その十五 公孫勝、奥の手を使うのこと
山を降りる道のりは想像以上に過酷であった。
まず暑さ。季節は夏。多少曇が出ているとはいえ、それらに本格的に運転を始めた太陽の暑さを和らげるほどの力はなく、逆に蒸し暑さを助長しているだけだった。山で火が燃え広がっているだとか、そんなことを抜きにして前提条件で既に暑い。特に多少回復したとはいえ、未だ半病人に近い雷横や朱仝、それに索超を背負っている楊志にとってはこの時点でかなりの消耗を強いられている。
次に道の状況。昨日から今朝にかけて登ってきた周王山も基本的には獣道であったが、今のこの道(と表現していいのかどうかは甚だ疑問だが)と比べればあれでもまだ少し歩きやすくなっていた事を認めざるをえない。周王山では花栄が色々と気をくばってくれていたし、その直前に多数の兵士が荷物をかついで道を登っていたから、道らしきものができていた。
だが今回宋江達が進んでいる森の中は整備どころか、過去に人が通ったことがあるのかどうかさえ疑わしく、花栄もそんなところまで気を回す暇などないようだった。宋江達は時に自分の腰ほどの高さの低木や何十年か前に倒れたらしい巨木を乗り越えたり、自分の身長程もあるような崖をいくつも降りたりと、かなりアスレチックな移動を強いられていた。
しかも、足元は下草が生い茂ってて地面の様子がみえない上に、きちんとした地盤があるとは限らない。既に楊志が三回、宋江が五回、そして雷横と朱仝が二回ずつ、うっかりぬかるみに足を突っ込んでいた。おまけにたまに草むらの中から蛇や獣の死体をが出てくるので、精神的にもかなり疲労が溜まってくる(もっとも、そうしたものを一々気にするのは宋江ぐらいのようだったが)。
問題はまだある。煙だった。風はおおよそ北から、すなわち宋江達の背後から強めに吹いており、渓谷の奥で生じた火事によって生じた大量の白煙は宋江達にかなり早い段階から追いついて来ていた。目や喉も痛むがそれ以上に、視界がろくにきかないのがつらい。例えば宋江の前には手前から順に、雷横、索超を背負った楊志、花栄の順に並んでいるはずだが、見えるのはぎりぎり楊志までで、花栄の姿は全く見えない。
しかもその煙は次第にどんどんと厚みを増している。これは大きな問題だった。それはつまり風上で燃え広がっている炎の速度が自分達よりも速いということを意味しているのだから。
そんな焦りが生まれつつも三十分ほど歩いただろうか。不意に宋江の前にいた雷横の足が止まった。と言っても足を止めたのは雷横だけでなくその前の楊志と先頭にいる花栄も同じようだったが。
「どう……したんですか?」
汗と煙で体中の水分は失われつつあり、声を出すことすら億劫だったが宋江は先頭の花栄に呼びかけた。だが、自分がその疑問を言い終わる頃には宋江は花栄が足を止めた理由はわかっていた。
今、宋江達がいるのは岩や倒木がいくつも転がっている坂の途中である。昔は川が流れていたのか(もっとも水源が枯れたのは相当昔らしく、今は苔すら生えていない)両側がちょっとした崖のようになっており、それが道のようなものを作り出していた。もっともこんなに通りやすい場所に出たのはほんの五分ほど前の事だが。
両側の崖は大した高さはない。ほんの二メートル程度だろう。それに反して道幅は結構広い。こちらはおおよそ五メートルほどだろうか。
だが、その五メートルの幅は宋江達の正面で急速に細くなっており、そこに道を塞ぐように倒木が折り重なって積み上がっていた。
倒木だけなら今までも似たようなものはいくつもあった。というかちょうど宋江の後ろにいた朱仝がそれをくぐり抜けてくるぐらい身近にある。だが、それはどれも一本か二本、単体で倒れているだけだったのに対し、今回のそれは大小十本以上の木が重なっている。とはいえ人為的なものではないらしく、整然としているわけでも無いのでそこかしこに隙間がある。花栄はそこを通り抜けられるかどうかを調べているようだった。
