その十八 宋江、雷横を捕まえるのこと
公孫勝の呼び出した大量の水が上空から雷のように炎の柱に激突すると、炎の柱はまるでその熱量さえ幻だったかと思うほどに一瞬に消え去ってしまった。そして同時に宋江の腕の中にいた公孫勝の体が気絶でもしたかのようにかくんと崩れ落ちる。
「し……わぷっ!!」
公孫勝の突然の変化に思わず声をかけようとした宋江だったが、その瞬間、正面……つまり火柱のあった方向から叩きつけるような風が吹き、言葉を続けることができなくなってしまった。咄嗟に公孫勝の体を引き寄せつつ、彼女をかばうように風に対して背を向ける。
その水滴を帯びた風に押されて……いやその風の勢いからすると、圧縮された空気の固まりに激突されて、とでも言うべきかもしれないが……宋江は胸に抱えた公孫勝ごと、その風圧によって地面に叩きつけられてしまった。咄嗟に身を捻って肩から落ちることで、公孫勝が地面に激突することだけは防ぐ。
「い、いっつ……し、師匠?」
うめき声をあげてから、いまだごうごうと風が吹きすさぶ中、こんな状況になっても胸元の小柄な彼女が全く何の反応も見せないことに宋江は気づいた。
「ま、まさか……!」
ふと彼女と最後に交わした会話の不吉さに気づき、宋江は慌てて公孫勝の様子を確認した。瞳は薄く閉じられており、唇の色は心なしかいつもより薄い。思わずその様子にぎょっとしたが、手首に指を当てると、とくんとくんと弱々しいながらも脈拍が伝わってきた。とりあえず、最悪の事態とはなってないことにほっとする。
だが、その宋江の安堵を叩き壊すように周囲でバキバキバキバキと派手な音が聞こえてきた。音のする方を見れば、周囲の木々もまた、あたりまえだがこの暴風の壓力を受けており、宋江の目には炭化しかけた木が根本の部分から折れていく光景が目に入った。
(な、何が……)
どうやら、公孫勝が呼び出した水によって上空での空気が急激に冷やされ、その空気の固まりが今までとは一気に逆流するように地上に叩きつけれているようだった。ゴウゴウという風の音にまぎれて、ドスン、ドドンと衝突音までする。どうやらさきほどまで上空に巻き上げられていた岩や樹木が落ちてきたらしい。つまり、あんな重量物を吹き上げるほどの風がそのまま逆流してこちらに吹きつけている、ということになる。
よろりと上体を起こすと、宋江の視界に雷横と朱仝が映った。彼女達もまた体を縮こませながら、その暴風の猛威に必死に耐えているようだった。ばたばたと四人の服の裾がうるさいほどの音を立ててはためく。それに紛れて上空からものが落ちてくる音や木の倒れる音、風の轟音がないまぜになって聞こえてくる。その多種多様な騒音が一度に聞こえてくるのは工事現場の中心にでも居るような心境にさせられた。
こぶし大程度の石が雷横の頭部に直撃したのは宋江がそうした状況を確認しおえた瞬間だった。その激突音もまた周囲の騒音にかき消されてしまい、雷横は周りの騒音に比べると冗談のように静かに上体を倒すとそのままふらりと宋江からみて左手前方に倒れていく。だが、その先にあるのはほとんど崖といって差し支えないほどの急激な斜面だった。雷横の体が風に吹かれて傾き、そしてその姿が声もあげずに消えかける。
「っ!」
だが、宋江はすんでのところで立ち上がると崖から落ちかけていた雷横の腕を掴むことに成功した。とはいえ、片手で公孫勝を抱えたままである。おまけに立ち上がった宋江の背にぶつけられる風圧の量は今までの比では無かった。崖の下に滑落しかけている雷横の重さとその風圧によって宋江の体は一気に崖の近くへと引き寄せられていく。
「師匠、ごめん!」
