その二十二 林中、陣中を駆けるのこと
4年もの間、なんの音沙汰もなく、申し訳ありません。この続きも現在書いております。
よろしければまたお付き合いください。
7/19追記
あまりにも前回から時間が経ちすぎているので今までのあらすじを書いてほしい! との要望が何件か寄せられましたので以下に超簡略版ですが、あらすじをおいておきます。
・宋江達は敵に囲まれた雷横と朱仝達をみんなで助けに行ったよ!
・潜んでた森に火つけられたりしてわりとみんなボロボロだよ!
・これから敵陣を突破して仲間の待ってる船にたどり着いて、脱出しよう!
目の前の光景は不気味さを感じる程に静かだった。
荒涼とした原野と、倒れ伏した数十名の兵の死体、そしてその向こうに申し訳程度の柵と無数の粗末な天幕がある。
(不気味と言うより、落ち着かないと言うべきかな……)
林冲は考え込むように軽く顎に手を当ててそう表現し直す。
林冲のいる場所は山の裾野にあった森の出口とも言うべき場所だった。彼女の姿を遮るものは無く、彼女の視界を遮るものも、天幕以外は何もない。つまりは堂々と姿をあらわしているのだが、敵からは攻撃はおろか、姿さえ見せる気配がない。つい先程、林冲が屠り、今倒れ伏している数十名の兵を除けばだが。
彼らはこの森の入口に配されていた部隊の兵だが、ここに倒れているので全員、という訳でもない。林冲が倒したのはおおよそ三分の一程度で残りは指揮官らしき男を殺した途端に逃げていった。
つまり、逃げた兵の報告を聞けば、自分が森から出てきたことは敵の指揮を取っているはずの河清にはわかりきってるはずなのだ。いや、河清ならば兵士の報告を聞くまでもなく、音でこちらの位置を把握しているだろう。にも関わらず、敵にはこちらを補足しようとする意思がまるでみえなかった。
(罠、ということなのだろうな……)
確かに、河清が自分たちを相手取って正面からぶつかってくるというのは考えづらい。どの程度のものかはさておき、何らかの仕掛けは準備しているだろう。
次いで、林冲は後ろを振り向いた。そこには先程遅れて到着した宋江達が静かに馬に乗る準備を進めている。ぶるる……と馬がいななく声と彼らの後方で森の木々がパチパチと燃えている音以外は何もしない。会話がほとんど無いのは、河清の能力を警戒して、というよりも単純に疲労のせいだろう。
馬は元々奪っていた三頭に、さらに先程敵から奪ったばかりの三頭で計六頭となっていた。こちらは九人なので気絶している公孫勝は阮小五が、まだ馬に不慣れな宋江には花栄がそれぞれ同乗することになった。これで林冲以外は全員騎乗している事になる。
「楊志、私が合図するまで少しここで待っててくれ」
「わかったわ」
そう短いやり取りをかわすと、林冲は無造作に天幕の前に設置された柵に近づくと、それを蹴倒した。バターンと大きな音がしたが、やはり敵からはなんの反応もない。辺りを慎重に探ってみるが、落とし穴のようは罠は見つけられず、敵が隠れている様子もない。
改めて正面を見る。目の前の天幕は隙間なく並べられているわけではない。特に中心には一際大きい、馬が数頭並んで通れる程の幅の空間があり、この陣地の中心を通っている。ここを一挙に突っ切っればもう河に出るのだが、そこで目を凝らしても敵は見えない。
罠があるとすれば天幕の影に兵を隠す程度が関の山だろうが、規模としては数名程度であり、大した驚異になるとは考えづらかった。
ここを通らないとすれば、この並ぶ天幕の外側、すなわち、敵陣の東か西を大きく迂回して河岸を目指すということになるのだろう。とは言うものの魯智深のいる船が東側にある以上、西側を選択する利点は無かった。
まず、間違いなくこの状態は河清の罠だ。だが、その罠がどんなものなのか、さっぱり想像はつかないし、時間をかけたところでわかるものとも思わなかった。
(だとすれば……)
やはり力押しでその罠を食い破るしかないのだろう。林冲はそう判断した。先ほど、秦明が言ったとおりだ。知恵比べならともかく、力比べならこちらに分がある。