「宋江、そっちの崖にさっきみたいに枝を生やせる?」
なにやらごそごそと倒木の隙間を探りながら花栄が話しかけてくる。もっとも宋江から見えるのは彼女の小ぶりなおしりだけだったりするのだが。
「や、やってみます?」
慌てて視線を逸らして宋江は崖に向かって気功を練った。すぐに若木がふっと生えてくるが地盤がもろいらしく、ある程度大きくなると根本の土と一緒に崩れてくる。
「だ、駄目みたいです」
「やっぱそうか。ちょっと待ってて」
花栄がそう返答すると、皆がその場に思い思いに腰を下ろした。宋江も大分消耗していたが、それでも他の面々に比べればまだ余裕があるほうだったろう。朱仝と雷横は完全にへたりこんでしまっているし、楊志もぜえぜえと荒い息を吐いている。索超に至ってはいわずもがなだ。花栄が段違いに余裕があるとして、後は宋江と同じ程度に動けるのは公孫勝ぐらいしかいない
「宋江。ぬし、いつの間にそんなことまでできるようになったんじゃ?」
その最後尾にいた公孫勝が跳ねるように歩きながら話しかけてきた。そう言えば、先程まではそんな事を喋る暇も無かったため、自分の気功については宋江は何も話していなかった。
「あ……えっと、河に落ちて数日ほどしてからですね」
「なんと、想像以上に進歩が速いのぉ」
「いやいや、師匠のおかげですよ」
と、彼女の機嫌が多少良くなったことをきっかけに宋江はここぞとばかりにご機嫌取りに走ることにした。
「ほほう、わしのおかげとな?」
にやりと邪悪な笑みを浮かべて公孫勝は聞いてくる。こちらの魂胆などお見通しといったばかりだ。
「ま、そういうことにしておいてやるとするかの。世話になった師匠に便りもよこさず、勝手ばかりしとる弟子よ」
「か、寛大な心に感謝いたします……」
ようやく許しをもらえたようで、宋江はしおしおと縮こまった。
と、そんなことをしていると、花栄がごそごそと木の下から這いずり出てきた。
「ここなら、行けるみたい。ちょっとあたしが向こうから声をかけるまで待ってて」
花栄はそう一声あげると再び、倒木の下に潜り込んで行く。ややあって倒木の向こうからいいよーと声がかかる。
「宋江。先に私が行くからこっち側で少し索超を見ててくれる?」
「はい。わかりました」
楊志がそう言って、花栄に続いて穴に入っていく。一方で索超は未だに歩くことどころか、座っていることさえ辛いようでぐったりと寝転がっていた。
「め、迷惑迷惑をかけるね……」
「そんな、迷惑だなんて思ってませんよ」
申し訳無さそうにつぶやく索超に宋江は安心させるように微笑んで話しかけた。
「自分が自分が情けないよ。こんな肝心な時に動けないなんて……」
「動けないのは索超さんのせいじゃなくて、索超さんをこんな風にした人たちのせいですよ。そんなにご自分を責めないでください」
宋江は隣に腰を下ろして、慰めるように言った。
「それに僕も楊志さんも別に索超さんが役立つ人だから来たわけじゃないですよ。動けなくたって索超さんは索超さん。楊志さんの大切なお友達です」
「あはは……なるほどなるほど」
「何がです」
突然笑い出した索超を宋江は不思議そうに眺めた。
「別に別に大したことじゃないよ。楊志が君のことを気に入った理由がなんとなくわかったってだけ。カンだけどね」
索超はにかっと明るく笑って宋江のことを見上げながら、そんな事を言ってきた。
「宋江! 索超! 準備出来たわ! こっち来て!」
と、そのときになって巨木の向こうから楊志が声をあげた。覗きこむと巨木の下を楊志がこちらを招くように手を伸ばしている。
宋江は索超に肩を貸してそっとその通路に導くと、彼女は四つん這いで動くことはどうにか自分一人でもできるらしく、なんとかその間を通って行った。それを確認しながら宋江はふと待機している他の面々を振り返って気づいた。
(煙が大分少なくなってる?)