気絶した相手には聞こえなかったろうが、宋江はとっさに公孫勝の体を離して地べたにどさりと置くと、両腕で雷横の腕を掴み、倒れこんだ。それでどうにか宋江が肩から先を崖下に投げ出すような姿勢になりつつも、雷横と宋江の滑落が止まる。同時に石が転がるでこぼこの地面にしたたかに体を打ち、宋江の全身が悲鳴を上げた。
「げほっ! ……ら、雷横さん!?」
痛さに呻いてから腕の先の人物に呼びかけると、彼女は岩肌の斜面にその身を横たえたまま反応を見せなかった。頭部に石を叩きつけられて、気絶してしまっているらしい。
同時に、宋江はその雷横のさらに下の光景を改めて確認し、ぞっとした。斜面が続く岩肌は高低差にして三十メートルはあるだろうか。斜面なのだからこのまま落ちても、自由落下では無く転がり落ちる事になるだろうがそれでも無事で済むとは到底言い難い。だが、本当の問題はその崖の真下だった。そこには相変わらず轟々と音をあげて炎が燃え盛っており、先ほどの強風によって折られた樹木が折り重なってさらにその勢いを増している。あそこに落下すれば雷横といえども落ちれば無事で済むはずがない。ましてや今、彼女は意識がない上に体調も良いとは言い難いのだ。
(け、けど……これ以上は!!)
いかに雷横が小柄であり、ある程度体重がその斜面にも支えられているとはいえ、宋江には腕の力だけで人間一人を持ち上げるような膂力は持ち合わせていなかった。というよりも、現時点でまだ彼女を支えられている事が既に奇跡と言って良い。雷横がなんとか自力でよじ登ってくれないかと期待したが、目の前の彼女からはそんな気配は微塵もしない。
「そうだっ! 朱仝さんっ!」
と宋江はなんとか首だけを後ろに向けて同行者の名を呼ぶと既に朱仝はこちらに駆けつけようとしていたのだが、同時に宋江の視界にはその手前で公孫勝の体がまるでおもちゃのようにごろごろと地面を転がっている姿を目撃した。
「わああああああっ!」
と焦って大声をあげたが朱仝には聞こえなかったろう。だが、どの道朱仝もその公孫勝の様子に気づいたようで彼女は慌てて勢い良く転がっていく公孫勝に走り寄っていく。あわや、公孫勝もまた崖に落ちかけた寸前で朱仝が彼女の体を掴んだ。それを確認してほっと息を吐く。
「そ、宋江……?」
と今度は宋江の手の先から声が上がった。雷横が意識を取り戻したのだ。
「良かった! 雷横さん、登ってこれます!?」
「え? 何? ちょ、ちょっと良く聞こえないってか、これ一体どういう……」
自分の状況を測りかねているらしく雷横はきょろきょろと視線を送り、やがて眼下の光景にも気づいたようで顔を青ざめさせた。
「ちょ、ちょちょ、これ……」
「お、落ち着いてください。今、朱仝さんも来てくれますから……!」
狼狽して体を動かし始めた雷横に宋江は安心させるように声をかけた。じっとしているだけならまだしも流石に暴れられると宋江一人では支えることすらできない。ちらりと朱仝を見ると公孫勝を抱えたまま、こちらに向かって来てくれてはいるが、暴風の風上に向かう形になるので、ここまで来るのは少しばかり時間がかかりそうだった。
「足場にできそうな場所とかありませんか!?」
「ま、待って!」
雷横の這いつくばる斜面は自然のものなのでところどころにコブのようなものができている。雷横がそれに足をかけると宋江はようやく這いつくばった姿勢を立て直すことができた。そのまま四つん這いに近い姿勢になり、引っ張り上げようとしたところで、
「!」
宋江の頭に火花が散るような衝撃が走り、視界が赤く染まった。
「つっ、な、何……!?」
