その二十六 宋江、樹上から飛び降りるのこと
彼はこちらに向かってくる敵を再び観察した。水の中で動きやすいようにか、胸と腰回りに布を巻き付けただけの、どちらかと言えば小柄の部類に入るだろう女。その女が短剣を携えて水面を滑るように走りながら自分の元へ突っ込んでくる。
(大丈夫だ。接近戦だけならこちらに分がある)
緊張してこわばる自分の心をそう言って解きほぐす。とはいえ、気功の扱いで言えばこの女は自分の遙か上を行く。本音を言うのであればこんな水上で戦うのは御免被りたかった。だが、自分が命じられたのはこのまま水上で待ち受けて、あの女を味方の船に近づけないことだったし、それに一度逃げられてから、敵を発見するのがあまりにも遅かった。
(やはり気功使いと言っても、こうして戦場で使い潰されるのが俺の人生か……)
自分の先の人生を思って少しだけ憂鬱になりながら、ちらりと敵の後方を見る。そこには先ほど駆け寄ってきた別の人間がいるが、こちらの戦いに介入しようとはしてこないようだった。というより、したくともできないのだろう。気功、それも水外功が使えなければ自分とこの女の戦いに参加することはできないのだから、当然だろうが。
先ほどと同じ一対一であることを確認して、彼は間合いを詰めた同時に気功の力を水面に這わせ、広げる。もっとも避けたいのは敵が水中に潜ってそこから攻撃してくることだ。どこから攻撃されるかわからないし、それに対抗しようとして自分が同じように水中に潜っても敵の方が気功を扱うのは上である以上、圧倒的に不利なのである。従って、このまま水面上で地上と同じような接近戦で決着をつけたかった。そのためには、自分自身が水を操作して相手に水中に逃げ出させないようにするしかない。
敵が気功を解除し、潜ろうとする体勢になる。彼は先程同様、気功の範囲を敵の足下までひろげ、水面から跳ね上げるようにして敵が潜るのを防いだ。女の顔が悔しげにゆがむ。
そこで一気に距離を詰め、剣を振り下ろす。敵は後方に飛んで逃げた。先んじて、敵が潜って逃げないように気功を水にまとわせる。
潜ることをあきらめたのか、敵は短剣を腰だめに構えて突進してきた。さすがに、よけるのは難しい。故に、牽制するように剣を振るう。ひるんだのか相手は恐怖の表情とともにあっさりと距離を詰めて来るのを止めた。
(ここだ! 止まるな!)
自分の肉体にそう命令する。彼は再度水上を滑り剣を振るう。今度は敵は短剣で剣を受け止めようとしたが、あっさりと弾き飛ばされた。
(よし!)
女の顔が恐怖でゆがむ。剣が敵の肉を撃ち、女の体が横へ吹っ飛んだ。
「がはっ!」
どうやら、短剣とぶつかった衝撃で剣筋が曲がったらしい。こちらの思い通りに敵を創傷を与えることはできなかったものの、肋骨ぐらいは間違いなく砕けている。
「逃さねぇ!」
気功の力を伸ばし、相手が水に潜ろうとするのをまたも防ぐ。ここで敵を逃せば、また自分はこの場でこの女を見張り続けなくてはならない。いつ襲われるかもしれない状況を再び作るのは避けたかった。
その恐怖から逃れるために彼は今度こそ、という思いで女に追いすがり、そしてそれが、彼の敗因だった。
視界がゆがむ。自分の目の前に水の幕のようなもの。正体はすぐに知れた。敵の女が自分の追撃を逃れようと河の水、おそらく自分の気功の届かないさらに後方から水を操作してもって来たのだろう。だがそんなものは怖くない。それを剣をもってない左手で振り払う。
「う、らあああああああああああああ!!!!」
その雄叫びは彼のものでも無ければ目の前にいる女のものでも無かった。声がするのは上空。見上げると、そこにいたのは先ほど岸にいたあの別の人間だった。槍を持って一直線にこちらに飛び込んで来る。
(さっきのはただの目くらまし!)
