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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第五話 別離編
88/110

その十六 魯智深、笑みを浮かべるのこと

 足元の大きな石を邪魔にならないように道の脇へおいやると花栄(かえい)は後ろを振り向いた。少し後ろにまともに歩けない索超(さくちょう)を背負った楊志(ようし)が歩いてくる。当たり前だが彼女はだいぶ苦しそうだ。山道にろくすっぽ慣れていない人間が人一人背負って獣ですら躊躇するような道を、しかも煙がもうもうと囲んでいる中を歩いているのだ。正直言って、花栄はどこかで楊志が音を上げると思っていたので、素直に彼女を見なおしていた。一方で索超は先程から声を上げていない。どうやら、完全に楊志を信頼して、体が休息に入ってしまったようだった。


宋江(そうこう)達のこと、待つの?」


追いついた彼女がぜいぜいと荒い息を吐きながらそう言ってくるが、花栄は首を横に振った。


「……いや、残念だけどそれはできない。せめてあんた達二人だけでも先に、安全な場所に送らないと」


花栄は言って、視線を前に向けた。口には出さなかったが、本当に宋江を助けようと思うのなら、楊志はこの場で索超の事を見捨てなければいけなくなるだろう。このまま背負って戻っても足手まといだし、花栄の小柄な体格では索超を運ぶのは不可能だ。


 だがその選択を彼女に強いるのはいくらなんでも残酷過ぎるだろう。そのため、花栄は沈黙を保った。


「先に進もう。向こうも、それを期待しているはずだ」


花栄はそう言うと、楊志の反応も確認せずに歩を進めた。実際問題、彼女といえどそれほどまでに他人に関われる余裕があるわけでもない。


(厄介だね、こりゃ……)


花栄はこんな風な形で山火事を経験したことがない。そもそも起こりそうな場所に事前に近づかないようにしているからだ。ただ、それを差し引いても人為的に起こされたこの山火事の延焼速度には正直、度肝を抜かれていた。


 おまけに先程から風はどんどんと強くなっている。そのため、麓の兵士によって付けられた炎はほとんど燃え広がってないが、逆に自分達の背後から急き立ててくる炎は花栄達のかなり近くまで来ていた。


 花栄の推測では、あの洞窟から森を抜けるまでに必要な時間はおよそ二刻(約一時間)。ただし、これは森が燃えておらず、怪我人も背負っていない状態の話で、今の状況を鑑みるとその倍以上は軽くかかると見たほうがいい。既に自分達は三刻(約一時間半)近く歩き続けているが、まだ、森の出口らしき場所は見えない。


「誰かいないの!? 返事して!!」


とそんな事を考えていると前方で聞き覚えのある声が聞こえてきた。秦明(しんめい)の声だ。


「秦明さん! こっち!!」


「花栄! あなたなの!?」


呼びかけると応答の声がするので、花栄はそちらに向かって進んでいった。と煙の中に見覚えのある武器をもった人影が見えてきた。若干すすで汚れてはいるが、間違いなく秦明だった。ここに来るには敵陣を一度突破せねばならないはずだが、大して負傷した様子もない。


「花栄! 良かった。無事だったのね……他の人は?」


「楊志とそれから索超って人がすぐ後ろにいるよ」


とそう言ってる間に実際に本人達が背後から現れた。


「宋江くんは?」


「奥だよ。道を塞いでいる木が燃えちゃって、宋江の師匠が自分がなんとかするから先に行けって言われて……」


「! そう……別れたのはどのくらい前なの?」


「……一刻半(約四十五分)ってとこかな」


花栄の答えを聞きながら秦明は消耗しきっている三人に水を手渡してきた。とはいえ、花栄はそれほど消耗もしていないので首を振って断り、索超は相変わらず寝てるため、結局飲んだのは楊志だけだったが。


