その二十 雷横、友人に弄ばれるのこと
「ひい、ふう、みい……全部で十五隻かあ……」
「あのくらいの規模の船となると最低でも六十人……下手すると百人ぐらい乗り込んでますね」
「……千五百人もいるってこと?」
「か、かなり無理をすればという話ですから……多分、実際には乗ってるのは一隻に八十人くらいじゃないですかね……」
魯智深が懐疑の眼差しで振り返ると阮小二は慌てて訂正するように言ってくる。
(まあ、あれだけの大船団で三百人かそこらってわけもないし……多少人数が変わったところで大差ないか……)
おろおろとする阮小二から視線を外し、魯智深はこちらに近づいてくる船団を改めて眺めた 。
「しっかし……たかが数人かそこらの脱走犯を追うにしちゃちょっと大げさじゃないの?」
魯智深はついそうぼやいた。とはいえ、おおよその背景は推測できる。この事件にはこの国の最高権力者の一人である蔡京が関係している。彼の歓心を買いたい近隣の知州の下心をあの河清という男はそれを最大限に利用したのだろう。蔡京に名を売る好機だ、と言えば近隣の知州は一も二も無く兵の派遣を決めたに違いない。
(少なく見積もって……千かそこらってとこかしら……)
意味が無いとわかってても魯智深は反射的に敵兵の数を見積もった。それは見積もりというよりも期待に近いものだったのかもしれない。どの道、千だろうが千五百だろうが危機的という意味ではさほど変わりない。数だけで考えるなら自分たちは二十にも満たないのだ。
「……さて、どうしようかしらね。宋江達が戻ってくるのはまだまだ先の話だろうし……」
「でもあの人達もすぐには上陸できないと思います」
「そうなの?」
魯智深はその答えに再び阮小二を振り返った。今度は彼女は狼狽えることなく、こくりと頷く。
「ええ、あれだけ大きな船だとどこにでも接岸できるってわけじゃないと思いますから。それなりに水深とかが無いとここに来る前に座礁してしまいます」
「見たところ、あの船よりも大きそうだものね」
魯智深は上流で火を上げている船をちらりと見て同意を示した。阮小五が火をつけて周った船はその勢いを弱めつつも未だ白煙を上げている。周りにはまだ鎮火を試みている兵士が大勢いる。仮にあそこに船がつなげられるとしても、阮小二の言うとおり時間がかかるだろう。
「って事はこのまま放っておいても大丈夫ってこと?」
「でも、あのままあそこに居られると、今度は逃げるときに困ったことになるんです。矢でも射掛けられたら、こんな小舟、ひとたまりもありませんし……」
「かと言ってあれだけの兵に上陸されたらそれこそ逃げるどころじゃないわねぇ……」
結局、敵である以上、どこにいたって問題となることには変わりない。
「つまり……あの船がこのまま上陸もせず、かと言って、あたし達が逃げても追ってこれないような、そんな状況になればいいのね……あるかしら、そんな方法……」
無いわよねえ、と小さく呟く。
「……いえ」
その魯智深の呟きをさらに否定する言葉がぽつりと阮小二の口から紡がれる。だが、阮小二はそれ以上、言葉を続けなかった。黙ってじっと水面を見ている。魯智深が先程の阮小二の一言は空耳だったかと思う頃になって再び口を開いた。
「……できる……かもしれません」
言って阮小二は波紋一つ立てること無く、水面の上に降り立った。
「……はい。これでおしまい」
そう言って雷横は手元の包帯を少し強めに引っ張って結び目を作り上げた。さらにその結び目をそれを少しいじって、緩みがないことを確認する。
「ありがとうござ……」
「礼を言われる程の事じゃないよ。お礼ならその包帯を持ってきた秦明さんに言いなよ」