そう気づきはしたが、遅かった、
敵が自分にぶつかると同時、胸に熱と痛みを感じた。そのまま強烈な痛みと熱さから逃げるように彼はそのぶつかった敵を引き剥がそうとして、足元に、先程のあの女がいることに気づいた。
「解!」
女の声とともに足元の自分の気功が崩れ去る。一挙に自分の体が河の底へと沈んでいく、
(息……呼吸が……)
自分に致命傷を与えたのはその胸にあいた穴だったのか、それとも口へ押し寄せてくる河の水なのか、それすらわからぬまま、男はその生涯を終えた。
「ぷはっ!」
阮小五は姉によって敵が水底に引きずり込まれたことを確認すると、自力で水面まであがってきた。水外功が使えないので首から下は水面の下である。
「くそっ、姉貴のやつ、もうちょっと説明してくれりゃいいものをよ」
姉は突撃するとき、『危険になったら』逃げろと言った。それは危険が迫らなければそこにいろと言う意味だったのだろう。阮小五が姉が単純に逃げろと言ったわけではないと確信したのは姉が敵に肉薄し始めてすぐ、姉からの気功によって自分の体をほんの少しだが、持ち上げられたのに気づいたからだ。
細かな打ち合わせなどしたわけでも無いので、姉の真意がわからぬまま、そこにいるしかなく戦いを見守っていたが、姉はすぐ劣勢に追い込まれた。そしてその直後、阮小五の足下にあった水は突如噴きあがるようにして阮小五を空高く運び、そして彼女はそこから敵に向かって落下したのだった。
不意に先ほど同様、自分の体が水中から持ち上げられる。自分が水面に経つと同時、ずぶ濡れの姉もまた水中から出てきた。
「ちゃんと説明してからにしろよな……」
再度、今度は目の前の姉に直接文句を言う。
正直、空に飛ばされてからは必死に槍を動かして相手を狙ったのだが、うまくいくかどうかは五分五分だったに違いない。
「極力、あなたに注意を向けられたくなかったのよ。それにあなたならこっちが考えていること伝わるかなって」
「伝わらねーよ、それにやるとしても姉貴が前に出る必要なかったろ」
「それはどうかしら、単純に小五ちゃんを突撃させるだけじゃ無理と思ってたんだけど」
「できたよ、絶対」
阮小五はそう反論したものの、明確な根拠があってのことでもないのは自分でもわかっていた。
「……と、こんな風にのんびりおしゃべりしてる場合じゃ無いわね。小五ちゃんは自力で岸まで戻れるわよね。私は今からでも敵の船を一隻でも止めないと……」
と、阮小二はそこで河の上流を見るが、既にほとんどの船がもう着岸してしまっている。今更行ったところでさしたる戦果は望めないだろう。
「姉貴。姉貴こそ、もう戻れ。脇腹にくらった一撃、効いてるんだろ。だまっててもあざになってるんだから、丸わかりだぜ」
「……それは、そうだけど……」
妹の言葉を阮小二は否定できず、うつむいて、ため息を吐いた。
「無様ね、私……」
「そんなことはねーだろ。少なくとも敵の気功使いを一人始末した。もし、あいつがいたら俺たちが逃げても追いつかれてたかもしれないんだぜ。何もしてない俺に比べりゃずっとましさ」
「あなたこそ、何もしてないって事は無いでしょ」
「……どうだか」
その後、二人はしばらく沈黙した。
「あなたが少し前に言ったこと、今ならわかる気がするわ」
「うん?」
「この闘いの発端は私たちだみたいな事言ってたじゃない」
「……ああ、言ったけど。それが今の話とどうつながるんだよ?」
今度は逆に阮小五は姉の言うことを理解できず、そのまま顔に疑問符を浮かべた。
「冷静に考えれば当たり前なんだけど、賄賂と言っても、大臣への貢ぎ物を奪うってやっぱり大事で、それに関わる人がどんどん増えると、私たちの居場所ってなくなっちゃうのよねって」
「そんな話じゃねーだろ。俺がしたのは」
「そうかしら、一緒だと思うけど」
阮小五はなんと反論したものかと一旦横を向いた。と、その視界に見覚えのある人影が映る。
「阮小二殿、済まない。そっちの状況が落ち着いたなら、すぐに戻ってきてくれ!!」
