その二十五 宋江、朱仝に問うのこと
「なんですか、あれ……」
「宋江……かしら?」
黄信の呟きに魯智深が自信なげに答える。もしくは答えのではなく、単なる彼女の自発的な呟きなのかもしれなかったが。
彼女たちの視線の先にあるのは木だ。たった一本の木。ただし、見たことがないほど常識外れに高い。空に向かって一直線に伸びたその木の高さは十丈(約30メートル)にも達しそうかという勢いだった。
もちろんそんな巨木は先ほどまで影も形もなかった。となると誰かが気功で生み出したというのがもっとも説得力のある説明で、それができるのはこの場には宋江しかいない。冷静に突き詰めていけば、魯智深の答えを聞かずとも宋江が原因と考えるのが最も適当だったが、黄信が、そしておそらくは魯智深も、完全に確信を持って言えなかったのは、出現した木があまりにも非常識だったからだ。
それに、黄信は宋江とそれほど長い付き合いではないが、それでもこれほどの能力を彼が発揮できるというなら今まで多少なりともそういった気配があっても良かったはずだ。
「他におらんじゃろ」
といったのは服が吸った水をしぼっている公孫勝だった。彼女とはまだ一言も話してなかったが、雷横が説明してくれたのか、とりあえず、こちらの事は味方として認識してくれたらしい。
「樹上におるな。宋江と……残りの二人は朱仝と花栄か」
「見えるのですか?」
「うむ」
公孫勝は何でも無いようにうなずく。確かに目をこらせば何か動いているような気がしないでもないが、しかし、個人の判別など、黄信には到底不可能だった。
「ちょっと待って! 林冲さんや秦明さんは一緒じゃないの!?」
「三人の他は誰もおらん」
雷横の問いに公孫勝が渋面で答える。
「はぐれちゃったの? ああもう、何やってるのよ、林冲も秦明も!」
いらだつようにそう言うと、魯智深は先ほどまで阮小五が乗っていた馬にひらりと飛び乗った。
「雷横、楊志は宋江達を待って、陣中にいるって言ったわよね」
「う、うん。それはそうだけど……」
雷横の答えを聞くと魯智深は今度は黄信に向き直った。
「黄信、楊志にはここにすぐ来るように言うわ。楊志とそれから阮小五が阮小二を連れて戻ってきたら、もうここを脱出することも考えてちょうだい」
「それは……」
言うまでもなく、魯智深や秦明の帰りを待つことなく、という意味だろう。
「上流の敵の動きもなんだか怪しいし、こっちは怪我人だらけなのよ。林冲と秦明とあたしがいれば大抵の事ならどうにかできるから残りの連中くらいはなんとかするわ。そういうことだから頼んだわよ!」
魯智深は黄信に反論の隙も与えず、一息に言うと馬の腹を蹴って走り出させた。
「……まあ、確かにそういう選択肢も持つべきじゃろうな。ここにいる索超にしたって、さっさと安全なところに行って治療させるべきじゃろうし」
濡れた髪をぎゅうぎゅうと握って水を落としながら公孫勝が言う。索超は未だ覚醒の兆しを見せていなかった。
「雷横殿……でよろしいですよね。雷横殿は今の言葉、どう思われます?」
黄信は助けを求めるようにしてもう一人の人物に水を向けた。確かに阮小二や索超、そして怪我した自分など、そういった戦力として中途半端な人間だけまとめて下がらせる、というのが正解だと頭ではわかってても、素直に頷けるかどうかはまた別だった。
「う、うーん……そんなこと突然聞かれても……朱仝や宋江の事は心配だけど、でも索超さんだってこのままにしておいていいわけじゃないだろうし……」
「まあまて。黄信……と言ったか?」
おろおろとしだす雷横に助け船を出すように公孫勝が口を挟む。
「考えるのは楊志と、それから阮小二たちが戻ってからでも遅くなかろう。あの尼は……尼なのか、あれは? ……まあいい、何もかも予定通りに進むとは限らぬよ」
「……ですね」
公孫勝の言うことはもっともらしくとも、結論の先送りに過ぎなかった。それでも黄信は今はその言葉にすがりたかった。
「それにどのみち」
と公孫勝は続ける。
「あの軍勢がこちらに突っ込んできたら、選択の余地など、我らにはないぞ」
公孫勝があごをしゃくった先には上陸している新たな軍勢があった。
「こりゃ、とんだ伏兵が出てきたもんだ」
悠然とそびえ立つ、樹木を見上げて河清(かせいはうめいた。
見たことも無い木だった。見た目は南方にあるという杉の木に近いが、大きさは一回りも二回りも違う。
樹上に目を転じれば、ぼろぼろの服をまとった若い男が枝から落ちかけたのをぎりぎりで朱仝が捕まえたところだった。
(あれが宋江ってやつか……)
ようやく顔を拝むことができたわけだ、と心中でつぶやく。
(さて、どうする?)