言うと同時にゴトンと音がした。音がなった場所を見ると、その原因はすぐに見つかった。先程雷横に激突したのより一回り小さい岩が、自分の横におちている。おそらくこれが自分の側頭部に激突したのだろう。それを見ていると血の滴が風で飛び散りながら地面におちていく。確認することはできないが今ので頭の皮膚を切ったらしい。
「そ、宋江……! だ、大丈夫なの……!」
その後もぽたぽたと絶え間なく血が滴り続ける宋江の様子を見てか、雷横が一層狼狽した声を上げた。
「だ、大丈夫……です!」
宋江は血が眼に入るのを防ぐためにまぶたを閉じながら答える。大分軽くなったとはいえ、腕から感じる雷横の重みはまだまだ大きい。つまりここで自分が手を話せば雷横はおそらく耐えられずにこの斜面を転がり落ちてしまうだろう。そのため、手で傷口を抑えることすらできない。
「宋江さん……!!」
次いで右手の右手の風下から朱仝の弱々しい声が聞えた。だがそちらを振り向いて弱弱しい声というのは自分の誤解であることに宋江は気付かされた。実際には朱仝は絶叫していたのだ。だが、吹き付ける強風のせいで朱仝の声量の大半がかきけされてしまっていただけだった。
朱仝はなおも声を張り上げているようだがその言葉は極めて不明瞭だった。だが、朱仝の伝えたいことは彼女が指し示した先を見れば一目瞭然だった。朱仝の指さした先にあったのはこの暴風によってへし折られたと思しき、炭化した樹木だった。坂の上から転がって来ているその樹木はこのままだと宋江に直撃するだろう。
「ちょっと待って……!」
反射的に宋江は叫んでみたが、その転がり落ちる倒木が待ってくれるはずもない。それは時折凶悪に飛び跳ねながら不自然に音を立てないままこちらに転がってきている。暴風がその倒木が立てる音すらかきけしているのだ。
「……逃げてっ!!」
風が弱まり、ようやく朱仝の声が聞えた。だが、逃げると言っても雷横の腕を掴んだままではそんなことはできない。朱仝が自覚してかどうかはわからないが、ここで宋江が逃げるということは雷横がこのまま崖から転がり落ちていく事を意味するのだ。
「宋江……?」
雷横を見下ろすと彼女は何が起きているのかわかっていないが、宋江の様子から何かのっぴきならない事態が起こっていることだけは察したらしい。不安げな表情をこちらに向けていた。
「……大丈夫です」
宋江は雷横を安心させるように笑いかけると、その不安を払拭するようにぎゅっと雷横の腕をいっそう強く掴んだ。そしてそれから後方の一点を睨みつけ、叫ぶ。
「そこっ!」
宋江は睨みつけた場所、それは転がり落ちてくるその樹木を掠めるような場所に新たな木を生やした。無論、それなりの速度と重量をもったその倒木がそんな生まれたばかりの細い木で防げるはずもなく、止まったのはほんの一瞬だった。が、一瞬とはいえ、転がり落ちる倒木の端が止められた事で倒木は若干その向きを変えて斜めに転がっていく。
(足りない……!)
そのまま宋江たちとは無関係な場所まで移動してくれればよかったのだが、そうそう狙い通りにはならなかった。直撃は避けられたものの、このままだと端の辺りが宋江に激突するだろう。宋江はとっさに体を横に倒して、最大限倒木から逃れようと試みたが、それも間に合わず、宋江の左半身に鈍い衝撃が伝わる。
「ぐ、あっ!!」
予測も覚悟もしていたとはいえ圧倒的な重量に抗しきれず、宋江の体が前方に投げ出される。樹木は、宋江の体をひっかけるようにしただけで、その後は岩肌の上をガランガランと音を立てて転がっていくだけですんだ。そこで雷横もようやく何が宋江の背後で起こっていたか気づいたらしく、目を見開く。
(まず……!)
