その二十四、魯智深、公孫勝を投げ捨てるのこと
「魯智深殿。あれは、一体……? 見たところ、船を少し動かしただけにしか見えない気がするが?」
黄信は怪訝な表情で傍らにいる魯智深を見上げつつ尋ねた。
気功が使えるとはいえ、それ自体も簡単なことではないのだが、逆に言えばそれほどの手間をかけて、結果が船を動かしただけというのはあまりにも労力に見合わない。
「ここから見てるだけだとわからないだろうけど、あれは浅瀬に船を移したのよ、少なくともそのつもりだとあたしは聞いたわ」
「浅瀬に?」
よく見れば阮小二が動かした船はその後、どうにも動きが鈍い。というより全く動けてないようだった。
「阮小二によるとここは遠浅らしくてね。あれだけ大きな船になると、水に沈んでいる部分も馬鹿にならないから、浅瀬に乗せると動けなくなるんだって」
魯智深は視線を船の方に向けたまま、そう解説してくる。つまり、阮小二は敵の船を意図的に座礁させている、ということらしかった。
(言う程簡単にできることなのか、それは……)
そんな疑問が頭に浮かぶが、現に目の前でそのとおりのことが展開されているのだから、疑う余地は無かった。確かに成功すれば、船は動けなくなり、敵が上陸することも、逃げる時に追いかけられることもないから、こちらとしては言うことはない。
そんなこちらの思惑に対抗するかのように船上では敵が船から荷を投下している。荷物を捨てて、喫水を下げようと言うことなのだろう。
「さて、念のため、あたしはちょっと 山から降りてくる連中を迎えに行こうと思うわ。多少休んで体力も回復したし、阮小二もあの調子で残りの船も足止めできたなら戻ってくるでしょ」
「それは……いえ、そうですね。お願いします」
一瞬、自分も行くと言いかけて、黄信は結局うなずいた。意識がはっきりしたとはいえ、十全に動けない自分では足手まといになる可能性が高い。それにこの船にも戦力は必要だ。こう言っては何だが、阮小二一人では不安が残るし、自分の横で寝ている索超なる人物を放っておくわけにもいくまい。
「それじゃあ、行ってくるわ」
「はい、よろしくお願い……しま……」
黄信の声が途中で途切れたのは顔を上げて見送ろうとした魯智深ではなく、その後ろの光景が原因だった。ぽかんと口を開けていると魯智深も何事かと、背後を振り返る。
二人の視線の先では先ほどまでゆらゆらと水面で動くだけだったはずの敵の軍船がまるで、氷の上を滑るように、水面の上を走っていた。
(まさか!? どういうこと!?)
阮小二も当然のことながらその船の挙動を見ていた。そして心中でそう叫んだ直後に気づく。敵の中にも自分と同じ気功使いがいるのだ。それ以外にこんな非常識な船の挙動は考えられない。
自分の見通しの甘さを呪いながら、阮小二は水上を滑り、その船を追った。敵に気功使いがそれも自分と同様に水の外気功使いがいることは、確かに偶然と言えば偶然、不運と言えば不運ではある。だが、自分の一手が全く意味をなさないような致命的な出来事であれば、それはやはり考えておくべきだったのだろう。
反省をそこで終えて、阮小二は追う船を見据えた。間違いなく気功使いはあの船に乗っている。でなければあそこまでスムーズに船を動かせるわけがない。
当然、あの船に乗っている気功使いを始末する必要がある。そうでなければいくら自分が船を座礁させてもまるで意味が無くなってしまうし、放っておけば逃げるときに必ず障害になる。
その結論に阮小二がさしかかったとき、追う船から人影が飛び降りた。自分の動きに制動をかける。その人影はそのまま当然のように水面に立った。
(間違いない。あれが敵の気功使い……)
さすがに二人もいるということはないだろう、と信じたい。それに背後の岸に向かう船は目に見えて速度が落ちていた。
降りてきた男は一見普通の兵士に見えた。ただし兜はかぶっておらず、鎧も簡素なものだった。特に特徴も見えない平凡な男である。だが、こちらを油断なく見つめるその目は通常の兵士と明らかに違う。こちらが気功使いとわかっていても女とみれば侮る男が大半だが、この男にはそれがない。
(……勝てるかしら?)
阮小二に戦闘の経験などほとんど無い。強いて言うなら近場の漁師との喧嘩くらいで、それだって肉弾戦などではなく気功でもって相手を船からたたき落とす程度のことしかしてない。気功なしの戦いであれば目の前の兵士どころか、素手の宋江にすらかなわないだろう。おまけにこちらの武器は短剣が一つ。
ジャーンジャーンと鐘を鳴らす音があたりに響いた。何かと思って音のした方を見れば、その取り逃がした船からだった。何らかの合図の音だろう。
だがそれが何の合図なのかを考えている余裕はなかった。男は剣を抜いてこちらに向かって駆け出していた。
男が横薙ぎに剣を振るう。阮小二は足下の水を動かすことで、慌てて距離をとった。男は追撃の手を緩めない。再び、距離を詰めて、横に薙いでくる。
(仕方ない!)