別方面からは兵士の悲鳴と退却を押しとどめようとする武官たちの怒号が聞こえていた。林冲が秦明を連れて、突破を試みているのだろう。黙って通してやる義理はもちろんないが、かと言って、兵士たちに林冲をどうにかできるなど、河清はこれっぽっちも期待してはいなかった。つまり、そちらに関しては見逃すしかない。
(まるごと手に入れられれば、貴重な木材として一財産できそうだな)
と眼の前の巨大な樹木についてくだらない妄想を思い浮かべた後、それを振り払う。
林冲と朱仝が別れたのはこちらにとっては願ったりかなったりではある。が、問題はそう遠くないうちに林冲が戻ってくるということだった。
では、それまでに朱仝を捕縛することは可能だろうか。
(無理だ)
一瞬で結論付ける。
今回は山狩りのつもりだったから、城攻め用のはしごのようなものはない。それを今から準備することは可能だろうが、そんなことをしていたらあっという間に林冲が戻ってくる。
おそらく時間としては、一刻(30分)かどんなに楽観的に見ても二刻(1時間)程度しかない。それまでに兵士があの木を登り、朱仝を捕まえて降りてくる? ありえない。
(兄貴がいりゃなんとかなったかもしれんが……)
となれば、次善の策をとるしかない。河清は伝令の兵を呼んだ。せめて死体だけでも持って帰ればどうにかなるだろう。
「宋江さん、起きて!!」
声に導かれて目をぼんやりと開けた。目の前に何かがある。逆光になっていて色さえわからなかった。他のみんなはどこに行ったのだろう。
「宋江さん!」
もう一度、同じ声。そこでようやく宋江は前後の事を思い出した。ぼんやりなどしている場合ではない。秦明と林冲は無事だろうか。花栄や朱仝は?
体を動かそうと思ったがうまくいかない。目や口を開くことすら億劫だった。が、それでもなんとか、うっすらと目を開ける。
「宋江さん!」
三度呼びかけられる声。それは朱仝のものだった。聞こえている証拠に頷くように軽く首を動かした。
寝てる場合じゃない。もう一度自分にそう言い聞かせて、宋江は目を開いた。のどがからからのまま短距離走をさせられた直後のようでひどく息苦しい。かすかに残った唾液が口内にへばりつく。
「朱仝……さん……ゲホッ」
「良かった。全く反応しないから心配になったんですよ」
ホッとした朱仝の声が聞こえた。
「あまり動かないでくださいね。不安定な状態ですから」
言われて、どうやら自分は太めの枝の上にかろうじて寝転がっているだけなのだと気づいた。更に下を覗くと枝葉が邪魔でいまいちよくわからなかったが、地面からはニ十メートルほど離れているようだった。落ちればひとたまりも無い。
「あの、ここは……?」
「憶えてらっしゃらないのですか? あなたが生み出した木の上ですよ」
そう言われて宋江はようやく直前の状況を思い出した。気功を使っている途中で記憶がぷつりと途切れている。おそらく気功の使いすぎで気絶したのだろう。
「秦明さんと林冲さんは……」
「おそらくは無事に逃げられたかと思います。捕まっていたら、もっと大騒ぎしているはずですから」
「そうですか……」
とりあえず、最低限の結果は得られたようなのでほっと息を吐く。
「花栄さんは下の方に降りていきました。敵が来たら迎撃すると言って……ただ、どうやら近づいては来ないみたいですけど」
宋江は少し体をずらして下の方を見た。葉が邪魔して花栄がどこにいるかはわからない。さらに視線も少し動かすと敵の兵が見えた。意外だったが、朱仝の言う通り、敵はこちらに近づこうとしていない。単に戸惑っているのか、上官の命令がないと動けないのか、遠巻きに見ているだけだった。が、ぼんやりとながめていると程なくしてせわしなく動き始める。
「火を使うつもりかもしれませんね」
「え?」
隣にいる朱仝のつぶやきに思わず聞きかえす。
「わかるんですか?」
「兵士の動きを見れば、何かを準備しているだろうことはすぐわかります。まさかはしごを準備するほど悠長ではないでしょう。林冲殿が戻ってくる時間が測れないほど、河清は無能な指揮官ではありません。常識的に考えてもう私を捕らえることは不可能でしょうから、後は殺すしかないわけです。無為に逃げられるよりははるかにマシでしょう」