宋江の言葉を途中で遮るように言って、雷横は膝についた土を払った。改めて見る彼の頭と上半身に巻かれた包帯は既にところどころから血が滲んでいて赤くなっている。脇腹のあたりについ先程、自分が作った包帯の結び目がある。
「いいえ、雷横さん。私からもお礼を言わせて。私だけじゃこんな風に手早く包帯巻いたりできなかったし、本当に助かったわ」
秦明……突如として現れたその女性は宋江に服の袖を通させながらこちらににこにこと笑っている。
「いえいえ、そんなお礼なんてもったいない。怪我の原因はほとんど雷横にあるんですから、容赦なくこき使ってくださいな」
「それはそのとおりかもしれないけど、朱仝に言われるとすごくイラッと来るんだけど」
調子の良い事を言う朱仝にぶすっとした顔で不満を露わにしてみるが、元より其の程度で彼女が動じるわけもない。その彼女の横では未だ目を覚まさない公孫勝が岩の上に寝かされていた。
五人がいるのは先程、宋江が雷横とともにおちかけた崖の横にあるなだらかな斜面である。辺り一帯は公孫勝が呼び出した大量の水が霧のように降り注いだせいで、火が消えている。ちょうどよく座るのに適当な木や岩が転がっているため、小休止にもって来いの場所だった。もっとも朱仝と公孫勝はつい先程、ここに到着したばかりだし、雷横と秦明は今の今まで宋江の応急手当にかかりきりになっていたため、実際には休憩などまるでできていなかったが。
(それにしても……この人が秦明か……)
雷横は朱仝を強引にどかしてその横に座ると正面にいる宋江の隣にいる赤毛の女性の名を心中で呟いた。腰のあたりまで伸びた長い赤毛は毛先に少しばかり癖がついている。身につけていた甲冑と狼牙棒が脇に置かれているが、そんなものを扱うとは思えないようなにこにことした柔らかな顔が印象的な女性だった。
彼女の名は雷横も聞いたことがある。青州の総兵管、秦明。女性でありながら若くして一州の総兵管まで昇り詰めた破格の存在。女性で総兵管にまでなった人間はこの国には何名かいるが、秦明のように二十半ばにも満たない歳でその地位に辿り着いた人物となるとおそらく片手で数えられる程しかいない。実力のみならず運や家格など様々な事が合わさらなければ成し得ない事だろう。その、言わば軍人としての栄達では遥かに恵まれ、幸運をつかんだはずの人物が宋江に……言い換えれば盗賊に手を貸しているというのは雷横にとって少々信じがたくはある。
それだけでも目を白黒させるのは十分すぎるのに、雷横の混乱に拍車をかけたのは、秦明の宋江に対する態度だった。先程、彼女自身が口にしたとおり、秦明自身は手先が不器用な事もあって(雷横の見るところ、これは謙遜というわけでは無さそうだった)、宋江への応急手当は雷横がやっていたのだが、その間も彼女は宋江に水を飲ませたり、汗を拭いたり、足を揉んだりと、実に甲斐甲斐しく世話をしていた。今もまるで自分が椅子の背もたれになったかのように宋江の体重を預けさせてながら手を握っている。正直、見ているだけでも恥ずかしい。
「あ、あの、秦明さん。もう僕大丈夫ですから……」
と、その気恥ずかしさは宋江も感じるところなのか、もごもごとそんなことを言い出す。
「駄目よ、無理しちゃ。宋江くんたら落ちてきた時、目も開けてくれなかったのよ。私本当に生きた心地がしなくて……」
「ご、ご迷惑をおかけしたことは謝りますから、えっとこの状態は少し……」
「いや?」
その反応を半ば楽しむかのように秦明は宋江の体に腕を回す。もはや宋江の頬は林檎のように真っ赤だった。
「い、いやとかじゃないですけど、その、ちょっと恥ずかしいなって……」
秦明に抱きすくめられた宋江が顔を赤くしてこちらをちらりと見る。そんな視線をこちらに向けられたところでどうしようもないので、雷横は視線を外すしかない。
(……楊志さんはこの二人のこと、知っているのかしら?)