少しだけ考えて、林冲は正面の道を馬鹿正直にまっすぐ進む事にした。くじ引きでもあるまいし、アタリなど河清は用意していないだろう。それならばせめて先が既にある程度見通せている正面の道がもっとも良い。
林冲は再び後ろを確認した。既に全員が馬に乗ってこちらからの合図を待っている。林冲は先頭の楊志にここまで来るように身振り手振りで合図した。
ダメ元であったが、耳をそばだてる。河清のような超人的な聴力が無くとも、軍勢が動くなら何らかの音が聞こえてもおかしくない。河清はおそらく、楊志達の乗る馬の蹄の音からこちらが本格的に動き出したのを察したはずだ。だが、相変わらず敵陣はしんと静まり返っている。
近づいてきた楊志に手振りでまっすぐ行くと伝える。彼女は特に反論せずに、無言で頷いてさらに後方にそれを手振りで伝えていった。
ここまで至れば後は慎重になどとは言っていられない。拙速は巧遅にまさる。走り初めた時点で自分たちの通る道筋は決まり、河清はそれに対応しようとするはずだ。
(理想的なのはその対応の時間すら与えないこと)
即ち、最速でもってこの場を駆け抜ける。
「みんな、本気で行く! ついてきてくれ!」
振り返って一方的にそう言った後、林冲は体内の気を練り上げた。呼吸を繰り返し、貪欲にあたりの気を集め、それを脚部に溜め込む。そして、一気に爆発させた。
「きゃっ!」
こちらが巻き上げた土煙に驚く楊志の声が聞こえるが、構わず林冲は駆け出した。最初の三歩で最高速度に達し、敵陣へと飛び込む。
走り始めてから十ほど数えたところでごうごうとなる風音の向こうからそれを突き破るようにときの声が上がった。南東方面、すなわち林冲から見て左前方。多数の人間が動く音。距離まではつかめない、その方向を見ても天幕が邪魔して様子を見る事はできない。ただ、こちらに近づこうとしている事はなんとなくわかった。
やがて、視界が急に開ける。ほぼ敵陣の中心地。通路が東西南北で十字に交わる交差点だった。
「いたぞ! 逃がすな!!」
その声は左手、すなわち東から聞こえた。何百名かの兵がこちらに近づこうとするが、槍はおろか、弓矢すら届かない距離である。今はまだ、ということだが。
(あの距離なら……おそらく、追いつかれることもない)
ちらりと背後を見て、林冲はそう結論付ける。万が一追いつかれたとしても最後尾には秦明がいる。秦明なら防ぐことも可能だろう。それに……
「こっちだ! 急げ!」
正面。河岸の方角から敵が躍り出てきた。左手から出てきて、こちらの行く手を阻むように道いっぱいに広がる。
(挟み撃ち……か……)
なんとなくそんな予感はあったので驚かなかった。林沖は左手の敵を無視し、さらに直進する。
「来たぞ、通すな!! 盾構え!」
みるみるうちに距離は詰まり、隊長格らしき男がそう叫ぶ。予め用意していたのか、兵士はすぐさま盾を構え、横一列に並ぶ。
「一度だけ言ってやる! 死にたくなければ、そこをどけ!!」
そう吠えて林冲は加速をそのままに飛び上がって先頭の一人を蹴り飛ばした。加速の乗った蹴りを受けた男は盾ごと木の葉のように吹き飛び、他の数名の兵士と折り重なるようにして倒れる。
「な……」
「警告はしたぞ」
呆けている兵士の一人から槍を奪うとあっという間に周りの人間を吹き飛ばし、こじ開けるようにして軍勢の中を突き進んでいく。
「止めろ! 誰一人として通すな! 後ろの連中もだ!!」
この場で一人だけ馬に乗った男がそう吠える。それがどうやらこの軍勢を率いている人間らしかった。軍勢の最後尾に居て兵士が逃げないように目を光らせているようだった。
(ということは、逆にあの男さえ排除してしまえば、兵は崩れる)
林冲はそう判断すると、敵を屠る事よりもその男に近づく事を優先させた。槍を構え、一直線に突撃する。
「こちらに近づけるさせるな! 左右から押し潰せ!」
その馬に乗った男が必死に声を張り上げるが、林冲の勢いは止まらない。程なくして林冲はその男の正面にたどり着いた。
「このっ……」
「遅い」
