その十二 花栄、一計を案じ矢を射かけるのこと
前日の宣言通り、花栄は真夜中に二人を起こすと、移動を開始した。
夜の山中を歩くというのは宋江も不安だったのだが、花栄はそのぶっきらぼうで無気力な態度とは裏腹に、道に落ちている石まで丁寧によけ、要所要所では小さな灯りも灯してくれたので想像していたよりは遥かに安全に進むことはできた。
やがて、東の空が黒から徐々に群青に色を変え始めた頃、花栄はすぐ後ろを歩いていた宋江を押しとどめて囁くように口を開いた。
「ここで待ってて」
彼女は端的にそうとだけ告げると今までとは比べ物にならない早さで山道を登って行く。宋江は後ろにいた楊志に花栄の伝言を伝えると、二人でその場に腰を落ち着けた。
「水飲む?」
「頂きます」
二人は竹筒に残った水を回し飲みすると、その後は何もしゃべらないまま、じっと花栄を待った。話すことが無いというよりも、静かにしなければいけないという緊張感が二人から言葉を奪っていた。時刻はまだ寅の刻(午前四時)、ほとんど真っ暗と言っていい森のなかでお互いの表情さえ見えない。
その静寂が数分続いた後、花栄が再び戻ってきて、二人を呼び寄せると口を開いた。
「ちょっとまずいことが起こった」
「なに?」
「熊がいるみたいだ。このまま進んでいくと縄張りを通らなきゃいけない」
「迂回するってこと?」
楊志が聞くと花栄は軽く首を横に振った。
「道筋を少し探してみたけど、かなり遠回りになる。安全に行こうと思ったら、もう一日かかると思って欲しい」
「そんなにですか?」
宋江が少し驚いたように聞くと、花栄は頷いて返事をした。
「敵陣を通り抜けるなら警戒が緩くなる夜明け前が一番良いんだ。だから、今を逃したら明日の朝まで待ちたい。それを考慮しなけりゃ昼前には尾根を越えられるけど……どうする?」
花栄がここで判断をこちらに委ねてきたのは少し意外だった。おそらくは、彼女はあくまで自分は手助けという位置にいると、良くも悪くも思っているのだろう。宋江はちらりと横の楊志に顔を向けると彼女が暗闇の中で頷くのがわかった。確認するように頷き返して花栄に答える。
「このまま行きましょう」
「わかった。じゃ来て」
宋江が答えると花栄は余計な言葉は一切挟まず、獣道をさきほどより若干速めに進み始めた。
「ここからだよ。そこに皮を剥いだ木があるでしょ。ここから先が縄張りっていう印」
しばらく進んだところで花栄は獣道のすぐ横にある木を指さした。が、正直暗くてあまり良くわからない。
「そう言えば、熊は寝てたりしないんですか?」
「あいつらはいざとなったら夜でも行動するからね。良い? 熊を見つけたらすぐにあたしに知らせて。ただし、声は上げないようにして……そうだね、服の裾を引っ張るか小声で話しかけるかして。それから向こうから見られたら目をそらしちゃ駄目だよ。大概の場合、じっと見ていればそのうち、向こうの方から去っていくけど」
花栄の言葉はこれまでにないほど真剣だった。その迫力に宋江と楊志は無言で頷くと花栄もまた無言で歩き出した。
徐々に空の色が黒から群青へと変わっていく中を三人は進んだ。太陽のほのかな明かりが道をぼんやりとではあるが照らし始めていて、それほど無理をしなくても速度があげられる状態になっていた。
「縄張りからはまだ出ないの?」
「予想以上に広い……ていうか濮州の連中、縄張りのどまんなかに陣を張ってるな」
緊張した声で楊志が尋ねると、花栄は軽く侮蔑の色を見せて答えた。
「え? それって?」
「山の向こう側まで熊の縄張りってことだよ。熊って案外臆病だからね。縄張りに敵が来ても、あんなに人間がざわざわしてたらそこを通ろうなんて思わない。だからまあ、濮州の兵もいまのところ、無事なんだろうけどね」
要は濮州軍は熊の縄張りをすっぱり分断するようにに陣をしいているらしい、ということだった。
「すごいね」
とそれからさらに三十分ほど歩いたところで花栄が唐突に声を上げた。
「どうしたんです?」
「あんたの言ったとおりだ。霧が出てきた」
「あ……」