目の前ではしゅうしゅうと、倒木が白煙をあげている。その煙をぼんやりと見ながら雷横は、そんなことを考えた。複数の女性を娶るのはそれほど一般的ではないとはいえ、目を剥くほど珍しいというわけでもない。一財産作った男なら妾の一人や二人はいるものだし、高級官僚ともなればその数は二桁に上る事も珍しくない。
もっとも宋江がしがない農村の出身の……しかもおそらくは小作人か何かなのに対し、楊志はこの国の建国以来の名門の出身で、秦明は総兵管という異例の出世を果たした人物である。平たく言ってしまえば、これはいささか不釣り合いにも思える。
「……と、とにかくですね……えっと、ほら、他の皆さんの事もありますし、いつまでもこうしてるわけにはいかないですから……」
宋江はそう言ってぐっと秦明の体を引き剥がした。秦明は少し不満気な様子を見せつつもとりあえずは宋江に従って少し距離を置く。
「けどね、宋江くん。そうは言ってもちょっと今はどうしようもないと思うの、ほら」
そう言って秦明は麓の方角を指差した。宋江と雷横もその秦明の指差す方向を向く。
とはいえ、雷横は今更のように注意を向けなくとも秦明の言いたいことはわかっていた。彼女が指差した先では、轟々と燃え盛る炎が森に広がっている。こちらが風上ということもあり、自分たちの周りは奇跡的と言っていいほどに炎熱から逃れているが、それから一歩外に出れば山火事は相変わらず続いているのだ。つまり、麓に行こうと思ったらあの灼熱の森にとびこまなければならない。
「……秦明さん、ここを抜けて来たんですか?」
「ええ、私の火外功なら火を進路から一時的にどけるくらいの事はできるわ。けど、同じ方法でこれだけの人数を運ぶのは少しむずかしいと思うの。火が避けられるのは短い時間だけなのに対して、森はずっと遠くまであるのよ。楊志さんがいてくれたらなんとかなったかもしれないけど……」
秦明はそこで視線をこちらに向けあなた達ならなんとかできる? といった顔をこちらに向けてくるが、雷横も朱仝も、首を横に振るしかなかった。
「後はせいぜい雨が降るのを期待するぐらいかしら? どう、宋江くん」
なぜそこで宋江に聞くのか、と雷横は首をかしげたが、宋江は秦明の言葉に素直に応じて空を見上げた。朝に比べると大分雲が多くなってきた気がするが、それでもまとまった雨が降る気配は雷横の目から見ても無いように見えた。
「いえ……少なくともすぐには降りそうに無いですね……」
宋江も同じ思いだったようで彼はがくりと失望したようにそう言って頭を垂れた。
「でしょう。……というわけだから宋江くんはゆっくり休んでてよ。そうでなくてもボロボロなんだから」
と言って秦明はまた宋江を引き戻しにかかった。が、秦明に腕を掴まれるよりも一瞬早く宋江が立ち上がる。
「いえ、そういうわけにはいきません……」
とはいえ、その挙動は見るからに危なっかしかった。立ち上がったは良いものの、足は子鹿のようにがくがくと震えている。一歩歩けるかどうかも怪しかった。
「ちょ、ちょっと駄目よ。まだ寝てなきゃ……!」
「そうだよ宋江、無茶しないで!」
秦明のみならず、雷横も立ちあがって宋江を座らせようと手を伸ばすが、彼はそれに従わずゆっくりとした歩調で燃えた森へ歩を進めた。
「けど、このまま火が消えるまで待つわけにもいきません。僕らの到着が遅れれば阮小二さん達だって危険な目にあいます……」
「だからって何する気?」
雷横が再度尋ねると宋江はすっと手を前方に掲げた。
「燃えてても……木は木です。秦明さんがやったみたいに僕の気功を使って木を動かせれば道は作れます……」
「駄目だって!!」
雷横のその叫びは予想外に大きく辺りに響き渡った。宋江が少し驚いたようにきょとんとした目でこちらを見てくる。だが、雷横はそれに構うこと無く言葉を続けた。
「宋江、あなたさっき自分が落ちた原因がなんだかわかってないの!?」
「げ、原因……えっと足を踏み外した……とかじゃなくて、ですか?」
「違うって! それでどうして一時的とはいえ気絶までするのさ! あれは気功の使いすぎだよ!」
足を止めた宋江をそう叱りつけながら雷横はがしっと彼の手首をつかむ。