と微かな声が二人の耳に入った。それは船を離れてこちらに走ってくる黄信の声だった。
「黄信さん?」
「頼む。場合によってはすぐに脱出することになるかもしれない。その前に阮小二殿にはなるべく待機していてほしいんだ」
「……どのみち、ここまでね。ほら、あなたも帰りましょう」
「呼ばれてるのは姉貴だけだろ」
「屁理屈言わないで頂戴。それにすぐ出発するような事態になるならあなただって話だけは聞いとかなくちゃ」
「……わかったよ」
幾分かの沈黙を挟んで阮小五はうなずかざるを得なかった。そしてそこで、彼女は自分が想像している以上に消耗していることに気づいた。慣れない馬の早のりが原因か、それとも今の姉と立ち向かったほんの少しの闘いでこれほど消耗してしまったのか、あるいはその両方か。
(……そういうところが駄目なんだろうな……)
心中でそう認めて、阮小五は姉の後を追った。
「林冲!」
「楊志!? 船に戻ってなかったのか!?」
「あなたたちだけ置いて行くわけにはいかないじゃない!」
責めたつもりは林冲には無かったのだが、楊志は若干ばつが悪そうにしながら、反論してくる。
「雷横殿は?」
「阮小五に預けたから平気なはずよ。それより秦明どうしたの!? 顔が青いじゃない!」
「えへへ……ごめん、油断しちゃった」
ちょっとしたいたずらが見つかったような口調で秦明は言うが、彼女の状況は口調ほど軽いものではないのは明らかだった。
「楊志、君がここにいてくれて助かった。すぐに秦明を連れて船にかえってくれ」
今、林中たちがいるのは的陣のほぼ中心地よりやや西側だった。といっても、自分たち以外に人影は見えない。
「ちょ、ちょっと待ってよ……他の人は、宋江や朱仝さんは無事なの!?」
「これから助けに行くが、急を要する。だからできれば、これ以上、何も聞かずに船に向かってくれ」
「楊志さん。私が説明するから……」
林中と秦明からほぼ同時にそう言われた楊志は微かな逡巡を見せたものの、渋々とうなずいた。
「……わかったわよ。ここで立ち話している時間無さそうだもんね」
そう言って馬首を船に向けて反転させる。その馬の背に林冲は秦明をまたがらせた。
「じゃあ、私は今度こそ、船に向かうわ。林冲、宋江達の事、頼んだわよ」
と楊志が出発しかけたとき、
「居たーーーー!!!」
とそこに第三の声が飛び込んでくる。若干ぎょっとして声をした方を見れば、馬に乗った魯智深だった。
「楊志! こんなところにいたのね!」
「魯智深、あなた動いて大丈夫なの!?」
魯智深と楊志がほぼ同時にそう叫ぶ。
「魯智深! そのまま来てくれ! 楊志、秦明と他の連中のことは任せたぞ!」
魯智深の負傷のことが気にならないでは無かったが、彼女は楊志と違って言ったところで素直に指示に従う人間では無い。林冲はやけくそ気味にそう二人に向かって叫んだ。楊志も今更また馬の向きを変えるわけには行かなかったのか、そのまま進んでくれる。
「あとでみっちり文句言ってやるから覚悟しなさいよね!」
すれ違うのは一瞬だったが、それでも、魯智深は何か言わなければ気が済まないたちなのか、楊志とすれ違いがてら、そう彼女に捨て台詞を残す。楊志がどうしてよ! と、不満の声を上げるのが聞こえたが、林冲はそれは無視してそのまま突っ込んでくる魯智深の馬に飛び乗った。
「あの木の方で良いのよね。違うと言っても聞かないけど!」
「ああ、そうだ! それでいい!」
こういうときに話が早いのは魯智深の良いところだった。
「って何あれ、木が燃えてるじゃない!」
「火を点けたのか、河清……」
捕らえられないと考えて即座に殺す方へと作戦を変更したのだろう。そう確信して林冲は吠えた。
「河清! 聞こえてるなら伝えておくぞ! すぐさま火を消せ! もし上の連中に取り返しのつかない事があったら、私は何年かかってもお前を見つけて殺してみせる!」