「わかった。彼の事は私がなんとかする。あなた達は一旦森を出なさい。もう少しで坂もほとんどなくなるからそしたらすぐのはずよ」


言って秦明はこちらの返事も待たずに駈け出した。


「待って! どっちに行ったかわからないでしょ!?」


花栄は慌てて呼び止めようとしたが、秦明はその言葉すら届かないようで走って行ってしまった。表面上は普段通りの冷静な彼女に見えたが、どうもかなり焦っているらしい。自分の大事な人がこの奥に居ることを考えればあまり責められないかもしれないが、花栄はそんな秦明を見たのは初めてだったのでいささか唖然とした。


 が、いつまでも阿呆のように秦明の走った先を見ているわけにもいかない。花栄は頭を振って思考を切り替えると背後の楊志に話しかけた。


「とりあえず急ぐよ、楊志。こうなった以上、あなた達二人だけは意地でもこの場を切り抜けてもらうからね!」


やけくそ気味に花栄は言うと、楊志も頷いた。もっともそれは何か考えてというよりも、ただ機械的に頷いただけのようにも見えたが。


 秦明の言うとおり、それからすぐに道は坂とも呼べないほどのなだらかな地形に変わる。そこから先は今までの遅々とした歩みが嘘のように速度をあげられた。


 だが、真の問題はここからだった。森が終わる直前、花栄は道をわずかにそれて、小さな岩陰に身を隠すと楊志を呼び寄せ、彼女に腰を下ろさせた。彼女はそっと背中の索超を下ろすと、荒く息を吐き始める。やはり、相当疲労しているのだろう。


 一方で花栄はそっと岩陰から森の外を窺った。森の入口の木々を燃やしている白煙の向こう、そこにちらほらと敵の姿が見えている。どうやらずらりと隊伍を組んでこちらが森の中から出てくるのを待ち構えているらしい。わずかに騒がしいのはさきほど秦明がここを突破してきた時に兵を何名か(あるいは何十名か)なぎ倒したせいだろう。とはいえ、その混乱も今はおさまりつつあるようだった。他に聞こえる音といえば火を恐れているらしい馬のいななきぐらいのものである。


 花栄はちらりと自分達三人の様子を見回した。無理だ。自分達だけではあの敵兵を突破できない。索超は未だに自分一人では歩けないだろうし、彼女がいる以上、楊志もまたまともな戦力に数えられない。となると実質的に自分一人であの兵を突破、ということになるが、花栄も自分一人でそんな事ができると思うほどうぬぼれてはいなかった。自分一人ならまだしも、楊志や索超の安全を確保した上で、と言われれるとまず不可能である。


 と、そこまで考えた時、不意に前方で兵がざわつき始めた。白煙の立ち込める中で目を凝らすと右手の方から、一人の人影が、敵を突破してこちらに向かってくるのが見えた。影でしかわからないが、兵士の何名かが、悲鳴を上げながら木の葉のように空を飛んでいく。さらに矢を撃ちこむような音も聞こえたがその人影は難なく、それを叩き落としつつ、こちらに向かってくる。


林冲(りんちゅう)!! こっち!」


その人影の正体に気づいた花栄が声をあげると、人影が走り寄って来た。だが、敵兵にもこちらに自分達がいることに気づかれてしまったらしく、あっちの方から声がしたぞ、という声が上がってくる。しかし、こちらを恐れてのことか、むやみに距離を詰めようとはしてこなかったが。


「こっちだって!」


林冲を呼び寄せると、花栄は引っ張り込むように林冲の身体を岩陰に隠させた。兵が矢を撃ってくるが、まるで見当違いの方向に飛んで行くか、良くてもかつんと岩にあたるだけだった。