いったん水の中に逃げ込もうと、足下の気功を阮小二は解除した。が、
(うそ!?)
自分の体が沈まない。解除した気功のまたすぐ足下で何か堅いものに触れる。岩場、のわけがない。明らかにそれは別の感触だった。そして、その混乱を敵は見逃さなかった。
「あぐっ……」
左腕に衝撃。剣で打たれたのだろう。焼け付く痛み。おそらく切られている。だがその勢いを利用して阮小二は横へ飛んだ。今度は間違いなく水の中へと体が沈む。だが、傷口に水が触れたせいで切られた時とは異なる激痛が体内に走った。
(けど、とにかく、逃げなきゃ……!)
阮小二はそのまま深く潜る。敵からの追撃はそれ以上無かった。
「な、なんとか撃退したか」
固唾をのんで戦闘の行く末を見ていた彼――壇州の総兵菅は水の中に女の気功使いが消えたのを見てほっと息を吐く。
部下の中に気功使いが一人いたことを思い出したのは部下に荷物を捨てるよう命じた直後だった。その男に命じたところ、この船一つなら動かせる問いう事だったので、まずはこの船を着岸させた後に気功使いの迎撃を命じたところ、彼は見事やってのけたわけである。もともと船の運航に支障が出た際に使えるかと思って同行させていたが、船旅が順調だったのでぎりぎりまですっかり存在を忘れてしまっていた。
「うむ。しかし、さすがわし」
鼓舞も兼ねて自画自賛しておいてから、改めて状況を見渡す。すでに接岸の終わったこの船は下船の準備を始めている。後続の船はだいぶあるが、あの女の妨害さえなければ順次こちらに来れることだろう。気功使いの部下にもそれを第一任務とするよう言い含めてあった。それを守っているんのだろう。彼は気功使いがいなくなった後は静かに周りを睥睨していた。
今の一連の攻防を見た限り、近接戦ではこちらの気功使いに明らかに分がある。このまま、後続の船が妨害を受けること無く次々に接岸できれば、後はあの気功使いの妨害の無い、陸上の戦いだ。
水上の戦いから視界を外し、彼は部下たちに斥候を命じた。とにかく、この地にいる友軍と連絡が取れなければ話にならない。
(なんだかなぁ……)
阮小五は釈然としない思いを抱えたまま、馬を走らせていた。同乗している公孫勝は未だに目を覚まさない。そして、自分の後ろでは無言の雷横が鞍も鐙もないのに器用に同乗していた。
楊志はいない。彼女は宋江や朱仝の無事が確認できるまでは自分だけ安全な場所に行くわけにはいかない、と主張したからだ。ひょっとしたら自分の今使っている馬が役に立つかもしれない、と。阮小五は林冲に頼まれたこともあり、楊志の説得を試みはしたのだが、時間が惜しかったこともあり、早々に諦めて、雷横だけを自分の馬に載せ替えて残りの三人だけで出発したのだった。
(けど、これじゃオレが薄情者みてぇじゃねぇか)
もちろん、雷横も楊志も自分をそんな風には欠片も思ってないだろう。林冲の言葉を聞いていればなおさらだ。だが、雷横が現状に納得がいってないことは顔を見ずとも感じ取れる。彼女が楊志と違ってすんなりとついてきたのは馬が余分になかっただけに過ぎないだろう。
(それに、結局オレは何もできなかったな)
自分のやったことと言えば、宋江達を山まで迎えに行ってそしてこの二人を連れて戻ってきただけだ。さらに言えば、公孫勝はともかく、雷横は明らかに馬を操れる程度の体力と技量は残っているはずだったから、自分が彼女を連れ帰る意味はあまりない。馬の体力の問題を考えれば、自分などいなくても良かった程である。
(……あいつより俺が残った方が良かったんじゃねぇか。少なくとも今のあの女よりは俺のほうが役に立ったろうし)
フラフラになっていた楊志の顔を思い浮かべてそうごちる。お互い全力ならまだしも楊志は明らかに疲弊しきっていた。ぶつくさとそんな風に考えていると、やがて河音が聞こえてきた。
「そろそろ着くぞ」
ようやく話せそうな話題にありついてそう後ろの雷横に話しかけると、彼女はうん、と短く応じた。
丘を超えると、河の水面とその手前の自分たちが乗ってきた船が見えた。
船の上には魯智深と黄信がいて、こちらに気づくなり向かって大きく手を振っている。が、切羽詰まった表情から察するに何やらおかえりという雰囲気でもない。
「阮小二が敵に切られたのよ!!」
近づいていくと、こちらに走ってきた魯智深は一切の前置きもなく出し抜けに告げた。
「は? 敵って一体……つーか、姉貴はどこだよ!?」