「……浅はか、だったかな」
とっさのことだったとは言え、樹を作り出してその上に逃げるのは失敗だった。敵が朱仝を確保しようとしているならこれでなんとか時間が稼げると思い込んでしまった。
「ええ」
朱仝がその宋江の言葉に肯定を示す。慰めの言葉を期待してなどいなかったはずだが、それでもその朱仝の冷たい言葉には耳が痛い。自分の判断の誤りのせいで、彼女を危機に追い込んでしまっているのだからなおさらだ。
「宋江さん、あなたはこんなことをせずに私を置いて逃げるべきでした」
が、朱仝が指摘したいのはそれ以前のことのようだった。
「……どうして、そんなふうな事を言うんですか?」
詰問ではなく、純粋な疑問として、宋江は尋ねた。
朱仝の言いたい事はわからないでもない。敵の目的は彼女だった。あの場で朱仝のいうとおり、彼女をおいて逃げていれば、残る全員は助かったかもしれない。結果として、自分は朱仝だけでなく、自分と花栄の命も危険にさらしている。朱仝も抵抗しなければしばらく生き長らえてたわけだから、見方によっては朱仝の寿命を縮めたと言われても反論できなかった。
それでも、宋江が理解できないのは率先して、朱仝がまるで死にたがるかのように、そうした提案をする事だった。
「……不公平でしょう」
「不公平?」
「索超さんを助けるために私は楊志さんを見殺しにしました。確実に助かる方を救うために。それがいざ自分が犠牲になる方が良い時に我が身を惜しんではいられないでしょう」
「……楊志さんは気にしないと思いますけど」
「でしょうね。あの方はお優しいですから。だけど、だからといって何もなかったかのように振る舞えるほど、私は厚顔にはなれません」
(真面目だなぁ……)
この場にあっていささか悠長な感想だったが、宋江はそう思った。
「……話しすぎました。あなたが私を助けてくれようとしたことは感謝します。ことここに至っては、もうどうこうしようなどとは言いませんが、今が河清と交渉する最後の機会ですよ。私を引き換えにして、あなたが生き延びる……」
「それはどうだろうね? 後はほっといたって勝てるんだし、交渉になんか乗ってこないんじゃ無い?」
と朱仝の意見に疑問を差し挟んだのは、いつの間にか戻ってきたらしい花栄だった。だが、朱仝は動じることなく首を横に降った。
「いえ、私はそう思いません。河清はできることなら生きたままの私を捕らえたいはずです。犯人を殺した、と犯人を捕まえて事件の全貌を暴いた、では話が違いますから」
「そんなもんかねぇ?」
小猿のように器用に細い枝に乗りながらも、花栄は納得が行かないのか眉根を寄せる。
「でも、宋江はそれじゃ嫌なんだろ」
花栄の問いに宋江は無言でうなずいた。朱仝が呆れたような困ったようなどちらともつかないため息をつく。
「とはいえ、あたしも自分の命は惜しいからね。のっぴきらない状況になるまでは待っといてあげるけど、いざとなったら本人が言うとおり、朱仝さんつれて投降する方に賭けるしかないね」
「ええ、私もそれが良いかと」
「賛同しないでほしいなぁ」
あっさりと承諾する朱仝本人に対して宋江は軽い絶望を覚えてうめく。
「そうしたくないって言うなら打開策なり何なり考えてよ。全く、こんなことなら早めにあたしも逃げればよかった」
言って花栄はどさりとやや乱暴に腰を下ろした。
「すみません……」
「謝るくらいならやんないでよね。それより、あんまり悩んでる時間ないよ」
確かに花栄の言う通り、時間はあまりなさそうだった。敵は既に火矢の準備を終えつつある。いくつか、松明の明かりが敵の中を動いているのが見えた。
だが、今更下に降りたところで突破は不可能だ。一方で上に逃げたところで、いずれ炎と煙に巻かれるのは目に見えている。
(八方塞がり……なのかな)
途方に暮れて宋江は上を見上げた。もちろんそこに見えるのは細くなりつつある木の幹の先と青い空だけだが……
(……あれ?)