「そっちは終わったの?」


花栄が端的に尋ねると林冲は首を横に振った。


「まだだ。残念だが逃げられた。それと声は落とせ。会話が聞き取られる可能性もある」


言われて花栄はほとんど囁くような声量で林冲に応じた。


「逃げられた?」


「私の顔を見るなり、一目散に逃げ出されてな。情けない話だが、完全に見失った。おそらくまだ陣地内にはいると思うが……」


「……まあ、しょうがないよ。水内功(すいないこう)の使い手なんでしょ。向こうからすればこっちがどこにいるかなんてまるわかりだしさ」


花栄は慰めるように言ったが、正直この林冲を手玉に取る程の人物が敵に居るとは思ってもみなかったので、内心舌を巻いていた。


「……そっちにいるのは?」


矢が雨あられと飛んでくる中、林冲と花栄は平然と会話を続けた。


「索超。四人の中で一番重症で楊志がここまで背負ってきたんだ」


ちなみに楊志は林冲が来たことには気づいていたが、はあはあとまだ息を整えている最中だ。矢が飛んでくるので母親が子供をかばうように索超を抱きしめている。


「となると森の中には……まだ四人いるわけか」


「五人だよ。さっき秦明さんが探しに行っちゃったから」


「そうか。何か火柱のようなものまで上がっていてただ事ではないと思ったのだが……」


「火柱?」


「あれだ。あんなのまで出てきたら、さすがに河清(かせい)ばかりにかかりっきりにもなれん。それでこっちに来たんだ」


言われて花栄は木々の間を見上げた。確かに右手前方にそんなものが見える。周りの木々より遥かに高くそびえ立つその炎の柱に、花栄は目を剥いた。


「な、何……?」


「いや、大したことじゃない、よくあることだよ。そっちは休んでて」


楊志が釣られるように上を見上げようとしたので花栄は慌ててその頭を下げさせた。彼女の事だからあんなものを見たら、即座に宋江を探しに行くと言い出しかねない。


 しかし、それは言うまでもなく危険な行為なに無駄足になる可能性もある。宋江とあの炎の柱の位置関係さえ、自分達にはわからないのだ。


「これからお前達はどうするつもりだ?」


「とりあえず、こっちの二人を安全な場所まで送り届けて、それから考える。何が起こったとしてもそれが最低限のあたしの義務だと思う……と言いたいところなんだけど、正直あたしだけじゃそれすらできない。手を貸して」


林冲は率直なこちらの言葉に渋い顔をした。秦明と同じように宋江をおいかけるべきかどうか、悩んでいるんだろう。


 花栄は追い打ちをかけるように口を開いた。


「というよりこのままだと、いずれ兵士が押し寄せてきてあたし達は捕まる。あんたがそれを防げるならここで宋江を待ってもいいけど、いくらなんでもあんた一人じゃ、あの数の敵を相手にここでじっとしているのは無理でしょう? 突破するほうがいくらか楽なはず」


「……選択の余地は無さそうだな」


林冲は軽く嘆息して答えた。


「わかった。あっちの事は秦明とその宋江の師匠という人間に任せよう。楊志、君もそれで構わんな?」


「え、ええ……」


ようやく息を整えたらしい楊志が頷く。と同時に煙の向こうから兵士がじりじりと前進してくる気配がした。矢を撃ち続けても何も反応がないから()れて来たのだろう。


「あのさ、林冲。まだ余裕あるでしょ。ついでだから人数分馬奪ってきてよ。索超は自分じゃ動けないから三頭ね」


「お前な、私は別に化け物でも何でもないんだぞ。あまり気安くそんな無茶を言ってくれるな……」


だが、結局のところ、林冲は再度敵陣に突撃すると、あっさりと花栄の要望を叶えてみせた。







 今度の衝撃は右の脇腹からだった。蹴られたらしい。


「つうっ……!」


痛みに顔を歪ませつつも腕を振ったが、魯智深(ろちしん)の拳は敵であるあの大男を捕らえることはできず、空を切るばかりだった。


「降参してはどうだ」


またあのキュンという耳障りな音を立てて、河濤が目の前、五丈(約十五メートル)ほど先に現れるとそう言った。


「はっ、冗談でしょ!」


魯智深は獰猛に笑ってそう言うが、誰が見てもそれは強がりにしか見えなかった。最初の肩への一撃以外は深手の傷は無いとは言え、今の魯智深の体は顔から足まで傷ついてないところを探す方が難しいくらいだ。対する河濤は傷らしい傷などほとんど負ってない。当の魯智深ですら、それは自覚するところだった。