「宋江、まだ気功使い始めて日が浅いんでしょう? 折角ここまで回復したのに、またそんな事したら今度は気絶なんてものじゃ済まないかもしれないよ!」
「……そうね」
と秦明も僅かな間を置いた後に頷くと雷横の叱責を受けて固まっていた宋江の腕を今度こそしっかり掴んだ。
「宋江くん、忘れちゃ駄目よ。この燃えてる山を降りても終わりじゃないの。その後私たちは敵陣を突破しなきゃいけない。だから、今はおとなしく寝てて……ね?」
「でも……」
「……呉用さんや妹さんと約束した事、覚えてるでしょう? ちゃんと帰るって」
秦明のその言葉は宋江にとって余程重い意味を持つ言葉だったらしく、彼は観念したかのように途端におとなしくなった。それを見て秦明は少し長い息を吐く。
「わかったわ。私が少し様子を見てくる。ひょっとしたら突破できそうなところがあるかもしれない。だから、宋江くんはここで待ってて。それでいい?」
その秦明の問いかけに宋江は少し迷う素振りを見せたが、やがて秦明の顔をじっと見上げて口を開いた。
「お願いして……良いですか?」
「ええ。もちろん」
二人の会話はそれで終わったようだった。秦明は宋江の肩に手を置いたまま、くるりとこちらを向く。
「というわけで、私は少し森の状況を見てきます。雷横さん、その間少し宋江くんの事見張っててくれる?」
「え? あたしが?」
「ええ。駄目かしら?」
「それはもちろん構わないけど……うん、わかった。宋江が無茶しないように見ておくよ」
雷横は一瞬躊躇したものの、すぐに頭を切り替えて頷く。すると秦明は少しだけ面白げにくすりと笑った。
「はい、お願いします。というわけだから宋江くん、雷横さんの言うこと、ちゃんと聞くのよ」
「子供じゃないんですから……」
宋江は口を尖らせたが、秦明はそれに対して無言で笑うと、炎の燃え盛る森へと歩き出していった。
「圏!」
一声だけ上げると、彼女の眼前の炎が左右に割れる。秦明はその間へ躊躇なく飛び込み、しばらくして扉が閉まるように彼女の通った後を炎が覆い隠す。
「宋江……」
「? はい」
その姿が見えなくなってもぼんやりとその方向を見ている宋江に話しかけると、彼はくるりとこちらに振りむいた。
「えっと、あのさ……」
と、そこまで言って、雷横の言葉が止まる。話しかけるのに、困ったわけではない。むしろ逆だった。聞きたいことも話したいこともたくさんある。彼の事、自分の事、秦明の事、楊志の事、彼と自分の事。だが話したいことが多すぎて雷横の喉はまるで渋滞を起こしたかのように止まってしまった。何から話せばいいんだろう。何を最初に言うべきなんだろう。そして何より、どんな風に言えばいいんだろう。
「その……寝てなよ。少しでも体力、回復させたほうがいいと思うし……周りの事ならあたしと朱仝が見てるから」
結局沈黙を埋めるように雷横の口から出たのは、そんな当り障りのない言葉だった。
「あ……そう、ですね。すみません、お言葉に甘えて少し横にならせてもらいます」
と宋江は言って手近な岩の上に腰を下ろすと、そのすぐ横にあった炭化しかけた木の幹にそっと背を預けた。よほど疲れていたのだろう、彼は目を瞑ると程なくしてすーすーと規則正しい寝息を立て始めた
「思われてますね」
「?」
今までずっと黙っていた朱仝のその唐突に発された一言に雷横は怪訝な表情を彼女に向けた。
「宋江さんのことですよ」
ああ、と雷横は気付きの声を上げて言葉を続ける。
「本当にね。楊志さんにしても、秦明さんにしても、もう首ったけって感じだったもんね」
「雷横も大変ですね」
「な、なんでそこであたしが出てくるのさ!」
「あまり大きな声を出すと、宋江さんが起きてしまいますよ」
憎たらしい程に落ち着いた朱仝にそう指摘されて雷横は慌てて口を噤んで宋江の様子を確認した。幸い、彼は相変わらずぐっすりと寝ているようである。
「……なんでそこであたしが出てくるのさ」
それを確認してから雷横は今度は抑えた声で同じ言葉を繰り返した。抑えた声の熱気が顔を不機嫌そうに歪ませる。
「だってあなた、秦明さんが宋江さんに抱きついてた時、すごい顔してたじゃない」
