のところ、こうして二人とも、船に向かっている。それは主に秦明がそう主張したからだった。
「林冲たちを信じましょうって言ったのはあなたじゃない」
「そうね。その通りなんだけど……ううん、ごめん」
「……いえ、こっちこそ、悪かったわ。つい責めるような物言いをしてしまって」
秦明とて苦しいのだろう。彼女は自分の気持ちと宋江の言葉を天秤にかけて、宋江の言葉を選んだのだ。それは単に宋江を助けたいと単純に考えて実行しようとしている自分よりもずっと苦しいことなのだ。
「そろそろ船が見えてくるわ……ってなんか騒がしいわね……」
話題を変えるためにも楊志はそう言って馬の腹を蹴る。目の前にある小高い丘を登れば黄信達の待つ船があるはずだった。だが、実際にはそこにいたのは船だけでは無く、多数の兵士までがいた。
「………」
しばし無言で目を瞬かせる。
「……どういうこと?」
と秦明もまた呆然とした調子で呟く。
「……どうやらちょっと私たちがいなくなってる間に援軍が来たみたい」
上流にある船に気づいて、楊志が答えを口にする。ただ、答えがわかったところで目の前の事態は変わらないのだが。
「でも、まだこっちは気づかれてないみたい」
「……船に向かって進んでいるのね」
秦明の言うとおり、軍勢は自分たちに背を向けている。こちらに気づいた様子も無い。一方、それとは逆に船上に居る雷横と黄信はこちらに気づいたようだった。
「このまま突っ込む?」
「……馬が保たないかもしれないけど……でもそうね、突っ込むなら気づかれてない今が最大の好機だわ」
言って楊志はふう、と一息吐いて呼吸を整える。どのみち、それ以外の選択肢は無い。
「行くわ。秦明、体は動く?」
「十全にとは言わないけど……ちゃんと無事に帰るのが宋江君に対する私の責任だもの。果たしてみせるわ」
「わかった」
楊志は顔を上げる。敵の軍勢はまだこちらに気づいていない。
「行くわよ!!」
「ええ!!」
馬に拍車をかけて、楊志は敵の軍勢に背中から突っ込んだ。同時に撃て! と軍の先頭に居る指揮官が声を上げた。一瞬緊張したが、どうやらそれは雷横達のいる船に向かってのことらしかった。
最初の数名は後ろから攻撃をしかけられるとは思ってなかったのか、抵抗らしきものは何も無い。だが、問題はそこからだった。朝から絶えず走り続けたせいか、馬の足が止まり、兵士の注意もこちらに向いて、対応しようとしてくる。
「散!」
「炎!」
楊志と秦明の声と気功が重なり、氷と炎の弾によってこちらを振り返った敵兵が次々と倒れる。それでも、まだ敵の軍勢の半分も進んでいなかった。
「なんだこいつら!」
「馬を倒せ!」
数本の槍が馬にささり、馬はもんどり打って倒れた。楊志と秦明はなんとかそれに巻き込まれることなく、地面に飛び降りる。だが、さらにそんな二人に兵士が怒濤のように押し寄せる。ここから先を二人は徒歩で突破しなければならない。
「どきなさい!」
楊志は剣を振るい、とびかかろうとしてきた敵兵を切り捨てる。
「閃!」
続いて逆の手で氷の刃を飛ばし、二、三名の兵士の喉をまとめて切り飛ばす。だが、そんな楊志の抵抗をあざ笑うようにその死体を乗り越えて敵が現れる。左右の兵士も自分と距離を取って武器を構える。
「おらっ!」
「死ねやぁっ!」
次々にそんな言葉とともに剣や槍がこちらに向かってくる。
「ぐっ!」
「楊志さん、どいて!」
それを慌てて受け止めると背後から秦明が飛び出してきて、いつの間に手に入れたのか槍を突き出す。正面の兵士の胸に槍が刺さり、そのまま兵士はどうと倒れた。
「いっつ……」
同時に秦明の顔が歪む。無理に動いたので傷口が開いたのかもしれない。
そんな秦明を援護するように今度は楊志が前に出て、剣でもう一人の兵士を切りつけようとした。が、相手の件で防がれる。
「くっ……」
「このっ……」
つばぜり合いの形になるが、単純な腕力では楊志の方が不利で、次第に押され始める。そうしている間にも周りから兵士が集まってこようとしていた。
(まずいっ!)