 敵の戦法はごく単純だった。火内功により一気に距離を詰めると一撃だけ加え、即座に安全圏に退避する……いわゆる、一撃離脱の戦法を延々と続けていた。魯智深はここまでそれを何とか破ろうと距離をとったり、逆に近づいてみたりと色々な方法を試してみたが、河濤はそれをあざ笑うかのように常に一定の距離を保ち続け、攻撃を加えてきている。


 同種の気功使いとして今まで魯智深が見た中でもっとも手ごわかったのは林冲だが……


(冗談じゃないわ、こいつ、林冲より速いんじゃないの?)


目の前の男の速度は魯智深がようやく目で追える、と言った程度で、攻撃の初動から傷を受けるまで、魯智深にできるのはせいぜい急所に攻撃があたらないように身を屈めることぐらいであった。さらに言えば錫杖を奪われたままなのもつらい。おかげでどうしたところで、魯智深は攻撃を自らの体で受けざるを得なかった。とはいえ、それでも二刻(約一時間)以上もの間、河濤とやりあっていることは驚嘆に値するだろう。


「残念だ。それだけの力量を持ちながら使い方を誤るとは」


「あたしの力の使い方はあたしが決める。人にとやかく言われることじゃないわ」


そう答えながらも魯智深はふと思った。


(とはいえ、一体なんだってこんな事になっちゃったんだろ)


 そもそも尼なんかになったのが間違いだったのかもしれない。どう考えたって自分にそんなの勤まるわけがないのに、勢いでなってしまい、しかもいつの間にか寺を荒らす悪党どもを追っ払うためとかなんとかで都の大きな寺に入ることになってしまった。自分は真っ当には生きられない、つまり適当な男に嫁がされて子供を産んで育てるというようないわゆる『正しい』女の生き方はできない、とはずっと前からなんとなく思っていたし、別に不満も無かった。だが一方で別に無法者や犯罪者になるほど、社会からはみ出るつもりもなかったはずだった。


 それがなんだ。いつの間にやら林冲に関わり始めて、ずるずるとなし崩しのままに脱獄やら何やらにまで手を貸してしまった。無論、それは自分の選択の結果であり、林冲を責めようなどとは思わない。


 しかし思えば自分はそこで引き返すべきであったのかもしれない。

 実際問題そうすることはできたはずだ。林冲の脱獄事件は現場となった滄州(そうしゅう)以外ではほとんど明るみとなっておらず、魯智深の名前も出ていなかった。柴進(さいしん)に頼めば用心棒としておいてもらえただろうし、滄州の外に出れば、多少不便はあったかもしれないが自由気ままに暮らせたはずだ。


 だが、魯智深はそのどの道も選ばず、旅の途中でたまたま知り合った少年に同行することになった。それだって彼の故郷まで見送ればそこで関係も終わりのはずだった。ところがどういうわけか、自分はあのちっぽけな少年に散々振り回されていつの間にか、正規の禁軍の武官と生きるか死ぬかの勝負までさせられている。


(ま、しょーがない)


それが自分の性分なのだろう。あの子犬のような少年を、放っておいたらどこかで野垂れ死にしてしまいそうなあいつを、見捨てることができなかった。遠慮がちに、しかし必死に懇願されてしまえば、気軽に彼の頭に手を載せて任せておきなさいよと言ってしまうのが自分なのだ。


(そんなでかい事言った以上はあまり無様なとこは晒せないわよね)


魯智深は宋江の顔を思い出して、ふうと息を吐くと構えをとった。


「………」


無言のまま河濤がまた耳触りな音を立てて姿を消したが、魯智深は動じなかった。ふっふっと呼吸で時間をはかると一気に右手を突き出す。まるで予知したようにそこに河濤が現れ、めしゃりという音とともに顔面を潰されながらふっ飛んだ。