聞こえていたとしても、この程度の言葉でひるむような相手ではないことはわかっていた。だが、林冲も脅しのつもりで口にしたわけではない。それは宣言だった。
「はーーっ、はーーっ、はーーっ、げほっ、ごほっ」
ようやく目的の場所について、宋江は荒い息を吐いた。既に辺りは煙がくすぶっており、うっかり油断するとまともに煙を吸ってしまう。そんな場所で先行して到着していた花栄と朱仝は黙々と作業をしていた。
「お、良かった。無事ついたね。肝心のあんたが足を踏み外して落ちたんじゃ、笑い話にもなりゃしないからね」
「ええ、まあ」
花栄の言葉に曖昧にうなずいて、宋江は辺りを見回す。自分が生み出したこの規格外の大きさの木のそのてっぺん。そこまで来ると微かに吹く風が煙を吹き飛ばしてくれた。遠くに目を向ければ黄河が見える。その景色は雄大と言えなくもなかったが、そんなものに目を向けてられる余裕はなかった。
「今更だけどさ、宋江。これ、本当にうまくいくのかい」
「え、えっと、はい……」
正直なところ、確信などなかったが、この状況からやっぱ無理かもなどと言ったら花栄にここから突き落とされかねない。宋江はうなずかざるを得なかった。
(思いついたときは良い案だと思ったけど、やっぱり無理があったかな……)
結局のところ、自分の案は溺れる者は藁をも掴むというその程度のものだったのだろう。いや、今から自分たちがやることを考えたら藁というのは過大評価かも知れない。
「私はどうせ死ぬなら、少しでも可能性がある方にかけたので良いですけど……花栄さんはついてくる必要は無かったのでは」
「着いてきたことの後悔なら大分前からしてるよ。林冲や秦明さんまでいるのに、まさかこんな危機的な状況になるなんて思ってなかったからね……。ただ、宋江の言うとおり、もう少しで南向きの強い風が吹くならそんなに悪い手じゃないと思ってるよ。これ、要は凧と一緒でしょ?」
そういった花栄と朱仝が作っているもの、それは原始的なハンググライダーだった。材料となっているのは宋江が木を出現させたときに引っかかってきた天幕。より正確にはそれに使われている竹の骨組みと布だった。
もちろん花栄と朱仝はそんなものは知らないため、宋江がざっくりと説明したのだが、宋江のつたない説明にも関わらず、二人は大分形になるものを作り上げてくれた。
「あれ、花栄さん、鎧は?」
「脱いだよ。少しでも軽い方が良いでしょ」
「ええ、それに布と竹を継ぎ合わせるのは金属の方が頑丈ですしね」
言って朱仝は手元の金属をもてあそぶようにこねて見せた。彼女の外気功で鎧を変形させて、部品を結ぶ継ぎ手にしているらしい。
「あの、僕が手伝うことは……」
「ないよ。足場も狭いし、宋江は体力回復させといて。失敗しても最悪あんたの気功でまた地面から木を生やせば生き残れるかも知れないし」
申し出た宋江に花栄は顔も向けることなく告げる。
「はい……」
花栄はこういうときはきっぱりと本音を言う人間だ。つまり手伝うことは本当にないのだろう。それがわかっていたので、宋江は適当な枝に腰を下ろした。
「あ、ちょっと待った、宋江」
「はい、なんでしょう」
花栄が何かを思い出したかのようにこちらを向く。
「服、脱いで」
「え?」
「はい?」
その花栄の要求に何故か宋江だけでなく朱仝も声を上げた。
「よし」
彼、壇州の総兵菅、は思考を切り替えた。配下で唯一の気功使いを失ったのは痛いが、悔いても始まらない。だが、その貴い犠牲のおかげで配下の兵士たちはほぼ全員無事に上陸することができた。一方で先行させていた先遣隊によって状況も概ね把握できた。
この件の責任者である濮州の総兵菅と援軍の第一陣の済州の総兵菅はつい先ほど死亡したらしい。残った軍勢を開封府から来た河清という監察官が急遽率いているようだ。そして、その軍勢はあの突如として現れた高い木の根元に固まっているらしい。
(あちらは手を出すまでもなかろう)
その木の根元に今更こちらの軍勢が加勢したところで意味はない。それよりも彼が気になるのは下流にある小舟だった。