槍を構えかけたその馬上の将の足元に入り込むと、林冲は下から無造作にその男の脇腹に槍を突き刺した。臓腑を突き刺した感触があったが、男は必死にこちらの槍をつかもうと抗う。しかし、林冲が槍をさらに男の体内にねじり入れると、その抵抗も止んだ。
(こちらに河清はいないのか……)
白目を向いて倒れる男から視線を外して、林冲はその事に気づいた。
辺りを見回す。もはや前方には敵は愚か人影すらおらず、横では主を失った馬が落ち着かなげに首を振り回している。振り返ると、兵士が数名おののいたように上体をのけぞらせて、総兵管が……! と叫んでいる。先程林冲が殺した男がそうだったのだろう。
その向こうでは楊志が剣を振るい、怒涛のように押し寄せる敵を追い払おうとしていた。が、武器が短い剣の上に、疲労で動きに精彩を欠いており、苦戦しているようだった。
「このっ! 離しなさいっ!」
河清の事を一旦頭から追い払うと、林冲は楊志の元へとかけつけた。敵の半数はこちらに背を向けており、背を向けていないものは突進してくる林冲を見るやいなや逃げ出す。今にも楊志に襲いかかろうとしている数名を跳ね飛ばして、林冲は叫んだ。
「お前らの将はこの林冲が討ち取ったぞ!!」
注意を引きつけるために大声で叫ぶ。乱戦のさなかにあるせいか、視界に収まっている兵のそのさらに半数程度にしか声は届かなかったようだ。だが、その半数は虚を打たれたようにこちらを向く。とはいえ、その大半が林冲の言った言葉の意味を今ひとつ理解できていないようだった。
「もう一度言う! 殺されたくなければ邪魔をするな!!」
それでもこちらの言うことに理解が及ばなかったのか、あるいはそれでも戦意を捨てなかったのか、兵士の一人が槍を突き出してきた。だが、林冲はその槍の穂先を上から踏みつけた。敵の手からあっさりと槍が地面に落ちる。
「蛮勇だな」
その言葉にはっと敵の顔が怯えが走る。次の瞬間、林冲の槍が喉元に突き刺さった。倒れ伏す男を敵兵に向かって蹴り飛ばし、再度声を張り上げる。
「次にこうなりたいやつはどいつだ!」
「ひっ!」
「にっ! 逃げろっ!!」
ここまでやれば後は敵は獣のように散り散りになって逃げていく。将という監視役がいなければ好き好んで戦おうとする兵士はほとんど居ない。ましてや相手が自分より圧倒的に強いとなればなおさらだ。
「あ、ありがとう。助かったわ」
「礼には及ばない。他の皆は?」
こちらの問いに楊志は慌てて左右を見回す。楊志の少し後ろに馬が倒れており、その横でふらふらと見覚えのある影が立ち上がった。
「雷横殿、無事か?」
「ぎ、ぎりぎりなんとか。でもごめん、馬はやられちゃった」
その人影、雷横は敵から奪ったらしい槍を支えにしながらなんとか立ち上がる。新たに怪我を負ったということではなさそうだが、もともと半死人のような状況だったので、もう立ち上がるのも精一杯といった様子だった。
「楊志。お前の馬にまだ乗せてやれるな」
「ええ」
「ごめん。最後まで世話になるよ」
雷横は言って、よたよたと楊志の助けを借りて彼女の馬に乗り上がる。
「おい、やばいぞ、後ろの連中が来てねえ!」
そこに合流してきたのは阮小五だった。背中には相変わらず気絶しているのか、寝ているのかよくわからない公孫勝を背負っている。こちらは馬も目立った怪我も無いようだった。
「何……?」
林冲は阮小五から視線を外して、その後方を確認すると、自分たちの突撃時の並び順を思い出した。
先頭から林冲、楊志、雷横、阮小五と公孫勝、朱仝、花栄と宋江、そして秦明。つまり、朱仝以降の後ろの四名がまだ来ていない。
林中の視線の先。そこでは、敵兵がこちらに背を向けて走っている。と言っても、先程逃げ出した兵士達ではない、その前に林中が確認しつつも無視していた東側からきた一隊だろう。彼らの様子は明らかに逃げているのとは違う。目的に向かって進んでいくという確固たる意思がその背中から感じられた。ほぼ間違いなく宋江たちが彼らの先にいるのだろう。こうした自体に備えて花栄や秦明は後方に配置していたのだが、にも関わらず、彼女らが未だ敵を突破できていない事に林冲は慄然とした。
「私が行く! 四人はこのまま船まで戻ってくれ!」
「林冲、待って、私も……!」
