その十三 宋江、弁明と説明を行うのこと
「楊志、楊志楊志ぃ……良かったよぉ……生きてて良かったぁ、あたし本当にいつの間にか自分が死んだことに気づいてないのかと……」
洞窟の中では索超がうれしそうにすすり泣く声が響いていた。楊志が来た事を認識すると(ついでに自分も彼女も死んでないことを確認すると)彼女は公孫勝が驚くほどに回復した。頬は若干こけているし、やせ細った身体はそのままだが、話す気力が出てきただけでもだいぶ違う。宋江が公孫勝に渡した薬草が効いたという見方もあるだろうが、宋江としてはもう少しロマンチックな理由を述べたいところだった。
「それはこっちのセリフよ、もう……だいたい、私が滄州で捕まったのは聞いてたんでしょ。なら生きてることも知ってるはずじゃない」
楊志も多少呆れた様な調子でそう言いつつポロポロと涙を流して索超をひしと胸に抱きしめている。その涙は感動の再会というだけでなく、そこにはここまで追い込まれていた友人への悲哀も少しばかり含まれていたが。
洞窟の中は宋江の落下以降、これ以上無いだろうというぐらいの混乱(索超が楊志の顔を見て裸のまま抱きついたり、公孫勝が慌てて宋江の目を塞いだり、楊志と宋江はひたすらおろおろしたり、朱仝と雷横は予想もしていなかった人物の登場にひたすらぎゃーすか騒いだり)とてんやわんや(公孫勝が宋江から薬草を受け取っていそいで索超に処方したり、雷横と朱仝が慌てて服を来たり、その途中で宋江が何もできずにおろおろしてるのをうっかり楊志に踏んづけられたり)をようやく終えたところだった。
ちなみに花栄だけは上記の混乱ともてんやわんやとも一切無関係にひたすら淡々と宋江の持ってきた荷物を開けてそこに入っている服を雷横達に渡したり、持ってきた食料を提供すべく火を焚いたり、湯を沸かしたりしていた。動じないのもここまで来ると少し怖い。
そうした諸々の出来事が一段落ついて、宋江はそんな楊志と索超の心あたたまる光景を眺めて、思わずほろりと来ていたのだが……
「おい。おぬしはそんな平和そうな顔をしてる資格があると思うとるのか」
背後から聞こえたその声にびくりと身体を震わせ、恐る恐る前を向いた。振り向いた途端にぐいっと頬を摘まれる。公孫勝だった。彼女は宋江が来たと知って最初は嬉しそうな顔をしたものの、ひと通り落ち着くと彼に対する怒りが沸々と湧いてきてしまったらしい。その後は、索超のために薬を調合したりなんだりで忙しかったようだが、それも終わったので怒りの矛先を向けてきたらしい。
「反省がなっとらんようじゃのぅ。なんなんじゃ、おぬしは。突然、敵の女をかばって河に飛び込んだかと思えば、前触れもなく見計らったように女の着替えの現場に出てきおって。そーかそーか、そんなに女子が好きか、ん? 良かったのう、満足か? 散々妹やわしに心配かけながら女の尻ばっかりおっかけといて。この好色魔は」
「ご、誤解ですよ。心配かけたことは謝りますけど」
痛む頬をさすりながら宋江は弁解した。
「本当かのう。一度手紙を書いて寄こした時も、妹や呉用殿のことばかりでわしのことにはちーーーーとも触れとらんかったのう。とんだ忘八者じゃ」
「い、いやだって師匠は清と違ってそんなに心配することも無いと思って……」
宋江がそう言い訳すると、公孫勝は一層指の力を強くして口を開いた。
「かーーーっ、嘆かわしい、嘆かわしい。心配することが無かったら便りもよこさんのか、ぬしは。あれだけ心配してやり、妹の面倒も見てやり、気功の手解きもしてやったこのわしに!」
「ご、ごめんなさい。以後重々気をつけますぅ……」
「まあまあ、もぐっ、公孫勝さん。むぐっ。その辺に、がぶっ、してあげなって」
とそこで宋江に救いの手を差し伸べたのはリスのように頬袋を膨らませた雷横である。彼女と朱仝は宋江達とも楊志達とも離れた場所で宋江の持ってきた食料をひたすらに口の中に詰めていた(無論、服は着ている)。どうやら念のため、食料を持ってくるという宋江達の判断は彼女達にとって大助かりだったようで、花栄が食料を差し出した時には雷横は彼女に抱きついてたほどだった(花栄はひどく迷惑そうにしていたが)。ちなみに今、彼女らが食べている雑炊も花栄によって作られたものだ。
