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水娘伝(すいこでん)  作者: 文太
第五話 別離編
86/110

その十四 林冲、脅しをかけるのこと

「来たっ!」


秦明(しんめい)は思わず河霧がかすかに残る船上で思わず叫んだ。彼女の視線の先、薄く霧のかかる空にしゅっと一筋の火が昇り、やがて破裂音とともに火花が散る。


「寄せてっ!」


「やってるよ!」


すぐさま秦明が叫ぶと阮小五(げんしょうご)が乱暴に声を返した。事実、既に船は波濤を生み出しながらすさまじい勢いで、陸に向かって進んでいる。


「……ったく、冷や冷やさせるわね」


秦明の横に立った魯智深(ろちしん)がそう漏らした。先程から敵陣で銅鑼が鳴り始め、何やら騒ぎの音だけが聞こえてくるばかりで詳細のわからない秦明達は宋江(そうこう)達が何事か起こってしまったのではないかと気が気ではなかったのである。実際、花栄の合図が一刻(三十分)も遅れていれば、秦明達は打合せとは違う行動を起こしていただろう。


 河霧で視界は良好とは言い難いが、阮小五はそんな事はお構いなしに船尾で櫓を漕ぎ、船を加速させていた。船首には(さお)をもった阮小二(げんしょうじ)がじっと前方を見据えている。


 岸に近づくたびに河霧は徐々に薄れていく。最初にぼんやりとしたかがり火の明かりが、次に天幕らしきものの影が、その前に並ぶ兵士の影が、順々に見えてきた。


「着けます!!」


阮小二はそう宣言すると棹を河底に突っ込んだ。途端にぐるりと船が回転し、河岸と平行になるように向きを変えるとそのまま滑るように平行移動をし始めた。たまたま船尾側にいた黄信(こうしん)は遠心力で吹き飛びそうになって必死に船縁(ふなべり)にしがみついていた。秦明や魯智深も、また体を固定すべく適当な場所に捕まる。ザババババと水面を派手な音を立てて進んでいた船はやがて浅くなった河底に衝突したのか、ゴガンと揺れた。


 まだ完全に船は接岸されていなかったが、秦明はその揺れに応じるように船から飛び降りた。バシャリと足元で音が立ち、足元が濡れるが、数歩あるけばその不快な感触も無くなる。


 昨日の狼煙のせいか、既に兵士たちはきちんと隊列を揃えてこちらを待ち構えていた。とはいえ、それはあくまで隊伍を組んでいるというだけの話で、突然現れた自分たちが何であるかわからず戸惑っている様子が伺えた。特に秦明と黄信は青州(せいしゅう)の軍にいたときの軍装だったから、兵士たちにしてみれば、味方かと考えたのかもしれない。おまけに船から降りた秦明、黄信、魯智深の三人はいずれも若い娘だった。敵が来るかもしれないとわかっていても、彼女らに対して即座に敵対者だと判断するのは兵士にとっても勇気のいることだったろう。


 秦明も、そうした敵の混乱を利用すべく愛用の狼牙棒(ろうがぼう)(棒の先に鉄製の刺をいくつもつけた武器)を背負うと努めてゆっくりと歩きだした。それに魯智深が続く。阮小五は上流側の船に向かって河と平行に走り始め、黄信は打ち合わせ通りその場に残った。


「と、止まれ! 何者なのか、所属を明らかにしてもらおう!」


秦明が数歩歩き出したところで、ようやく隊長格らしい男が声をあげた。だが秦明は優しげに微笑むと、歩調を変えぬままそれを無視して接近する。兵士たちも槍だけは勇ましくかまえているが、十の内、七までは戸惑いを浮かべており、残りは任務の事など忘れたように秦明の身体に無遠慮で下卑た視線を向けていた。


「止まれと言うとるのが……ぐっ、捕らえよ!」


軍の装束を華麗に着こなした秦明に対してその隊長らしい男は迷いながらも号令をかけた。すぐさま、周りの兵士が秦明と魯智深に殺到する。前述した通り、中には明らかに(よこしま)な意図を持ったものもいたが……