言われて雷横はきょとんとして思わず自分の顔を触った。もっともそうしたところで何かがわかるはずもない。
「……ひょっとして自分でも気づいてなかったの?」
「か、仮にそうだとして、それがなんだって言うのさ」
呆れたように言われて雷横はムキになって反論した。
「だから雷横も大変ねという話よ」
それ以上は言わなくてもわかるでしょう、とからかうような視線を朱仝はこちらになげかけてくる。
「私ここに来た時びっくりしたわ。あの雷横があんなに甲斐甲斐しく男の人の世話を焼いてるなんて……」
「……人の事をなんだと思ってるの。そりゃあたしのせいで怪我したんだからあれぐらいはするよ」
「と私も納得しかけたのだけど、秦明さんが宋江さんに抱きついた時の不機嫌な表情を見せられると、どうにもね」
と朱仝はにこりと邪悪な笑みを浮かべて覗き込んでくる。
「あのね、大体あたしと宋江はほとんど今日出会ったみたいなものなのに……」
「一目惚れって言葉があるくらいだもの。別に不思議なことじゃないと思うわ」
「……そういうことじゃなくてさ、えっときっとあたし今ちょっと弱ってるだけだから、多分ちょっとおかしくなってるだけなんだよ、少し」
「それ、つまり今この瞬間は好きってことよね」
ああ言えばこう言うを地で行く切り返しを朱仝は続けてくる。
「いや、大体さ宋江にはもう楊志さんと秦明さんがいるし……」
「二人いるなら三人いるのも一緒じゃない」
「か、仮にそうだとしても……ほら、あたしじゃさ……わ、わかるでしょ?」
「裏を返せばそうじゃなかったらものにしたいってことかしら?」
「………」
敗北感というよりも諦念に近いものを覚えて雷横は口を噤んだ。よくよく冷静になってみれば口のうまさでいえば自分はこの友人に到底かなわない。つまり、何をいったところで無駄な抵抗だと悟ったのだ。
「他に反論があるなら聞くけど?」
「無いよ、もう……」
敗北感というよりも脱力感に近いものを覚えて雷横はがっくりと肩を落として、そっぽを向いた。
「それは良かった」
「良いもんか。くそっ、好きに笑ったらいいじゃんかよ」
「とんだ身の程知らずですこと、おーーっほっほっほっ……」
芝居がかった笑い声をあげる朱仝に雷横は拳を打ち込んだ。だがもとより本気では無かった事もあり、それはあっさりと避けられ、ぶんっと空を切る。
「……好きに笑え、といったのはそちらではありませんか」
「だからって殴らないとは言ってない」
不機嫌に言い捨ててから雷横は拳を引っ込めた。ふうと気圧を抜くように息を吐き、改めて朱仝の横に座り直す。
「……わかんないんだよ、正直……あまりに短い時間の間に色々ありすぎてさ……頭の中ぐちゃぐちゃな感じでさ……」
「……そう」
朱仝は今度は茶化すでもなんでもなく、静かに呟いた。それっきりしばらく沈黙が続く。少し冷たくなった風がひゅうと吹いて二人の体温を下げていった。
「ところでね、雷横」
といい加減頭の熱が冷めたところで、朱仝が唐突に声を上げる。
「何?」
「宋江さん、あれで大丈夫かしら?」
「へ?」
朱仝の言葉に怪訝な顔をして雷横が顔をあげる。
先程述べたとおり、宋江は手近な木の幹にもたれかかるようにして寝ていた……のだが、どうやら寝ている内に彼の体は徐々に幹の中心からずれ始めていたらしい。今、雷横の目の前にはぐらりと傾きそのまま地面に激突しかけている宋江の体があった。
「うわぁっ!」
何を考えるより早く、雷横は宋江の体の下に滑り込んで、彼の倒れかけた体ををなんとか受け止める。
「……ま、間に合った」
とはいえ、ぎりぎりで激突は避けられたものの、もとより小柄な雷横に宋江を元の体勢に戻す程の力はない。仕方なくそのまま地面に軟着陸させようとしたときだ。
「雷横それじゃ、駄目よ。ほらここに座って」
「え? 何なの、突然……」
「いいから、いいから。そうそう。でこれをこうして……はい完成」
後からやってきた朱仝になされるがままになっていると、いつの間にか、宋江の頭部がちょこんと自分のももの上に鎮座していた。いわゆる膝枕というやつである。
(朱仝ーーーー!?)
