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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第五話 別離編
91/110

その十九 阮小五、主張するのこと

 魯智深(ろちしん)は山で起こった嵐の様な変化を遠目に見てかなり悩んだものの、結局はまず黄信(こうしん)を抱えて船に戻ることにした。山でなんらかの変事が起きたのは間違いないが、さりとて気絶した黄信を放置するわけにもいかない。


(まあ、あっちには秦明(しんめい)もいるし、大丈夫でしょ……大丈夫よね……)


魯智深はそう自分に言い聞かせると、黄信を肩に担いで阮小二(げんしょうじ)がいる船へと戻っていった。


 船の周辺は黄信によって殺害されたらしい兵士の死体がいくつか転がっている。魯智深がその間を縫うように進んでいくと、阮小二が慌てた様子で駆けつけて来た。船には至る所に矢が刺さっていてまるでハリネズミのようになりかけている。どうやら彼女はそうなった船の修理をしていたようだった。その証拠にと言う程のことでもないが、手に小さな木槌を持っている


「こ、黄信さん!? ……大丈夫なんですか?」


そう尋ねる阮小二の声は震えていた。さすがに動揺しているらしい。魯智深はそれに対して首を縦に振ると大したことでは無いといった調子で答えた。


「血を失いすぎてちょっと寝てるだけだよ。安静にしてれば大丈夫だから、こいつが寝る場所を船に作ってくれる?」


「わ、わかりました」


魯智深の言葉を聞いた阮小二は慌てて船に戻ると、ちらばっていた修理道具らしきものをどけて黄信が寝れるだけの場所を作った。次いで船に乗り込んだ魯智深がそこに黄信を寝かせるともう一度彼女の出血部分にしっかりと包帯を巻いた。


「あの、魯智深さんも怪我してますけど、特にその左肩の部分……」


阮小二が指し示したのは傷だらけの魯智深の体の中でも特に傷が深い左肩だった。


「ん? ああ、平気よ。大したこと無いから」


「駄目ですよ、包帯ありますから止血ぐらいしてください。ほら、脱いで脱いで」


魯智深は無気力に拒絶の手を振ってみせたが、阮小二は意外と強引に魯智深の僧衣を脱がせようとする。


「ちょ、ちょちょ、あーもう、わかった、わかった。自分でやるから、あなたは黄信を見ててよ」


結局、魯智深はそう言って阮小二を無理やり引き剥がすと、自分の体に包帯を巻き始めた。


「ところで他の皆さんは?」


傷の手当をしていると、阮小二はそう聞いてきた。彼女からしてみれば、十数人前後の人間が戻ってくると思ってたのにかなり早いとは言え、自分と黄信だけが戻ってきたこの状況は落ち着かないのだろう。よくよく考えてみれば彼女自信は朝ここに到着してから一歩も動いてないのだろう


「いや、あたしもほとんどわからない。とりあえずまあうまく行ってるんじゃないかな」


自分の肩に包帯を巻きながら魯智深がそう言ったのは何の根拠もない気休めだったが、阮小二は特にそれ以上突っ込んで聞こうとはしなかった。魯智深は手早く包帯を巻いてしまうと、ぐるぐると肩を回して動きが制限されないことを確認し、再び僧衣を着た。


「さて……とはいえ、あたしはこれからどうするか……本当なら秦明(しんめい)を追いかけるべきなんでしょうけど、黄信はこんなだし……ここに残らないといけないかしら?」


そう言いつつ辺りを見回す。今のところ、こちらを目指してくるような敵は人っ子一人居ない。一番近くにいるのがこの船から上流にある河に並んでいる船の消火を行っている兵士たちだが、彼らはこちらのことなど目もくれずに、消火活動を行っているか、或いは消火活動を行っているふりをしている。


 が、この状態はいつまでも続きはしないだろう。いずれ船が使い物にならなくなるか、火が消える事になれば、彼らは別の仕事をするふりのためのネタを探さなければいけなくなる。そんな時、この怪我人と阮小二しかいない船は格好の的となってしまうだろう。さらい言うなら、この場所はそれほど視界が開けているとは言えない。河沿いの西側は問題ないが森のある北側は小さな起伏や天幕が有り、その気になればこちらに悟られずにかなりの距離まで近づける。それを考えると周りに敵が居ないといっても、まともに動けるのが阮小二だけという状況はいささか危険だった。