「雷横、食べるか喋るかどっちかにしなさい。行儀が悪いですよ」
と朱仝が言うと、雷横は宋江の事を忘れたようにまたもぐもぐと食べだす。食べることを優先したらしい。仕方なくと言った調子で朱仝がため息をついて話しだした。
「公孫勝殿、殿方に無視されて寂しい気持ちもわかりますが。その辺りで。それより公孫勝殿も食べられたら如何です? あなたも霞だけを食べて生きてるわけではないでしょう」
「そ、そうですよ。師匠が好きだっていう、お漬物とか持ってきましたから、ね」
「ふん! どうせ入れたのは宋清じゃろうが!」
公孫勝はまだぷりぷりと怒っているが、宋江をそれ以上説教しようという気は無くしたらしい。目一杯不機嫌を示すように宋江の横を無視するようにどすどすと歩いて、雷横と朱仝が囲んでいる焚き火の近くに腰を下ろした。宋江もその後に茶坊主のようについていく。
「正座」
ちらりとこちらを見て公孫勝は端的に告げてくる。言われたとおりにすると宋江のももの上にぼすんと公孫勝が座った。宋清よりもさらに軽い重みと低い体温が伝わってくる。
「あ、あの?」
「ふん、罰じゃ、罰!」
公孫勝は言うと壺の中で温めている雑炊をひとすくいとって椀にそそいだ。なんだかよくわからなかったが、これで許してもらえるならそうしよう、と宋江は考えて改めて正面の二人を見た。
朱仝と雷横。こうして会うのは宋清とともに行商人の振りをしていた時以来である。どうも、向こうの方は自分を覚えていたが(ただし、宋清の兄というだけで名前は忘れられてた)、それだけに何故この場に自分が、それも楊志と共に現れたのか困惑しているふうだった。が、それはさておき、宋江にはまず言わねばならぬことがある。
「あの、さっきはすみませんでした。突然、足元の地面が崩れて、何がなんだかわからなくて、その、思わず凝視してしまって……」
「あ、ああ。いや、いいよ。あたしも朱仝も見られた事はそんなに気にしてないからさ。そっちに悪気が無かったのはわかってるし、こんなに飯やら着替えやら持ってきてくれたんなら逆にお礼を言わないといけないけどね」
宋江が公孫勝を胸元に抱えたまま、器用に頭を下げると、雷横が気軽に応じた。ちなみに着替えというのは別に彼女らのを持ってきたわけではなく、公孫勝は花栄の、雷横と索超は楊志の、そして朱仝は宋江の服をそれぞれ借り受けた格好だ。簡素で飾り気のない服だが、それでも十日以上着たきりだった彼女たちにはこちらも好評だった。
「まあ、そう言う雷横は悪気満々で私の着替えを妨害してくれましたけどね。ええ、仰られる通り、宋江さんに悪気がないのはわかってますけども」
とそこまで言って朱仝は気まずそうに顔をそむけて頬を赤くした。ごめんて言ったじゃん、と雷横がつぶやくのが聞こえた。さすがにやりすぎたと思っているらしい。
「まあ、その……お早めに忘れて頂けるとうれしいかと……」
顔を赤らめた朱仝に言われて宋江は無言でこくこくと頷いた。と言っても、しばらくはあの光景は今の恥ずかしそうな朱仝とセットでしばらく忘れることはできなさそうだった。
「それよりこちらもお礼が遅れて申し訳ありません。先程、あの花栄という人から聞きましたが、これらの水や食料は大半が宋江さんが背負ってここまで持ってきてくださったとか。本当にありがとうございます。索超さんの分も含めてお礼を申し上げさせてください」
言って実際に朱仝は深々と頭を下げた。
「い、いえ、持ってきたのはぼくだけじゃなくて楊志さんもですから!」
「ええ。先程楊志さんにはお礼を言ったので。雷横が言うようなのはちょっと許すわけにはいきませんけれど、いずれきちんとお礼はさせてください。大げさでもなんでもなく、あなた方は私達の命の恩人ですから」
「本当だよー、もう昨日から草しか食べてなかったしさ。うう、まさか今日、米や肉が食べられるようになるとは思わなかったよ。本当にありがとうね」
雷横は泣くふりまでしているが、彼女らの今の食欲を見るとその表現は決してオーバーでは無いのかもしれない。