「駄目だ!!」
楊志の言葉を林冲は強く拒絶する。
「でも……!!」
「君の乗っている馬も体力的に限界だ。二人乗ったらまともな動きは望めないだろう」
「なら、あたしは降りるけど」
雷横から即座に提案があがるが、それでも林冲は首を横に振った。はっきりと言うのは憚られたがここにいる四人は誰も林冲にとって足手まといなのだ。
「とりあえず……私を信じてくれ、頼む」
理屈を抜きにしてそう言うと、こちらの言葉にとっさに反論が思いつかなかったのだろう。楊志と雷横が困ったように顔を見合わせる。
「阮小五!」
「お、おう……!?」
「三人を頼んだぞ! 必ず船に到着させてくれ!」
それだけ言うと、林冲は阮小五の返事も聞かずに駆け出した。
じんとうずくような痛みを感じた。体のどこから来る痛みなのかわからない。というより体の感覚自体が曖昧だった。一体どこまでが自分でどこからがそうでないのか。まるで自分の体が別の何かと一体化したような……。しかしそれは幻覚のはずだった。でなければ痛みなど感じるはずもない。けれどどうなのだろう、もし自分が地面と一体化していたら、やはり踏まれれば痛いのだろうか。
(……っ!)
唐突にそんな妄想じみたことを考えている場合でない事を思い出し、黄信は跳ね起きた。と、今度こそ、強烈な痛みが左肩から発生し、骨を通して全身に響く。
「あっ……がっ……!」
「黄信、起きたの?」
痛みのせいで額に脂汗が弾けるように飛び出てくる。その向こうでそんな自分の切迫した状況とあまりにそぐわないのんびりとした声が聞こえた。魯智深だ。
「……状況は、どうなっていますか?」
痛みを堪えるためにしばしの沈黙を挟んで、黄信は尋ねる。
「……ほとんど何も変わってない……というべきかしらね」
少し眉根を寄せて、魯智深はそう答えてくる。黄信はそこで初めて辺りを見回し、いつの間にか自分が元いた船に戻っていることに気づいた。そして横に寝かされた見知らぬ人物が一人いることも。
「あなたの横に寝ているのが索超って人らしいわ。あたしはその子と一言も話してないけど、楊志がそう言ってた」
「楊志殿は戻られたのですか?」
「ええ。その子だけ置きにね。で、まだ宋江が山の中だからって花栄と一緒にとんぼ返りしたわ」
「……そうですか」
その辺りの詳細は黄信にはあまり興味の無い事柄だった。つまり、魯智深の言うとおり、あまり事態は変わってはいないらしい。つまり、秦明や宋江は未だに戻らず、救出対象の四人のうち、一人しか連れ帰れていない。
そこまで思考を巡らせて、辺りがやけに静かなことに気づく。
「敵兵は来てないのですか?……?」
「あまりこちらには興味ないみたい……少し頭の回る敵ならこっちを襲撃してきそうなものだけど、何を考えているのやら……」
「その程度の事も気づけないほど混乱しているのでは?」
「そうじゃないと思うわ。多分、敵は山からでてくるあいつらをどうにかして止めようとしているのよ。全兵力を使っている」
続けて、魯智深は山とは逆方向に指を差して口を開いた。
「あるいは、あの連中に相手をさせようとしているのか」
「あの連中……?」
指し示された方角を見ると多数の軍船がこちらに向かってきている。敵の援軍なのだろう。
(……たかが十数人の捕物に随分な人数をかけてくれる……)
危機感が心を占めながらも、敵の大仰な対応がおかしくて黄信の口角を少しばかり釣り上げさせた。
「……そう言えば……阮小二殿は?」
敵の軍船に話題が及んで、黄信はふとこの船にいるべき人間が辺りを見回しても居ないことに気づいた。
「ああ、あの人なら……あそこよ」
と魯智深は再び軍船の方向を指差す。いや、厳密にはその少し手前、そこにまるで船を相手に立ちはだかるように人影がいることに黄信は気づいた。本来立つことのできない水面の上に立ったその人影は阮小二のものだろう。他にそんな芸当ができる人間を黄信は知らない。
「……あの方は何をされるおつもりなのですか? まさか一人で相手するつもりで」
「相手するのとはちょっと違うけど……けど、うまくはまれば面白いことになるわ」