 一閃。秦明の狼牙棒と魯智深の錫杖が振られると、飛びかかった兵士が一人残らず吹き飛んだ。飛ばされた兵士はそのまま背後の兵士にぶつかり、各所で一斉に将棋倒しが始まる。途端に被害を受けてない兵も含めて彼らは口々に悲鳴や怒声をそこかしこで上げ始めた。今ので兵士達も目の前にいるのが見かけどおりの(たお)やかな女性で無いことに気づいたらしい。


「もう……こっちは仮にも人妻なんだからそんなに気安く触ろうとしないでほしいわ」


「こらこら、いつあんたが人妻になったのよ」


魯智深が呆れたように突っ込むが秦明は返事をしなかった。意図的に無視をしたわけではない。それどころではない事態が目の前で起こっていたからだ。


「魯智深さん、ちょっと、あれ……」


「ん?」


周りを固めつつある兵士に目もくれずに秦明は正面の一点をみつめている。既にここまで来ると、霧もほとんど晴れかかっていた。秦明が見ているのは、敵陣を超えたその向こう。周王山(しゅうおうざん)西周山(せいしゅうざん)の間の森で大規模な火災が発生していた。。


 火が付いているのはそびえ立った山の合間にある渓谷、その一番奥深いところのあたりだった。麓が風下ということもあって、火と煙はまるで山を降りるように移動している。そして、麓の一番、陣地に近い場所でも火がついていたが、こちらは風の影響が逆に作用し、それほど燃え広がっていない。


「あいつらが行ってる場所よね、あれ……」

魯智深がそうつぶやくと同時、秦明が飛び出すように走り出した。


「ちょ、秦明、待ちなさい!」


魯智深が叫んだ時には秦明は既に加速を始めていた。深く息を吸い、火内功(かないこう)を足元で練り、爆発するように跳躍する。が、十数名の敵兵を悠々と飛び越えた秦明の体を空中で迎撃するように激突した影があった。


「秦明!」


魯智深が敵兵をなぎ倒し、秦明に追いついた時、彼女は一人の男と対峙していた。魯智深も初めて見るがこれが話に聞いていた河濤(かとう)という男だろう。身長六尺半(約2メートル)は優に超えるだろうその男を見て魯智深はそう判断した。

 一方秦明には特に外傷は見受けられなかったが、表情には深刻な焦りがにじみ出ている。


「秦明、と呼ばれていたな。確かにその狼牙棒、見覚えがある。青州総兵菅(せいしゅうそうへいかん)の秦明殿とお見受けするが?」


河濤の低いがよく通る声に周りの兵がざわめいた。別の組織とはいえ、一般兵にしてみれば総兵菅というのは雲上人だからだからだろう。


「先日、結婚を機に退職いたしましたの」


この状況でまだいうか、と魯智深は少し呆れたが、秦明は声も表情も真剣そのものだった(それはそれで問題なのだが)。


「良縁なによりである」


皮肉なのか、本気で言っているのか、河濤の表情と声ではいまいち判別がつかなかった。


「念のため言うが、ここは禁軍と濮州(ぼくしゅう)軍、それと済州(さいしゅう)軍での共同作戦中である。用が無いなら、引き上げてもらおう」


と、言いつつも河濤は秦明がそんなつもりはさらさら無いのを察しているようで構えを取った。


「秦明、あたしがやる」


と応じるように構えをとった秦明の肩をむんずと掴んで魯智深は宣言した。


「大丈夫なの?」


「行きたいんでしょ。それに元々そう言う役割分担だったじゃない」


魯智深が言うと、秦明は少しだけ迷うそぶりを見せたが、ありがとうとつぶやいた。だが、目の前の大男はそんな二人に対し、逃がすと思うか、と言わんばかりの眼光を飛ばしてくる。