 そんな風に考えながら北の丘陵を見ていると、狙いすましたかのようにそこから人影が現れた。瞬時に魯智深の体が強張る。


「魯智深、ここにいたのか!」


が、その人影の声を聞いて魯智深は緊張を緩めた。その声は林冲(りんちゅう)のものだった。馬に乗った彼女の後ろに同じように馬に乗った花栄(かえい)楊志(ようし)が付き添っている。林冲は胸元に一人、こちらも気絶しているらしい女性を抱えている。見たこと無い顔だからこれが山の中にいたという四人のうちの誰かだろう。だが、楊志と一緒にいたはずの宋江(そうこう)や、山の中に入ったはずの秦明の姿はない。


「怪我をしているが……?」


その事を魯智深が訝しんでいると、近づいてきた林冲もまた、こちらの肩を見ながら心配そうに言ってくる。どうやら包帯は僧衣で隠しきれてないらしい。隠すつもりも無かったが。


「あの河濤(かとう)ってのにやられたのよ。きっちりやり返してやったけどね」


「ああ……そう言えば来る途中に死体を見たよ。やはりお前がやったのか」


魯智深が問題ないことを示すように両腕を伸ばすと、林冲はその腕に抱えた女性を差し出してきた。細長い黒の三つ編みが特徴的な人物である。その女性は気絶しているのか、目を閉じたまま、静かに魯智深の腕の中に収まる。


「まあ、正直に言うと、黄信の尊い犠牲があってのことなんだけど……」


「え? 黄信さん、まさか……」


「いや、生きてるけどさ。ちょっともう今日は何もさせられないね」


動揺しかけた楊志に魯智深は落ち着いた様子で補足し、ちらりと背後の船を見た。ちょうど阮小二がこちらに近づいてきたところで、黄信さんはあちらにいます、と魯智深の言葉に補足を加えた。


「で、これは誰で、そっちはどうなってるの?」


「お前が受け取ったのが話に聞いていた索超(さくちょう)という人物だ。そして、ここにいるやつ以外はほぼ全員がまだあの山の中だ」


「まあ、一緒に居ないってことはそうなんでしょうね……」


魯智深はその知らせを聞いて苦々しい顔つきになった。加えて花栄と楊志がここにいる、ということは秦明を別にすれば山の中には要救助者と宋江しかいないということだ。少なくとも魯智深にとってはあまり楽観視できる状況ではない。


「山にいた連中はその索超を除けば一人で歩くことぐらいではできる連中だよ。特に、宋江の師匠だって言う公孫勝(こうそんしょう)って人、その人の実力が見た感じ一段上ってところだと思う。さっきのあの暴風もあの人が起こしたものじゃないかな」


「そう言えば仙人と言ってたかしら?」


事前に宋江から聞いた単語を魯智深は思い出して口にする。とは言っても、魯智深にとってそんな存在完全に眉唾ものである。だから宋江と花栄の証言を合わせてもいまいち魯智深の不安は払拭しきれなかった。


「まあ我々も楽観視出来る状況でないのは承知している。宋江達の元には秦明が向かっているはずだが……私達三人も即座にこれから山に戻るつもりだ。魯智深は黄信がそういう状態ならここに残ってて欲しいが……」


「……しょうがないわね。誰か一人は無事な人間は残らなきゃいけないんだし……」


林冲の言葉に魯智深は渋々と言った調子で頷いた。楊志もかなり消耗しているようだが、怪我のたぐいはない。となると、この四人の中で最も戦闘能力に不安があるのは負傷した自分だろう。おまけに黄信と索超という負傷者を二人抱えたこの状況なのだから。


「あれ? 魯智深、ちょっとその剣……」


「ん? 何?」


とそこで楊志が指さしたのは河濤が持っていた例の剣だった。今は一応魯智深がこちらに来る際に佩いている。僧衣に剣という、不格好極まりない物だったが、今までそれについて誰も指摘しなかったのは彼女の普段の行いのせいだろう。


「ちょ、ちょっと、それ見せて……」


「いいけど、どうしたのよ?」


特に拒否する理由もないので魯智深は下馬してきた楊志に剣を渡す。楊志は少しの間、まじまじと見てから驚いたように声を上げた。


「これ、私が持ってた剣よ! どこで見つけたの!?」


「あの河濤ってのが持ってたのよ」


全てを知る人間はこの場に誰もいなかったが、それは楊志が黄泥岡の事件の直後に馬と索超の治療代の引き換えに近くの村長に提供したものだった。その後、この剣は雷横によって引き取られ、先日雷横の家を家捜しした河濤によって再びここに持ってこられたのである。