先ほど、自分の部下を殺した連中がそちらに向かっていくのを彼は見逃してはいなかった。ここからでは豆粒のようにしか見えないが、そこに何名かの人間がいるのが見て取れる。
(まあ、無視するわけにもいくまい……)
近づけば逃げられるだろうことは予測がついた。だからといって、このまま何もしないわけにはいかなし、あの女のいるこの場で水上で戦うのが御免被りたい。つまり、陸路で近づくしかなかった。
(といっても、全軍を向かわせるのは……止めた方が良いな)
敵を見くびったわけではない。第一に自分の麾下にいる千人の兵力を全て集中させるには小舟はあまりにも小さく、軍が展開する場所も限られていた。そして第二に自分たちの船をがら空きにするわけにはいかないと、考えていたからだ。
(船さえ無事なら、やつらを追うことはできる。現にやつらはそれを警戒しているはずだ)
ちらりと、すでに黒焦げになった味方の軍勢の船を見て総兵菅は確信を深めた。
そして、もう一つ考慮しなければならないのは、この惨状を作り出した敵の気功使いが今どこにいるかだった。特に問題となるのは濮州と済州の総兵菅を軍勢の中から見つけ出して殺した人間。先ほど、船を座礁させたあの女ではあるまい。あれはあれですさまじい能力だったが、そんな力量は持っていないというのが、彼なりの分析結果だった。あの女とは別に気功使いが複数いるに間違いないだろう。
(それが、もし、わしの命を狙ってきたら……)
その事態を想定した結果、彼は副官を呼ぶと兵を百名だけ与え、下流の船にいる人間を全て捕縛するように命じた。
「素材として使うから服をよこせって意味だったんですね」
服を供出してトランクス状の下着一枚になった宋江は微妙に体を震わせながら、花栄に尋ねる。
「男なんだからいいでしょ。あたし達だって恥ずかしい」
そういう花栄と横に並ぶ朱仝も下半身は普通にズボンをはいているものの、上半身は胸元を隠す下着が一枚きりだった。
「あのさ、宋江」
「な、なんでしょう」
「こんな不安定な場所だし状況が状況だからさ、目をつぶれだの見るなだのとは言わないけど、さすがにじろじろ眺めてほしくはないんだけど」
それほど注目したつもりは無かったのだが、花栄からそう言われて、宋江は慌てて視線を横に向けた。
「う、失礼しました。でも、ええと……?」
「別にそんな風に顔を横向かないでいいけどさ……まあいいや。とにかく自然に振る舞ってよ。目を背けられるのも、見られるのも嫌だからね」
「……善処します」
花栄の矛盾した要請に答えられる自信は無かったが、彼女の意図することはなんとなくわかったため、そう答える。要は花栄を普通に服を着ているときのように接しろということなのだろう。
「でもこの通り、宋江さんのいった『グライダー』でしたっけ? これで完成したと思っていいんでしょうか?」
話題を転換させる意味も込めてか、朱仝はそう言ってできあがったものを不安半分、期待半分といった調子で見る。
「ええ、おそらく」
宋江はそう返したが、実際のところ不安だった。
形としておおよそ間違ってるとは思わない。というより朱仝と花栄の二人は宋江の想像を超えて立派なものを作り上げてくれた。ただ、宋江も詳しくは知らないがハンググライダーとは基本的に一人用の乗り物だったはずで、それに今から三人で乗ろうというのだ。素材も基本的に竹と布なので強度面は極めて不安である。
少なくとも宋江は、当初の自分が目論んだように、これで優雅に地面に着地できるとは考えていなかった。もう今はただ、このハンググライダーもどきで多少なりとも落下速度を減速させて、そして地面に落ちるときに自分の気功をもう一度使って枝をクッションという形で受け止めさせる、というプランにかけるしかなかった。
「ここに座って、飛び降りるんですよね」
「そのつもりだよ」
と答えたのは花栄だった。朱仝が指し示しているのは単なる服の帯である。もともと、朱仝や花栄が身につけていただけのものに過ぎない。