先程まで増えていく一方だった煙がいつの間にか減っていた。一瞬だけ、火の勢いが弱まったのかと考えたがそうではないようだ。風は相変わらず吹いているし、それ以前に周囲の気温はどんどん上がってきている。今まではなんだかんだで蒸し暑さはあってもせいぜいが摂氏三十度前後だったのが、ヒートアイランド現象を起こした東京の町中ぐらいはある。その感覚を信じるなら気温は四十度弱。山の気温としては格別に高い部類だろう。
(いや、それは昼前だからかな……)
宋江がそう思って、大雑把な時間を確認しようと太陽を見上げた時、彼はそれに気づいた。
「……なっ!」
目に入ったのは道の両側にある崖の上に生えている木々の状況だった。崖の差を考慮しても宋江達から十数メートルと離れていないそれらの木々にまでいつの間にか、白煙を上がり始めている。ついに、山の奥から発火した炎が自分達のすぐ近くまで追いついていたのだ。山を降りている最中は上を見上げる機会など無かったから、今まで誰も気づかなかったらしい。煙が周りを覆っていたのも一因だろう。
煙の少なくなった理由も同時に判明した。振り返れば、既に背後にある多くの木々は炭のように真っ黒になりながら火を噴き出している。
白煙は燃えた木の中の水分が蒸発することで発生する。白煙が無くなったというのは火が弱くなったのではなく、その逆。つまり、木が燃えることに対して抵抗するための水分が枯渇した事を意味していたのだ。次第に昼になりつつあるというのもあるかもしれないが、それ以上にこれこそが周囲の温度をあげている原因だろう。
と、そんな風に見上げていると急に突風が吹いた。周囲の木が燃えているのもいないのもがさがさとゆれ、ボキリと不吉な音がした。
「雷横さん! 下がって!!」
「え?」
雷横はその時、索超に続いて倒木の壁の隙間を通り抜けようとして倒木に近づいていたところだった。宋江はその彼女の手を無理やり引き寄せて後方に引く。急にそんなことをされたので、雷横が軽くたたらを踏んで、宋江に倒れかかってきて……。そしてほぼ同時に燃えたままの木の枝がまるで特攻隊の爆撃機のようにその倒木の壁に激突した。枝、と言っても葉の部分も含めれば畳半分程度の大きさがある。ブオッと風が吹くことでその倒木が一気に燃え上がる。
「どうしたの!? 何かあったの!?」
巨木の向こうから楊志の声が上がった。どうやら、向こうからはこちらの様子がわからないらしい。宋江は雷横を立たせると大声で答えた。
「火が近くまで来たんです! それで倒木が燃え出して……索超さんは無事ですか!?」
「う、うん。今ちょうど出てきたところだから大丈夫!」
「宋江! 火っていうのはどれくらいなの!? まだ通れそうなの!?」
「ま…待ってください!」
花栄に言われて宋江はその倒木の固まりを注意深く眺めた。既に火はかなりの勢いで広がっていた。おそらく、倒木の隙間に挟まっていた枯れ枝や枯葉に火が付いたのだろう。強風とあいまって、急速にその火力を増している。とても通れそうな雰囲気ではない。下手をすると下を通っている間に燃えた倒木が崩れ落ちてこないとも限らないのだ。
「ちょ、ちょっと難しそうです」
「わかった。じゃあ、ちょっと待って! 今迂回路を探すから!!」
「いや、花栄よ!! 待て!!」
花栄の声に対抗するように叫んだのは公孫勝だった。
「そっちの地形はどうなっとる?」
公孫勝の質問に少し花栄が訝しむのが一瞬だけ雰囲気で伝わってきたが、彼女は素直に答えた。
「そっちと同じような道がそのまま続いてると思っていいよ。だけどこっち側は今までとは比べ物にならないほど、傾斜がきつい」
「わかった! では花栄よ! わしは今からこの倒木を吹き飛ばす! じゃが、手加減はできぬからぬしらを巻き込むやも知れぬ。じゃから急いでそこを離れて麓に向かえ!」
「できるの!? そんなこと!」