「禁軍の気功使いね。どんなものかしら」


魯智深は挑戦的に告げて、河濤に一歩踏み出した。そのまま、二歩、三歩と歩き、五歩目を踏み出したときだった。


 きゅん! という音を立てて河濤が魯智深の目の前から消える。そして即座に魯智深の右手がひねられた。極めるなどという生易しいものでなく、そのまま腕を引きちぎろうとするかのような勢いだ。


「甘いっ!」


が、魯智深はこれを予期していた。河濤が全身の力でへし折ろうと魯智深につかみかかってきたのを逆につかむと右腕一本でそれをとめ、逆に回転させると河濤を地面に押さえつける。


「今っ!」


言われるまでもなく、秦明は走り出していた。魯智深の背後で風が巻き起こり、彼女が去ったことを皮膚が伝えてくる。河濤は無言でこちらを抑えている魯智深の腕をつかもうとしてくるが、魯智深はそれを必死に取り押さえ、腕をとられまいと格闘した。


「な、何をぼさっとしている河濤殿をお助けしろ!」


このころになってようやく硬直した兵士がその声とともにとびかかってくる。


「ちっ!」


魯智深は舌打ちすると河濤から離れようとしたが、今度は逆に河濤が魯智深の腕を掴み、逃さまいとしてくる。


 魯智深はそれに抵抗しつつも、開いた左手で錫杖を握ると襲いかかる兵士を片手一本で吹き飛ばし続ける。だが兵士とて馬鹿ばかりというわけではなく、魯智深の右手が河濤によって使えないことはすぐに気づき、右手の側から、魯智深を羽交い絞めにしてくる。


「汚い手で触んないでよ!」


反射的にそう叫んで左手の錫杖を放し、まとわりついてきた兵士を引きはがすとそれを河濤にぶつけた。これにはさすがに河濤もたまらなかったのか腕が緩む。魯智深はそれを機に立ち上がると周りの兵を蹴とばして、その囲みを脱した。


「ふーっ! ったく秦明じゃないけど気安く女の体をどついてくれるじゃない。言っとくけど、あたしの体だって安売りはしてないんだからね」


そうぶつくさと言って気づく。


(しまった! 錫杖!)


脱出する時に魯智深は愛用の錫杖をうっかり置き忘れてしまった。それは立ち上がった河濤の足元にあった。


「半年ほど前、開封府(かいほうふ)名刹(めいさつ)五台山(ごだいさん)に怪力の女破戒僧がいると聞いたが、貴様か」


河濤はその錫杖を持ち上げながらつぶやいた。相当重いはずだが、眉ひとつ動かさない。


 魯智深は話で聞いていた印象よりも意外としゃべると思った。相方である弟がこの場にいないことが関係しているかもしれない。


「無口な割に事情通じゃない。それがどうしたのよ」


魯智深は挑む様に聞いたが、河濤は答えなかった。その錫杖を近くの兵に放り投げると、それが返答だと言わんばかりにまたキュンという音がして彼の姿が消える。


(またか!)


と思い右腕に力を込めるが違った。どこっと衝撃がして自分の腹部に河濤の拳がつきささる。


「このっ!」


瞬時に捕まえようとしたが河濤はまた再びキュンというあの耳障りな音を残して消えた。と、今度は右手のおよそ五丈(約十五メートル)先に現れる。


 河濤は手を出すな、というように、魯智深に駆け寄ろうとした兵士たちを手で押さえ、そして腰からすらりと剣を抜いた。魯智深はあまりそういったことに詳しくは無いのだが、その彼女でも一目見てかなりの逸品とわかる剣だった。がそんなことは今は問題ではない。


(まずっ……)


相手の意図に気づいて魯智深が咄嗟に防御体制を取りかけた時には、あのキュンという音が再び鳴っていた。次の瞬間、魯智深の左肩に深々と剣が差し込まれた。











 その上空の火花には当然のことながら河清(かせい)も気づいた。


(はっ、なんだか知らねえが来るなら来やがれってんだ)