「いきなりちぎれたりとか……しないですよね。私、花栄さんと違ってだいぶ重いので少し不安で……」
「あんたはちょっと肉がつきすぎてるからね。あたしと違って胸と尻に」
「もうちょっと濁した形で言っていただけません?」
「自分で言い出したことだろうに……」
「あの、お二人とも。その格好でそういう話題をくり出さないでもらえませんか?」
さすがに宋江は横から口を挟んだ。上半身だけとはいえ、下着のみを身に着けた女性が二人、体型のことを話しているのは居心地が悪い。特にそれを意識せずに振る舞えと言われたあとだと言うのに。
「あら、失礼しました。……ところで、林冲さんはまだいらっしゃいません?」
「もうこの様子じゃ、戻って来られてもなぁ」
花栄が自分たちがいる枝の下を見て言う。煙でろくに見えなかったが、それでもわりと自分の近いところの枝葉まで燃えているのは足下から伝わってくる高熱が教えてくれる。こんな状態では、花栄の言うとおり林冲が来てたとしても、炎を突破してここに登ってくるのは不可能だろう。
花栄は自分の指をペロリとなめて周囲を探るように動かした。
「宋江の言うとおり、北から風は吹き始めてきたけど……」
「多分、もう少しすれば風はもっと強くなると思います」
ある程度の確信はあったものの、自分のこの予言じみた能力の仕組みもわからないので、断言はできなかった。
「もう少しってどのくらい? あまり余裕無いよ」
「えーと……四半刻(7-8分)くらい?」
「微妙なところだね。準備だけははじめておこうか」
花栄は言って、グライダーを動かし始めた。宋江と朱仝も慌ててついて行く。
(確かにぎりぎりかも……)
宋江は再度、下を見下ろしながら枝の上を動く。現時点で炎それ自体は達してないものの、四半刻もすれば、常識的な気温を超えてしまうことは明らかだった。炎に巻かれるのはもう少し先だが、体内の水分が蒸発してしまうのはそう遠い話ではない。
吹き出す汗を滴らせながら、宋江たちはグライダーを体にセットして、飛び出すのに適当な枝に三人とも集まる。
「こうなってくると服を脱いでたのはある意味良かったね」
「だから、そういう事を言わないでくださいよ」
ぽつりと言ってくる花栄に宋江が抗議の声を上げると花栄は呆れたような顔つきになって言った。
「あんた、そんなに飢えてるの?」
「そういう問題じゃありません」
「そんなことより、宋江さん、まだですか!?」
朱仝に急かすように言われて宋江は意識を現実に引き戻す。確かにそんな話をしている場合ではない。耐えられる火の熱さは限界に近づいていた。宋江が朱仝に比べて熱さに強いなどということはまったくないので、彼としても風が一秒でも早く吹くよう祈るしかなかった。
「あと、ちょっと、ちょっとだけ!」
「言っとくけど風が吹かなかったら地面に落ちる前にあんたを殺す」
花栄の言葉は熱さゆえの妄言と聞き流すことにして、宋江はしばし待つ。
「来ます! 十、九、八、七……」
カウントダウンを始める。
(頼む! うまくいってくれ!!)
最後に宋江はもう一度念じた。
「……三、二、一、今!」
ばっと、その場から全員で飛ぶように足を踏み出す。打ち合わせたわけでもないのに奇跡的に全員の出足がそろった。一瞬、浮遊感が全身を襲い、失敗かと思ったがすぐに落下速度が減少したのを感じる。
(行ける!?)
炎のせいか、下からわずかに感じる上昇気流、そして予想以上の横風の強さに宋江は若干の高揚を感じながらそのまま前に進むように念じた。体重を支えている帯が自分の体を締め上げて痛みを伝えてくるが、それは些細な問題だった。予想以上にゆっくりと宋江たちの体は地面に落ち始め、宋江がほっとため息が吐いた直後、不意にばきりと不吉な音が頭上から聞こえた。
「嘘でしょ!」
反射的に言って見上げるが、自分たちを支えている竹の骨組みに亀裂がめりめりと入っているのは嘘でも何でも無い、動かしようの無い現実だった。