楊志が悲鳴混じりの声を上げる
「できる! 四半刻(約七分)やるから、とっととそこから距離を取るんじゃ!! 早うせんとぬしらも火に巻き込まれるぞ!!」
言われて宋江は思わず崖の上の木々を見上げた。そうだ。今はまだ燃えている木そのものとの距離があるからいいかもしれないが、このまま花栄が待っていたら彼女たちまで火に巻かれてしまう。
「……わかった。本当にそれでいいんだね!?」
確認するように花栄が声を上げる。
「はい! 花栄さんは楊志さんと索超さんを連れて、麓まで向かってください!!」
と答えたのは宋江だったが花栄はそれで納得したようだった。
「宋江! 本当に大丈夫なのね!?」
「大丈夫です! 師匠はできないことは言わない人ですから!!」
楊志の確認にもそう言い返すと、少しの間だけ沈黙があった。
「信じるからね! 下で待ってるからね!!」
楊志の祈るような声を最後にようやく三人がそこから去る気配がした。
「あ。ごめんなさい。勝手に話を進めちゃって……」
「……いえ……構いません。……助かれる人から助かるべきでしょう、こういう場合は」
宋江の言葉に朱仝が息も絶え絶えと言った調子で応じた。雷横は無言のままだが朱仝の言葉に同意するように頷く。
「ところで、師匠。吹き飛ばすって具体的にはどうするんですか?」
いいながら宋江は多少の息苦しさを感じていた。酸欠になりかかっているのかと一瞬思ったが、よくよく考えてみれば燃えている倒木の隙間からは空気の通り道があるのだ。密閉空間ではないのだから。純粋に暑さによるものかもしれない。
「簡単じゃ。足元にこれだけ岩が落ちとるんじゃぞ。思いっきり投げつければどうにかなるわい。じゃがさっき言ったとおり、即座にぶん投げては先行した三人が危険なことになる。しばし時間を置くぞ。そういうわけじゃから今はおぬしも体を休めておくとよい」
と公孫勝は自分が椅子代わりにしている岩をポンポンと叩きながら言ってその場に座り込む。しばし四人が無言のまま時間が過ぎた。雷横や朱仝にとっては多少の休息にはなっただろう。
だが、宋江は気が気ではなかった。再三言ったとおり、既に火は自分達に追いついて来ているのだ。公孫勝の言うことはもっともだったが、雷横や朱仝は既にかなりつらそうにしている。ここを越えられたとしても自分達は無事麓までたどり着けるのだろうか。
「よし、そろそろ良かろう」
そう言って公孫勝が立ち上がったのは宋江の体感時間にすると楊志達が去ってから十分ほどしてからの事だった。言うと出し抜けに彼女はひょいっと自分の胴体程度の岩を持ち上げる。射線上にいた宋江は慌てて道の端に避けた。
「せーのっ!!」
公孫勝が思いっきりその岩を両手で投げつけると、岩は倒木にめりこむようにして燃えている木々をへし折り、一気にそのバリケードもどきを破壊していく。そして途中で一瞬だけ止まったが、結局、重力と慣性に導かれてぐらりと傾くと、そのまま、がらんがらんと派手な音を立てながら壁の破片の一部とともに下に転がっていったようだった。
宋江はすぐさま、その先へと走り寄った。
倒木のあった場所を超えると視界が多少開けた。基本的には先程花栄が話していた通りで、引き続き両側を先ほどと同じような崖が続いていて一直線に道が続いている。そして傾斜、もはや半分崖と言っても変わらないその坂道は今までと同じように、石ころと若干の倒木によって形作られていた。幸運なのはその傾斜が完全な坂ではなくほぼ階段状になっていることでこれなら慎重に降りていけば、なんとかなりそうであった。もっともその階段の段差は一メートル近くあるのだが。
崖の下には公孫勝がぶん投げた岩があった。そこで別の木に直撃したらしく、あたりの木を数本へし折っている。ざっと見たところ、花栄や楊志はいないから巻き添えを食わないほど遠くへ移動したのだろう。楊志や花栄を先に行かせた判断は正解だったろう。周囲には今の岩や飛んでいった倒木を避けられるような場所は殆ど無い。