だが、宋江はそんな雷横の反応に意識を割く余裕は無かった。直撃は避けたとはいえ、それでも宋江の体は完全に安全圏からはじき出されていた。そのまま重力に引かれ、宋江は斜面に落下する。痛みで視界が真っ暗になる中、体に急激な制動がかけられた。どうやら今度は逆に雷横が宋江の腕を慌てて掴んでくれたらしい。
「そ、宋江! どっかに捕まって……」
「は、はい!!」
切羽詰まった雷横に言われて宋江は咄嗟に岩肌に出ていたコブのような起伏に足を止めた。といっても体重をかけられるのはつまさきだけであり、少しでも気を抜けば、またここを滑落する羽目になる。
だが、実際にはそんなぎりぎりの事態さえ長続きしなかった。不安定な足場の雷横が宋江を一瞬でも支えるのはやはり無理があったのだろう。宋江がその足場に体重をかけるとほぼ同時、今度は宋江の頭上から、雷横の体が落ちてくる。
「ひゃっ!!」
「くっ!!」
「雷横っ!!」
雷横と宋江、そしてようやく崖の端に到達したらしい朱仝が三者三様に声をあげる。そして雷横を受け止めるために宋江は思わず腕を広げて彼女を抱きとめる。そしてそのまま、雷横の下敷きになるようにして背中から斜面に落ちると、そりのように斜面を滑り落ちていった。
「あっ! がっ!!」
激突の瞬間、肺から空気が無理やり絞り出された。さらにそのまま滑っていくと宋江の背は、でこぼこの岩肌によってまるで肉を削られるように傷つけられていった。ザザザザザ、という音とともに摩擦熱まで発生し、宋江の背中が激痛を伝えてくる
「そ、宋江っ!?」
「へ、平……気……捕まってて……」
胸元に抱きかかえられながら、心配そうに見上げてくる雷横になんとか言葉を返すが、言い繕えてないことは明白だった。ただでさえ、頭から流れている血で宋江の様子は痛々しい物になっているのだから。だが、宋江はそれを取り繕うよりも切羽詰まった問題がある。このままでは自分と雷横は二人して炎の海に飛び込む羽目になるのだ。
「と、とまれええええええ!!」
宋江は必死に気功を練り上げ、叫んだ。斜面の途中に樹木が生え、それに受け止められた宋江の尻にどすんと衝撃が伝わる。
「っ!!」
その痛みにまたも宋江は顔を歪める。しかし何にせよ、これで自分と雷横の落下が止まった……と思えたのは一瞬の事で、即座にミシリと不吉な音がした。ぞっと悪寒が背中を這い上がると同時にぼきりと二人を支えていた枝が折れる。
「も、もう一回っ!!」
だが宋江は即座にその枝の残った部分を片手で掴むと足元にさらに別の木を二本生やしてその上に足を着地させた。今度こそ二人の滑落が止まる。宋江と一緒に落ちてきた小石や枝葉がバラバラと音を立てて崖下に落ちて行き、炎の中に消えた。とりあえず、落下が止まった事にほっと安堵の息をもらす。
「た、助かった……の……?」
辺りが静かになったことと、宋江の体から緊張が解かれた事に気づいたらしい雷横が目を開きながらおずおずと尋ねてくる。
「え、ええ……完全に、では無いですけど……」
そう答えながら、宋江は彼女を片腕で抱きしめたような状況であることに気づいて慌ててその拘束を解いた。同時に雷横が足を置くためにさらに木を生やして彼女をそこへ導く。雷横はまるで人形のように大人しくその木の上へ体を落ち着けた。と言っても今だ不安は消えないのか両手は宋江の服、ちょうど前襟の少し横といった場所をぎゅっと握ったままであったが。
「雷横さん、怪我は無いですか?」
「へ? あ、う、うん。大丈夫」
まだ少し呆けた様子の雷横は宋江の問いに若干慌てた様子でコクコクと頷いた。
「そうですか、良かった」