「本来ならば、この女を裸にひん剥いて、如何にでも料理してください、とさし上げてもいいぐらいですけど、こんな臭くて食べどころの無いのをさし上げても失礼ですから」
朱仝は言って、雷横の事を指さした。
「ちょっと、言ってくれるじゃない」
「あなたが先に言ったんでしょう? 言っておきますけど宋江さんの事はともかく、あなたが私の着替えを邪魔した件まで許したつもりは無いですからね」
「ま、まあまあ、その辺りで。その……お礼とかはいいですよ。こっちも晁蓋が散々迷惑かけたみたいですし……」
宋江がその名前を出すと、朱仝と雷横が微妙な表情を浮かべた。あまり思い出したくない名前なのかもしれない。
「そう言えば、宋江さん。私達としては、なぜあなたがここにいるのかも教えて頂きたいんですけれど」
「そうだね、お礼はお礼として、あたしと朱仝の中では妹と一緒に旅をしているただの行商人でしか無かったんだけど、晁蓋さんの知り合いなの?」
「え、えーとですね。その、僕は元々晁蓋と同じ村で暮らしてた人間なんです。彼の家の馬屋番でして……」
その説明で、ああ、と朱仝と雷横は納得しきったような顔になった。
「要は晁蓋さんに振り回されてる被害者の一人なわけですね」
「大丈夫。あたし達も辛さはよーくわかるから。うん、あたし達は仲間だ、がんばろう」
納得どころか変に同情されてしまった
「いや別に被害者なんて大げさなものじゃないですけど……で、お二人と会った時は例の黄泥岡の件で色々と師匠の手伝いをするために妹と二人でいたんです」
「師匠?」
「公孫勝さんのことです」
怪訝そうに聞く雷横に宋江は自分の膝の上で雑炊をすすっている公孫勝を指し示した。心なし彼女が自慢するように胸を張った気がした。
「公孫勝さんの弟子だったのですか……というと、宋江さんも仙人か何かということですか?」
「いえ、違います。全然普通の……あ、いやちょっと普通じゃないところも有りますけど、とにかく師匠と違って見た目通りの年齢です」
「見た目通りって……十四歳くらい?」
「……十六です」
雷横の言葉は宋江のプライドを微妙に傷つけた。
「一応言うておくと、この男はわしの手助けや背後で荷物運んだりしとっただけじゃからの。あの黄泥岡の事件が起こった現場にはおらんかった」
公孫勝はそこで朱仝達に釘を刺すように口を挟んだ。
「うん。あたしはあたしはそっちの人は初めて見るな。少なくともあの……晁蓋って人だっけ、あの人が襲ってきた時はいなかった」
と索超も寝たまま、公孫勝の言葉を補足するように発言してくる。
「あれ? じゃああの妹さんは? あの子も本当の妹じゃないの?」
「いえ。あ……えーと、血のつながりは無いですけど……本当の兄妹? って言っていいんですかね……とにかくそのためにわざわざ嘘をついたわけじゃないです」
「一々、複雑な事情をお持ちですのね」
先程から宋江が不鮮明な回答を続けるので朱仝は不満そうだった。
「まあまあ、いいじゃん、それは。でさ、その晁蓋の一味のあんたがなんで楊志さんと一緒に来たの?」
と雷横は宋江に聞いたつもりだったのだろうが、それに答えたのは楊志だった。
「宋江はね、河で衰弱しきっていた私を助けてくれた人なの。その時はお互いにどういう人かなんて知らなくって……」
「……それはまた、随分と……」
朱仝が驚いたように目を丸くする。
「そっかそっか、君が楊志を助けてくれたんだ。ありがとね、君って良い人だね。 あれ? でもあの晁蓋の仲間ってことはやっぱり悪い人?」
索超はにへらーと少し脱力した笑みを見せたがすぐに自分の疑問に思いついて首をひねった。
「きっと良い人ですよ、索超さん。少し形は違いますがこの人はあなたと同じであの男の被害者ですから」
どうも宋江の印象がそれで刷り込みされてしまったのか、朱仝が索超に応じた。宋江としては誤解を正したくもあったが、とりあえずそのことは脇に置いておく。一方、索超は朱仝によって宋江についてはその方向性で固まってしまったようで、苦労したんだねえ等と頷いてる。
「で、話を戻すけどさ、それで、何? まさか恋に落ちたりでもしたの?」