一方で、火はかなり広範囲に広がっていた。この森は上空からみるとおおよそ南側を底辺とした細長い二等辺三角形であり、敵はその斜辺の上部分から火をつけた。その火はほぼ真っすぐに南下し、まだ緑が保たれている地形は相変わらず二等辺三角形のままである。そして宋江がいるのはその森が残っている二等辺三角形の頂点と言っていい。すなわち、自分達の正面はまだ延焼を免れているが両側と背後はそうではなく、場所によっては自分達よりかなり南の部分まで炎が侵食している地域もある。しかも今は風向きが北から北西へと変わりつつあった。となれば、遠くない内に西側、つまり今の宋江から見て右手の炎が自分達の進路上にせり出してくるだろう。
ちなみに正面の更に奥。麓の方でも火のついた木々が見え始めていたが。風下にあるせいか、あまり燃え広がってはいない。あるいは雷横達を生け捕りにするために、あまりそちらには火を打ち込んでないのかも知れなかったが。
「急ぎましょう。早く楊志さんたちに追いつかないと」
宋江が振り向いてそう言うと三人は頷いた。
だがそこから先の道はまた一苦労だった。前述したように、それから先の道は段差が一メートルほどある階段が続いているようなものだった。普通に歩いて行くには難がありすぎる。それをしようと思ったらほとんど飛び降り続けるようなものだが、一度足を踏み外してしまえば、どんな大けがをするかわからない。結果として四人はほとんど這いつくばるようにしながら降りざるを得ず、その歩みは亀のように遅かった。
幸いなのはそれを降りている間、周囲には全く、木が生えていないことだった。お陰であまり暑さには(あくまで今までに比べると、であるが)悩まされずに済んでいた。
しかし結果論であるが、暑さに悩まされていたほうが良かったかもしれない。彼らを責めるのは酷なことであったが、宋江達は安全に降りる事に気を取られすぎて、自分達が炎に追われているという事実をすっかり忘れてしまっていた。いや、炎の速度を見くびっていた、という方が適切かもしれない。
その結果は宋江達がその階段から降りた時……言い換えれば、ようやく足元だけを見ずに済んだ後に、つきつけられることになった。
階段を降りた先はまず右手は引き続き崖が塞いでおり、とても通れない。正面もまた崖というほどではないが、やはり急激な勾配となっており、そこから降りるのは難しそうだった。しかもそこにある木々はまだ本格的には燃えていないものの、白煙は上がり始めており、また低木や草木には既に火が付いてごうごうと燃えている。上から見下ろしているとさながら、地獄の釜を見ているようだった。
残る左手はそこだけが何か区切られたかでもしたかのように木もないまっ平らな平地が続いていた。その先にまた降りるための道があるようだったが、ちょっとここからではわからない。
「何あれ……」
雷横が呆然とした様子で呟いた。平地の先がどうなってるかわからないのは単に遠くて見えないとか、少し影になっているから、とかそういう理由ではなかった。
そこにあったのは炎の柱だった。いや、柱というのはいささか適切な表現ではないかもしれない。それは柱と違い、うねり、たわみ、猛るように己の身を振り回していた。ごうごうと風の音なのか炎の音なのかわからない轟音を立てている。円柱状のその火の柱の直径は凡そ五メートル。高さはどれほどあるか、見当もつかない。宋江が咄嗟に思いついた比較対象は通っていた四階建ての校舎だが、最低でもそれより高いだろう。
火災旋風。市街地での大規模火災や山火事で度々見られるこの現象のメカニズムは二十一世紀の今も完全には解明されていない。わかっているのはほんの断片的ないくつかのことだけだ。まず、周りがある程度開けており、その開けた場所にさらに燃えるものがあると発生しやすいこと。そこに横風が吹いているとさらに発生しやすくなること。そして、時に人間どころか馬車さえ持ち上げるような風力と膨大な熱で辺りに甚大な被害を巻き起こすこと。