もう一つ、宋江の目に写ったものがあった。十秒ほど宋江は自分が見たものに目を奪われ、そしてやにわに朱仝と花栄に言った。
「上に、登りましょう」
「姉貴! 良かった! 無事か!?」
阮小五はほっとして自分の姉の元に駆け寄った。自力でどうにか岸に泳ぎ着いたらしい姉をごつごつした河原から抱き上げる。そして、姉の腕からだらだらと血が流れているのに気づいて慌てて、自分の服の袖を破って止血する。
「小五ちゃん……?」
そう呟いて、焦点の定まらない目で姉がこちらを見上げる。
「気づいたか。とにかく、いったん船に戻るぞ。少なくとも公孫勝は無事に助け出したしな」
「待って……その前にあいつをなんとかしないと……」
「あいつって……あの男か。気功使いだな」
阮小五は逡巡したあとに改めて視線を水面に立つ一人の男へと移した。明らかに気功使いと思われるその男は油断なくこちらを注視して、じりじりとこちらに近づいてくる。
「あいつか。いいぜ、俺が相手する」
「……ううん、多分あいつはあなたが手の届く範囲には来ないわ」
「………」
阮小五が反論しなかったのは理由がわかったからだ。阮小五は姉のような気功は使えない。水面に立ったあの相手に攻撃を届かせる手段がないのだ。敵もそれがわかっているのだろう。
「でもほっといていいんじゃねえか? 近づいてこねえってことだろ」
「それだと敵はどんどん上陸してしまうのよ」
阮小五は阮小二に言われて思わず上流を見た。そこでは確かに何十名もの兵士が隊列を組み始めており、続々と船が並んでいる。ただ、接岸できる場所が狭いのか、なかなかすんなりとはいかないようだったが。
「……けどよ、姉貴、怪我してるじゃねぇか」
「でも他の人にあいつは殺せない。水中やもっと沖合に逃げられちゃったら、それまでだもの。私がやるしかない」
「無茶だ! 姉貴、剣なんか使ったことねえだろ」
「それは……ええ、そうね。あなたと違って私はほとんどそんなこと、したことない」
よろりと阮小二は立ち上がった。
「だけど、だからといってやらないわけには行かないでしょ。小五ちゃん、あなたは危険になったら逃げるのよ」
それだけ言って阮小二は再び、水面に立つと同じく水面に立つ男の元へと近づいた。
「河清様、火矢の準備完了しました」
部下からの報告は河清が待っていたものだったが、望んでいたものではなかった。
「敵は相変わらずか?」
「ええ。何やら木のてっぺんに向かって登り始めているようですけども」
「そうかい」
実際のところ、その程度のことは部下の報告を聞かなくてもつかんではいる。確かに、それなら多少なりとも時間は稼げるかもしれないが、結末は一緒だ。
「降りてきてくれりゃあ、手間が省けたんだが」
だが、それを悔やんでいる時間は無い。林冲がいつ戻ってくるかわからない以上、手早く事を済まさねばならない。さしもの林冲も味方が死んでからはどうしようもないだろう。
「よし、火矢を放て」