言ってすぐに先程自分たちが出発した際には見かけなかった船が沖合に何艘もいるのが目に入った。
「わかんないわよ!あのあたりで敵に切られてそのまま河に沈んでったんだもん!! あたしも黄信も泳げないから探しに行けないし」
「ああもう、何やってんだよ姉貴は! ここにいるのが仕事だろうに! わかった。オレが探す。あの岩のもっと先だな」
「水面に男が立っているでしょ! その辺りよ! ところでそっちは……ああいい! この子に聞くから早く阮小二をお願い!」
「わかった。くそっ、どいつもこいつも好き勝手やりやがって!」
自分のことを完全に棚に上げて阮小五はそううめくと、河原を飛び跳ねるようにして上流に向かって走り出した。
「で、えーとあんたが朱仝? 雷横? どつち? ああ、あたしは魯智深で後ろにいるのが黄信ね。それとそこでのんきに寝てるのは誰? 他の連中は?」
阮小五が走っていなくなると同時、目の前に登場した袈裟姿の女はやはり前置きなくこちらに矢継ぎ早に質問してくる。少し面食らったが、雷横は事前に人となりを林冲や宋江から聞いていたせいか、割合落ち着いて対処することができた。
「あたしは雷横。で、こっちが寝てるのが公孫勝だよ」
と言いながらこの眼の前の女は公孫勝のことを知らないのか、と少し訝った。阮小五の仲間であるのは間違いないはずだが。
「で、他の人なんだけど……」
雷横は手早く、自分たちが山から降りてきた後のことを魯智深に説明した。
「まずいじゃないの、どう考えたってただごとじゃないわよね。それで宋江たちは今どこにいるの!?」
「ちょ、ちょっと、それがわからないから林冲さんが探しにいったわけで……」
「魯智深殿、焦る気持ちはわかりますが、雷横殿を詰問しても……」
と、もう一人の女、黄信といったか、がこちらに食いかかってきそうな魯智深の手を抑える。
「ぐっ、こいつは何も知らないの!?」
魯智深はそう言ってこちらの胸元にいた公孫勝の首根っこをつかみあげた。特に抵抗する理由もないのでそのまま、渡す。
「この人、山を降りてる途中からずっと眠りこけてたし……」
「眠りこけてた?」
「えっと……」
と何やら癇に触れたように声色を変える魯智深に対して、雷横が仔細に説明しようとした直後、魯智深はいきなり、公孫勝を放り投げた。小さな体はふんわりと放物線を描き、バシャーンと水音を立てて、河の中に落ちていった。
「ちょおおおおおおおおっ!!!」
思わず絶叫する。
「あ、あんた、何してんの!?」
「こうすりゃ嫌でも起きるでしょ! 悪い!?」
「悪いよ! 浮かんで来なかったらどうするつもりなのさ!!」
「あばっ! あばばっ! がぼっ、ゴボッ、な、なんじゃ、何があった、げほっ、げほっ」
魯智深と雷横が言い合う横でやはり慌てた様子の黄信が公孫勝を河から拾い上げる。幸い、さほど深いところではなかったようだ。
「ああでも、起きるんだ、あれで」
結果的に魯智深の行動が正解だったことが不本意で思わず雷横はそうつぶやいた。
「ら、雷横! なんじゃ、ここはどこじゃ! こいつらは誰じゃ!」
一瞬にしてずぶ濡れになった公孫勝が黄信の腕から抜け出しばたばたと暴れる。
「あー、えっと……どこから説明したものかなぁ」
先程魯智深に話したことを再度話す事を考え、雷横がかすかに徒労感を覚えた直後、さらに予想だにしなかった事態が現れた。
「そんなの、駄目ですっ……!」
反射的に宋江が反駁すると、朱仝は微笑みと嘲笑の入り混じった薄い笑みを浮かべた。
「私もできるなら進んで犠牲になどなりたくはありません……ですが、どうでしょう、林冲さん」
と朱仝は林冲に水を向ける。
「正直言って、私はもう体力的に限界。宋江さんも似たようなものでしょう。秦明殿が負傷したこの段階で五人全員が無事にここを脱出できる算段はおありですか?」
「……少なくともこうすればいいと自信たっぷりに提示できるような方策はないな」
宋江はそんな林冲の言葉に反論しようとして、しかし、何も説得のための材料が無い事に気づいて、口をつぐんだ。もともと朱仝への反論ですら、材料があったわけでもないが。
「秦明、君はまだ走れるな?」
「寝てる場合じゃないのはわかってるからね、出発するの?」
秦明はそう言うとよろめきながらも体を起こそうとする。
「ま、まだ大丈夫ですから。寝ててください」