と思った次の瞬間の正面の兵士も含めて三人が吹き飛ぶ。
「秦明様、楊志殿!」
「大丈夫!? あとちょっとだから!」
飛び込んできたのは黄信と雷横だった。
「ありがとう! なんとかしてみせるわ!」
楊志は応えてまごついている敵兵を蹴倒す。
「どきな、さい!」
秦明が言って片手で槍を振り抜く。兵士が数名吹き飛んだ。視界が開けた。
「二人とも走って!」
雷横の言葉に押されるようにして、楊志は走り始めた。後ろを振り返ると肩を押さえた秦明が続いてこちらに走ってきている。
「撃て! 撃て撃て撃て!!」
興奮した様子の敵の指揮官の声が響く。顔の横を矢が飛んでいき、さすがにヒヤッとする。
「はようせい! こっちじゃ!」
船から声がする。その声には覚えがあった。公孫勝のものだ。いつの間にか、復活してたらしい。
「あっ!」
そこで変に意識を自分の外に向けたのが良くなかったのかもしれない。足場の悪い河原で、楊志は足をもつれさせてその場に転んでしまった。
「楊志!?」
「楊志さん!」
自分を追い抜いていった秦明と雷横、それから黄信がこちらを振り向く。
「撃て! あいつをだ!」
それが自分のことをさしていると、なぜだか、声のした方を見なくてもわかってぞっとした。立ち上がろうとして、大きな石にひっかけてしまったのか、足首を捻ってしまっていることに気づいた。
「みんな先に行って!」
「この期に及んでそんなことできるわけないでしょ!」
楊志の言葉に秦明が叫んでこちらに向かってくる。だが矢が飛んでくるまでそう時間も無い。後ろを振り向くと、数本の矢が自分に向かって飛んでくるのが見える。
(まずい!)
思わず死を覚悟したそのとき、秦明とは別の一つの影が飛び込んできて矢を切り払った。
「大丈夫!?」
「索超! あなた、動いて平気なの!?」
「あまりあまり、大丈夫じゃ無いかな?」
口調は気楽だったが、厳しい顔のまま索超はそう答えてくる。
「全員とっとと船に乗れ!」
「待って! 私は……」
「楊志さん、話は後!!」
阮小五の言葉に反駁すると雷横が横から出てきて楊志を船上へ無理矢理ひっぱりあげてきた。さすがに楊志も従わざるを得ない。
「全員乗りましたか!?」
「ええ、間違いなく!」
阮小二の声に黄信が飛んできた矢を弾き飛ばしながら答える。
「阮小二、ここらが限度じゃ、船を沖へ!」
「わかりました」
「ちょっと待って! まだ宋江たちが……」
楊志の言葉を無視して、船は岸から常識外れの速度で離れていった。
「朱仝殿には貧乏くじを引かせてしまって申し訳ないな」
「かまいませんよ、このくらい。私は魯智深さんと違って大きな怪我もしてませんし」
「……気づいてたの?」
「いくら気功使いとはいえ、あれだけ速度のついた二人分の体重を受け止めて、何も無いというのは考えづらいですから」
「受け止めたんじゃ無くて反らしただけよ……まあ、利き腕は無事だから、なんとかなるでしょ」
そんな会話を交わしながら林冲と魯智深、朱仝の三人は敵の陣地をとことことまるで散歩でもするように歩いて行く。
宋江と花栄の二人はいない。二人は一頭だけあった馬に乗って河の下流の方へと向かっているはずだった。
反対に三人は上流の方へと向かうつもりだった。目的は新たに援軍としてやってきた敵の船である。というのも、魯智深はここに来る前に船に残る黄信達に自分達を待たずに船を出すように言っていたから、自分たちが脱出するためには新たな船を調達しなければならなかった。
「お、ようやく来たな」
林冲の言葉から少し遅れて軍勢の動く音と地響きが聞こえてくる。
先ほどまで木を取り囲んでいたと思しき兵士たちが、こちらに向かって走ってくるのが見えた。
「いたぞ、女が三人! あれを追え! 逃すな!」
「よしよし、わかりやすいところを歩いていた甲斐があるというものだ」
こちらの三人には船を奪う以外にもう一つ役目があった。それは囮だった。
河清が朱仝達が樹上から脱出したことに気づいているかどうかはわからなかった。が、どの道、敵の目的は朱仝である。それ以外に雷横と索超という目標もいるが、こちらはもう船まで逃げおおせてしまっているから、今から捕らえるのは河清からすれば不可能に近いはずだった。
となれば、敵はどうしたって朱仝を追って来ざるを得ない。そして、敵がこちらを追いかけてくれば、別行動している宋江と花栄は安全に逃げられるだろう。下流に向かった彼らは阮小二達が居る船がまだあれば乗り込めればよし。もし、居なければ、船を奪った三人が下流で二人を拾えばいい。そういう計算だった。ちなみにこちらの目的を素直にしゃべると宋江が反対しそうだったので彼には秘密である。
「さて、それでは私たちも追いつかれない程度に走りますか。こほん……おほほほほ、捕まえてごらんなさーい!」
芝居がかった声とともに朱仝がそう言って兵士の目につくように走り始めた。
「ちょっとわざとらしくないか?」
「州兵なんてあれくらいでいいのよ」