言われて宋江もようやくその事実に気づいた。
「良い。実に良い時に出てきたよ、見て」
花栄はそう言って一層小さな声で二人に前方を指さした。霧の向こうにうっすらとした輪郭が見える。
「旗?」
「そう。多分あれが敵陣だ。待ってて、少し状況見てくる。ここまで人に近い場所なら熊が近づくってことも無いだろうし」
花栄はそう言って再び二人から離れた。東の空もここからでは霧に覆われて見えないが、そろそろ太陽が山の間から顔を出し始めている時だろう。
ふう、と宋江は息を吐いた。朝早く、ということでまだ気温はそれほどあがっていないが、それでも十数キロの荷物を背負っての山登りをしていると軽く汗をかいてくる。
「そ、宋江……」
水を飲んで体力を回復させると不意に楊志が震えた声を上げて、服の袖を引っ張った。
「はい。なんでしょ……」
宋江の言葉が止まったのは楊志が声を上げた理由がわかったからだ。自分達が登ってきた獣道の方に振り返ったその先、距離にしておよそ二十メートルほどだろうか。そこに焦げ茶色の物体がこちらを光る目で見上げてきている。熊だ。
緊張が宋江と楊志を包んだ。
「だ、大丈夫です。花栄さんもじっと目をそらさなければ帰るって言ってましたし」
「そ、そうよね……」
熊はじっとこちらを見据えて目を逸らさなかった。彫像ではないかと思うほどに動かないが、しかしその目は爛々と不気味な光を放っている。四つん這いになっているので体長はよくわからないが、少なくとも自分より小さいということは絶対にない。
(花栄さんの嘘つき! 来たじゃないか!)
心中で悪態をついて宋江は楊志の震える手を握った。自分の手も少し震えている。
「お、落ち着きましょう。よくよく考えたら武器持った兵士とかのほうがよほど怖いじゃないですか」
「う、うん。確かに、うん。そうね、熊なんて大したことないはず……」
楊志は自分に言い聞かせるようにそう言う。宋江も目をそらさずにスーハースーハーと深呼吸をして、自身を落ち着けた。だが熊は相変わらず悔しくなるほどにじっと動かないままだった。このまま、永遠にお互いに動かないのではと思ったその時、ふいにがさりと真後ろで音がした。
思わずはっとしてそちらを見上げる。そこにはまたしても別の熊がいた。が、新しく現れたその熊のサイズはだいぶ小さかった。後ろ足で立ち上がってもせいぜい自分の腰ぐらいまでしかない。つまり、子供だ。熊の。
「ま、まずい……」
宋江は前に聞いたことがあった。熊というのは花栄の言うとおり、その体躯から想像されるよりも遥かに温厚で臆病な動物である。例えば登山用品店では熊よけとして鈴が売られている。つまり、熊というのは鈴の音を聞いただけでこちらに近づかないそんな生き物なのだ。だが何事にも例外はある。その例外の一つが子供である。彼ら、あるいは彼女らは子供が危機に陥っていると判断した時、そんな普段の性質などどこかに置き忘れたように凶暴になる。
子供が出てきた事か、それによって宋江が視線を外した事か、それとも宋江のそんな内心の動揺が伝わったのか、わずかでも宋江が声を上げて刺激したのか、どれが原因かは定かではない。どれだろうと宋江にはどうでもいいし、考察する余裕もない。
「ぐるわぁぁぁぁぁぁーーーー!!」
「来たっ!」
雄叫びをあげて向かってくる熊を宋江はとっさにその進路上に木を数本はやして激突を防ごうとした。が、わずかに間に合わず、熊はそれを飛び越えて突進してくる。
「逃げるわよっ!」
楊志に手を引かれて宋江は崖の上に上がる。だが、なんということか、そこでその熊の子供まで自分と同じ方向に逃げ出し始めてしまったのだ。当然宋江達も止まるわけにはいかないが、親からみれば、宋江達が子供を追いかけているように見えただろう。
「や、やばっ」
そう言って子熊から離れるように微妙に進路を変える。そしてその時になってちょうど目の前に花栄が戻ってきた。
「か、花栄さん!」
慌てて彼女の名を呼んで走り寄る。彼女はちらりとこちらを見ると無言で矢をつがえた。狙いは宋江の頭上、つまり熊だ
(!?)