宋江はそれを確認すると今度は視線を上に向けた。頭上では朱仝もまたほっとしたように安堵の息を吐いている。どうやら自分達が落ちてきたのは十五メートル程の距離のようだった。
「朱仝さん! こっちはこっちでなんとか安全な場所に動きますからそっちも道を探して降りてきて貰えますか!!」
「わ、わかりました!」
そう短くやりとりした後、朱仝の姿が見えなくなる。周りの状況から察するに向こうでは例の暴風もようやく止まったのだろう。
「あ、宋江こそ、頭の怪我、平気なの……」
「え? あ、ああ……」
言われて宋江もようやく思い出して左の側頭部に触れる。今だに血は流れているようだったが、正直、宋江は忘れかけていた程なのだから大した痛みもない。
「ちょっと切っただけなんで大した事は無いですよ。」
口には出さなかったが、どちらかと言うと頭より背中から来る痛みの方が彼には深刻だった。
「そう…なの?」
「ええ。自分でも正直雷横さんに言われるまで忘れてた位ですから」
そう言って宋江は笑おうとしたが、さすがにそこまでの余裕はなかった。痛みに顔を歪ませるのだけどうにかこらえる。
「そ、そうなんだ……」
一方雷横はほっとした様子でそう言いながらへなへなとその場に崩れ落ちる。雷横はまだ宋江の服を掴んだままだったで、宋江もそのまま木に座るような体勢になる。どの道、少し休憩したかったので丁度良いが。
「ど、どうしたんですか?」
念のため、新たに支える木を増やして宋江は雷横に尋ねた。言いながら崖と反対側にある右腕で雷横の肩を触れるように支える。手のひらから感じる暖かな体温と柔らかさに少し緊張したが、雷横は気にした風もなかった。
「い、いや、あの、安心したらなんか今更怖さが押し寄せてきたっていうか、気が抜けちゃったみたいで……、あ、あれ? 立てない?」
気づいてみると雷横の全身は微妙に震えていた。軍人の彼女も今の落下劇は流石に恐怖を覚えたらしい。
「ご、ごめん……ちょっと待って。少しだけでいいから」
「は、はい……」
宋江の服を今だに掴んだままの事を言っているらしい。そしてそのまま雷横は自分の服をにぎったままうなだれるようにその場に崩れ落ちた。雷横のミルクのような甘い匂いがふんわりと漂ってどぎまぎとする。そう言えば自分も相当汗臭いが大丈夫だろうか、と思ったがそれを雷横に尋ねるほどの度胸は無かった。
震えて小さくうずくまる雷横の体は宋江に子猫を連想させた。少し迷ったが、雷横の丸まった背中をぽんぽんと軽く叩き続けるとやがて雷横が深呼吸する音が聞こえた。そして唐突にむくりと雷横が顔を上げる。
「あ、ありがと。落ち着いたから、もう大丈夫」
落ち着くと気恥ずかしさが勝ったのか、顔を微妙に赤くした雷横が宋江から離れた。
「いえ、お役に立てのならそれで……」
宋江もまた今更ながらに気恥ずかしさを感じてもごもごとそう言って同じく少し距離を取る。
「あはは……はあ、仮にも歩兵都管のあたしがこんな形で助けられちゃうとはね、ええと……あ、包帯とか無いか」
誤魔化すように笑ってから雷横は宋江にせめて止血でもしようと思ったのだろう。何やらごそごそと懐を探ってそんな事を言ってくる。
「それほど深い傷じゃないから、大丈夫ですよ」
「本当? 宋江は頭以外も怪我していないの?」
「ええと……まあ、背中がちょっと痛いですが、こんな場所ですし、とりあえず落ち着いたら、ということで……」
雷横は少しこちらの事を心配そうに見上げたが、結局この状況では彼女にもできることは無かったのだろう。諦めたように俯いた。
「悪いね、簡単な治療すらできなくって。この借りはいつか返すよ」
「いえ、僕だって雷横さんに助けられたんですからお相子ですよ。気にしないでください」