林冲と魯智深はそう言いあいつつ、朱仝の後を追いかけた。後ろの兵士を迎撃できないことはないが、三人の目的はあくまで船である。そちらにも兵士がいることが予想される以上、後ろの兵士の相手に時間を割くわけにはいかなかった。
だから三人は気づかなかった。その軍勢の中に、目を離してはいけない人物がいなかったことに。
馬は人間で言うならジョギング程度の調子で陣中を進んでいた。つまり歩いていると言うほどゆっくりではないが、全速力と言うにはほど遠い。
辺りは不気味に静かで、さきほどまで大勢から追いかけられていた場所と同じとは信じられないくらいだった。そんな中で出し抜けに同乗している花栄が話しかけてくる。
「宋江、あのさ」
「はい、何でしょう」
「ちょっと言うの早いかも知れないけど、今回の仕事が終わったら、あたし故郷に帰るから」
「え?」
「驚くの?」
よくよく考えてみれば花栄がここまで自分に付き合う義理は何もない。というか当初は梁山泊までの単なる護衛としてついてきただけであって、今回の騒ぎについてきてくれたのは単なる成り行きでしかない。濮州でトラブルが発生していたのは予測できていたから、その解決の手伝いを期待していたのは確かだが、はっきり言って、それは宋江に金を返せば済む話だ。
「いえ、えーと驚いた訳じゃないですけど……引き続き、助けてくれるとうれしいなって……」
「お給金次第じゃかんがえてあげなくもない……って普通ならいうところだけど、止めておく。秦明さんからもうそれなりにもらってるし、何よりあんたに付き合ってたら命がいくつあっても足りなそうだからね」
花栄の言い分に反論できず、宋江としては苦笑いを浮かべる他無かった。
「何も言わないの?」
「言い返せないんですよ。僕が花栄さんの立場でも同じ事を言うと思いますし」
「嘘だぁ。断言するけど、あんたこういう時は断り切れなくてずるずる付き合わされる種類の人間だよ」
「仮にそうだったとしても、花栄さんの言葉には納得するしかないってことです」
「……すんなり認めてくれるんなら私としても文句ないけどね。じゃあ、あんたをこのまま黄信達のいる場所に送り届けたら、あたしはそのまま行くことにする」
「梁山泊まで来ないんですか?」
「止めとく。秦明さんや黄信、うるさそうだし……ああでも、荷物の一部はあっちにおきっぱなしだっけ。どうしようかな……」
油断、と言ってしまえばそれまでなのだろう。だが、今のこの状況をその一言で断じてしまうのはあまりにも二人に酷というものだった。
宋江はいわずもがなだが、花栄もまたその疲労はピークに達しつつあった。彼女は今日は夜明け前からもうそろそろ夕方にさしかかろうというこの時間までずっと動き回っていた。いやもっというなら前日からずっと彼女は宋江達を助け続け、時には弓を引いて闘い、目立たないながらも、重要な役割をこなし続けていたのだ。
最後の最後、目的地が迫り、敵も周りにいないのが二人の警戒心をさらに緩めた。特に花栄は宋江と違って敵の大半は朱仝や林冲を追いかけているのだと思っていたからなおさらだった。後は宋江を船に届ければもう自分の仕事はおしまいで、周囲でほとんど物音もしない中、すっかりと自分たちの身に危機が迫っていることに気づかなかった。
唯一聞こえたのはヒョウ、と微かな矢の音。が、花栄がそれに反応するよりわずかに早く、尻に矢が刺さった馬がヒヒーンといななき、後ろ足立ちになる。
「うわっ!」
「きゃっ!」
宋江と花栄はその馬の動きにあらがえず、ものの見事に馬の背中から振り落とされて、体を地面に打ち付けた。
「……うっ……いたた、一体何が……」
そしてその油断に不運が重なる。二人の倒れたその一帯は荒れ地で、当然のように整地などされていない。辺りにはところどころ、岩が地面から突き出ていた。そうした突き出た岩の一つに馬から放り出された花栄は頭をしたたかに打ち付けてしまっていた。
「っ! 花栄さん……花栄さん!」
頭から血を流した彼女の元に歩み寄り、宋江は彼女の名前を呼ぶ。だが彼女は何の反応も見せなかった。
「頭から血が……くっ、最後の最後に……」
頭部を怪我してるため、一瞬迷ったが、たとえ動かすことが良くなかったとしても、ここに放置などできようはずもない。船に帰って公孫勝に見せるしかないと判断し、宋江は花栄の小柄な体を腕に抱えて、立ち上がろうとし……正面から弩が自分に突きつけられているのを見て、固まった。
「……よう。初めましてだな、宋江くん」
馬にも乗らず、鎧もつけてない軽装の男がそう話しかけてくる。傍らには矢のついてない弩がもう一つ転がっている。
無論、初対面の相手だった。だが、宋江は目の前の相手が誰なのかすぐに確信を抱いた。聞いていた男の印象と目の前の実像は若干異なる。それでも、それでも目の前の男の名はすんなりと宋江の口から漏れた。まるで十年来の知り合いのように。
「河清……」
宋江の確信を肯定するかのように、男は細く光る月のような笑みを浮かべた。