と宋江が疑問を声に出す間もなく花栄の放った矢は熊の耳のあたりをかすめて飛んだ。当然のことな
がらそれによって熊はますます猛り狂ったように雄叫びをあげてこちらに突っ込んできた。
「は、外れたの!?」
「違う! 外したの!」
楊志が甲高い声で叫ぶと花栄は珍しく怒ったように言い返した。
「外したって、どういうつもり!?」
「このまま陣を突破する!」
「どうでもいいから逃げましょう!!」
楊志の疑問に花栄は即座に答えて二人を先導するように走りだした。どうやら熊を敵陣に突っ込ませて混乱させ、それに乗じて敵陣を突破してしまおうというつもりらしい。その咄嗟の判断力は瞠目に値するが、おかげで宋江は引き続き背後から熊に追いかけられて生きた心地がしなかった。
幸運なことに敵は山のこちら側から襲撃されることを考えていなかったのか、目の前には柵も何もない。天幕と篝火が並ぶだけの場所に宋江達はあっさりと侵入できた。
「な、なんだぁ?」
熊の雄叫びに叩き起こされたのか、その天幕から鎧も付けていない兵士が寝ぼけ眼で出てくる。
「熊だっ! 熊が出たぞっ!」
花栄がそう叫びつつ、敵陣を奥に走って行く。
「なんだ、どうした!?」
「熊らしいぞ!!」
「本当か……? うおっでかっ!」
「こっち来るぞ!」
かなり乱暴だったが、花栄の作戦は功を奏した。花栄によって兵士の注意は熊に向けられ、宋江達に注意を払うものはほとんどいない。
「おい、待て! お前らどこにいくつもりだ!」
が、全員が全員そうでは無いらしく、一人の男がこちらを指さして声を上げる。
「そいつらを通すなっ!」
隊長格だったらしいその男の呼びかけによって前方からわらわらと兵が出てくる。こちらはきちんと武装をしていた。おそらく彼らはつい今まで公孫勝達がいる崖下を監視のために夜通し覗きこんでいたのだろう。出てきたものの、どこか目に力はなく、動きは精彩を欠いていた。後ろでは相変わらず熊に驚いた兵士たちの悲鳴があがっている。
花栄が無言で矢を放つ。宋江達の正面にいた二名の兵士がもんどり打って倒れた。
「楊志! 柵!」
「わかってる!」
次に走りこんだ楊志が剣をふるうと木製の柵はあっさりと倒れた。その先はわずかな傾斜のある崖である。
「えい!」
宋江がいささか間の抜けた気合をあげると、崖の斜面に次々に木が生えた。楊志が素早くそれを手がかりにして谷底に降りていく。
「早くっ!」
一瞬崖を見下ろして躊躇したが、花栄にこづかれて、宋江もやむなくといった調子で同じように崖を駆け下りた。
「わっ! とっ! きゃん!」
はらはらするような声をところどころであげながらも幸運な事に怪我もせずに宋江は谷底に降り立つ……ことはできずどてっと尻もちをついた。
「宋江。大丈夫?」
「な、なんとか……」
楊志に声をかけられて宋江はほうっと頭上を見上げた。眼には自分が降りてきた崖が映るが、既にどうやって自分が降りたのか思い出せなかった。同じことをもう一度やれと言われても絶対にできないだろう。
楊志の手を借りて立ち上がり、周りを見回す。すると丁度花栄がすたりと体重が無いのではないかと思うほどに軽やかな音を立てて降りてきたところだった。とりあえず、彼女らとここまで概ね無事に降りてこれたことに宋江はほっとする。
花栄はそのまま頭上を見上げ、少し逡巡するような様子を見せた。彼女の視線の先、つまり崖の上ではまだ熊による混乱が続いているのか、何人もの兵士がわめく声がする。おそらく、彼女はもうこの時点で林冲達に合図を出すかどうか、悩んでいるのだろう。