見た目は文字通り、旋風である。時折、落ち葉などがくるくると空中で回っているあれだ。しかし、今回っているのは落ち葉ではなく炎で、しかもそれはまるで化け物が犠牲者を吸い込むように次々に周囲の可燃物を取り込んでいる。驚いたことにその中には先程公孫勝の吹き飛ばした倒木(どう少なめに見ても数十キロはある)まで含まれていた。おそらく旋風によって熱された空気が上空に持ち上げられるので周囲の空気がそこの根本に集まって強風を起こしているのだろう。既に宋江達の服の裾はバタバタとうるさい音を立ててはためき、足元の枝は飛ぶようにその炎の根本に向かって飛んで行く。
「に、逃げないと……」
「どちらにですか?」
雷横が慌てたように言うと朱仝がいつもの冷静な調子で言葉を返す。正面の崖を降りれば下は火の海。となると右手の崖だろうか。
「師匠、こっちにさっきみたいに枝を生やすから登りましょうか」
「おお! それだ! 宋江、偉い!」
宋江がそう言うと、雷横が即座に反応する。だが、公孫勝は渋い顔で上を見上げた。
「宋江、ちょいとぬしの頭あたりに一本だけ生やせ。わしがちょいと見てくる。
「は、はい」
その崖は三メートル程の高さだった。宋江が自分の頭のあたり、およそ地上から1.6メートルの辺りに枝を生やすと公孫勝は軽々とそれに乗って飛び上がり……
「駄目じゃ駄目じゃ!! こっちも火が回っておる!! 下に降りるほうがまだましじゃ!! ……うひゃっ!!」
そう言いながらすぐに降りてきた。降りてくる途中で彼女の体が引き寄せられるように炎の柱に飛んで行くのを宋江は慌てて捕まえた。ここまで来るともはやあの根本にブラックホールか何かがあるように思えてきた。
「しかたありませんね……そうなると、この降りてきた崖を一旦登るしか無いという事でしょうか」
「うえええーーー……」
朱仝の言葉に雷横が思いっきり嫌そうな声を上げる。が、宋江も気持ちはわかる。今までせっかく苦労をして降りてきたところをまた逆戻りしなければいけないと言うのだから。そう思いつつ上を見上げ……
「逃げて!!」
宋江は思わず叫んだ。
「に、逃げるって……!?」
「と、とりあえず、こっち!」
宋江は雷横と朱仝の手を引っ張って、その恐ろしい火柱のある方向に数歩進んだ。直後に崖の上から燃えた倒木(さっき宋江達が通ってきた道に落ちていたやつだろう)ががらがらと落ちてくる。どうやら、上ではますます風が強くなっているようだった。あるいは考えたくはないがこれも目の間のこの火柱が呼び寄せたのだろうか。だが何にせよ、ひとつ言えるのは宋江達は完全に退路を失ってしまったということだ。今は左手には切り立った数十メートルクラスの崖、右手は火の海、そして後ろは燃えた倒木、そして正面に火柱。
「あの、なんかあの火柱……さっきよりこっちに近づいてきてません?」
「来てますわね……」
宋江のつぶやきにあまり嬉しくなかったが朱仝が同意する。先程まで三十メートルは離れていたはずだが、今やその距離は半分ほどになってしまっている。後ろにおちてきた倒木と相まって周囲の気温は殺人的なまでにあがっていた。
「宋江さん、もう一つ、申し上げてよろしいでしょうか?」
「何でしょう……」
宋江が尋ねると朱仝はへなへなとその場に座ると笑って言った。
「最後に食事を食べさせて頂いてありがとうございました。美味しかったです」
「あ、あたしも。着替えありがとうね。おかげで助かったよ」
「あ、あきらめちゃ駄目ですよ!!」
まるで遺言のような事を言い出した二人に宋江は慌てて声をかける。
「けど、これどうしょうもないっていうか……」