「え、あ、あの、こ、恋に落ちたっていうか、そんなんじゃないけど、でも色々あって宋江も悪い人じゃないってわかったから……」
雷横は冗談か揶揄のつもりで言ったのだろうが、楊志は赤い顔でもじもじと、つまりどう見ても恋に落ちた乙女の表情で話しだしてくる。が、それを聞いた雷横の表情は結婚詐欺に引っかかったのに騙した当人をかばうような素振りを見せるダメダメな女性を見るようなものになっていた。
「いやさぁ、当事者じゃないあたしの口出す事じゃないけど……それってどうなの?」
「ち、違うのよ! 別にそれだけじゃなくて、その後、宋江の仲間にやられそうになった時もかばって助けてくれたし、河に落ちた私を引き上げもしてくれたし、滄州でだって助けてくれたし……」
「楊志さん……あんた、一体この短い期間にどれだけ危機に陥っているのよ」
「最後の一回はあなた達が仕組んだんでしょ!」
呆れたように雷横が言うと、楊志は少しムキになったように言い返した。
「まあ……関係者でなければ、それはまた劇的ですね、ぐらいの一言で終えられたのでしょうが……」
朱仝は雷横に比べればいささか理解を示した口調で言う。
「誤解を招きやすい方法であったとはいえ、あなたを助けるために色々と苦労していたこちらの身としては多少ものを言いたくなるのも理解してください。特に宋江さんが滄州でしでかしてくれた事は我々にとっては明らかに余計だったわけですし……」
「す、すみません……」
「いえ、謝る必要は無いですけど」
謝罪する宋江に朱仝は困ったように言葉を返した。
「宋江。そろそろ出発したいんだけど」
とそこで中で起こっている話題などまるで意に介さないといった調子で花栄が洞窟の入口からそんなことを言ってきた。彼女はひと通り雷横達が平静を取り戻すと後は知らんとばかりに洞窟から去っていったのだが、いつの間にか戻って来たらしい。
「花栄さん、ちょっと待って。まだ索超はとても歩けるような状態じゃないし……」
食料と水、着替えといった差し入れを受けて、雷横と朱仝は多少会話も運動もできるようになりつつある。だが、索超だけは会話は出来る程度に回復したものの、まだ歩くことすらおぼつかないでいた。
「いや、そういうわけにはいかないんだよ、気付かない?」
花栄に言われて宋江は神経を尖らせてみたが、何か変わったことがあるようには思わなかった。強いて言うなら先程から妙に鳥の泣き声がうるさいことぐらいだろうか……。とにかく、花栄の言うことが何かはわからず、首を横に振った。
「ん? まさか……」
だが花栄にそう言われて周りの様子に注意を向けたのは宋江だけではなかった。そのうちの一人、公孫勝が鼻をひくつかせた。そしてその顔が険しげなものになる。
「な、なんなんですか?」
「油の臭いと木が燃える音……火じゃな。やつら、森に火を放ちおった」
「当たり。さすが仙人とか言うだけはあるんだね」
というが、花栄はにこりともしない。
「さっきの熊の襲撃による混乱も終わったみたいだ。山の両側から盛んに火矢を射掛けてきてる。これは確認してないけど、おそらく麓からもだね。油までかけてすごい念の入れようだよ」
その花栄の言葉に朱仝が首をかしげた。
「熊とは何のことですか?」
「あ、陣地の近くで襲われちゃって……その時、僕ら敵にも見つかっちゃったんです、ごめんなさい」
「それで救援に来たおぬしらごと焼き殺そうというわけか、乱暴じゃのう」
公孫勝の言葉に花栄は肩をすくめた。
「ま、褒められた事じゃないのは確かだけど、厄介だよ。霧も晴れたし、風も吹いてきた。火に巻かれる前に脱出しないといけない」
「でも、索超は……」
「このままじゃ全員ここで蒸し焼きになっちゃうよ。そんなわけにはいかないでしょ」
楊志の言葉を花栄は冷たく言い切った。
「……わかった。私が背負ってく」
「ま、そうなるだろうね」
楊志が言い切ると花栄はあっさりと頷いた。
「楊志さん。索超さんは僕が運んだほうが……」
だが、宋江はその楊志の言葉には頷けなかった。いざ敵に遭遇した時のことを考えると、この中でまともに動くことができ、花栄に次ぐ戦力である楊志にはなるべく消耗してほしくないからだ。