「あの混乱が続いているうちはあたし達の事は敵の本隊に伝わらないはずだ。今のうちにあんたの友達と合流しよう」
結局、花栄はそう判断したようで、宋江と楊志の先頭に立って森を歩き始めた。
「熊……?」
公孫勝もまたその雄叫びを聞いて目を覚ました一人だ。とはいえ、その雄叫びの場所がだいぶ遠いと判断するとすぐに興味を失った。
「何か賑やかだね」
「熊じゃろうな」
「なんだ、熊か」
三人の中ではまだ余力があるらしい雷横が尋ねてきたので公孫勝は無感動に告げた。すると雷横もそれ以上反応する気力がないのか、それで会話は終わってしまった。
(さて、今日もし動きが無いようなら何か考えんといかんのう)
太陽が登り始めていることに気づいて、むくりと上体をあげると、公孫勝は憂鬱な思いに囚われた。
昨日の変化といえば狼煙らしきものが遠方であがった事ぐらいである。それを見た当初は自分に向けてもうすぐ助けに行くぞという知らせなのだと思って小躍りした。だが、やがて日が落ち、煙が消えるとその高揚はそのままそっくり不安へと置き換わった。
無邪気に喜んでしまったがあれは本当に自分達にむけてのものだったのか? 向けたものだったとしてどういう意図で発されたものなのか? 自分の予想が合っていたとして来るというのはいつなのか? 来てくれたとしてあの敵を突破できるのか? そうした事を考えると無邪気に喜んだ自分がひどく滑稽に思えたのだ。
(しかし、今の時点で何も動きが無いとなると……劉唐は梁山泊に行けてないのか? あるいは行けてもこの軍勢を前に手出しができずにおるのか……)
公孫勝は何度目かわからないその不吉な考えを振り払うように頭をブルブルと振ると、洞窟の中をぼんやりと見回した。自分から見て一番手前に索超、朱仝、雷横の順に寝転がっている。まず索超の口元に手を当て、息をしていることにほっとする。
「索超、聞こえるか?」
呼びかけると彼女はぼんやりと目を開けて軽く頷いた。
「きっと今日にも助けが来る。じゃからもう少し頑張るんじゃ」
そういうと索超は薄い笑みを浮かべてまた頷いた。自分の言葉を信じてくれての安心の笑みと思いたいが、単に安心させようとしているこちらに感謝の笑みを見せているようにも見えた。
「そういえば、狼煙があがったんでしたね」
朱仝がそう言いながらむくりと起き上がった。公孫勝の言葉を信じたというよりも、索超に頑張らせようとしてるのを知って調子を合わせてくれているのだろう。
「外見ててくださいね。ちょっと着替えてますので」
公孫勝にそう言うと、朱仝はのろのろと服を脱いだ。
着替え、というが彼女は着替えるような服を一切持ち合わせていない。囚人の時は下着の上に上着を羽織っていただけだったし、濮州の町を脱出した時もそのままだ、それ以外の衣服といえば、劉唐が見かねて渡してくれた下衣があるだけだ。では着替えというのは何を指すのかというと実は洗って乾かした下着を着るだけだったりする。
当然、着の身着のままだったから下着の替えなどというものはなく、こればっかりは他人から借りることもでないので、朱仝達三人は一枚の下着を昼は履き、夜は洗って脱いでおくという生活をずっと続けていた。公孫勝は少しマシで一枚替えがあるので交代交代に使っていた。というよりもそもそも彼女は体質としてそれほど新陳代謝を起こさない。