「不思議な事もあるものね。まあそういうことならあんたの好きにしたら?」


魯智深は元々対して興味も無かったのでそう言って肩をすくめただけで終わった。


「あのさ、ところであの子はいないの?」


と楊志が剣についた血を拭う横でそう阮小二に話しかけたのは花栄である。


「あの子?」


「あんたの妹さん、阮小五(げんしょうご)……だっけ? 戦力に数えていいんでしょ。敵の船は全部もう燃えてたからこっちに戻ってきてるものだとばかり思ってたけど?」


その発言を受けて全員の視線が阮小二に集まるが彼女は慌てたように首を横に振った。


「……まずいんじゃないの? あの燃え方からすると最後の船に火をつけてから半刻(約十五分)以上は経ってると思うよ」


訝る花栄のその言葉に、魯智深は思わず眉をひそめた。阮小五の成すべき行動は他に無いのだから、即座にここに戻ってきたって問題ないはずなのだ。それが帰ってきてないということは何らかの不都合が彼女に起こったことを意味する。だが、阮小五が向かったはずの上流の船では相変わらず兵士がわいわいと騒いでいるだけだ。あそこに阮小五がいたら、あんな様子ではすまないだろう


「あ、あの! それだったら私、探しに行っても……」


阮小二がそこまで口にした瞬間、船の舳先の辺りの水面からざばりと何者かが姿を現した。ぎょっとして全員がその影を見守る中、その人物は髪を振り回しながら、水中からその姿を現してくる。今まで話題になっていた当の阮小五である。


「待たせちまった……って感じでも無さそうだな」


泳いできたためか、乳房と下腹部にそれぞれ帯一枚を巻いただけという刺激的な格好で彼女は河原にあがってきた。そしてぐるりと辺りを確認してそう言ってくる。


「小五ちゃん! 何かあったの!?」


阮小二が少し切羽詰ったように走り寄ると阮小五はそんな姉を面倒臭げにみて答えた。


「別に……ちょっと敵の船だけ燃やすんじゃ簡単すぎるから、ついでに敵の食料庫も燃やしてきただけだ」


阮小二はその答えがひどく気に入らなかったようだった。少しの間とは言え、生死がかかったこの場所で妹が危険なことをしている、と考えれば無理からぬことかもしれないが。


「あんまり余計なことしちゃ駄目じゃない!!」


「んだと……」


「あー、はいはい、そこまでにしときなさい。喧嘩してる場合じゃないでしょ」


魯智深がそう言いながら間に割って入ると二人はバツが悪そうに俯いた。


「反省は後回しにして……阮小五、あんたはここにいて。今からあたし達四人は山に向かうから」

「山? まだ全員帰ってきてないのか?」

「ここにいる連中以外はまだみんなあの燃えてる森の中なのよ。今から行くんだけど、黄信がもう戦えなくなっちゃったから、誰かにここに残ってもらわないといけないの」

魯智深が早口で事情を説明して出発しようとするとそれを聞いて阮小五は魯智深の裾を掴んで口を開いた。


「ま、待ってくれ! そういうことなら俺も連れてってくれよ!!」


「え?」


魯智深はそんな提案が阮小五からされるとは微塵も思っておらず、つい、きょとんとして彼女の顔を眺めた。


「小五ちゃん……!?」


阮小二が咎めるような声を出したが阮小五は姉にかまうことなく魯智深に向かってしゃべり続けた。


「頼む。連れてってくれ。俺達、ここに来てから戦場の端っこであんた達の手伝いしてるだけじゃねえか。これは元々俺達が発端だったんだ。それだってのに、肝心かなんめの場所にいるのは宋江と公孫勝だけじゃねえか。そんなのは嫌なんだよ」


魯智深が少し困って残りの面々を見回すと林冲が馬から降りてこちらに近づいた。


「……宋江にも言ったことだが、君らがその事をそんなに負担に思う必要はない」


彼女はそのまま阮小五に一歩近づき言葉を続ける。


「一つ一つ言うなら楊志は一人でも来ただろうし、花栄は宋江の私兵として雇われてるんだから、こういうのが仕事だ。それに私も秦明も黄信も宋江には借りがある。魯智深は……まあ、こういうやつだからな」