 河濤はそのまま抵抗できずに、背後に控えていた兵士の一団に突っ込んだ。押し倒されたり、蹴散らされた兵士の哀れな悲鳴を聞きながら、魯智深は勝ち誇って言った。


「はっ! 何度も何度も同じことやられりゃいい加減、対応策ぐらい思いつくわよ! この魯智深様を甘く見るんじゃないわよ! この無愛想! 陰険! ムッツリスケベの卑怯者!!」


ここぞとばかりに罵詈雑言を投げつけつつ、魯智深は拳を握った。


 河濤の初動を認識してから迎撃を始めたのでは絶対に間に合わない。しかし、あらかじめ、魯智深の方が先に動いていれば話は別である。魯智深は疲労困憊と見せかけて、一か所だけ、急所を攻撃しやすいように隙を見せていた。そして教本のようにその隙を狙いに来た河濤を迎撃したのである。


 乱暴に兵士たちをどけて河濤はむくりと起き上がった。表情は先ほどと変わっていないが若干怒ったような色が浮かんでいる。負傷はしていないわけではないが、それほど深いとも思えない。


(やっぱ不完全だったか……)


魯智深の本気の拳が入っていれば大の男だろうと気絶する、どころか当たりどころが悪ければ死ぬ。が、そこまでうまくはいかなかったようだ。


 立ち上がってパンパンと彼は服についた土を払い顔を上げた。そして、またギュンと消え去る。来るか! と身構えたが河濤はそのまま魯智深の右に現れた。慌てて魯智深がそちらを向くと、そのころには河濤は魯智深の背後に出てくる。


「ぐっ!」


どうやら、こちらの対応を見て、いつこちらが攻撃に転じるのか悟らせないつもりらしい。確かに先ほどの魯智深の行動は相手がいつこちらに向かってくるかがわかって初めて有効に機能するものだ。


 何度かそんなことを繰り返した後、河濤は突如、魯智深の背後に現れた。魯智深はその事を知覚はしていたものの、無防備な背中をさらしてしまっていた。


(!)


と同時、背の中心に衝撃が走る。魯智深はそれに無理に逆らわず、というか逆らう事もできず、肺から息を強制的に放出させられながら、正面の兵士たちの群れの前に無様に転がった。わっと、まるで手負いの虎でも現れたかのように倒れた魯智深から兵士が逃げる。


「ぐっ……がっ!」


魯智深が起き上がろうとしたその時、河濤は彼女の背を無慈悲に踏みつけた。


「もう一度聞く」


河濤は注意していなければ聞き漏らしてしまうような、小さな声でつぶやいた。


「大人しく縄につけ。さすれば命までは取られん」


自由に動く首だけを回して相手を見上げながら、魯智深は大した考えもなく半ば条件反射的に答えた。


「い、嫌よ……」


すると河濤はしばらくの間、黙って身じろぎもしなかった。


「何故だ? いや……そも、お前たちは何なのだ?」


それは河濤にしてみれば当然の疑問であったのかもしれない。彼にしてみれば、雷横(らいおう)朱仝(しゅどう)、楊志、索超、林冲、秦明といったそれなりの地位にある軍人が次々に敵として立ちふさがってくる。しかも彼女たちに過去からの繋がりがあったようには見えない上に、単なる金目当てにしてはあまりに士気が高い。高額の賄賂を狙ったというのも何か政治的な意図を感じているのかもしれない。


「さて、なんなんでしょうね?」


「そうか、では他の奴に聞く」


魯智深では自分でもよくわからずそう答えたが、河濤は自分が答えをはぐらかしたと思ったらしい。彼はそれ以上の議論を切り捨てるかのように腰から剣を抜いた。


 だがそんな河濤の様子などまるで目に入らないように魯智深は全く別の事を考えていた。


(あたしが死んだら、あいつ、泣くかしら?)