だが、それを見てもなお、彼は強気な態度を崩さなかった。これが起き抜け直後というならまだしも、既にこちらはほぼ戦の体勢を整えつつあった。河岸にでは三百の兵を河濤が率いており、一方で山側には同じく四百の兵を濮州の総兵管(河清は未だに彼の名前を憶えてなかったが)に率いらせている。


 そして自分は遊軍として二百の兵をその中間に配置して、どこかで何があっても、対応できるようにしていた。と言っても自分のすぐ近くに控えているのは既に百五十名程度に減っている。残る五十名は伝令やら斥候やらでこの場にはいない。


 水内功(すいないこう)を活かして、河清は各地の情報を鋭敏に捉えていた。まず、二つの山頂にいる百名の兵士は撤退の準備を始めている。山側に数えきれぬほどの火矢を放ったせいで雷横達は麓へと降りて来るだろうから、彼らの役目はもう無い。おそらく今日中の合流は不可能だろうが、大勢に影響はないだろう。


 次に河岸。こちらには正体不明の船が接近していることが兄の口から伝わってきているが、基本的にこちらは兄に任せておけばいい。個人の戦闘能力としては兄は禁軍でもかなり上位に入る実力の持ち主だ。三百の兵とあわせて考えればそうそう遅れはとらない。


(これで終わりならこの二百人も河岸に向けるかな?)


と河清がそこまで考えた時だ。


 不意に河清の視界の片隅でこちらに向かってくる人影があった。一瞬、兵士かと思ったがそうではない。その人影が走っているのは陣地の遥か外側だ。右手にある周王山(しゅうおうざん)の山肌を飛ぶように駆け下りてくる。


「おい待て。ちょっと待て。頼むから待て」


その人物を確認した瞬間、河清の顔を冷や汗が伝った。自宅の裏庭にまわったら、そこに虎と熊と狼がいた。彼の心境はちょうどそんな感じだった。


林冲(りんちゅう)だっ!」


しかし、陣地の外側の柵ぎりぎりにいた自分直属の兵士の一人がそう叫ぶ声を聞いて、河清はその現実を受入ざるを得なかった。そう、それは林冲だった。いつの間にか禁軍から追放され、その理由すら公にされていなかった禁軍でも随一の女傑が何故かこの場にいて自分に向かって走ってきている。


「ああー、なるほどなるほど、林冲ね。うん、こいつはしてやられた……ってなんでだよ! 勘弁しろよ! どーしてあいつがここにいるんだよ!」


河清はとっさにはその衝撃を御しきれず、悲鳴をあげた。周囲の兵がぎょっとしたようにこちらを見上げてくる。


「しかもあの顔はどうみたって、仕事がんばってる俺っちを応援しに来てくれたって感じでもねえもんな」


山肌を降りてくる林冲を見て河清はそううそぶく。凛々しく美しいのは良いが、その目に秘められているのは決して思慕の情では無いだろう。


「河清殿、これは……」


「あー、待て待て、なんだこりゃ! くそっ、河岸の方の連中も気功使いか?」


河清が耳をそばだてていると自分の兄が秦明と名を出したのに気付いた。その名は聞き覚えがあった。この国の全土にあって五人にも満たないと言われる女性の総兵管の名だ。


「くっそ、なんだこりゃ! いつからここは恐ろしい女どもの宴会場になったんだよ!」

河清はそう零すと唖然としている周りの兵士を無視して、林冲がいる方角を見た。既に彼女は陣地の柵を飛び越え、さらにこちらに向けて一直線に走ってきている。


「あれ? なにこれ? ひょっとして俺っちが狙われてるの?」


その可能性に気づいて、河清の顔がさっと青ざめた。河清は水内功によって五感が異常に鋭いというだけで他の筋力や体力といった身体能力は一般人とさほど変わりない。こっちから不意を打つというならともかく、こちらを敵と明確に見定めているらしい林冲とやりあうなど、虎と兎の戦いに等しい。