「ちょっと、あたしの扱いだけなんかぞんざいじゃない」


魯智深は口を尖らしたが、林冲はそれに取り合う気は無いようだった。魯智深も本気で抗議したわけでもないが。


「心情的には私は君のお姉さんの味方だ。だから正直、君の提案はあまり賛成できない」


「どうしてだよ……俺が他の人に比べて弱いからか?」


「心情的に、と言ったろう。単に私にも妹がいたからというだけにすぎん」


そんな理屈を持ちだされて、阮小五は反論の術が思いつかなかったようで、不満そうにしつつも、口をつぐんだ。。


「……あのさ、どうでも良いけど、そろそろ行かないとまずいんじゃないの?」


と全員が黙ったのを見て、花栄がその内容とは裏腹に呑気な口調で言う。


「……林冲、あんたに任すわ。あたしは阮小五の言ってることはわかるし、頷ける。阮小五が行くって言うなら、あたしがこの場に残るわよ」


花栄の言葉を受けて魯智深はそう結論付けた。


「なら、簡単だ。魯智深、お前が来い」


「ま、待ってくれよ!」


即断した林冲に阮小五が取りすがる。林冲はそれを振り払うほど冷徹にはなれなかったようで、困ったように船上の阮小二を見上げた。


「お姉さん。あなたの妹はこう言ってますが……」


「姉貴、頼むよ!! これは俺達の始めた戦いだろ! 俺達と晁蓋(ちょうがい)さんや呉用(ごよう)先生が……! だってのに、こんなんで良いのかよ! 俺は嫌だ! あまりにも無責任じゃねえか!!」


林冲がそちらに水を向けると、阮小五は振り向いて姉にがなりたてた。


 阮小二はそれを聞いて迷った様子を見せた後、ふうと深い溜息をついた。


「お願いしてよろしいでしょうか」


「安全は保証できませんが?」


「構いません」


林冲と阮小二が短くやりとりを終えると、林冲は阮小五に自分の馬に乗るように言った。彼女はぱっと顔を明るくすると、上着を一枚だけ羽織って、林冲の馬に飛び乗る。そしてすぐに三頭の馬は駆け出していった。


「お恥ずかしいところを……」


「いや、あんたの気持ちもわかるよ。家長だもんね」


阮小二が頭を下げるのを魯智深は止めた。とはいえ、そう言いつつも、魯智深は過去に家長である父親に散々反抗したこともあって、どちらかと言えば阮小五の方に同情的だったが。


「ま、無事に全員帰ってきてくれることを祈って、こっちはこっちのやることをしましょ。あたしは二人の世話してるから、そっちは船の方、よろしくね」


「分かりました」


と言いつつも気絶した二人に対し、魯智深ができることはさほど多くない。精々、体が冷えないように毛布をかけてやることぐらいだろうか。


 それだけ済ませて魯智深は阮小二の仕事をぼんやりと眺めた。よくよく見れば船に撃たれた矢には火矢も混じっていたのか、ところどころには焦げ跡まである。


「妹さんのこと、許してあげたら?」


やることに困って、というわけではないが、なんとなく不機嫌そうに見える阮小二に魯智深はつい声をかけた。


「別に怒ってはいません……ただ……なんでしょう……ちょっとあの子が何を考えているのかよくわからなくなって……」


(子離れできない親みたいな言い方をするわね……)


と思ったが、彼女らの両親は大分昔に亡くなったという話だから、阮小二は妹達の母親代わりのようなものなのかもしれない。


「ただ……小五ちゃんがついていきたがったのはさっき話したことだけが一番の理由では無いと思うのです」


「? どういう意味?」


「断言はできないのですが……」


と、阮小二が答えようとした時、唐突に上流の方でわっと敵兵の声が上がった。ついに船が焼け崩れたか、あるいは逆に消火に成功したのかと思い、魯智深は視線を阮小二から敵兵に変え、そして驚愕のあまり、目を見開いた。


 まず阮小五が火をつけた船は未だに燃え続けていた。だが兵士たちはそんな事には一切構わず歓声をあげていた。その理由となっているのは彼ら視線の先……河の上流にあった。


「ちょっと……どういうことよ、これ……」


呆然と言った魯智深と兵士達のの視線が交差する場所。そこには二十隻以上の船団が兵を満載してこちらに向かっていた。











「兄貴が死んでる……?」


陣のほぼ西の端にいながらにして、河清(かせい)は陣のほぼ東の端にある兄の死体を見ていた。距離はおよそ二里(約一キロ)は離れているだろうか。だが、それでも彼の鋭敏な目はその光景を明確に捉えていた。