間違いなく泣くだろう。誰が死んだって泣くような奴だ。その光景を想像すると少しばかり、憂鬱になる。


(まったく、男の子だって言うのにね……情けないったらありゃしない)


しかしその言葉とは裏腹に魯智深の胸は不思議と暖かくなった。ふっと笑みを漏らす。


(泣かれてもうざったいし、もうちょっと頑張りますか)


 魯智深は河濤の降ろされた剣を自分の首元にささる直前でがしりと受け止めた。来る場所がわかっているなら止めようはある。当然、手のひらからは血が噴き出るが首を落とされることに比べれば些細な問題だ。


「むっ……ぐっ……」


「ぎっ……このっ……」


しばしその剣を二人は互いに押し合った。状況と姿勢から言えば、魯智深の方が圧倒的に不利だが、いくら速く動いたりできてもこうした純粋な力比べでは河濤の力は常人の域を出ない。一方、魯智深の土内功(どないこう)はこうした時にこそ本領を発揮する。


「ちっ!」


純粋な力比べでは埒が明かないと判断したのか河濤は魯智深の背中を踏みつけるように、がすっがすっと蹴り飛ばしてくる。だが、それをするということは魯智深の背中から一瞬であっても圧力が無くなるということだ。


「はん! 意外と根性がないじゃない!!」


魯智深は河濤の圧力が無くなった瞬間に体を転がすと、思い切り足を振り上げた。河濤は即座に後ろに下がろうとしたようだったが、魯智深に剣を掴まれて動けないままだった。


 河濤の腹を蹴り飛ばしながら剣を離す。相手は一丈(約三メートル)ほど上空に飛ばされた後、どうと背中から地面に倒れた。それを確認しながらよろりと魯智深は立ち上がる。河濤も大した怪我はないのかすぐに立ち上がっった。


「か、河濤様! 大変です!!」


とそこで、河濤の近くにいる兵士が声を上げた。


「ふ、船が、船が燃えております!!」


(ああ、阮小五(げんしょうご)か……)


兵士の報告をまた河濤も聞きながら、魯智深は数日前に会ったばかりのあの少女の顔を思い出した。彼女は作戦の構成から言うと端役になったことに不満そうだったが、それでもきっちりと仕事はこなしたらしい。


「消火に向かえ。可能な限り早くだ」


「はっ、かしこまりました。おい、続け!!」


どうやらその兵士はただの兵ではなく、それなりの地位にあった男らしい。その男は馬に飛び乗って、兵士を率いていった。が、驚くことに誰もその場に残ろうとせず、河濤もそれを留めようとはしない。


「何? 一人でも余裕ってわけ?」


「いてもいなくても一緒だ」


魯智深が揶揄するように言うと、河濤は短く答えた。確かに彼らはずっと魯智深と河濤の周りを囲んで勝負の行く末を見守っていただけだったし、正論かも知れないが。


「最後だ」


と周りの兵士が急いで河岸に向かうことなどまるで気にしていない様子で河濤は口を開いた。


「降伏しろ」


「しつこいわね。嫌って言ってるでしょ」


だが、無骨なこの男が同じ質問を重ねて来たことに魯智深は少なからず驚いていた。


「何故拒む?」


「決まってるじゃないの。降伏ってのは負けてる側がするものじゃない。あたしは負けてないもの」


胸を張って魯智深は答える。怒るかと思ったが相手は無言のままだったので、魯智深は言葉を続けた。


「それに、あんたのやり口が気に入らないわ。そんな風に上から目線で『俺に従え』なんて言われたってあたしはイヤよ。何が嫌いって力づくで命令されることほど嫌いなものは無いもの。行儀良く土下座でもしてお願いしてご覧なさいな。そしたら考えてあげる」


「断る。調子に乗るのも大概にしろ。賊に下げる頭は持たん」


「はっ! 本性が出たわね! 一皮剥けばあたしと同じように人を殴るしか能のない奴がよく言うじゃない!!」


魯智深が嘲るように言うと河濤は一層、怒りの色を露わにした。無表情だが、武官としての自尊心は意外と高いらしかった。


(低すぎても高すぎても困りモノね、こういうのは)


魯智深の頭にそんな言葉が浮かんだ直後、河濤が再び消えた。


(さて、言いたいことを言えたのは良いけど実際問題、どうしようかしらこれ)


魯智深は河濤の姿を必死に追った。対抗手段は無い。いや、厳密には先程それらしきものの材料くらいは見つけたがそれをどう活かせばいいのか、その具体的な手段が思いつかなかった。


(そうだ……!)