「ぐっ!」


思わず河清は周りを見回したが、いくら見てもそこにいるのは百五十名の兵だけだ。これでは到底、林冲に勝てはしない。真っ向から彼女とやりあうとなったらせめてこの倍は兵士が必要だった。それもきちんと準備を終えた上での。


「くそっ! 兄貴は別の気功使いにかかりっきりか!! ええい、しゃーない。この場にいる連中は全軍、山側の部隊と合流しろ! 向こうで再編成して四百名の部隊でまたここに集合! 禁軍兵も同じく駆けまわって全員ここに集めて来い!」

河清はそう指示を飛ばすと部下の反応も確認せずに馬に拍車をかけて逃げ出した。


 背後から困惑しきった兵が河清を呼び止める声や、林冲の出現に混乱して悲鳴をあげている兵の声が聞こえるが、その一切を彼は無視した。そんなのにかまっていたら十も数え終わる頃には自分は絶命している。既に林冲との距離は十丈(約三十メートル)もないのだ。兄が禁軍で上位に入る実力の持ち主というのであれば、林冲は五指に入る実力の持ち主だ。いや、今は禁軍の人間ではないから持ち主だった、というのが正確な言い方になるか。


(……ってそんな事はどうでもいいんだよ!)

河清は自分の他愛もない思考を振り払うと、馬に鞭をくれて加速した。さすがに林冲といえども馬に長距離走では(かな)わないはずだ。瞬発力はまだしも持久力では林冲よりも馬の方が圧倒的に上だ。


「頼むぞ、おい。俺っちだって林冲相手にそんな長い間、逃げまわってらんねーんだからな」


祈るような気持ちで部下に願いを託すと、河清はいきなりぐいっと馬を無理やり右折させて天幕の影に入り、またそのまま向こうにいる林冲に見えないように左に曲がる。追いかけっこであればどこにいても林冲の居場所を耳や鼻である程度補足できる自分の方が圧倒的に優位だが、林冲に追いつかれたらその瞬間、自分の命は露と消える。河清は必死だった。


「ちくしょうっ! あんな上玉に追いかけられて恐怖を感じる日が来るとは思わなかったぜ!」








(いきなり、単騎で逃げ出したか……)

集まってくる敵兵を数人単位で打ち据えながら林冲は思わず(ほぞ)を噛んだ。所謂(いわゆる)堅物な軍人の枠には収まりきらない男だとは思っていたが、それでもいきなり逃げ出すという選択肢をとったことはさすがに予想外だった。そのまま数を頼みにこちらに突っ込んできてくれれば容易に首をとれただろうが、そうはうまく問屋が卸さないらしい。


(面倒をかけてくれる!)


一方、林冲は焦っていた。山の近くに潜んでいた彼女は誰よりも(おそらく花栄よりも)早く、宋江達が潜んでいる森に火矢を射掛けられたことに気づいていた。その焦りは秦明や魯智深の比ではない。それに気づいて以降、彼女はずっとこのまま自分が事前に決められたとおり、ここに潜み続けて良いのか迷い続けていた。


 焦りと迷いは花栄から合図があっても続いた。自分の任務はここから一直線に河清を目指し、あの男を仕留めることだ。だが、森が燃やされるという予定にない事態に林冲は宋江達の救出を優先させるべきかもしれないと考えていた。


 その焦りと迷いを振りきった理由は至極単純だった。視線の先、見つけやすい場所にたまたま彼女は河清を見つけていたのだ。今なら周りの兵もそう多くない。河清の顔を知るのは自分と楊志しかいない上に、時間が経てば経つほど、向こうにとっては有利になるだろう。林冲は即座に河清を殺して、その後すぐに山に突入するという計画を立てた。


(大丈夫……楊志や花栄もあちらにいる。しばらくは問題ないはずだ)