宋江がそう言ってまた寝かせる。秦明は抵抗することもなくあっさりと横になった。血を失ったのもそうだが、それを機に朝から動き続けたつけが一挙に回ってきたのだろう。彼女の意識は急速に朦朧とし始めているように見えた
「私なら一人は確実にこの包囲網から一緒に連れ出すことができる」
林冲はそう言って宋江の肩に手を置いた。
「君は妹さんとの約束もあるはずだ」
その言葉は宋江にとって、この状況下でもっとも聴きたくない言葉だった。安易な自己犠牲は、いやたとえ安易でなくとも自己犠牲は許されない、という戒めの言葉。
「……ねえ宋江、あたしが昨日の夜にした話を憶えてる?」
唐突に会話に乗り込んできたのは、花栄だった。ふとそちらを見れば、彼女はこちらに背を向けたまま、言葉を続けた。そして、林冲や朱仝がきょとんとしているのを見て、この中で昨日の夜に花栄といたのは自分だけだということを宋江は思い出した。
「あんたがこの群れの頭だろう、宋江。あんたが決めるべきだ。何をどうするのか」
優先順位。昨晩の花栄はそういった。自分にとって重要な事はなんなのか、誰に生きていてほしいのか。
宋江はそこにいる面々をぐるりと見渡した。花栄、朱仝、林冲、そして秦明。
それからここにいない面々のことを頭に浮かべた。楊志、魯智深、公孫勝、雷横、黄信、阮小二、阮小五、索超。それから呉用と宋清、阮小七。
呉用と宋清には必ず帰ってくると約束した。楊志と秦明にはまだ話したいことがたくさんある。林冲と魯智深には世話になりっぱなしだった。ここにきたのは朱仝と雷横、索超を助けるためだった。公孫勝の意識は結局もどったのだろうか。姉が帰らなかったら、阮小七はどう泣くだろうか。様々な思いと顔が浮かんでは消えた。
(……だめだ)
色々なことをまとめて考える力など自分にはない。階段を登るように一つずつ、考えなくては。まず、この場で最初に助けるべきは誰だ。
(……秦明さんだ)
それほど長く考えること無く、結論は出た。
本来、この件には何も関係ないのに、自分の役に立つためというたったそれだけでここまで来てくれた人。そのために重症を負ってしまった人。自分のことを……好きだと言ってくれた人。
「林冲さん。秦明さんのこと、お願いします。秦明さんを安全なところに届けてください」
「む、しかしだな……」
「お願いします」
理屈ではかなわない、と考えて宋江は頭を下げた。しばらく沈黙が続いた。が、ややあって林冲がはあ、と息を吐いた。
「仮に私がはいと言ったら、君はどうするつもりだ。せめてそれを教えてくれ」
「え?」
そう質問されて宋江は固まってしまった。秦明を林冲に託すというたったそれだけの結論を出すので精一杯でその後のことは全く何も考えてなかったからだ。
「えっと……」
助けを求めるように周りを見渡すが、天幕の中には寝台が一つあるだけで、大したものは何もない。
「何もないならさすがに君の命令に従うわけには……」
「じ、時間稼ぎ! 時間稼ぎします! また助けが来るまで!」
「……だめ……」
反論したのは林冲ではなかった。自分の服の胸元をつかむ秦明だった。
「一緒じゃなきゃ、いや……」
彼女は言葉少なにそうとだけ言った。宋江は少したじろいだものの、すぐに落ち着いて、その手を握り返す。
「ごめんなさい。僕は……秦明さんが生きてないと絶対いやなんです」
秦明の視線の焦点はぼんやりとしたままだったが、宋江の服を握る手の力は微かに弱まった
「林冲さん、お願いします」
と宋江が再度言ったと同時、外が騒がしくなりはじめた。河清がこちらが取引に乗らないと判断したのだろう。
「お願いです。なんとか、林冲さんが帰ってくるまでもたせますから」
「くそっ……!! 花栄! 君も残ってくれ! 宋江を頼んだぞ」
周りの状況から判断してこちらを信じる他ないと判断したのか、林冲は秦明のぐったりとした体を受け取ると、花栄にむかって叫んだ。
「ちょっと待って! いくらなんでも周りから飛び込んでくる兵士を止めるのはあたし一人じゃ無理!!」
「そこは……こうします! 朱仝さん、花栄さん、こっちに!!」
それはほとんど思いつきだった。朱仝と、一瞬迷った表情を見せたものの結局諦めたように息を吐いた花栄が周りに集まったのを確認すると宋江は息を大きくすった。
「気合を! 入れろおおおぉぉぉ!!!」
自分に向かって激を飛ばし、地面にバンと手をつく。すぐに宋江たちをからめとるようにして地面から樹木が爆発するように伸びた。