魯智深は左右を見回して、自分の錫杖を探した。先程河濤に奪われ、敵兵に持って行かれたが、あんな重いものをわざわざ遠くへ持って行く事は考えにくいので、その辺りにあるはずだった。辺りを見回して魯智深は背後に無関心に打ち捨てられているのを見つけた。


(とりあえず、あれだけでも!)


魯智深は一気にその錫杖の元に走り寄る。それによって魯智深の背中ががら空きになることになるが、気にしなかった。どの道今までだって似たようなものだったのだ。だが、魯智深が背後に河濤の気配を感じたのは予想以上に早かった。


(来たかっ!)


間に合うかどうかはわからなかった魯智深はとっさに振り向きざまに拳を放った。


 結論から言えば、魯智深は間に合わなかった。というのは魯智深の拳がぶつかるよりも、河濤の剣が振り下ろされるよりも早く、飛び込んできた人影が河濤を蹴り飛ばしたからだ。河濤が自分の左手方面に吹き飛び転がっていくのを魯智深は唖然として追っていった。


「遅れました。申し訳ありません」


黄信(こうしん)……?」


拳を振り上げたままという間抜けな姿勢で魯智深はその人影の名を呼んだ。


「どうしてここに……?」

黄信は本来、船着場の守護を秦明から命じられていたはずだった。彼女が秦明のその言葉に背いてこの場所にいるというのが少し意外だった。


「阮小五殿のお陰です。船着場に集まってた兵はみな、船の消火に向かったので自由に動けるようになりました」


言われて魯智深は辺りを見回した。きれいなまでに自分と黄信、それに距離を取った河濤以外の人影は河岸にいたるまで誰もいなくなっている。上流側に煙を上げている船に兵が無駄に集まっているが、あれだけ集まったところで意味があるとは思えなかった。おそらく半分ほどの兵は何の役にも立っていないだろう。


 しかし、よくよく考えてみれば兵士も大臣の賄賂を守るために命を賭けて戦う気など起きないのだろう。要はこの辺りの兵士は船を守るという名目のもと、全員が全員消極的に任務を放棄したらしかった。


「魯智深殿、これを」


魯智深が彼らの様子を見ている間に黄信は錫杖を渡してきた。それを受け取ると、魯智深は改めて河濤を見た。敵は既に体勢を整えつつ、ゆっくりとこちらに間合いを詰めてきていた。


「二人……か……」


ぼそりと河濤が言う。


「お友達を呼びたかったら呼んでもいいのよ」


「魯智深殿、あまりむやみに敵を挑発するのはやめてください」


魯智深が揶揄するように言うと河濤より早く味方から異論が入った。


「……相変わらず生真面目ね」


「自分に言わせれば皆様の方がおおらかすぎます」


自然と背中合わせになるように構えを取りながら魯智深と黄信はそんなやりとりをした。


「いいじゃないの。第一もうあたしもあんたも軍人じゃないのよ。クソ真面目にやらなきゃいけない理由はどこにもないじゃない」


「そういう問題ではありません。本当にあの男が兵を呼んできたらどうするのですか。時間が余計にかかるではないですか」


その黄信の言葉に河濤はひどく気分を害したようだった。時間が余計にかかるという黄信の言葉は負けることを全く考えてないともとれるからだろう。


「あんた、ひょっとして、わざと……?」


「何のお話ですか?」


魯智深は顔を少し引きつらせて尋ねたが黄信は心底何を言っているのかわからない、というような顔をした。つまり天然らしい。


「……ま、いいわ。確かにあんたの言うとおりだしね」


魯智深は言って軽く腕をまわす。コキコキと骨の鳴る音がした。


「さて……それじゃ、二対一となったことだし、仕切りなおしといきましょうか」

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