林冲は自分にそう言い聞かせると、潜んでいた茂みから飛び出し、一気に山肌を駆け下りた。


 山を半分ほど駆け下りたところで兵士の何人かがようやくこちらを指差して、何かを叫んでいるのを聞いた。その兵士のうちの一人はどうも河清が連れてきた禁軍の兵士らしい。それがわかったのは別に兵士の顔に見覚えがあったからではなく、彼が自分の名前を叫んだのが聞こえたからだ。


 兵士が弓を構えはじめるのが見えたが遅すぎる。彼らが矢をつがえるころには林冲は陣地の柵を飛び越えていた。陣地に侵入すると、林冲は周りの事象を全て無視してさらに加速した。河清はとうにこちらのことに気づいている。だが、周りの兵は何も対応できていなかった。これなら問題なく河清の元に行ける。林冲がそう思った時だった。

 河清は兵に何事か叫ぶと一目散に逃げ出したのだ。当然、林冲は追っていこうとしたが、目の前では兵士が思い思いにわあわあと叫び、混乱を起こしていた。


「どけえっ!!」


林冲はそれらを即座に飛び越えようとしたが、こちらに半狂乱になって槍を突き出してくる兵士や、あるいはこちらが何者なのかよくわからずに飛びかかってくるものも多く、そうした連中を叩き伏せ、兵士を突破した時には河清との距離はさきほどよりもずっと遠くにあった。彼はすぐさま右手の天幕の影に隠れるように曲がった。


「ちっ!」


咄嗟に周りに奪えるような騎馬が無いか探したが、周囲に騎兵はいなかった。もとよりこんな狭い地域に船で来たのだから、馬は基本的に将官の騎乗用にしか連れてきていないのだろう。


 仕方なく、林冲はそのまま自らの足で河清を追いだした。林冲は火内功を足で練ると一気に駈け出す。


 後ろから跳ね飛ばした兵の何人かがしつこく矢を撃ってきたが、風よりも速く駈け出した林冲の体は兵士の矢を置いてきぼりにした。河清の曲がった天幕を飛び越えると視界の端に河清の乗っていた馬の後ろ半分だけが見える。林冲はそのまま火内功を保持し、さらに追った。馬体の影が徐々に視界に入り込み……


「何!?」


林冲がその全てを目にした時、その馬には全く別の兵士が乗っていた。一瞬、派手に動揺したが、すぐに思考を切り替えると、その兵士を馬からたたき落とし、棒を喉元に突きつけた。


「答えろ。この馬に乗ってた男がいたはずだ。どこに行った」


「ひ……! あ、あの自分は伝令の途中で馬を変われって言われて……」


「どこに行ったと聞いている!!」


「ほ、北西!! 陣地の北西の方に……!」


林冲はそれだけ聞くと兵士を素早く昏倒させ、今度は北西に向かって走りだした。


(だが、今私が兵士が聞き出した事も当然、奴の耳に入っているのだろうな)


林冲がそう思いつつも、素直に兵士の言うことに従ったのは他に手がかりが無いからだ。


 それどころか、河清は自分の足音すら把握しているかもしれない。つまり、どこにいるかは向こうにはまるわかりだ。


「とすると、私が今から言うことも聞こえている、という事だな。いいだろう……精々私から目を離さないようにすることだな、河清」


殊更にゆっくりと歩きながら林冲は噛みしめるように言葉を発した。


「かくれんぼは苦手だが、鬼ごっこなら得意だ。付きあおうじゃないか」


だが、そうは言いつつも、林冲は自分がこの戦いで圧倒的に不利な状況にあることを自覚しつつあった。相手はこちらの居場所を把握しているが、自分はわからない。おまけに自分は彼だけに時間を費やすわけにもいかない。林冲は内心の動揺が悟られないようにわざと自信たっぷりといった様子を装った。


(頼む……無事で居てくれよ、宋江……)


名を呼んだその人のいる場所を、振りむくことすら禁じて林冲は静かに陣地の中を歩き出した。

本日のNGシーン

河清:まてあわてるな、これは林冲の罠だ。

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