この国にはゴムやワイヤー等といったものはないので、女性の下着も現代のそれとはだいぶ異なる。ものすごく乱暴に言ってしまえば下に履くのはホットパンツだ。とはいえ、素材はもちろんデニムやナイロンではなく、絹や木綿であるし、それほど体型にぴたりとしたデザインでもないので、見た目の印象はだいぶ柔らかなものである。思いっきり風情はなくなるが、男物のトランクスと言った方がより近いかもしれない。
一方で上は、というと、こちらは一言で表すのは難しいのだが、あえて端的に表すとすればキャミソールの下半分を切り取って下端を紐でしばったもの、という表現になるだろうか。乳房の下側と肩にかける紐で固定されているが布は乳房全体を覆っており、所謂バストの谷間は一切見えない一方で背中はむき出しである。朱仝は自分の白い絹で出来た下着を手にとるとまず上着を脱いだ。
「朱仝ー、あたしのも取ってー」
「嫌です。だってあなたの臭いですし」
「うぉーい、乙女に向かってなんてこと言ってくれやがる。せめて芳しいと言え」
一応雷横を弁護しておくと、毎晩洗っているとは言え、こんな日のささない洞窟で水洗いして干すだけしかできなければ、多少なりとも匂いは残ってしまうだろう。おまけに同じ下着をずっと使い続けているとなれば尚更だ。それをどう評するかは人によって違うかもしれないが。ちなみに雷横の下着の色は黒である。
「子供のような事言い争っておらんと、着替えるんならとっととせい。今日も食事は野草しかないんじゃから湯を沸かさんと食事はとれんぞ」
公孫勝はそう言って洞窟に干されている索超の分の下着を手にとった。こっちも色は黒だった。
「はー、しょうがない。あたしも着替えますか」
次いで雷横ものろのろと起き上がると、上着を脱ぎ捨てて、下着を手にとった。すらりとした少女のような細い裸身が露わになる。肩から先だけが多少日によって焼けているのがなんともいえない色気を醸し出していた。
「あなたね、女性だけしかいないとはいえ、もうちょっと恥じらいというものをもったらどうですか」
「そんな気力もうないよ。見たいんなら好きなだけ見りゃいいさ」
宣言どおりに裸身を無駄に雷横は晒してみる。脳に栄養がいってないせいか、どことなくやけっぱちだ。
「見せつけられてもねぇ」
「悪かったね。朱仝みたいに食いでのない体しててさ」
近づくと雷横は下着をつけようとしている朱仝を邪魔するように絡みつく
「そういう元気は残ってるのね」
「うん。あたし、朱仝の嫌がる顔好きだし」
「やめてちょうだい。放り捨てますわよ」
「やれるもんならやってみろー」
と雷横は完全に脱力して体重を朱仝にのしかけようとする。が、朱仝はそれを避けた。びたんと雷横が地面にうつ伏せになる。せめてもの抵抗というわけではないだろうが、朱仝の下着をつかんでいたせいで朱仝もまた裸同様になってしまった。
「ちょっと雷横いい加減に……」
と朱仝が二人に声をあげたその時だった。
何の前触れもなく、唐突に、突然、やにわに、そして狙ったかのように、ボスンという音と『痛っ』という声とともに、四人の前に人影が現れた。
「へ?」
多分雷横だと思うが、公孫勝にも誰がそんな間の抜けたつぶやきをしたかはわからない。四人が唖然と見守る中でその荷物を背負い尻もちをついた男がぽかんとこちらを見ている。
「ちょ、ちょっと、宋江!? 大丈夫なの!?」
と頭上で声がして、ようやく四人はその目の前の男が洞窟の頭上、つまり地表から落ちてきたらしいという事を悟った。自分達がこんな洞窟を作ったせいで地表がずいぶんともろくなっていたらしい。男の真上の天井にはちょうど狙ったように、人一人分の穴が開いていた。