同じように座り込みながら雷横が言う。周囲は既にサウナどころの騒ぎではないほど暑く……いやもう『熱く』なっていた。少なくとも三方向を火で囲まれているから当然といえば、当然なのだが。宋江もそんな事を考えている内に頭がだんだんぼんやりしてくる。
「仕方ない。奥の手を使うかのう」
と、ずいっと代わりに進み出たものがいた。公孫勝だ。
「そんなもの、あったんですか? さすが師匠」
「ふふふ、もっとおだてよ……」
公孫勝もさすがにこの暑さで頭がハイになっているのか無駄に含み笑いをした。が、本気は本気らしく、自分の頬をぱしぱしと叩き、そのまま同じように宋江の両頬も叩く。
「宋江! 良いか? 今から何があっても絶対にわしの体を放すなよ」
「え? あ、はい。いいですけど、放すなって……どうしたらいいですか? こうでいいですか?」
と宋江は言ってまるで肩を揉むようにぽんと公孫勝の両肩に手を置く。
「そんなのではだめじゃ。そうじゃのう……わしの背後で膝立ちになって、腰に手を回せ。雷横、朱仝、ぬしらは宋江に捕まるといい」
「は、はい」
宋江は言われるがままに背後から彼女の細い腰に手を回した。同時に雷横と朱仝が弱々しく自分の服の裾を掴んでくる感触がある。
「壁!!」
公孫勝が叫んで両手を突き出すと、四人の前に水の壁が現れる。だがそれは発生した途端に湯気を立てて薄くなっていく。自分達のいた場所はこんな状態になっていたのかと宋江はそれを見て薄ら寒くなった。
「ぐっ! くっ!」
公孫勝はそれを悟ると水の壁を分厚くした。十センチ程度の水の壁がぐるりと周囲を取り囲む。だが、目の前の火柱がますます近づく中で、水の壁の消耗はどんどん早くなっているようだった。一応その内部は人間的な気温になっているがどこまでもつのかわからない。さらに風も強くなってきたのか、特に公孫勝の後方では風が吹く度にその壁が頼りなく変形する。
「もっと近づけ! 狭くするぞ!」
公孫勝が言って実際にその水壁が狭まってくる。それに応じて雷横と朱仝もまた、こちらにほとんど抱きつくほどに近寄ってくる。だが、そうしたところで何かが変わるわけではない。。相変わらずしゅうしゅうと水壁は蒸発していく。
「し、師匠! このままじゃ……」
「騒ぐな! ここからが本番じゃ!!」
宋江が慌てた声を出すと公孫勝が厳しい声を出した。
「宋江、さっきわしの言ったことは覚えとるな!」
「は、はい!! このまま、離さなければいいんですよね!」
その奇妙な命令に宋江はためらいつつも彼女の腰にまわしている腕により一層力を込めた。
「そうじゃ! 雷横! 朱仝! ぬしらもじゃ! そのまま宋江の体を掴んで絶対に離すな!!」
二人もまた無言で頷く。
「よし、ではこれで最後じゃ、宋江!」
「なんですか!?」
宋江が聞きながら彼女の顔を見上げると、公孫勝はこちらを見下ろして、ふっと笑った。
「後は、任せたからの……」
「え……?」
宋江が聞き返す暇もなく、公孫勝の手が複雑な印を結びはじめる。と同時に素人の宋江にもわかるほど、公孫勝の体内にある気が爆発的に膨れ上がった。そして、公孫勝が歌うように叫んだ。
「天地に人有り! 天に祈るを忘らず! 地を保つを怠らず! 我、人にして人外の力を欲す! 我は性を公孫、名を勝と言いたり! 応ずるならば我が身を借りての顕現を乞う!」
そこまで叫んだ瞬間、公孫勝の身体からがくりと力が抜けた。周りの水壁がばしゃりと瞬時に消える。だが、三人がそのどちらにも十分な反応を示す前に、再びむくりとバネ仕掛けのように公孫勝の上体が起き上がった。
「諾」
その言葉は公孫勝の口から漏れたが、明らかに彼女の声では無かった。次の瞬間、公孫勝の身体がはじけ飛びそうなほどの大きな水の塊が目の前に現れるとそれは急激な勢いで火柱の上空へと飛んでいき、塔を破壊する雷のように、火柱に向けて、落ちてきた。