 死んでいるのは間違いなかった。頭蓋骨が割れ、その中にある脳がぐしゃぐしゃにつぶされている。一撃で死んだのだろう。おそらく苦しまずに逝ったことがせめてもの救いだろうか。


(……だからなんだってんだ、くそっ……)


自分が感じているのは驚愕だ、悲哀ではない。河清は己の心をそのように捕らえた。軍人となった時から兄がいずれこうなるのはわかりきった事……とまでは言わないが想定して然るべき状況だ。特に兄は気功使いとして前線で戦う事を役目としていたのだから。ただ、まさか今日こんな場所で死ぬだろうとは思っていなかった。だから少し驚いている。それだけのことだ。


(……いや、予想してしかるべきだったんだろうな)


今日、この場には林冲がいた。この前の晁蓋と言い、この事件はただのちょっとやんちゃな盗賊たちが引き起こした事件、では無いのだろう。そんなことは少なくとも林冲や秦明といった面々が現れた時点で当然考えなければいけないことだった。とするとやはり自分が感じているのは驚愕ではないのか。


(違う、そうじゃない)


問題は……考えるべきなのは、白兵戦においては禁軍でも屈指の実力を持つ兄が破れたという事実だった。そして、兄を倒したのは林冲ではない。今朝の騒ぎ以降、河清はつい先程……林冲が濮州の兵士を楊志やその他何人かとともにあっさりと突破して燃え盛る山の中に飛び込むまで林冲の姿を追っていた。逆に言えばそれ以外の人間にはろくに注意を払っていなかったわけだが。つまり、この場には林冲や兄と同等以上の実力を持つ人間が少なくとももう一人いるということだ。考えるべきはそちらへの対処であり、自分の心の有り様ではない。


「くそっ、切り替えろ……」


迷走し始めた自分の思考を声に出して止め、河清はむりやり目を見開いて視覚・聴覚から入る情報を統合していった。


 まず前方、陣の中心地より、やや西寄りのその広場に、自分が指示した通り、兵士がある程度固まってまとまりつつあった。ざっとみたところ、数は三百弱。もう少し待っても三百を超えることはあるまい。


 濮州(ぼくしゅう)の残りの兵、およそ二百五十名はいまだがっちりと山の前を守っている。とすると、まだ雷横(らいおう)達はあの燃え盛る森の中から出てきてないようだった。となると一度目に林冲が他何人かと森から出てきたのはそれ以外の人間だということだろうか。前述したとおり、必死に林冲から逃れているせいで彼女以外の出す音以外の大半の情報を河清は拾えていなかった。


「ちっ……」


他の凡人ならともかく水内功の使い手である河清にとっては把握している情報が普段に比べてあまりにも少なかった。それが若干のいらだちを河清に起こさせた。


 一方、河の方では、済州(さいしゅう)軍がいまだにわあわあと船とその近くの兵糧庫の消火をしているらしい。兵糧は確かに大事だが、ここがどこか異国の中心というならともかく、最低限の船さえあれば、食料ぐらいいくらでも持ってこれるので、そんな事に兵を使うのはもったいないというのが河清の考えだが。そのさらに向こうの河では別の町からの援軍が到着したらしいことが銅鑼の音で聞こえた。時間を考えるとこの黄河の上流にある壇州(だんしゅう)からの援軍だろう。兵の規模はわからないが五百以下ということはあるまい。


(さすがに、蔡京(さいけい)のじーさんの名前を出すと動きが早いな)


皮肉げに口元を歪めて、河清は笑うと馬を進め、前方にいる自分たちの部下に改めて注目した。改めて数えてみると、禁軍からつれてきたおよそ三十名、そして濮州軍の二百五十名の合わせて二百八十名がいる。