「いいの。大体、あなたが敵と遭遇したら、あなたはどうやって自分の身を守るのよ」
「え、ええと……」
「宋江、忘れたの? 昨日約束したばかりじゃない。全員で戻りましょうって」
「……わかりました」
楊志のその言葉を聞いて宋江は不承不承といった様子で頷いた。
「ごめんねごめんね、楊志。また世話になっちゃって」
「気にしないの。こっちだって迷惑いろいろかけちゃったみたいなのは知ってるから、これでおあいこって事にしましょ」
楊志は言って宋江に頼んで自分の身体と索超の身体を縄で縛って固定し始めた。横では朱仝と雷横が少しでもエネルギーを手に入れようと食事の速度を上げ始める。
「ほれ、おぬしもぼさっとしたらんと、出発のしたくをせい」
公孫勝がぴょんと宋江の膝から飛び降りるがその時になって宋江は自分の足がとんでもなくしびれていることに気づいた。
「どうかしましたか?」
「い、いや、その、足がしびれて、ひぎぃっ!」
怪訝そうに聞く朱仝に答えていると突然、足の裏をぐいっと踏まれ、宋江は悲鳴をあげた。公孫勝だ。
「し、師匠……やめてくださいよ」
「この程度で音を上げるなど、修行の足りぬ証拠じゃのう。うりうり」
と、公孫勝は面白がって宋江の足をつんつんと蹴ってくる。その度に電流に撃たれたように宋江の身体がビクンビクンと痙攣する。
と、その時になって宋江は、その気になれば公孫勝は自分の体重などほとんど感じさせずに済むはずだったということを思い出した。
「ま、まさか最初からこれを狙って……?」
宋江が公孫勝を見上げると彼女は邪悪な笑顔を浮かべて笑うだけだった。
「あの、このまま置いてったりしないですよね……」
「まあ、おぬしのことじゃ。ほっといてもその辺の娘が適当に胸でも晒しとったらひょいひょい現れるじゃろ」
「人を害虫か何かみたいに言わないでください!」
どうやら公孫勝の怒りは絶賛継続中だったらしかった。とは言え、その言い方は流石に宋江も抗議したが。
「遊ばないでとっととしてよ。本当に置いてくよ」
「ち、違……遊んでるんじゃなくて……」
ひたすらに冷たい花栄の視線と言葉を受けて、宋江は必死に起き上がろうとした。が、無理に立ち上がってもしばらく宋江はびっこを引くように歩くことしかできなかった。
とは言え、宋江は持ってきた荷物は全てここで使い果たしてしまったので改めて準備することもなく、すぐ出れる状況にあったのだが幸いした。
全員の準備が整ったのを花栄は確認すると、背嚢から矢を取り出した
「この矢を撃ったら即座に出発するよ。全員準備はいいね」
その矢は通常のものと少し異なり、鏃のすぐ下に小さな袋とそれから伸びる細い紐がついていた。花栄は皆の返答を待つこと無く、すぐにその紐の先端に焚き火の炎を灯した。
「ええと……花栄さん、だったっけ? なんなの、それ」
「合図。これが見えたら林冲や秦明さんが敵陣に突っ込むことになってる」
雷横の質問に花栄は最低限の言葉で答えた。が、その内容に朱仝と雷横がぎょっとした表情になる。
「り、林冲ってあの禁軍師範代の林冲だよね、え? 秦明ってまさか青州の秦総兵管?」
州と言えば百以上ああるこの国で女性でありながら総兵管という州の軍事部門の最高責任者に就任しているのは五人にも満たない。当然ながら、その存在はひときわ目立つので雷横も朱仝も彼女の名前は知っていたようだった。
「あの、楊志さん。これはさすがに説明を求めたいのですが……何が起こってるのですか? 黄泥岡の続きかと単に思ってたのですが」
「え、ええーと、ここから無事に脱出できたら全部説明するから。ちょっと長くて複雑な話になるし……」
二人に言葉を向けられた楊志は誤魔化すような笑みを浮かべて話を打ち切った。二人は不満そうだったが、時間が無いのは自覚していたのか、渋々ながら引き仕上がった。
一方、花栄はそんな三人の様子はどこふく風と言った調子でその矢を上空に打ち上げた。ヒュン、と軽い音がして矢が蒼穹に消えていく……と思うと、少しして上空でパンと弾けるような音とともに火花が広がった。
誰にとっても長い一日が、今まさに始まった。