さすがにこの距離で怒鳴り声を出すわけにも行かず、雷横は友人の顔を睨みつけた。が、朱仝はそれを全く意に介さず、答えてくる
「良いじゃないですか。それぐらいのことしてあげたって、バチはあたらないでしょう。さっき自分でも認めたとおり、宋江さんの怪我はあなたのせいでしょう」
「それはそうかもしれないけど……! わかってるでしょ、そういう問題じゃないって!」
ぼそぼそと小声でありながらも精一杯の怒気を込めて雷横は朱仝にわめいた。
「まあまあ、しばらくは秦明さんも帰ってこないでしょうから」
それで納得したらまるっきり泥棒猫か何かじゃないの……と思いながらも、無理にこの体勢を変えるわけにもいかず、しかたなく宋江を見下ろした。
余程深く眠っているのだろう。彼はこれだけ騒がしくしていても起きる気配を全く見せようとしない。
(意外と重いな……)
宋江のその横顔を眺めながら雷横はふとそんなことを思った。宋江の頭部はしっかりと自分の脚の上に載せられていて接しているところがじっとりと暖かくなる。人のことは言えないが、小柄な宋江の体の一部としてはそれはとても意外なことのように思われた。
彼の頭部には黒いくせっ毛に隠れるようにしてぐるりと側頭部を覆うように白い包帯が巻かれていた。先程自分が巻いた包帯だ。雷横から見下ろすとちょうど赤く滲んだ部分が見える。先程、自分を助けようとした際についた傷だ。
(宋江……ね……)
その頭を慈しむように撫でながら、ぽつりと心中でその男の名を呟いてから、ふと考える。
この男は何者なんだろう。この男について自分が知っていることは……特に明確に言葉にして言える情報は、殆ど無い。どうやら晁蓋と同郷であるらしいこと、妹が一人いること、楊志や秦明からひどく想われていること。それぐらいだ。
逆にわからないことは多い。どうして彼は晁蓋に手を貸したのか? 楊志や秦明とは実際のところ一体何があったのか? さっき秦明が口にしていた呉用という人物とはどういう関係なのか? 両親はどんな人なのか? 今までどんなことをしてきたのか? 好きな食べものは何なのか? お酒は飲むのだろうか? そして、
(どうして、あたしを助けてくれたの? あたしはあんたに何をしてあげたらいいの?)
雷横は宋江の顔にかかった彼のくせっ毛をわきに避ける。隠れていた彼の顔の一部があわらになった。
(話が……したいな……)
そう思った。自分が宋江の事をどう考えているかなんてわからない。ひょっとしたらずっとわからない方がいいのかもしれない。でも宋江と話がしたかった。大事な事もなんでもない事も。できればこんな切羽詰まった状況じゃなくて、丸一日誰の邪魔も入らないような場所で彼と話がしたかった。
「早く良くなってよ……」
ぽつりと今度は声にだした事で雷横は周囲の状況がえらく静かな事に気づいた。周りを見渡すと朱仝が残念そうな、ほっとしたような、なんとも言えない表情を浮かべていた。。
「どうしたのよ、そんな顔して?」
「いえ……最初はわたわたとしてたのに、随分短時間で落ち着くものだな、と思いまして」
「そう?」
言ってから確かにそのとおりだな、と思い直して雷横は宋江の顔に再び視線を下ろした。
「自分の気持ちに整理がついたからかも」
朱仝がこれを予期していたとは思わないが、結果的には彼女に助けられた形になるのかもしれない。絶対認めたくはないけど。
一方で宋江は相変わらず、すーすーと平和な寝息を立てている。
(なんか……ムカつく)
自分が彼の事でずっとあたふたとし、朱仝にはからかわれてた間、彼はぐーすかと寝ているだけなのだ。理不尽とは思いつつも、それが気に入らず、彼の頬をつついたりしてみる。むにゅっと意外と柔らかい感触とともに宋江の頬にくぼみができ、彼の顔が苦痛を訴えるように軽く眉根を寄せた。それがなんだか妙におかしくて雷横はくすりと笑った。
「ん……にゃむ……」
が、強くつつきすぎたのか、宋江はそんな唸り声を上げ始める。
「わ、しゅ、朱仝、どうしよう……! 起きちゃうよ」
「あ、私、公孫勝さんの様子見てこないと……」
「こらっ!」
とさらに騒ぎたてたのが良くなったのかもしれない。ぱちりと自分の腿の上にある宋江の目が見開かれる。
「へ……あれ?」
「あ」
と宋江と目を合わせた瞬間、雷横は反射的に宋江の目を塞ぐようにばちんと手を彼の顔の上へ振り下ろした。
「痛っ! ら、雷横さん!? なんですか? 何が起こってるんですか?」
「え、えっと……えっと、わかんない!」
後ろにいる朱仝がいやわからないじゃないでしょう、等と言ってくるが、それに応じる余裕は今の雷横には全く無い。とにかくわからないものはわからないのだ。
「わ、わからないって言われても……あの、雷横さん。とりあえず手を離してもらうわけにはいかないんですか?」
「そ、それはダメ!」
「だ、ダメって、大体、今僕どうなって……」
「わーわー!! 手を動かすな、そこ触るなー!!」
その騒ぎは秦明がどうにか通れそうな場所を探しだして、返ってくる直前まで続いた。