「少なぇな」


「も、申し訳ありません。総兵菅が山の入り口に布陣する兵は三百は必要だと仰られて……」


自分がぽつりと零すと濮州の兵が緊張した様子でいう。


「ああ、いい、いい」


別に不満を言ったつもりもなかったが、相手にはそう聞こえたらしい。河清はめんどくさげに手を振ってその話を終わらせた。


 済州軍からは既に兵糧庫と船の鎮火を最優先としてあたると連絡が来ている。河清には残念ながらそれを覆せるだけの権限はなかった。本来なら全兵力をまとめて突撃させたいところだが、河清は名目上、ただの監察官であり、監察相手の濮州に対しての指揮権すら持ち合わせていない。済州や壇州の軍については蔡京の名を使って要請はしたが、名目上、これは彼らの自主的な協力に過ぎないのだ。要請はできても命令はできない彼らが絶対に否と言えばそれまでだった。難しいところだがここで無理を通してもおそらく碌なことにはならない。


 河清はさらに馬を進めてぐるりと兵士を睥睨した。二百八十名の兵が不安そうに馬上の自分を見上げてくる。


河濤(かとう)監察官が死んだ」


と河清は努めて他人行儀な物言いをした。禁軍の兵が軽くざわつくが、濮州の兵士は誰の事を話しているのかわからないらしく、きょとんとした顔を見せている。おそらく彼らの大半は自分の名前すら知らないのだろう。


「まあ、それはいい……重要なのは他人の生き死にじゃねえ。自分の生き死にと自分の手柄だ。俺っちだって、ここで手柄を立てて、ぱっと遊びてえしな。お前たちも一緒だろ」


河清がそういって笑いかけると、濮州の兵士たちはわが意を得たりとばかりに頷きあう。


「敵は十人前後。だが、何人か強力な気功使いがいる。あの政庁で暴れた男の事はお前たちも覚えているはずだ。あれに匹敵する、と思っておけ……心配するなよ。あんな化け物みたいな連中に突っ込んでいけ、とは言わねえ。それを言う時があるとしたら、相手がもうへとへとで動けなくなった時ぐらいだ」


あの晁蓋(ちょうがい)と一緒と聞いて兵が一瞬、強張るが後半の言葉を付け加えるとそう付け加えると兵士がほっとした顔をする。滑稽なまでにわかりやすかった。


「俺がお前らに期待するのは俺の指示した時に、指示した方向に向けて、弓矢をひゅんひゅん撃つだけだ。簡単だろ? おっかなくなったら逃げろ。それでいい」


笑ってそういうと州軍の兵士たちが承知したようにうなずく。心底同意されても困るのだが、地方の州兵の士気としてはそんなものだろう。逆に禁軍の兵はこうした河清のやり方には慣れてるはずだがそれでも州軍に対して軽い侮蔑の色を見せていた。


「よし! 俺たちはここで敵が山から出てくるのを待つ! 手柄欲しいやつはなるべく前に集まりな! お前らのところの親分が敵を撃ち漏らしてでてきたら俺たちがおいしく手柄だけもらうぜ!!」


そう河清が大声でいうと思った以上の兵が前に押し合いへし合い出てくる。


「河清殿、よろしいのですか?」


そんなある意味無邪気な濮州兵の様子を見ていると禁軍の兵士が声をかけてくる。


「何がだ?」


「河濤様の事です。下手人を捕らえなくても……」


その兵士の言葉に河清は首を振った。


「そんなことより、気合い入れてかかれよ。兄貴を殺したのは林冲じゃねえ。ってことは少なくとも一人、林冲並みの使い手がいることになる」


そう河清が言うと近くにいる禁軍の兵士たちはぎょっとした顔つきになった。彼らはてっきり林冲が兄を殺したと思っていたのだろう。


「まあ、逆ならともかく、兄貴を殺せるような奴を俺っちがどうにかできるとも思えねえよ。そんなことより開封府(かいほうふ)に帰ったらどこで遊ぶか考えとく方が楽しいぜ」


河清がそういうと、さすがに少し不謹慎だと思われたのか、兵士たちの顔が若干ひきつった。河清はそんな彼らの反応をからかうように笑うと馬首を山に向けた。


「そんなわけで仇をとるとかそういうのはやらねえ。ま、けどあれだ……」


と彼らに背を向けたまま、河清は言葉を続けた。だからその時の河清の表情を見たものは誰もいない。だから彼の表情が見たものがいたら、その瞬間に河清がめったに見せないような深く静かな表情を見せたことに驚いただろう。


「兄貴が犬死にと言われるような結末だけは、しねえつもりだぜ」


その小さなつぶやきもまた、平生の軽薄な河清には似つかわしくない重厚なものだった。

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