「そういうわけにはいかないよ。やれやれ……にしてもこんなんじゃ楊志さんのこと馬鹿にできな……キャッ!」
と雷横が自嘲気味に話していると突如、強風がふいた。バランスを崩してこちらに倒れてくる雷横を慌てて支えるように宋江は手を伸ばす。今度はもろに雷横が宋江の胸元に飛び込むような形になり、宋江は雷横の体重をほとんど抱きとめるようにして受け止めた。幸い、風はすぐ止んだ。だが、雷横はしばらくぼんやりとしたようにこちらを見上げて少し動かないままでいた。だが、やがてはっとしたように体を動かすと慌てた様子で宋江から離れた。
「……! ご、ごめ、ごめ……!」
「そ、そんな謝らなくても大丈夫ですから……」
言葉がろくに喋れないほど慌てた雷横を見て逆に宋江は冷静になることができた。あせあせとする雷横の両肩を支えるようにすると、宋江は辺りを見回しながら話かけた。
「と、とにかく長居するような場所じゃありませんね……そろそろ移動しましょうか」
と言ってみたが雷横からは反応がない。不安になって目を向けると雷横は呆けた様子でこちらを見上げている。
「雷横さん?」
「へ? あ、う、うん……そ、そうだね、移動しようか! ……これはちょっと……胸に悪いよ……」
改めて話しかけると雷横はこちらの話は聞いていたのか、そう答えてきた。宋江もその言葉には同意である。この状況は心臓に悪い。色々な意味で。
宋江はゆっくりと左右を見渡して雷横の背後の方向、高度にして三メートル程下のあたりにどうにか落ち着けそうな場所を見つけた。そこは燃えていた木が折れて吹き飛んだせいで、火の影響も無さそうである。
「雷横さん、あの、ちょっと赤っぽい石のところ、あそこまで移動しましょう。今、通れるように木で道を作っていきますから……そこを通ってください」
「う、うん……」
雷横の返答を聞いた後、宋江は息を大きく吸うと体内の気功を練りあげるとばんと左手の岩肌に手をついた。雷横の背後から何本もの木が階段状に並んで飛び出していく。
「い、行けそうですか?」
「うん。これなら問題なさそう……」
と言いながら雷横が一番近くの木に足を伸ばす。木はしっかりと根を張っているようで、雷横が乗ってもびくともしない。
「うん、平気……宋江!?」
と多分、雷横は言ったのだと思う。だが雷横がこちらに振り向いた頃には宋江の視界は既にぼやけ始めており、聞こえてくる音も不明瞭だった。それでもなんとか目を見開こうとすると、ぼやけていた突然雷横の輪郭が瞬時に消えた。ふわりと下から風が吹いてくる。とすぐにどかっという衝撃がすぐに伝わって、ああ落ちてるんだ、と他人事のように理解した。
斜面をバウンドしたらしく、一度目の衝撃の後はまた少しだけ心地よい浮遊感が全身を包む。二度目のバウンドの後もまた浮遊感。そして顔に当たる風が強くなった。眼を開くとオレンジと黒のマーブル模様がものすごい速さで近づいてきて……不意にその光景もまた消え、真っ暗になった。同時にぼすんとなんとなく想像していたよりはるかに柔らかい衝撃の後、周りに吹いていた風が消える。
「宋江くん! 宋江くん!?」
そう名前を呼ばれたのはその直後なのか、それとも数分経ってからなのか、いまいち判然としなかった。だがとにもかくにも、宋江は目の前の像に焦点を合わせる。赤茶色の長いウェーブした髪に心配そうにこちらを覗きこむ大きな瞳が映る。その瞳は涙で濡れていた。
「秦明……さん?」
それだけの言葉をなんとか口にすると、
「よ、良かったぁ~、宋江くん、生きてて良かったよぉ~」
「むぐっ! 秦明さ、もごっ」
顔面を秦明の豊かな胸元に埋められつつも、宋江は抵抗することもできず、しばし彼女にされるがままになっていた。