しばしその落ちてきた人物も含め、五人の時間が止まる。止まってしまった理由はそれぞれ微妙に異なっていたが。そのまま数秒が経過したところで……
「あ、あれ? 朱仝さんに雷横さん、索超までなんで裸……?」
次にその頭上の声がそう告げると、ようやく時間が動き出した。つまり、大混乱が起こった。
「河清殿っ! 河清殿っ!」
「何、どうしたの? 近くの可愛い村娘さんが慰問にでも来てくれたの? おねーさんでも大歓迎だけど」
まだ太陽が昇りきらない内に、自分の天幕に兵士が駆け込んでがなりたてるのを、河清は寝台で布団をかぶりながら答えた。
「冗談を言ってる場合ではありません! 山頂の方で変事があったようで……」
「ああ、熊でしょ。さっき雄叫びが聞こえたから知ってるよ」
河清は煩そうに寝台でごろりと寝転がって伝令の兵士に背を向けた。
「それだけではありません! その混乱に乗じて指名手配されている楊志が現れたという連絡が……!」
「は?」
河清は一瞬だけその言葉を咀嚼すべく沈黙したが、すぐに寝ぼけ眼をこすりあげて、むくりと起き上がった。
「誰が確認したの?」
「河清殿と来られた禁軍の方たちの中に楊志の顔を知っているものがいたとのことで……他に一人か二人の仲間を連れてて、そいつらとともに朱仝殿……いえ、朱仝達のいる崖に飛び降りたと……」
兵士の報告をそこまで聞いてほんの数瞬、河清の思考回路と動きが止まる。が直後に彼はいきなり大声を上げた。
「銅鑼を鳴らして全員たたき起こせ! くそっ! こいつはまじで河から何か来るかもしれねえぞ! おい、お前は兄貴に済州の兵を率いて河岸を見張れって伝えろ! それから総兵管のおっさんには残りの兵を山の入口の前に展開させるんだ!!」
「は……あ……えっと……」
が兵士はその矢継ぎ早に出される河清の指示に頭がまわらないのか、ぼんやりした様子でいる。それを見て河清は苛立たしげに怒声をあげた。
「だー! もういい! 銅鑼だけ鳴らしてこい! 全員起きるまで叩いて陣内を回るんだよ! お前はそれだけやってろ!!」
「しょ、承知しました!!」
慌てたように兵士が飛び出して銅鑼のある場所に走って行く。河清はそのすぐ後に続いて、天幕を出た。既に河清の怒声で目を覚ましたのか、周りの天幕の兵が出てくる。その内何人かは河清が禁軍から連れてきた兵士で、彼らは滅多に怒鳴り声をあげることのない河清の様子からただ事ではないと既に悟っているようだった。河清も彼らの表情に気づいて頷くと指示を出し始める。
「濮州の兵から来てるうち、四百名は全員山の方に集めろ! 残り二百は俺とともに陣の中央で遊軍! それから兄貴に言って済州からの三百を率いて河岸の警戒にあたらせるんだ!」
陣内で銅鑼が鳴り始める中、河清の指示を受けた陣中が慌ただしく動き出しはじめた。
河清は部下が次々に走り出す中、最後に残った兵士に確認した。
「例のものは既に山の上に運んでいたな」
「はっ! 昨日の午後に運び込んでおります」
それを聞いて河清は満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ山の上の連中に手はず通りやれと伝えろ。濮州軍にもそれに合わせて動けとな」
「はっ!」
作中で女性の下着に関する記述がありますが、これは作者の創作です。
実際には古代中国の女性の下着というのは(時代によっても色々違うのですが)概ね胸元からヘソのあたりまでを覆うようなタイプが多かったようです。ちょっとそれでは色気が足りないな、と思って水娘伝では現代のものに近いようにアレンジしてみました。




